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後編

 事件が急転したのは、それから三十分後だった。階段を上る音がしたと同時に、再び事務所のドアが開き、事務所の主・榊原恵一が帰って来たのである。

「な、こ、これは……」

 部屋に入るなり、榊原は絶句した。まぁ、それも無理はなくて、瑞穂と亜由美がロープで手足を縛られた状態で床に転がっているのだ。これで驚くなと言う方に無理がある。

「あ、先生! 助けてください!」

「何があったんだ!」

 榊原はロープをほどきながら尋ねる。

「強盗です! あの絵を取られてしまいました。あと、たまたま来ていた依頼人の方が人質に……」

 それを聞いて、さすがの榊原も厳しい表情を浮かべた。

「何という事だ……。くそっ、やっぱり銀行の貸金庫にでもしまっておくべきだったか」

 そんなものがあるなら、ぜひともそうしてほしかった! と瑞穂は叫びそうになりながらもなんとか我慢した。

「しかしまずいな。このままでは……」

「何かあったんですか?」

 と、そこへドアの向こうから榊原に声がかかった。瑞穂が見ると、ドアの向こうには榊原と同年代と思しきピシッとスーツを着た痩身の男が立っていたのである。思わぬ男の登場に、瑞穂は混乱した。

「あ、あの、この人は?」

「ん? あぁ、例の絵を鑑定してもらうために呼んだ専門家だよ。もっとも、絵が奪われてしまった今となっては無駄になってしまったが……」

 その言葉に、男は頭を下げる。

「厚生労働省に勤務しています忍野久弥と言います。こんな時に何ですが、よろしくお願いします」

「こ、厚生労働省?」

 予想もしていなかった部署の名前に瑞穂はわけがわからなくなった。

「先生、厚生労働省の人がなんで絵の鑑定なんかするんですか?」

「言った通り、その筋の専門家だからだ」

「厚生労働省って絵の鑑定なんかしていましたっけ?」

 そんな話は初耳である。が、榊原は一瞬キョトンとすると、やがて合点がいったように苦笑した。

「あぁ、そういえば言っていなかったね。彼は厚生労働省の麻薬取締局の人間だ」

「ま、麻薬?」

 何やら話が急にきな臭くなってきた。一方、忍野は真面目腐った表情で榊原の言葉を補足する。

「彼とは彼が刑事だった頃に一緒に捜査をした事があるんです。そんな彼が最新式の凶悪な麻薬を見つけたかもしれないと言ってきたのでこうして確認のためにやって来た次第です」

「さ、最新式の麻薬って……」

「あの絵だよ」

 榊原は何のためらいもなく断言した。

「え、でも、あの絵のどこにそんな麻薬が……」

「LSDという麻薬は知っているかね? 紙なんかに染み込ませたペーパーアシッドを利用する合成麻薬だが、最近になってある暴力団がそのLSDの強力版の合成に成功。サンプルを作ったという噂を聞いていた」

「じゃあ、あの絵は……」

「どうもその最新式強力LSDが染み込んだサンプルだったらしい。末端価格で一千万円はくだらないだろう。残念な話だが、この絵をくれた依頼主がその暴力団と繋がっていたと考えるのが妥当だろう。大方、近々ガサ入れがあると踏んで善意の第三者である私に報酬という形であの絵を渡し、警察の追及を逃れようとした、と言ったところか。おそらく、ほとぼりが冷めた頃に配下の誰かが私から改めて絵を買い上げる手はずだったと思う。もっとも、私がその事に気付くのは予想外だったはずだが」

 そんな危ないものをよくも瑞穂に預けたものである。それならそうと最初から説明しておいてほしいものだ。と、同時に瑞穂の頭に素朴な疑問が浮かんだ。

「あの……じゃあ、あの絵そのもの価値は?」

「絵? あぁ、あの落書きか。言った通り、価値があるのはLSDの染み込んだ紙の方だから絵そのものには二束三文の価値もない。大体あの絵は子供の落書きレベルじゃないか。私も美術は得意ではないが、あれがカモフラージュのための子供だましだという事はすぐにわかるぞ。私も刑事として何度か贋作を見た事はあるが、それと比べればあんなのは赤子レベルだ」

「そ、そうなんですかぁ……」

 瑞穂と亜由美は思わずその場に脱力した。そんな落書き相手に大パニックを起こしていたとは口が裂けても言えない。何というか、さっきまでの大騒ぎが全部無駄だったとわかって、何もかもが空しくなってしまった。

 が、榊原はそんな瑞穂たちに気づく事もなく、忍野と深刻そうな話をしている。

「それより、問題はその絵が奪われた事だな。おそらく敵対する暴力団員の仕業だとは思うが……」

「人質がいるというのも厄介ですね。すぐに警察に連絡すべきでしょう」

「そうだな。瑞穂ちゃん、その人質というのはどこの誰なんだ?」

「え、あー、小田さんという方で、浮気調査の依頼に来られたと言っていました。アポを取ったと言っていたんですけど……」

「小田……あ、そう言えばそんなアポをもらっていたな。麻薬の事ですっかり頭から抜け落ちていた」

 そんなんだから事務所に閑古鳥が鳴いているんです! と、瑞穂は絶叫しそうになるがまたしてもなんとか我慢する。

「とにかく、警察に連絡を。緊急配備を敷いてもらいましょう。問題の麻薬がその強盗の手にあるとすれば、逃がせば裏社会で大騒乱が起こる可能性もあります。捨ててはおけません」

