エピローグ「終わりと別れと続くもの」
『Thank you for playing』
俺の視界にその文字列が現れ、世界は闇に溶けてゆく。
その光景をもって、現実世界に戻ってきたんだなと痛感する。
両腕で視界を覆っているVRギアを外すと、窓の外には一番星が輝いていた。
身体を起こし、周囲を見渡すとそこには部屋を埋め尽くす段ボール箱の山。それを眺めて、俺は再び現実に引き戻される。
そういえば荷物の仕分けをしていたんだな、と。
そんなこんなで俺の長い現実逃避は終わった。
ゴルに祝われた後、現実を受け入れたGM烏羽から正式にキング・オブ・フェティシズムの称号を授与され、それをもって『フェティシズム・フロンティア・オンライン』のβテストは幕を下ろした。
正直な話、そんなよく分からない称号を与えられるうれしさよりも、アオと別れなきゃいけない寂しさのほうがぶっちぎって勝っていた。
とはいえ、『あの世界に入り浸っていたら現実に帰りたくなくなるんじゃないか』という憂慮は実感として抱いていたので、強制終了という終わりはある意味いい終わりの一つではないかと、帰ってきた今になって思う。
突然のサービス終了ならともかく、事前通告もきちんとなされていたわけだし。
だからといって全てのプレイヤーが当然に納得していたわけではない。
別れたくないとバディに泣きつく者、バディの顔を見ずにログアウトした者、目鼻を赤くしてバディと抱擁を交わし別れる者。もちろん、笑顔で別れる者もいたわけだが、ステージ上から見ている限り、割合で言えば前者たちの方が圧倒的に多かった。
そんな中、隣にいたゴルはどれにも当てはまらない不思議な感じだった。
◇
「ほらよ、カトラス。これやるわ」
「ゴル、今日は妙に気前がいいじゃねーか」
ゴルがカトラスに手渡したのはフィルムも剥かれていない新品の煙草。
「今日はめでたい日だからね。んじゃ、俺帰るわ」
「おう! じゃーな」
ゴルとカトラスはまた明日、とでも言わんばかりに挨拶をかわし、カトラスはそのまま人込みの中へと消えてしまった。
「いいのか? 最後の別れがそんな感じで」
「別に俺は最後の別れだなんて思ってないさ。言ったろ、性癖は自分自身を映す鏡って。カトラスは言わば俺の性癖の化身、すなわち俺自身の一部なのさ。だから、現実に帰ろうと、サービスが終わろうと、彼女は常にそばにいる。直接会えなくともね。そういう意味ではいつもの別れも、最後の別れも俺にはないのよ」
「流石、性癖のトップ。考え方が違うよ」
「おいおい、性癖の王が何をおっしゃる。まあ、その辺は人それぞれ。それじゃあ、俺はこの辺で」
「ありがとう、ゴル」
戦闘中の張り詰めた感じはいざ知れず、飄々とログアウトしようとしたゴルだが、何かを思い出したのかこっちに戻ってくる。
「そうそう。最後だしフレンドコード交換しようや」
フレンドコードはゲーム内を超えて、ギアの交流サロン上でもやりとりできるようにする、いわばVRギアのメアドみたいなもの。
「別れにいつもも、最後もなかったんじゃないのか?」
「君は君であって僕じゃないからね。それはそれ、これはこれさ」
ゴルの言うことももっとも。俺たちはささっとフレコを交換する。
「じゃあな。邪魔者はただ消えるのみさ」
そう言ってゴルは煙のように消えてしまった。
この場に残された、俺とアオ。
互いに見つめ合ったままの俺らを笑うように、冷たい風が二人の間を抜けてゆく。
――じゃあね。
あとはこの四文字を言うだけなのに、どうして鼓動が喉を詰まらせるのだろう。
今はあの勝負の前よりも心臓が早鐘を打っている。
「アオ、好きだ」
「私もです」
どうして、こんな普段言えないようなことの方が楽に口から出てくるのだろうか。
彼女はいつでも傍にいる。ゴルはそう言ったが、どうやら俺はそこまで割り切れないようだ。
微笑む彼女を眺めながら、このまま強制終了されないかと願ってる自分がいる。
誰かが引きはがしてくれないと、このまま帰れそうにない。
でもそうなってしまったら、言葉もかわせない。ある意味逃げだ。
その場はよくてもきっと後悔する。
だから、俺も割り切ってきちんと別れないといけない。
それに、よくよく考えれば俺はいつでもアオに会えるじゃないか。
同人誌の詰まった段ボール箱の一番下。そこにアオは眠っている。
なんのためにプレミア付きの絶版本を探したんだ、俺は。彼女に会うためだろう。
だから言わなきゃいけない。
「アオ」
なんですか? と首をかしげる、アオ。
純白の笑顔が俺の言葉を待つ。
大きく深呼吸を一つ。
俺が覚悟を決めるのがあまりにも遅いもんだから、小鳥にさえずられて茶々を入れられてしまう。
それで俺の緊張の糸は切れた。思わず、フフッと笑ってしまった。それにつられてアオも笑う。
そうしてできるえくぼがまた可愛いんだ。
もう言うしかないわな。
「じゃあね、アオ」
「はい、タスクさん」
言うべきことを言い切り、ログアウトすべく後ろをむく。
そんな俺の服の裾を何かが引っ張って、俺を引き留める。
振り向くと、アオが右手の鎌を裾にひっかけている。
「また、会えますか?」
少し伏し目がちのアオ。
製品版の販促で機械的に言っているのか、はたまた彼女の心が言わせているのか。どっちかは分からないが、その仕草は反則だ。
だって可愛いんだもん。
「もちろん。ずっと一緒さ」
「はい」
ポンポンと頭を撫でると、スッと鎌が引っ込む。
そうして俺はメニューからログアウトを選ぶ。
周囲の世界が闇に溶けてゆく。
消えゆく世界の中で、アオはその大きな目からぽろっと涙を落として笑っていた。
◇
そんなこんなで俺の『フェティシズム・フロンティア・オンライン』βは終わりを告げた。
そして引っ越し当日、俺は迷うことなく、同人誌の詰まったダンボール箱を新居に持ち込んだ。
当然新居の持ち込んだらスペースに困ったが、それは承知の上だ。
いくら物置を占有しようと、これを会社の人に見られて何を言われようと、手放すつもりはないし、邪魔だとも思わない。
なぜならこの箱はれっきとした俺自身。そしてアオそのものなんだから。




