前編
それは二〇一〇年のある晴れた秋の日のこと。品川の裏街にある榊原探偵事務所。この事務所の主で、元警視庁捜査一課警部補の私立探偵・榊原恵一は、自分の机に立てかけられた一枚の絵を眺めていた。
「どうしたもんかなぁ」
四十代中盤にさしかかろうとしているこの名探偵は、非常に難しい表情でこの絵を見ている。絵は一辺が四十センチ程度の正方形で、厚さ一センチ程度のきれいな額物に収められた油絵である。月の出た夜空をバックに、豪勢な椅子に座った三十代前半くらいの中世西洋の貴婦人が描かれている。
「先生、これどうしたんですか?」
この事務所の事務員で、東城大学法学部学生一年生の深町瑞穂が尋ねた。
「この前、北区の日本屋敷で依頼を受けたのを覚えているかい?」
「ああ、確か失踪していた親類を探してほしいとかいう話でしたね」
「大阪にいるのを見つけて、今日報告にいったんだが、その礼にということで依頼料代わりにこの絵をもらった」
「この絵をですか?」
瑞穂はまじまじと絵を見た。割合最近に書かれた絵のようで油絵の具も新しいが、傑作と言われれば傑作のようにも見える、何とも不思議な絵だった。
「というわけで瑞穂ちゃん、ちょっと出かけてくるからこれを見張っておいてくれないか」
「え、どちらへ?」
「いや、こいつを鑑定してもらおうと思ってね。知り合いに詳しいやつがいるから見てもらおうかと。どうも携帯がつながらないから、直接呼んでくる」
そう言うと、榊原は深刻そうに続ける。
「ザッとは見てみたが、どうもこいつは私が所持するにはふさわしくないもののようだ」
「そ、そんなにすごいものなんですか?」
瑞穂が尋ねる。
「ああ、もしかしたらこいつを奪いに来るやつがいるかもしれないから、一応見張っておいてくれないか。なぁに、見張りさえつけておけば強引に奪うようなことはしないだろう」
さらりと怖いことを言う。
「う、奪うって……」
「じゃあ、行って来るか」
「あの、これ、いくらくらいするものなんですか? 私にはさっぱり価値がわからなくて」
榊原はドアの前でしばらく考え込んだが、
「そうだな。私がパッと見た限り……最低一千万円程度はするかな」
「い、一千万円?」
驚愕のあまり、瑞穂は開いた口がふさがらない様子である。
「それじゃ、頼むよ。二、三時間で戻る」
「ちょ、先生……」
ドアが閉じられ、事務所には瑞穂一人が残される。
「これが……一千万円の絵……」
瑞穂は恐る恐る榊原の机に載せてある絵を見た。
「先生! 何を軽々しく言っているんですかぁっ!」
瑞穂の叫び声が事務所にこだました。
榊原が外出してから十五分。瑞穂は戦々恐々としながら机の前に陣取っていた。
「先生、いつも無茶なのは知っていますけど、これはいくらなんでもひどすぎませんか」
一人ブツブツと文句を言う。
「私だって女の子なんですよ! こんな物騒な物の見張りに私を指名しますか!」
まぁ、叫んだところで聞くものはおらず、空しい沈黙が支配する。
「あぁ、もう! 早く帰ってきてください!」
と、その時突然ドアが開いた。瑞穂は思わず身構える。
「どうしたの?」
この事務所の秘書のバイトをしている真木川女子大学四年生の宮下亜由美が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「なんだ、亜由美さんですか……」
「何かあったの? 何か、随分緊張しているみたいだけど」
「え、ええ。まぁ、ちょっと……」
瑞穂は絵をチラリと見ながら言った。
「あれ? その絵は?」
「榊原さんが依頼料代わりにもらってきたんです」
「また? そんなものよりちゃんとした料金をもらってきてほしいわ。ただでさえ事務所の経営、厳しいんだから」