 忍野が携帯電話を取り出し、瑞穂や亜由美が唖然としている中で事態は緊迫した方向へと着実に向っていた。


 一方その頃、強盗は黒の乗用車に乗って首都高速道路を爆走していた。感心な事に事務所を出て少ししたところにあらかじめ車を止めてあったらしく、その助手席に小田を押し込むと、そのまま車を運転して逃亡し始めたのだ。

 ちなみに『爆走』とは書いたが、律儀な事にちゃんとシートベルトを締め、法定速度を守って運転している。本人曰く「余計な事で捕まりたくない」という事だが、道路交通法を守る強盗というのもなんだかよくわからない話である。

「あのー……どこへ行くんですか?」

 助手席に座る小田はおずおずと尋ねた。強盗はそれに対してチラリと小田を見つめたが、

「この先にこの絵を引き取ってくれる『親切な』奴がいる。そこまでは付き合ってもらうぞ」

「はぁ、まぁ、殺されないならどうでもいいですけど……」

 小田としてはそう言う他ない。

「そろそろさっきの事務所に残してきた連中も発見されている頃合いだ。一刻も早く遠いところに行く必要がある。金さえ手に入れば、すべてうまくいくんだ」

 強盗は独り言のようにブツブツ呟きながら運転を続けている。小田としては、自分から何か話しかけるような勇気はどこにも残っていなかった。

「……何でこんな馬鹿な事をしたんだ、とでも思っているんだろう」

 不意に強盗がそう言って小田に語り掛けた。返事をする前に、強盗は淡々と自身の事を語り始める。

「実はよ、俺は女に惚れちまったんだ。新宿の喫茶店で会った女でよ。何というか、互いに惹かれるものがあって、それがきっかけで付き合うようになった」

「はぁ」

 突然始まった独白大会に、小田は目を白黒させながら相槌を打つ。

「いつしか俺は本気であの女を好きになっていた。けど、ついこの間、俺はその女から別れ話を切り出されたんだ。『もうこれ以上は付き合えない』ってな。俺は自問自答した。一体何が悪かったのか……。考えた末、俺は最後のチャンスとして俺の気持ちをすべてこめた贈り物を贈る事に決めた。そのためには金がいるんだ。だから、この仕事を……」

「それは、大変ですね……」

 そんな事情など知りたくもないし、正直これ以上のトラブルは勘弁してくれという気持ちなのだが、小田としてはそう言って同情する他ない。と、そこで突然激昂して叫んだ。

「てめぇに、俺の気持ちがわかるか!」

 わかるわけがないだろう! とでも叫びたいのだが、小田は空気を読める男なのでとりあえず素直に頷いておく。

 まぁ、そんな感じの緊迫しているのかしていないのかよくわからないままに車は高速道路を進んでいったのだが、不意にその車の流れが遅くなってきた。車はちょうどレインボーブリッジの中ほどへ差し掛かったところである。

「渋滞か?」

 強盗は一瞬そんな訝しげな表情をしたが、直後、その視線が一気に険しくなった。

 渋滞する車の先……そこに何台ものパトカーが道をふさいで一台一台車をチェックしているのである。明らかな検問だった。

「畜生! よりによってこんな橋の真上で!」

 強盗が歯ぎしりするが、今さらどうしようもない。どころか、隣の席から小田が追い打ちをかけてくる。

「というか、橋の上に逃げたら追い詰められるのはわかりきっていたのに、何でこんな場所に逃げたりしたんですか?」

「うるせぇ! 人質のくせに意見するんじゃねぇ! 大体、レインボーブリッジはそう簡単に封鎖できないっていうのが常識だろうが!」

「いやいや、映画じゃないんだから、理由がちゃんとしていたら簡単に封鎖されますって」

「黙れ!」

 小田のまともすぎる言葉に、強盗は真っ赤になって反論する。どっちが主導権を握っているのかわかったものではない。そんな事を言っているうちに、車はだんだん検問に近づいていく。後ろに車がついているのでバックする事も止まる事もできない。

「ええい、くそ! こうなったら仕方がねぇ!」

 検問まであと少しの所だった。強盗は不意にそう吐き捨てるや否や、車を急停止させて拳銃を助手席の小田に突き付け、そのまま窓を開けると大声で叫んだ。

「来るんじゃねぇ! それ以上近づいたら、こいつをぶっ殺すぞ!」

 その瞬間、レインボーブリッジの上は大パニックになった。


『至急、至急! レインボーブリッジ橋上にて立てこもり事件発生! 犯人は車に立てこもり、人質に銃を突き付けている! 捜査員は現場に向かえ!』

 警察無線が鳴り響き、何かの映画ではないがレインボーブリッジの上は警察車両によって完全封鎖されていた。周囲の車の持ち主たちは全員車を捨てて避難しており、今や強盗の車を警察官たちが遠巻きに取り囲んでいる状態である。

「君は完全に包囲されている! 今ならまだ間に合う! おとなしく人質を解放し、速やかに投降しなさい!」

 何というかドラマなんかでもはや定番となりつつあるセリフを刑事がスピーカーで告げる。が、強盗はますます意地になって拳銃を小田のこめかみに突き付けていた。

「黙れ! こんなところまで来て諦めてたまるか! ていうか、そんな定番なセリフでおとなしく投降する奴なんか現実にいるわけねぇだろう!」

「そりゃそうですよねぇ……」

 銃を突きつけられている小田は青い表情ながらも深くため息をついた。思いのほかまともな意見を叫ぶ強盗に対し、警察側もそれもそうだと思ったのかそれ以上呼びかける様子もない。場は完全に硬直状態に陥っていた。

