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短編集  作者: 因美美果
11/12

短編・⚫︎

 ⚫︎⚫︎へ


 あなたがこれを読んでいるということは、大して重要なことではありません。

 これが書き置きなのか備忘録なのか、はたまた別の何かなのかは分かりません。


 あなたが泣いてくれているのか、それとも笑い飛ばしてくれているのか、私には知る由もありません。

 知ることができないということがこんなにも寂しいことだとは思いませんでした。

 唯一の心残りと言えば、それくらいです。


 遠い国の誰かが居なくなった私のことをどんな風に思ってくれるかなんて想像するに容易いことです。

 泣きもせず、笑いもせず、怒りもせず、後を追いもせず。

 それはきっと正しいことなのだと思います。

 私にとっても遠い国の誰かなんていうのはそういう存在ですから。


 だからこそ、せめて私は知りたいのです。

 私が大切と思う人たちはどんな顔をしているのか。



 今になって、小さい頃の記憶を掘り起こしています。

 あんなに長く感じていた幼少期も、進み過ぎたこの場所から振り返ってみるとほんの僅かしか思い出せません。

 ここまで届くあの時の光はこんなにも少ないものだとは思いませんでした。

 楽しかったはずの思い出せない記憶は、忘れられない苦しい思い出の周りを、惑星みたいに周っているのでしょう。


 大人になるにつれて色んなことを忘れてきました。

 そうすることでこの身を軽くしてここまで歩いてこられたのだと思うと、私たちはどれほどの犠牲を払って進んでいるのでしょう。

 傷付かないために鮮やかな感動を捨て、歩き続けるために深い痛みを捨て、一番大切な誰かのために百人の誰かを捨てました。


 何だか話が逸れてしまいました。

 少し思い出話でもしましょう。

 数えるほどの美しい記憶を。



   〇   



 初めて母親に怒られた日。

 一番古い記憶のそれが本当に初めて怒られた日なのかは分かりません。

 けれど、私が何とか抱えていたものの中でどの景色よりも埃を被っていたのは、間違いなくあの日でした。


 母親が台所に立っている時、私は引き出しを漁って遊んでいました。

 中から小さな剃刀を見つけると、それが何なのかも分からずに弄びました。


 案の定、指を切りました。

 見たこともない量の血が出た私の泣き声に呼ばれた母親は料理どころではなくなりました。

 病院へ連れて行かれ、何針縫ったのかは覚えていません。


 母親は私を酷く叱りつけました。

 怪我をしてすっかり被害者面の私は腑に落ちない気分です。

 痛い思いをしたのに何故怒られなければならないのだろう、と。

 剃刀の危険さも分からない子どもには、母親の心配なんて想像もつきません。

 今になって母親の叱責の有り難みが分かります。

 それでも、今更母親に「ありがとう」と、言うことはないのです。



 初めて友達と喧嘩をした日。

 もう随分と顔を合わせていない彼は、今どこでどう生きているのでしょうか。

 知る由もありません。

 明日彼とすれ違ったとしてもきっとお互い気づけないでしょう。


 友達と一緒に行く遠足を待ち遠しく思っていました。

 最中も楽しく遊んでいたはずでした。

 それなのに、いつの間にか目の前の相手が憎くて仕方がありませんでした。

 何がきっかけで亀裂ができたのか、今はどうにもならないことです。


 喧嘩別れをしたまま家に帰り、落ち着いた私は憎しみなどとうに忘れているのです。

 明日、彼に謝って仲直りをしよう。

 迎えた翌日、謝ることができませんでした。

 それでも顔を見合わせれば、昨日の喧嘩を失くしてしまったかのように楽しくお話ができるのです。

 何がきっかけで亀裂が埋まったのか、今はどうでもいいことです。


 年月が過ぎ、お互いに交友関係も変わり、一緒に遊ぶことも喧嘩をすることも無くなりました。

 臆病に脅されて逃げ出した言葉は捨てることもできないまま今も抱えています。

 あの時素直に言えば、今も彼と一緒に居られたのでしょうか。

 そんな言葉一つで変わってしまうほど私たちは繊細な関係だったのでしょうか。

 何がきっかけなのか分かったとして、それから私はどうしたいのでしょうか。



 初めて同級生と遊んだ日。

 映画を見に行きました。

 黙ったまま流れる時間が終わり、明るくなった天井と暗くなった夕空が帰りを急かします。

 そうして並んで見た物語を話しながら、駅の改札で手を振りました。


 一人で歩く帰り道に、楽しかった今日と終わってしまった喪失感だけが残りました。

 家に着き、母親が「映画は面白かった?」と訊ねます。

 黙ったまま頷き、それ以上は何も話しません。

 母親の目には寂しい顔が映っていて、さぞ心配させたことでしょう。


 楽しかったこと、嬉しかったこと、それが終わってしまったことが気に入らないのです。

 酷くわがままで稚拙な思いであることは重々承知しています。