亜由美はため息をつきながら秘書席に腰掛ける。
「最低一千万円はするそうですけどね」
瑞穂が小さく呟く。その瞬間、亜由美はガタリと音を立てて椅子からずり落ちそうになった。
「い、一千万円? この絵が?」
「私と同じこと言っていますよ」
「そんな大事なもの放っておいて、榊原さんはどこに行ったの?」
「知り合いの鑑定士さんを呼んでくるそうです。それまで見張っておいてくれって。奪いに来るやつがいるかもしれないから」
「また厄介事持ち込んでくれましたね、榊原さん……」
亜由美は瑞穂以上に深いため息をついた。
「でも、逆に言えば、この絵さえあれば事務所の経営も何とかなるということじゃないですか」
「でも、榊原さんのことだから、裏があるんじゃないかしら」
瑞穂の楽観的意見に対し、亜由美は慎重な意見を唱える。
「とにかく、このまま何事もなければいいんです。そっとしておきましょう」
瑞穂がそう言ったときだった。
突然、事務所のドアがノックされた。二人は顔を見合わせる。
「はい、どちら様でしょうか?」
亜由美が呼びかける。
「あの、ここ榊原探偵事務所ですよね」
「はぁ、そうですが」
「依頼をしたい事があって来たのですが。先日、アポを取った小田です」
慌てて亜由美は記録を見る。
「そうだった、この時間にアポが入っていたんだった」
「で、でも、先生は何も言っていませんでしたよ」
「多分、すっかり忘れてる」
亜由美は盛大にため息をついた。
「仕方がない。私たちが対応するしかないわね」
「あの絵、どうしますか?」
「移動させる場所もないし、置いておくしかないわね」
亜由美はそう言うと、ドアを開けた。三十歳過ぎくらいのねずみ色のスーツを着た背の低い男が立っていた。
「あ、あの……よろしくお願いします」
気が小さいらしく、ヘコヘコしながら部屋の中に入る。
「えーと、小田宗次郎さんですよね」
「は、はい」
「あいにく所長が留守でして、私が対応させていただきます。秘書の宮下です」
「はぁ……」
「とりあえず、そちらへどうぞ」
小田は珍しそうに周りを見ながらソファに座る。亜由美は反対のソファに座り、瑞穂はお茶を入れに給湯室に入っていった。
「それで、ご依頼の件は?」
亜由美は単刀直入に訪ねた。
「妻が……浮気をしているようなんです」
どうやらこういう探偵事務所にありがちな浮気調査の依頼らしい。
「浮気、ですか」
「はい。私は仕事柄家に帰れない日も多く、帰っても仕事の忙しさからくる疲労で寝てしまうことが多いんです。旅行にだって行ったことがないし、子供もいない。妻に迷惑をかけているのはよくわかっているつもりです」
典型的な浮気に走る家庭の構図である。仕事で夫に放っておかれ、子供もいない。浮気でその鬱憤を晴らすというタイプだ。
「でも、だからって浮気するなんて!」
「あのー、浮気しているというのは確かなんでしょうか?」
「間違いありません! 私の直感がそういっているのです!」
「はぁ」
亜由美は少々呆れながら、ビジネスライクに続けた。
「では、ご依頼は浮気の確認ということで?」
「いえ、相手がどんな人物かも突き止めていただきたい」
「そうなると料金が加算されますが」
「結構です」
「……参考までにお聞きしますが、それを知ってどうなさるおつもりですか?」
「どうしてそのようなことを?」
「いえ、それでトラブルになっては、こちらとしても後味が悪いので」
亜由美が遠慮がちに聞くと、
「その……相手にあってガツンと言ってやりますとも! 『妻に二度と近づくな!』と」
「はぁ」
そんなにオドオドしていてできるのかと思ったが、それは口に出さなかった。