 そんな警官たちの後ろで、駆けつけた榊原と忍野が深刻そうな表情で何かを相談しており、同じくちゃっかりついてきた瑞穂と亜由美がどこか気まずそうな表情でその様子を眺めていた。

「いやぁ、まさかこんな大事になるとは思わなかったなぁ……私が言うのもなんだけど、もうちょっと考えて逃げてほしかったなぁ……」

 瑞穂かどこか遠い目をしながら小さく呟く。亜由美も深いため息とともにこう続けた。

「問題は、あの絵を榊原さんに見られる事だけは避けないといけないって事なんだけど……」

「いやいや、ここまで来たら無理でしょう。もう、素直に怒られるしかないんじゃないですか?」

 ちなみに、絵が台無しになった一件はまだ榊原に話していない。あの絵の本質がLSDであって絵そのものではなかった以上、高価な絵の賠償金を支払わなければならないという最悪の事態だけは避けられたという点では非常に喜ばしい事である。が、依然として預かっていた絵の保管に失敗したという事実そのものは消えていない。そんな事がばれた時点でただでさえ少ない給料がさらに減額されてしまう可能性さえある。普段「もっと働いて給料を増やしてくれ!」と言い続けているだけに、そうなってしまうと何とも瑞穂たちの立場がない。

 なので、できれば榊原が絵を見ないまま警察が速やかにあの絵を押収する事が望ましいのだが、事がここにまで至ってしまったらそれも難しい話である。

 その榊原はと言うと、一緒に来た忍野や警察関係者と何やら物騒な相談をしていた。

「後方に機動隊が待機。機会があればすぐにでも鎮圧できます」

「SATの狙撃部隊は?」

「すでに待機しています。とはいえ、ここは橋の上ですから狙撃するにはヘリである程度まで近づく必要がありますね」

「狙撃ではなく制圧できないか?」

「検討はしていますが、かなり厳しい状態かと。やはり狙撃するしか……」

 瑞穂と亜由美は思わず顔を青ざめさせていた。いくらなんでも、冒頭のあんな馬鹿げたギャグ的展開を経た後で、強盗が撃ち殺されて血が流れてしまうという結末はあまりに後味が悪すぎる。榊原たちは事情を全く知らないのだからある意味当然の処置なのだろうが、今回に限ってはちょっとそういうのは遠慮してほしいなぁと思う瑞穂たちであったりする。

「今までのギャグ路線が嘘みたいなシリアス的展開ね」

「まぁ、先生らしいって言えばらしいですけど、こんな間抜けな事件で射殺されたら強盗が事務所に化けて出てきませんかねぇ」

「御払いの準備をしておいた方がいいかしら」

「いやいや、あのくらいなら塩をまいておくくらいで充分だと思いますよ」

 そんな事を好き勝手に言いながら改めて車の方に目をやると、いつの間にか御払いの対象にされてしまっている事になど気付く由もない哀れな強盗(未だに本名不明)は、小田のこめかみに銃を突きつけながら今にも泣きそうな表情をしている。おそらく、本人もこうなる事は完全に想定外なのだろう。行き当たりばったりもいいところで、巻き込まれるこっちの身にもなってほしいと瑞穂たちはちょっと理不尽な文句を心の中で言ったりした。

 と、その時だった。プスン、という音ともに不意に車のエンジンが停止した。中で強盗が慌ててキーを捻ろうとしているが、車はうんともすんとも言わない。

「あれ? どうしたんですかね?」

 瑞穂が首を傾げる。と、いつの間にか戻っていた榊原が冷静に解説した。

「多分、エンジンをかけっぱなしにしていたからガソリンが切れたんだろう。エアコンも点けっぱなしだったみたいだし」

 瑞穂は思わずずっこけながら突っ込んだ。

「エンジンくらい切っておきましょうよ! どのみちこうなるのは目に見えていたじゃないですか! 本気で逃げる気があるんですか!」

「まぁ、クーラーをかけたくなる気持ちはわからなくはないがね」

 もう秋だというのに日差しは強く、しかもここは遮るものが何もない橋の上。車内はさぞ高温になっているはずである。

 実際、クーラーが切れて車内が徐々に暑くなってきたのだろう。ついに我慢しきれなくなったのか、強盗は小田を引きずるようにして車外に出て叫んだ。

「近づくな! すぐに代りの車を持ってこい!」

 格好良く叫んだ強盗だったが、その場が思わず沈黙する。何とも気まずい空気が流れ、強盗も何かおかしいと思ったようだ。

「何がおかしいんだ!」

「いや……車も何も、お前の周りにいっぱいあるだろう」

 そう、強盗のすぐ周りには、乗り捨てられた他の車がこれでもかとあるのである。強盗は一瞬ポカンとしたようだが、すぐに顔を真っ赤にしてわめいた。

「そんな事はわかってる! いいから動くんじゃねぇ!」

「うわぁ、どこまで残念な強盗なんですか……」

 瑞穂はもはやそうコメントする他なかった。つくづくよくあれで強盗などをしようと思ったものである。その強盗は小田を車に押し付けながら相変わらず銃を突きつけ、もう片方の手であの絵を脇腹に抱え込んでいる。幸い裏を向いているので榊原に絵は見えていない。