 けれど、訪れた一人の時間は否応にも静かで、自分の手から離れた騒がしい記憶はもう戻らないのだと理解するには十分な時間なのです。

 生まれてしまった寂しさはどうにも振り払えなくて、空元気で吹き飛ばすこともできないまま感傷に溺れてしまいます。

 どうかまた会えるようにと、願うばかりです。



 色々と思い出してしまった日。

 頭の中で蘇るそれらは、どれも苦く、酸く、塩辛い涙の味がします。

 飲み込むこともできず、吐き出すことも難しい、そんな思い出です。


 けれど、これだけではなかったはずなのです。

 私が今まで積み上げてきた時間は、これっぽっちではなかったはずなのです。

 何十年と生きてきました。

 けれど、掌を開いても、ポケットを漁っても、見つけられる記憶は一日にも満たないのです。


 無駄にならなかった日は一度も無かったと言えるでしょうか。

 何も得なかった日は一度も無かったと言えるでしょうか。

 そんなわけはないのです。

 怠けて過ごした一日も、眠って終わった一日も、何度もありました。

 この手に残らなかったものたちが何よりも残酷な証拠です。

 歴史に全てが記されないように、私たちの人生には重なっただけの時間がいくつもあるのです。

 そんな日たちが無ければ、これからも何十年と生きられたのでしょう。

 そうすれば、もっと意味のある生のまま、終わることができたのでしょう。


 今この世界には、七十七億人の人間が暮らしています。

 私がどんなに往生際悪く生き長らえても、彼らが戯れに過ごした一秒には敵いません。

 辛いことではありません。

 私だけの苦しみではないのですから。

 みんなが平等に貰った苦しみなのですから。


 こんなことを考えた今日も、いつか無駄になるのでしょうか。



 何だか忘れたくない夢と会った日。

 私はただ眠っていただけでした。

 枕は昨日と同じに柔らかく、寝付く前の愚考は昨日と同じにくだらなく、特別な日ではなかったのです。

 それでも、切なく別れ難いその夢は、考えてもみなかったお話をくれました。

 私の閃きなどでは遠く及ばない、盗作とも言えるこの話は、またの機会に出会いましょう。


 起きても醒めないその物語がどうしても頭から離れませんでした。

 けれど、私は知っているのです。

 固く握った夢の手は呆気なくすぐに離れてしまいます。

 胸が削られるような感動は瞬く間に褪めてしまいます。

 生き物のように朽ちるのは寝ぼけ眼が晴れていく証拠なのです。


 それを知っているからこそ、私は急いで綴りました。

 いつか忘れてしまう感涙の言葉を、夢が醒めないうちに書き並べました。

 今はもう思い出せません。

 何に打ち震えたのか、何に惹かれたのか、私にはもう分からなくなってしまいました。


 それでも、ただ一つ覚えているのは、私はただ忘れたくなかったのです。

 物語も感動も何だって良かったのです。

 人に認められる名作だろうが、誰の目にも留まらない愚作だろうが、私を動かしたのはそんなものではなかったのです。

 醒めてしまうだけの夢を、叶える前に失せる夢を、ただ覚えておきたかったのです。

 忘れてしまう自分を許したくなかったのです。


 今はもう思い出せません。

 それが当たり前のことだと受け入れるには、私はあまりに子どもでした。



   〇   



 話したいことは尽きませんが、語ることほどのことはそう多くありません。

 結局のところ、その程度の生涯です。


 善悪について、幸不幸について、生き死にについて。

 それらに対してどれほど言葉を費やしても、辿り着く果ての答えは本当とは程遠いものでしかありません。

 ならば、言葉で詳らかにできないものを、それでも確かに感じる心は嘘なのでしょうか。

 とてもそうは思えないのです。


 だから、そんな時に私は「何となく」と結論付けてきました。

 卓越した言葉や膨大な時間を以てしてさえ決して辿り着けなくとも、自身の心はそれを感じています。それが嘘ではないとも理解しています。


 だからこそ、私は「何となく」という一言を選びました。

 言葉では象ることのできない、けれど心が私の言葉を超えて到達できた感動があることを、私は知っています。

 誰かを納得させるには余りに無力な理由ですが、自分を突き動かすには何よりも強い理由なのです。


 この心を私はいつまでも忘れずにいられるでしょうか。



 この四千字足らずをここまで読んで、あなたが何を感じたのか、感じなかったのか、それすらも私にとってはどうでも良いのです。

 あなたが私を知らない以上に、私はあなたを知りません。


 初めまして。

 さようなら。


 あなたがこれを読んでいるということは、あなたは生きているということです。

 私はそのことを心から嬉しく思います。


 ⚫︎⚫︎より

 

『不一』

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