「わかりました。それでは一応お引き受けいたしましょう。期限はございますか?」
「一週間以内にやっていただきたいのですが」
「了解しました。料金その他については後日ご連絡いたします。とりあえず、ご依頼を受けさせていただきます」
さて、このとき給湯室から二人分のお茶を入れた瑞穂がお盆を持ってソファに近づいていた。そして、依頼を引き受けてもらったことにホッとしたのか、小田は突然勢いよく立ち上がると、
「よろしくお願いします!」
と、思いっきり頭を下げた。そして、その際瑞穂に思いっきり体をぶつけてしまった。
「キャッ!」
その衝撃で盆が弾き飛ばされ、瑞穂が小さな悲鳴を上げる。で、盆と上に載っていたお茶入りのお椀はそのまま事務所の中で放物線を描き、きれいに榊原の机に落下した。
まぁ、より正確に言うと、榊原の机の上に乗っていた例の絵の貴婦人の顔の真上にダイレクトで。
「……」
一瞬、沈黙が事務所を支配した。全員が唖然として茶が広がる絵画を見つめている。
「イ、イヤァァァッ!」
刹那、瑞穂と亜由美の絶叫が事務所にこだました。
「どどどどどど、どうしましょう!」
「な、なんてことを! 大変よ! これは大変なことなのよね!」
「ええ、そうですよ! これは大変なことなんですよ!」
「大変なことって言うのは、大抵は夢なのよね!」
「そうですよ! これは夢ですよ!」
「そうか、夢よね。あー、よかった……なんて落ち着いている場合じゃないでしょ!」
「亜由美さんが一人突っ込みしているだけですよ!」
まぁ、当然といえば当然だが、事務所内を大パニックが襲っていた。当の小田は呆然としているが、瑞穂はもちろん、普段はめったに動揺しない亜由美でさえパニックに陥っている。
「瑞穂ちゃん、どうしてお盆を弾き飛ばしたの?」
「だって、そのお客さんがいきなり立ち上がるから……」
急に矛先を向けられて、小田が縮みこまる。
「な、な、僕のせいですか!」
「大体、依頼を受け付けてもらったからっていって大げさに立ち上がるのもどうかと思いますけどね!」
「何言っているんですか! そもそも、体がぶつかったくらいであんなに飛びますか!」
「何ですって!」
しばらく押し問答が続くが、やがて全員少し冷静になった。
「責任の擦り付け合いをしている場合じゃなさそうね。とにかく、榊原さんが戻ってくるまでにこの絵を何とかしないと」
「でも、どうしますか? 原形をほとんど留めていませんよ」
慌ててお茶を拭いたはいいが、特にお茶の直撃を受けた貴婦人の顔の辺りは何がなんだかわからなくなってしまっていた。さながら茶色ののっぺら坊である。
「これはさすがにごまかしきれないんじゃないかしら」
「でも、何とかしないと私たち破滅ですよ」
後ろで小田がモジモジしていたが、
「あのー、その絵いったい何なんですか?」
「最低でも一千万円はする高価な絵らしいです」
「な、何でそんなものをここに置いておくんですか!」
小田が青ざめる。
「いまさら言ってもどうしようもありません。とにかく、責任の一端はあなたにもありますから、協力してもらいますよ」
「えぇ! そ、そんなぁ」
瑞穂の言葉に、小田がうなだれる。
「幸か不幸か、消えたのは顔の部分だけね。ここさえ修復できればどうにかなるわ。それらしい絵を描いておけばパッと見た感じはわからないと思う」
「どうにもなりませんよ! 元の絵がどんなのだったかわからないんですから」
「いいえ」
珍しく亜由美は断言した。
「榊原さんのことだから、もらった品なんかはちゃんと記録にとってあるんじゃないかしら。絵の場合写真が残っているかも」
「でも、もらったのは今日なんですよ」
「デジカメにあるかも」