「さて、どうしたものか。できれば狙撃ではなく生かして捕えたいのだが……」

 榊原が厳しい声でそう呟き、事件が長期化の様相を見せ始めた、まさにその時だった。

「あ、あなた!」

 突然、何の前触れもなくそんな甲高い叫び声が聞こえたかと思うと、警官隊の間をかき分けて一人の女性が強盗たちの前へと飛び出していったのだ。あまりに突然の出来事に、誰も彼女を止める余裕さえなかった。

「な、何だ、あいつは!」

 刑事の一人が叫んだ時にはもう時すでに遅く、彼女は警官隊と強盗のちょうど中間地点となる場所にまで飛び出してしまっていた。が、それに対して反応したのは何と人質の小田だった。

「ま、鞠子、どうしてこんなところに!」

「あなたが人質になったって警察に聞いて、もうじっとしていられなくて!」

 女性はそう言って泣きながら小田に呼びかけた。刑事の一人が榊原に耳打ちする。

「小田さんの奥さんで、小田鞠子さんです」

 瑞穂と亜由美は思わずその女性を見やった。年齢は三十歳前後だろうか。はっきり言って、どこかさえない小田には不釣り合いなぐらいの美人だ。そして同時に、瑞穂たちは彼女こそが小田が本来依頼するはずだった「浮気の疑いがある妻」ご本人であるという事を思い出していた。

「えぇぇぇぇ! あれが奥さんですか!」

「うーん、こう言っちゃあ何だけど……小田さん、よく彼女と結婚できたわね」

「確かにあれじゃあ、浮気の一つや二つはしていそうかも……」

「こらこら」

 二人のやや偏見的かつ遠慮のない意見に、榊原は思わずたしなめる。ちなみに、一応依頼そのものは成立しているので、浮気調査の一件だけは(絵の事をすべて省略した上で)すでに榊原に伝えてあった。

 さて、そんな事をしている間に、小田が必死の形相で叫んでいる。

「ど、どうしてきたんだ! 僕の事はいい! 君はさっさと逃げろ!」

「嫌よ! あなたを残して私だけ見ているなんてできない!」

 鞠子が泣きじゃくりながら絶叫する。思った以上にアツアツの会話に、その場にいる誰もが絶句していた。

「……仲がいいじゃないですか」

「あの奥さんの態度の一体どこをどう考えたら浮気なんて考えが出てくるのかしら?」

「まぁ、夫婦にしかわからない何かがあるんじゃないか? 私にはわからんが」

 榊原たちが適当にコメントしている間にも、事態は動いていく。

「そこの強盗さん! お願いだから、あの人を放して! 代わりに私が人質になるから!」

「よせ、やめるんだ! 強盗さん、人質はあくまでこの僕だ! 妻には手を出すな!」

 二人はそれぞれが必死になって強盗に訴える。それを聞いて強盗が示した反応は……

「まさか……君なのか……」

 予想外も予想外、まさかの「絶句」だった。これには鳴きながら絶叫していた鞠子もポカンとする。

「え……あの……どちら様ですか?」

「俺だ! ほら、思い出さないか?」

「し、知りません! 私、強盗に知り合いはいませんから!」

「だから、俺だって!」

 そう言うや否や、ここまで来て未だ名もわからぬ強盗はサングラスをむしり取って地面に叩きつけた。その顔は予想に反してつぶらな瞳で威厳も恐怖もへったくりもなく、瑞穂たちは思わず吹き出してしまう

 だが、それを見た瞬間驚愕の表情を浮かべたのは、他ならぬ鞠子だった。

「あ、あなたは新宿の……」

「な、何の話だ!」

 置いてきぼりにされて小田が戸惑う。が、これに対して鞠子はなぜか気まずそうにしながら、衝撃の真実を告げた。

「ご、ごめんなさい、あなた……実は私……あなたに隠れて他の人とお付き合いしていたの。その……新宿の喫茶店で、そこにいる強盗さんと。もちろん、すぐに別れたけど……」

「な……何ぃぃぃぃぃっ!」

 銃を突きつけられている事も忘れて、小田が絶叫した。

「つ、つまり……つまり強盗さん、あなたが妻の浮気相手!? さっき言っていた惚れた女って、僕の妻の事ですか!」

「そ、そんな! まさかお前が鞠子の旦那だったなんて! だって鞠子、あんた独身だって言ってたじゃないか!」

 互いが互いに混乱状態である。

 まさに驚愕の真実だった。まさかの急展開に、見守る警官や榊原たちはただただ呆然としているだけだ。

「……本当に浮気していたんだ」

「夫の勘っていうのも洒落にならない物なんですねぇ」

「えーっと、要するに、これで依頼終了という事なのかね? 私はまだ何も調べていないし、それどころか本人と話すらしていないんだが」

 そんなコメントを三人がしている間にも、事態はめまぐるしく動いていく。鞠子がその場に崩れ落ち、唐突に独白を始めたのだ。

「ほんの出来心だったのよ! あなたったら仕事ばかりで全然私に構ってくれないし、そんなときに新宿の喫茶店でその人が声をかけてきて……」

「そ、それでこいつと……」

 小田の顔はもはや顔面蒼白を通り越して、血管が浮き出るほどになっている。一方、強盗の顔も真っ青だった。

「そんな……俺は……俺はあんたのために強盗までしたっていうのに……」

「……てめぇぇぇぇ……」

 と、不意にどこかブチ切れたような低い声がその場に響いた。強盗ではない。というか、強盗はぎょっとした表情で銃を突き付けている人質を見つめていた。

 声の主は、誰であろう小田その人だった。次の瞬間、小田は顔を真っ赤にして、まるで人が変わったかのような怒号を上げた。

「このクソ豚ゲス馬鹿野郎! よくも僕の鞠子を! 許さねぇぞ!」

「ひ……ヒィィィィィッ!」

 叫んだのは銃を持っているはずの強盗だった。

 そこから後はまさに一瞬の出来事だった。小田は相手が銃を持っているのにもお構いなしに強盗に襲い掛かるや否や、完全に怖気づいてしまった強盗の腹部を殴りつけ、思わず銃と絵を落としてしまった強盗にさらに回し蹴りを慣行。そこからさらに首を絞めてチョークスリーパーをかけ、さらに相手の意識が飛びかけた瞬間を狙ってそのまま自動車に相手の体を叩きつけると、間髪入れずに拾った拳銃を相手の後頭部に突き付けて、地面に落ちた問題の絵を思いっきり踏みつけながら叫んだのだった。

「来るんじゃねぇ! こいつだけは僕がぶっ殺してやる!」

 再びその場に別の意味での緊張が走る。一瞬にして人質と犯人が入れ替わってしまった構図だが、むしろますますたちが悪くなっている。瑞穂たちはその様子を呆気にとられて見つめるしかなかった。

「……これ、私たちに依頼する必要あったんですかね? 何なんですか、あの漫画家にあるまじき身のこなしは? 漫画家なのに何か格闘技でもやっていたんですか?」

「というか、やっぱり心配した通りになったわね。むしろ下手に依頼を完遂していたら、私たち殺人の共犯になっていたかも……」

「完全に逆効果だったな。激昂している分、あの間抜けな強盗より厄介だぞ」

 榊原が言うまでもなく、警察は臨戦態勢を整えつつあった。間に挟まれた鞠子はさっきとは別の意味で泣き叫ぶ。

「あ、あなた! やめて! そんな事しないで!」

「うるさい! 君の事を奪ったこいつは、絶対に許さない! 今この場で叩き潰してやる!」

 どうも普段温厚なだけに、一度ブチ切れると歯止めが効かなくなるタイプらしい。というか、さっきあれだけパニック状態に陥っていた問題の絵を容赦なく踏みつけているところから見ると、もう強盗の事以外目に入っていないようだ。

 一方の強盗。いきなり立場が逆転してしまってすっかり気が動転しているのか、見ていられないほどに情けない顔で懇願する。

「た、助けてくれ! 俺が悪かった! この通り謝る! だから頼むから、命だけはぁっ!」

「うわぁ、情けないにもほどがありますねぇ」

 瑞穂が呆れてそう呟く。もはやこの場にいる全員からすっかり「残念な人」扱いされてしまっている強盗だが、こんな間抜けな奴でも助けなくてはならない。というか、このままではこんな間抜けな強盗相手に小田が殺人者になってしまう。さすがにそれは瑞穂たちとしてもご遠慮したいところだ。

「で、どう始末をつけるつもりですか? 何だか状況が混沌としすぎているような」

「警察の立場からすれば、さすがに今まで人質だった彼を射殺するわけにもいかないだろう。となれば、強行突入でもして取り押さえるくらいしかないが……」

 榊原がチラリと横を見ると、SATらしき部隊が上空のヘリで待機しているのが見える。

「SATがあれでは、突入まで時間がかかるかもしれないな」

「時間がかかるかもしれないなぁ、って、何呑気な事を言っているんですか! 今にも殺されそうじゃないですか!」

「いやぁ、何というか、この流れだとそんな悲惨な話にはならないと思うんだがなぁ。探偵の勘というか何というか……」

 と、榊原がそう言った、まさにその瞬間だった。

「し、死にたくねぇ! 畜生!」

 人質になっていた強盗がヒステリックに叫ぶと、一瞬それでギョッとした小田の隙をついてポケットから何かを取り出し、それを小田へ向かって突き出した。

 それは、火のついたライターそのものだった。

「う、うわっ!」

 さすがの小田もこの反撃には驚いたようで、反射的にガードの姿勢を取ろうとする。が、強盗は間髪入れずライターを持った手でその腕を思いっきり叩き、その拍子に小田の持っていた拳銃がすっ飛んでいく。拳銃はそのまま橋を超えて海へと落下していった。

「くそったれが!」

 もうここまでくると強盗も小田も必死である。小田はすぐに体勢を立て直して強盗の手を払いのけ、ライターは火がついたまま下に落ちる。一方、強盗も激しく抵抗し、両者はそのまま武器も何もない取っ組み合いへと突入した。

「この、コソ泥野郎め!」

「何だと、このもやし野郎!」

 両者の罵声と怒号が響き、警官たちも呆気にとられて手を出せずにいる。しばらくの間、二人によるある意味愉快な大乱闘がその場で展開された。

 が、その直後、事態は再び急変する。

「あ」

 瑞穂が思わず声をあげ、その視線が一ヶ所に集中した。その先を追うと、何やら二人の足元から煙が出ている。

 興奮状態だった二人もようやくそれに気づいたらしく、煙を追って足元を見る。

「あ」

「あ」

 小田と強盗が同じような声をほぼ同時に挙げ、そして次の瞬間、両者の顔が真っ青になった。

 両者の足元……そこには先程ライターが問題の絵の上に落下し、その部分からプスプスと煙を発生させている光景があった。

 一瞬、何とも言えない沈黙がその場を支配する。が、直後、今度は小田と強盗が大絶叫した。

「し、しまったぁぁぁぁぁっ!」

 慌てて強盗は絵の上にあるライターを蹴り飛ばし、小田は見境もなく絵を踏みつけて火を消そうとする。彼らからしてみればその絵に二束三文の価値もない事は知らないので当然の行動なのだが、すべてを知った上で傍から見ているとある意味滑稽な行動だった。もはやこれ、一種のコントである。