亜由美は秘書席に放りっぱなしになっていたデジカメのデータをチェックし始めた。
「あった!」
最初の方の写真に、絵を写した写真があった。
「修復した後にこの写真のデータを消しておけば、以前どんな絵だったのかわかりようがない」
「つまり、この絵を模して描けばいいんですね」
二人の顔に希望が浮かぶ。が、そこに小田がオズオズと一言。
「でも、誰が描くんですか?」
一気に空気が暗転する。
「瑞穂ちゃん、あなた絵は?」
「描けるわけがないじゃないですか。油絵なんかやったこともありません。亜由美さんは?」
「一応、高校時代に選択の美術でやったことはあるけど、もう六年以上前の話よ」
二人は同時に小田の方を見る。
「ぼ、僕も油絵はちょっと……というか、さっきから気になっていたんですけど、油絵具はあるんですか?」
言われて二人は顔を見合わせた。
「そ、そういえば、油絵具ってどこで売っているんでしたっけ?」
「少なくともこの品川界隈で売っているような代物じゃなさそうね」
重い沈黙が支配する。
「あっ!」
と、瑞穂が不意に声を上げた。
「そういえば、この間この部屋の隣の備品庫を掃除していたときに油絵具があったように思います!」
「どこ?」
「取ってきます!」
瑞穂は部屋を飛び出して備品庫に向かった。数分後、瑞穂が帰ってきた。
「ありましたよ!」
瑞穂の手には小さなパレットとチューブが入っていると思われるケースがあった。
「これでとりあえず絵が描けそうね」
「でも、確か油絵って石油がいるんじゃありませんでしたっけ」
またしても小田である。亜由美は考え込んだ。
「そういえば、高校でも水の代わりに石油を使っていたような……」
「石油なんてどこにあるんですか!」
正確にはその石油は「テレピン油」というのであるが、そんな事を彼女たちが知る由もない。瑞穂の突っ込みに亜由美はしばらく考えていたが、不意にきびすを返すと部屋を出て行った。数分後、戻ってきた彼女の手にはポリタンクが握られていた。
「あの、それは?」
「ここの三階の倉庫に保管してある冬のストーブ用の灯油。石油には違いないでしょう」
「まぁ、そうですけど」
瑞穂が不安そうな顔をする。
「とにかくやってみるしかないわ」
「亜由美さんが描くんですか?」
「他にやれそうにないし、仕方ないわね」
そういって、チューブの入っているケースを開ける。
「へ……?」
瑞穂が素っ頓狂な声を出した。赤、青、黄。ケースにはこの三色しか入っていなかった。絵画において最重要な黒と白すら入っていない。おまけにその三色にしても、あと少しでなくなりそうなほどチューブが丸められていた。
「……」
絶望がその場を支配した。
「状況を整理しましょう。色は赤、青、黄の三色。おまけに量を確認したところ、各色一回ずつしか使えそうにない。描くべき対象は人間の顔よ」
「描けるわけがないじゃないですか!」
亜由美の言葉に瑞穂が突っ込んだ。
「何ですか、この無茶振りは! そもそも人の顔をかくのに必須の肌色ができないじゃないですか! せめて黒と白がほしいですよ!」
「しかも量的に失敗したらおしまいですね。描き直すことも修正もできない。ホワイトカラーなしで黒インクがあと少しのまま原稿に挑む締め切り直前の漫画家みたいですね」
「それ、かなり自殺行為なたとえですよね」
小田の疲れたような言葉に瑞穂が律儀に突っ込む。が、亜由美は真剣に考えている。
「確かに最低でも黒と白はほしいわね」
「水彩絵具でも買ってきましょうか?」
「だめね。水彩絵具と油絵具では反発するだけだと思う」
「じゃあ、どうするんですか」
亜由美は悩んでいたが、
「代替物があればいいんだけど」
「代替物ですか……そうだ!」