「何というかあの二人……変なところで気が合うみたいですね」

「とにかく、これで事件は解決したんじゃないかしら。あとは警察が何とかしてくれると思うんだけど」

「そ、そうですよね。これで万事解決……」

 そう言って振り返った瑞穂だったが、しかし榊原の表情はなぜか蒼ざめていた。

「これはまずいぞ……」

「え、何がですか?」

「言っただろう、あの絵には最新式の強力LSDが染み込ませてあるんだぞ。そんなものが染み込んだ紙を燃やして、発生した煙をまともに吸ったりなんかしたら……」

「あ……」

 榊原の言葉の意味する事を悟って、瑞穂は思わず二人の方を見る。と、ほぼ同時に今まで慌てふためいていた二人が突然ピタリと動きを止めた。

「せ、先生。そのLSDってどんな代物なんですか? もしかして、とんでもない幻覚を見て大暴れするとか?」

「私もよくは知らない。どうなんだ、忍野?」

「それはですね……」

 忍野が答えようとした、まさにその瞬間だった。

「……ニャーゴ」

 突然そんな声が橋の真ん中から聞こえてきて、瑞穂と亜由美はバッと反射的にそっちを見た。そこにいたのは……。

「ニャーン」

「ゴロニャーゴ」

 四つん這いになって恍惚な表情を浮かべながらなぜか猫のまねをしている小田と強盗の姿だった。二人はさっきまでの修羅場はどこへやら、のんびりと手で顔を拭いたり、その場で丸くなってあくびをしていたりする。いきなりの超展開に、瑞穂と亜由美は絶句したまま、突如として出現したその謎の光景を眺めているしかなかった。というか、さっきまでの緊迫した空気は一体どこへ行ってしまったんだという話である。

「こ……これは……」

「あのLSDを吸うと、まるで自分が猫になったかのような幻覚を見るんです。あぁなったらしばらくあのままで、その間は自分が猫だと錯覚したまま己の欲望のままに行動する事になります」

 こんな状況なのに、忍野はしかめ面の超クソ真面目な表情で麻薬の正体を告げた。瑞穂たちとしてはもはやコメントできるような話ではない。

「猫になった気分になれるって……それ、誰得の麻薬なんですか? っていうか、需要はあるんですか?」

「これがなかなか裏社会では大好評らしいです。あの麻薬を買い付けたある新興暴力団があの麻薬にはまって何もできなくなってしまい、うちに摘発されて全滅したという事もありました。もっとも摘発したはいいものの、潜入していたうちの潜入捜査官も猫になりきってしまっていてしばらく全く役に立ちませんでしたが」

 瑞穂はいかつい顔をした暴力団の面々が暗い事務所の中で猫になりきっている光景を想像してしまった。なぜかは知らないが背筋に悪寒が走る。絶対にそんな場面なんか見たくもないし、そもそも想像するのもおぞましい。瑞穂は遠慮する事なく深いため息をついた。

 と、こんな状況なのに榊原は一切動揺する事なく忍野に尋ねる。

「事情は分かった。……で、これどうするんだ?」

「一度気化したら、しばらくはあの辺りに近づけませんね。まだ気化したLSDが漂っているはずですから。彼らがあの場所を離れるのを見計らって確保する他ないでしょう」

 だが、そんな事情など全く知らない人間がここにいた。

「あ、あなた! どうしたのよ! 一体、何が起こったの?」

 近くで何もできずにいた小田の妻・鞠子である。一体何がどうしてこんなわけのわからない事態になったのかわからず、心配になったのか不用意に彼らに近づいてしまう。

「あ、馬鹿! 近づくな!」

 忍野が思わず叫ぶが、時すでに遅し。彼女は小田の近くまで駆け寄ったところで不意にピタリと動きを止め、しばらくすると、そのまま地面に崩れ落ちるように四つん這いになって、そのまま伸びをしながら可愛く一言。

「……ニャー」

 忍野ががっくりと肩を落とす。

「余計な仕事が増えた……」

「っていうか、あれやばくないですか! スカートの中が……」

 瑞穂が焦る。何しろ完全に猫になりきっているのでそのような事をまったく気にしなくなってしまっているのだ。

「……ひとまず、テレビの中継をストップさせた方がいいな。戻ってから全国ネットでさらされたなんて事を知ったら、彼女立ち直れなくなるぞ」

「……手配します」

 ここまでの状況でもあくまで冷静な榊原の提案に、忍野は深いため息をつきながら関係各所に連絡した。

 と、その時だった。

「フシャ――――ッ!

 突然そんな声が聞こえ、今度は忍野や榊原も含めて全員がバッと小田たちの方を見やった。すると、猫になりきっている小田たち三人が四つん這いのまま互いに互いを睨みあっていた。

「な、何か嫌な予感……。先生、一応聞きますけど、あれって一体何ですか?」

「……私には猫が喧嘩をしようとしているところにしか見えないんだがね」

「ですよねぇ……」

 瑞穂が力なくそう呟いた瞬間だった。猫になりきった三人は一斉に飛びかかると、そのまま地面を転がりながら互いに互いをひっかく大乱闘を展開し始めた。

「あぁ、もう! 無茶苦茶だ!」

 忍野が思わず頭を抱える。一方、榊原も難しい表情を浮かべていた。

「何にしても、これはさすがに止めた方がいいんじゃないか?」

「それはそうですが、でもどうやって? 近づいたら我々も猫ですよ」

「その言い方もどうかとは思うが……ひとまず、人質もいなくなった事だし、催涙弾か何かを撃ってみるのは?」

 ……それから数分後、他に方法なしという事で、後方に控えていた機動隊員が彼ら目がけて催涙弾をぶっ放した。すると、彼らはそれを邪魔だと認識したのか、驚くほど俊敏な動きで機動隊目がけて襲い掛かり始めたではないか。が、機動隊員たちも負けてはいない。直後、機動隊と猫三人組による激しい全面戦闘が発生し、様々な絶叫がその場に木霊した。

「確保! 確保だ! 全員ふん捕まえろ!」

「ニュアアアー!」

「ええい、おとなしくしやがれ!」

「今まで散々迷惑かけやがって!」

「覚悟はできているんだろうな、クソ野郎!」

「フシャアア――――!」

「おわっ! ひっかくな、馬鹿野郎!」

「畜生! こんな美人の奥さんもらって、羨ましいぞこん畜生!」

「妬ましいぞ!」

「リア充め!」

「それで浮気騒ぎとかふざけんな!」

「ミギャァァァ―――ッ!」

「うるせぇ! 静かにしろ!」

「叩け! ぶん殴ってしまえ!」

「水でもかぶって反省しやがれ!」

「この恨み、はらさでおくべきかぁぁぁ!」

「ニャアアッ!」

「馬鹿! スカートの事くらい考えろ!」

「萌えぇぇぇぇ!」

「月給上げやがれぇぇぇぇ!」

「誰だ! どさくさに紛れて妙な事をほざいてるやつは!」

「こいつら人間じゃねぇ!」

「だから猫だって言ってるだろうがぁっ!」

「ニャーゴ!」

 ……何やら機動隊も混乱しているようで、色々と聞いてはいけないセリフが聞こえてきた気もしたが、瑞穂は全面的に聞かなかった事にした。触らぬ神に祟りなし。君子危うきに近づかず。なぜかは知らないが、瑞穂の頭にはそんな諺が浮かんでいた。

 とはいえ、それから十分後、三人はズタボロになった機動隊によって取り押さえられ、ロープで何重にもぐるぐる巻きにされて路上に転がされた。一方、問題の絵の方にはガスマスクで完全防備した特殊部隊が接近し、慎重な手つきでそれを回収。絵の状態がどうなっているのか瑞穂が確認する間もなく厳重に封がなされたボックスの中に放り込まれ、そのままどこぞへと運ばれてしまった。

「……とりあえず、絵を先生に見られる事だけは避けられたみたいですね」

「というか、これどうなるのかしら……」

 瑞穂と亜由美がひそひそと話し合う中、捕まった三人はパトカーにぞんざいな扱いで放り込まれて連行されていった。そんな中、真剣な表情で今後の事を話し合っている榊原と忍野の後ろで、瑞穂と亜由美はホッとしたように大きく息を吐いたのだった。


 翌日、テレビのニュースでは先日の事件の事を報道していた。瑞穂と亜由美はその様子を事務所のテレビで固唾を飲んで見守っていた。

『厚生労働省麻薬取締局は近年出回っていた最新型の麻薬の押収に成功したと発表しました。この新型LSD「ニャンコーレ」は広域指定暴力団「猫又組」が極秘裏に製造していたものですが、麻薬取締局はその大本となる原液が染み込んだ絵画の存在を確認し、これを押収したという事です』

 そして、直後画面に押収された絵画の映像が映し出される。

『これが押収された問題の絵画です。押収の際の事故で一部が破損していますが、原液の抽出は問題なく行えたという事です』

 画面に映し出された問題の絵。それは、まるで狙ったかのように顔の部分だけがライターの火で焼け落ちて、ぽっかりと穴が開いてしまっていた……。

「何て言うか……助かったわね」

「そうですね……」

 亜由美と瑞穂が互いに顔を見合わせて疲れたようにホッとしている中、アナウンサーは淡々とニュースを伝え続けていた。

『警視庁と麻薬取締局は、当初このサンプルを所持していた東京都北区在住の製薬会社社長・薬沢麻夫容疑者と、他者へ移転されたこの絵の盗難を指示していた猫又組若頭の三毛沢大輔容疑者を逮捕しました。警察によると、薬沢容疑者は猫又組組長・猫又庄兵衛容疑者とかねてから繋がりがあって麻薬製造に協力をしており、自身の麻薬製造の容疑が深くなったことに危機感を抱いた薬沢容疑者が当局の追及を逃れるためにサンプルの絵を関係のない第三者に譲渡。それを受け、三毛沢容疑者がサンプル奪還を目的に絵の盗難を指示したという事です。なお、実際に絵の盗難を行った自称強盗の……』