そういうや否や、瑞穂は備品庫に向かうと、今度はなにやらバッグを持ってきた。
「それって瑞穂ちゃんが高校時代に使っていて、卒業と同時に備品庫に放り込んどいた習字セットよね」
「ええ」
そう答えると、亜由美は習字セットの中から墨汁を取り出した。
「これが黒です」
「はい?」
「水に溶かす前の濃い墨汁なら油絵具と反発しない……かもしれないじゃないですか」
亜由美と小田は顔を見合わせた。
「何か、危険な香りがプンプンするんだけど」
「この際贅沢は言っていられません」
「でも瑞穂ちゃん、白はどうするの?」
「問題ありません」
瑞穂は秘書席の引き出しから何かを取り出した。
「修正液よね」
「本質的には変わらない……はず」
「大丈夫なの?」
「なりふり構っていられません。ちなみに、筆はこの毛筆用の筆しかないみたいです」
瑞穂は毛筆用の太い筆を突き出した。
「……ますます不安だわ」
亜由美がため息をつく。
「じゃ、やってみますか。はい、亜由美さん」
唐突に毛筆筆を亜由美に突き出す。
「い、いきなり描くんですか?」
思わず小田が止める。
「こういう場合、まず下書きをすべきでは?」
「確かに、勝負は一度きりなんだから。下書きは鉛筆でいいみたいだし」
亜由美も同調する。
「じゃあ、ちょっと描いてみますか」
瑞穂はそういうと、手近にあった鉛筆を手にとって、デジカメを見ながら下書きを開始した。
「えっと……ここがこうで……あれ……」
まぁ、そんなこんなで五分後。下書きは完成し、瑞穂は自分に絵心がないことを再確認する羽目になった。
「これはひどいわね……」
「亜由美さん、そんなはっきり言わないでくださいよ……」
顔の部分には、唇がやたら分厚く、目の間隔がおかしい上に両目の大きさが違い、なおかつ鼻が異常に大きな得体の知れない人間の顔が描かれていた。
「書き直しね」
亜由美が消しゴムをかける。が、ますます黒く汚くなってしまった。
「これは……いよいよ収拾がつかなくなってきたわね」
「どうします? 亜由美さん、描きますか」
「私が描いても何も変わらないと思うんだけど」
「でも、私よりはましじゃないんですか?」
「一応言っておくけど、私の高校の美術の成績は十段階の四よ。赤点ぎりぎりね」
「打つ手なしですか……」
下書きでこの調子では、油絵などどうなるかわかったものではない。
「ええっと、そろそろ帰っていいですか?」
と、不意に小田がおずおずと言い、二人は同時に鋭い視線を小田に向けた。
「一人だけ逃げるつもりですか?」
「ここまできたらあなたも共犯です。逃がしませんよ」
「そ、そんな! 締め切りが近いっていうのに!」
小田が悲鳴を上げる。が、その言葉に亜由美は引っかかった。
「締め切り?」
「鬼のような編集者の目をごまかして依頼に来たんです。早く帰らないと、殺される……」
震え始めた小田を尻目に、二人は顔を見合わせた。
「あの、あなたの職業は?」
「漫画家です。あまり売れていませんけど」
その瞬間、瑞穂は思わず手近な書類で小田の頭を叩いて突っ込んでいた。
「それを早く言ってください!」
「言う暇くれなかったのはあなたじゃないですか!」
言い争いが始まろうとするのを亜由美が押しとどめる。
「今はそんなことをしている暇はないわ。小田さん、漫画家なら絵はうまいですよね」
「まぁ、一応それで飯を食べていますから。でも、油絵はやったことが……」
「絵さえ描ければいいんです! やってくれますよね?」
亜由美の剣幕に押され、小田は思わず頷いていた。亜由美と瑞穂は無言で小田に鉛筆と毛筆の筆を差し出す。
「ど、どうなっても知りませんよ!」
そう叫ぶと、小田はほぼやけくそになりながら絵に向かうこととなった。