 と、ここでなぜか一瞬画面が砂嵐になってしまう。が、瑞穂は動じない。

「あー、またテレビの調子が悪いみたいですね」

「ほんとに、もうすぐテレビも完全地デジ化するのに、榊原さんもいい加減にテレビを買い替えたらいいのにね」

 そう言いながら二人してバンッとテレビを叩く。と、すぐに映りがよくなった。

『……容疑者は漫画家の小田宗次郎氏を人質に取って逃走しましたが、逃走中に警官隊に包囲されて逮捕されたという事です。小田氏はその際気化した麻薬のため一時錯乱状態に陥り入院しましたが、現在は正気を取り戻し、捜査員の尋問にも素直に答えているとの事です。警察と麻薬取締局は今回の検挙をきっかけに猫又組に対する一斉検挙に乗り出すとの事で、今朝から猫又組の事務所には多数の捜査関係者が詰めかけています。では、次のニュース……』

 そこまで聞いて、瑞穂はテレビの電源を切った。

「まぁ、何て言うか……とりあえず何とかなってよかったです」

「本当に……一時はどうなる事かと思ったけど。あの強盗さんもうまい場所にライターを落としてくれたわね」

「そうですね。……そう言えば、結局あの強盗の名前、最後までわからなかったなぁ……」

 どこからともかく強盗の抗議の幻聴が聞こえてきたような気もしたが、とにかくそんな事を話していると、事務所のドアが開いて外に出ていた榊原が帰ってきた。

「あ、先生、お帰りなさい」

「あぁ。ひとまず、警察に一通りの事情は説明してきた。あとは、あっちの仕事だ」

 そう言うと、そのまま自分のデスクの椅子に腰かけて息を吐く。瑞穂と亜由美は自分たちの秘め事が榊原にばれないように作り笑いをしながら榊原をねぎらう。

「そうですか。お疲れさまでした」

「本当にね。ここまでつかれた事件はある意味初めてかもしれないな。瑞穂ちゃんたちも変な事に巻き込んで悪かったね」

「いえ、そんな! 確かに強盗に踏み込まれた時はどうしようかと思いましたけど結局助かったわけですし、今まで先生にくっついて経験してきた事に比べればこんなの全然平気です!」

「そうか、そう言ってくれるならいいんだがね」

「じゃあ、私たち今日は帰りますね。さすがにちょっと疲れちゃって」

 そう言って瑞穂はそのまま事務所を出ようとする。榊原も小さく頷いて許可を出した。

「構わないよ。今日はゆっくり休んでくれ」

「それじゃあ、失礼して……」

 と、瑞穂たちが部屋を出ようとしたまさにその時、榊原が後ろから今までと口調を変える事無く何気ない様子でこう声をかけた。

「あぁ、ところで、君たちが絵の顔の部分にお茶をこぼした事についてまだ何の報告も受けていなんだが、それについては何か言う事は?」

 ……その瞬間、瑞穂と亜由美はピタリと動きを止め、ぎこちない様子で榊原の方を振り返った。

「……あの、何の事ですか?」

「いや、何の事も何も、言ったままなんだけどね。もちろんやっていないというなら反論は認めるが、やってみるかね?」

 そう言いって榊原はニッコリと微笑んだが、目が全く笑っていない。そして、榊原の追及から逃れる事は絶対不可能だという事は、瑞穂自身が痛いほどよくわかっている事であり、そもそも不意を突かれて榊原の追及をはねのけられるだけの反論を絞り出す事などとてもできなかった。

 よって、瑞穂が次に述べた言葉は以下のようなものとなった。

「えっと、その……何でわかったんですか?」

「何でと言われても、特に難しい話じゃないんだがね。君たちが縛られているのを見つけたとき、亜由美ちゃんのデスクの上に見覚えのない油絵の具のセットや、油絵の具まみれの毛筆用の筆が置かれていた。私じゃなくても少しは何かあったと疑うだろう」

 そう言われて、瑞穂と亜由美は思わず顔を見合わせていた。確かに言われてみれば絵を描いた直後にあの名もわからぬ強盗の襲撃を受けて縛られていたわけで、これらの物品を片付ける事はできなかったのである。

「あとは修正液やら墨汁やら置かれていたが……とにかく、これらの道具を見れば何か絵を描いていたのではないかと推理するのは難しい話じゃない。だが見たところ事務所内に該当するものはないし、そうなると疑うべきは事務所から唯一なくなっていた盗まれた絵という事になる。しかし、さっきニュースを見た限りだと、顔以外の部分は私が君に絵を預けた時と変わっていなかった。となれば、絵を描くような事態になったのは顔の部分。つまり、留守中にあの絵の顔の部分に何かあった事になるが、傷がついたというのであれば絵の具で修復できるわけがないし、強盗も違和感を覚えるだろう。そうなると、客の小田さんが来ていたという状況から考えられる可能性としては……お茶を顔の部分に落として絵が消えてしまった、という事くらいしかないわけだ」

「……脱帽です」

 瑞穂は素直に兜を脱ぐしかなかった。というか、榊原に徹底的に追い詰められている犯人の気持ちが少しわかったような気もした。これなら下手に隠すより素直に言った方がましだったかもしれない。

「まぁ、結局あの絵自体は二束三文の物だったわけだが……何にしても、事情は聞いておきたいから、帰るのはもう少し待ってもらいたいんだがね」

「は……はははははは……」

 瑞穂は虚ろな笑い声をあげ、亜由美は観念したように頭に手を当てて小さく首を振る。その後この事務所でどのような会話が交わされたのかについては二人の名誉のためにも詳しく語らない事にするが、主に二人が業務上の失敗を隠そうとした事に対して珍しく榊原から淡々と論理的なお叱りを受け、一時間ほど後に二人がすっかり疲れ切った様子で事務所を後にしたという事実を述べた上で、このある意味愉快な物語の幕を閉じる事にする事にする次第である……。

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