それから三十分後。絵は完成した。
「どうですか? 我ながら自信作なんですけど」
小田がおずおずと尋ねる。が、瑞穂と亜由美はただ呆然としてその完成した絵を見ていた。
「……うまいとは思います。思いますけど……」
亜由美の言葉を引き継いで、瑞穂が絶叫した。
「これは何ですかっ!」
簡潔に結果だけ言おう。古めかしい風貌だった油絵の女性の顔は、秋葉原のオタクが集う店に張られているポスターに登場するようなアニメ風美少女の顔へと変貌してしまっていた。油絵と墨汁と修正液でそれを表現する小田の腕はなるほどたいしたものだが、顔とそれ以外の部分の差が激しすぎて、正直気味が悪すぎる。言ってみれば、モナリザの顔を萌え化したようなものだ。絵の価値がぶち壊しである。
「仕方がないでしょう! 僕が描いているのはいつもこんな絵ばっかりなんですから!」
「面影一つ残っていないじゃないですか! これじゃ、ますます状況が悪化していますよ!」
確かに、少しだけ残っていた油絵の具は当に尽き果て、描き直そうと思ったら墨汁と修正液で直すしかない。が、もはやそれは絵ではないだろう。
「描いてしまったものは仕方がないわ。これで榊原さんをごまかすしか……」
「ごまかせるわけないじゃないですか!」
瑞穂が単刀直入に言う。
「どうやってごまかせって言うんですか! 見られたら一発でばれますよ! おまけに相手はあの先生なんですよ!」
「見せたら終わりますね」
「描いた本人が言わないでください!」
激昂する瑞穂に対し、亜由美はしばし考え込んでいたが、不意にこう言った。
「わかった。じゃあ、見せないようにしましょう」
「え?」
「この絵を盗まれたことにするの」
唐突過ぎる話に、瑞穂と小田は顔を見合わせる。
「つまり、留守中に誰かが押し入ってきて絵を盗んでしまった。絵は後日顔の部分が破られた形で発見される。もう、そうするしかないわ」
「それって、一歩間違えたら警察沙汰になりませんか?」
瑞穂は不安そうに言うが、他に解決策が思い浮かばないのも事実だ。
「相手はあの榊原さんよ。相当綿密に計画を練らないと間違いなくばれると思う」
「警視庁捜査一課の元ブレーンだった日本有数の名探偵を騙すなんて、ちょっと難易度が高すぎませんか!」
瑞穂が悲鳴を上げるが、やらなければ身の破滅である。
「そうね。私たちは何も知らなかったという事にしましょう。つまり、ちょっと席を外していて、帰ってみたら絵がなくなっていたとか」
「それで先生が納得するでしょうか?」
「納得させないといけないの。その間に、この絵は小田さんが顔の部分を破いてどこかに捨てておく。もちろん、指紋とかは拭いた上で」
その言葉に、小田がびびる。
「ぼ、僕が捨てるんですか?」
「先生が帰ってきたときに私たちがいないのはまずいんです。だから、あなたに頼むしか……」
瑞穂が言う。
「待ってくださいよ! それ、万が一のときに僕が捕まるパターンですよね!」
「安心して。私たちで説得して先生には絶対に被害届を出させないようにするから」
「そういう問題じゃないでしょう!」
小田からすればとんでもない話だ。浮気調査の依頼をしに探偵事務所に来たらわけのわからない事に巻き込まれ、いつの間にか絵画窃盗の罪を着せられようとしているのだから。
「いいですか、このままだと私たちは一千万円の弁償をしなければならない事になります。こうするしかないんです」
「いやいやいやいや、それで『はい、わかりました』っていうやつがどこにいるんですか! 大体、こんな事がばれたら僕の漫画家人生もお終いです!」
「そんな事言っている場合じゃないでしょう! こうなったのはそもそもあなたのせいなんだから、いいから、やれ!」
「どっちが無茶言っているんですか!」
探偵事務所の事務員が依頼人に犯罪を教唆するというあまりにもおかしな光景がしばらく続く。瑞穂と小田が言い争う中で、亜由美は頭を抱えてどうすればいいかを考え込んでしまっていた。
「……ごめん、自分で言っておいてなんだけど、やっぱり探偵事務所の人間として犯罪まがいの事はできないわね。万が一ばれたときが怖いし、榊原さんにばれないわけがないし、第一、それだと何かの物語の根幹が崩れそうな気がするし……」
「メタなことを言わないでください! あぁ、もう! でも、だったらどうしろっていうんですか!」
瑞穂が絶叫する。と、その時だった。
不意に扉の向こうから誰かが階段を上がってくる足音が聞こえた。三人は言い争いをピタリとやめ、互いに顔を見合わせる。
「ほ、ほら……こんな事をしているうちに帰ってきちゃったじゃないですか……」
「お、お終いよ……」
「そんな……」
三人はこの世の終わりのような表情を浮かべる。そして、ゆっくりとドアが開き……
「おい、動くな! 死にたくなかったら手を上げな!」
サングラスをかけた大柄な男が拳銃片手に事務所に押し入ってきた。その瞬間、三人はホッと息を吐いて脱力する。
「な、何だぁ……先生じゃなかったんだぁ……」
「脅かさないでください……」
「た、助かった……強盗でよかった……」
戸惑ったのは強盗の方である。思わぬ反応に一瞬呆気にとられる。
「お、おい! こいつが見えねぇか! さっさと静かにしろ!」
「あー、はいはい、すみません。ちょっとごたごたしていたもので、強盗が入ってくる準備なんか……」
その瞬間、三人の表情が急激に蒼くなり、そのまま大きく後ずさった。
「ご、強盗!」
「だから! 最初からそう言っているだろう! おとなしくしろ!」
三人は咄嗟に手を上げる。
「な、何が目的ですか! この事務所には金目のものなんかありませんよ!」
亜由美がはっきりと断言する。実際、ここ数日給料未払いになるくらいにこの事務所には閑古鳥が鳴いているのだ。強盗に対してそんな事を言わなければならない事に、亜由美はホッとするような悲しいような、何とも複雑な気分を味わっていた。
が、強盗はフッと笑うと言った。
「そんな事はわかってる。事前調査でここにそんなものがない事は把握済みだ。というか、いくらなんでもなさすぎだろう。よくこれで事務所を維持できているな」
「お恥ずかしい限りです……」
瑞穂が恥かしそうに頭を下げる。強盗なんぞにそんな事で説教なんかされたくないと思ったが、事実なのだから仕方がない。
「では、一体何を……」
「ついさっき、ここの探偵が一枚の絵をもらってきたはずだ。そいつを頂こう」
その言葉に、三人は顔を見合わせる。どう考えてもあの絵の事だ。榊原の予想通り、この絵を狙う人間が現実に現れたという事である。
「知らないとは言わせないぞ。その絵がここにあるのは確認済みなんだ。さっさとよこしやがれ!」
「あー、えー」
瑞穂が思わず言葉に詰まる。件の絵は確かにここにあるが、その絵はもはや見る影もなくなってしまっているのだ。渡していいものか判断に困る。
「待ってください。これってもしかしてチャンスなんじゃ……」
と、小田が小さな声でそんな事を言った。
「チャンスって?」
「いや、だから、この際おとなしくあの絵を渡してしまえば、すべての責任をあの強盗に擦り付けられると思って……」
「うわ、えぐい事を考えますね。というか、そんな事をしたら強盗が怒りませんか?」
「……そこは何とかうまくする必要があるわね。榊原さんを騙すのと強盗を騙すのと、どっちが簡単だと考えたら、その結論は目に見えているでしょう」
亜由美のその言葉に、瑞穂は深々と頷いた。こう言っては何だが、目の前の強盗に榊原ほどの頭脳があるとは思えない。作戦は決まった。
「おい、そこ! さっきから何をこそこそ喋っていやがる!」
「あ、す、すみません。すぐ渡しますから命だけは助けてください!」
瑞穂はできるだけ悲観そうな口調でそういうと、そのまま机の上に伏せてあった絵を強盗に差し出した。強盗は無造作にその絵を掴むと、チラリと確認して愕然とする。
「な、何だ、このアンバランスな絵は……」
「あー、私たちが預かっているのはその絵だけです! 誓って本当です!」
瑞穂が強盗の言葉を遮るように大声で(やややけくそ気味に)怒鳴る。一方の強盗は目を白黒させる。
「いや、だが、しかし……」
「確かに私たちは先生から絵の見張りをしてほしいと言われましたけど、その絵は最初からそんな絵でした! 私にはわからないけどそれが芸術的って事なんでしょうね! そうは思いませんか?」
「さ、さぁ……どうなんだろう……」
なぜか知らないが強盗もしどろもどろになってしまっている。どこか助けを求めるように亜由美と小田の方を見るが、二人とも瑞穂に調子を合わせる。
「えぇ、確かにその絵は最初からそんな図柄でした。私が保証します。古めかしい図案に現代の漫画絵を描く事で何とも言えないギャップが生じ、まるでマグリットみたいな不思議な世界を描けていると思います。とにかく、それは最初からそんな絵だったんです!」
「僕も見ました。間違いなくそんな絵だったと思います。まさに『芸術は爆発だ!』ですね! いやぁ、芸術って奥が深いんだなぁ! 今ならピカソの絵も理解できそうな気がします!」
「はぁ、そうなのか……まぁ、いいか。とにかく売れれば問題ねぇ」
強盗はどこか不思議そうな顔をしていたが。やがて考える事を放棄したのかそのまま持ってきた鞄に絵をしまってしまった。何とかごまかす事には成功したらしく、瑞穂たちは密かにホッと息を吐く。これが榊原だったら「何を馬鹿な事を言っているんだね?」の一言で終わっていたはずだ。物は言いようである。
「コホン……さて、お前ら! 俺は今から逃げるが、その間に通報されるのは性に合わねぇ! おい、そこの男!」
「は、はい! 僕ですか?」
呼ばれた小田が全身を震わせる。そんな小田に、強盗は持ってきたロープを投げた。
「そいつで残り二人の手足を縛ってもらおうか! 安心しろ、指示さえ守れば命までは取らねぇ」
小田はチラリと瑞穂たちの方を見る。亜由美が代表で頷いた。
「ここは指示に従いましょう。とにかくあの強盗には一刻も早くお帰り願いたいですし」
その言葉に、小田は投げられたロープで二人の手足を縛る。作業が終わり、二人が床に転がされると、強盗はそのまま小田に銃を突き付けて傲然と言い放った。
「さて、お前にはしばらく人質になってもらう。一緒に来てもらおうか?」
「え、えぇっ!」
思わぬ話に小田は絶句する。が、強盗はにやにや笑いながら言い放った。
「なぁに、命を取ろうとまでは思っていねぇ。俺が逃げ切るまで人質としてきてもらうだけだ。うまくいけば一時間ほどで解放できるだろう。さぁ、来るんだ!」
「ちょ、待って、助けてぇぇぇぇ!」
小田が絶叫する中、強盗は彼に銃を突き付けて強引に事務所から出て行ってしまった。後には床に転がされた瑞穂と亜由美だけが残る。
「とりあえず……助かったというべきなんでしょうか?」
「あの人にとっては散々だと思うけどね。依頼に来ただけでこんな事に巻き込まれるなんて思ってもいなかったと思うし」
とはいえ、自分たちにはどうする事もできない。二人は途方にくれながら事務所で転がっている事しかできなかったのだった。