三十一 逃亡
少女は明かりの乏しい夜道を懸命に走っていた。
——たすけて。
どこまでも続きそうな林を抜け、舗装された道に出たところで一台の車に乗せてもらえたのは、彼女にとって幸運だった。
その車は一見して改造車で、運転手も派手な服装の男だったが、とても親切だった。
走りに自信のあった男が車を派手に飛ばしたおかげで、彼女は追っ手から逃れることができた。
三十代後半に見える男は、持っていたホットの缶コーヒーとパンを、空腹の彼女に渡した。
彼女は最初、その男を信用していなかった。
しかし男の話を聞くにつれ、緊張がほぐれていった。
「俺もよく家出して、でも住んでいた街には屯する店もなかったから、ヒッチハイクをして都会に出てきた。でも俺よりずっと深刻そうだな。何があったか知らないけど、すごい顔色しているぞ。あんた」
彼女は男の顔を見て思った。
——雰囲気が樹に似ている。
彼女の兄の親友だった樹は、一見してやんちゃな風貌だったが、周囲の人間にとても優しかった。
それを思い出した少女は、少しだけ男に安堵した。
彼女はコーヒーを飲まずに、自分の手のひらを温めるのに使った。
男は彼女の望む場所まで送ると、車を降りる彼女に自分の上着を渡してやった。
「そんな薄着じゃあ、寒すぎるよ。次に会うときに返してくれればいいから」
シャツ一枚に短いスカート姿の彼女は、師走の夜中を出歩くには寒すぎる格好だった。
「いいです。返せるかどうかわからないし」
固辞する彼女に男は言った。
「じゃあ、名前を教えて」
「・・・みつき」
「みつき、またな」
男はそう言うと夜の闇に消えていった。
***
みつきは自分の家の近くに来ていた。
みつきはある男から誘いを受けて家出同然で家を出て以来、三年以上も家に戻っていなかった。
しかし家には明かりが点いておらず、人の住んでいる気配もなかった。
郵便受けにはチラシが貯まり、ガスの会社の『開栓時にはお知らせ下さい』の案内を見て、家族は引っ越しをしたのだとみつきは思った。
所持金も携帯電話もなく、不登校だった彼女に頼れる友人もいなかった。
他に行く場所を思いつかなかったみつきは、兄の眠る墓地まで歩いた。
寒い夜空だったが、この時には不思議と寒さも、怖さも感じずにいた。
しかし墓標を見た時、兄の名前の横に両親の名前を見つけたみつきは、呆然と立ちつくした。
「お父さん・・・お母さん」
墓地に併設された公園の時計は夜中を過ぎたことを知らせた。
みつきはしばらく墓地の前から動けなかったが、寒さに耐えられなくなりのろのろと歩き始めた。
行き先は樹の家だった。
しかし、彼の家も人の住んでいる気配がなかった。
みつきは思った。
——上着を借りて良かった。
しかし気温は十度を下回っていたので、上着を着ても寒く、みつきはひたすら暖かい場所を求めてさまよった。
***
みつきはビル街の裏通りで一夜を過ごした。
ビルの周辺の方がエアコンの排気で暖かかったからだ。
しかしみつきはほとんど眠ることができず、朦朧とした頭で自分の行き先を考えていた。
——あそこしかない。
みつきが最後に選んだ場所、それは樹の異母兄弟である間宮義貴の家だった。
みつきは、樹に言われて橋本姫呼を誘い出す際に、義貴の家の場所を樹に教えられていた。
義貴が自分のことを快く思っていないことは分かっていた。
しかし義貴は、みつきが監禁されていた研究所、そしてみつきをそこに誘い込んだ男・石井を少なからず知っているはずだった。
みつきは義貴に、樹の居場所を尋ねるつもりだった。
間宮義貴のマンションに着いたとき、彼女の追っ手がすぐ近くに来ていた。
みつきは追っ手を察した瞬間、夢中でマンションに飛び込み、義貴の家のインターフォンを押して叫んだ。
***
その頃、家にはひーこと義彦がいた。
ひーこの講義は午後からだったので、義貴は午前中の講義に出て、昼に喫茶店で待ち合わせをするはずだった。
ひーこは部屋の掃除を終えると、外出の支度をしていた。
その最中に、インターフォンが鳴った。
ひーこがモニタを見ると、必死の形相をした若い女の子が映った。
「間宮さん、お願い!助けて!私、殺される」
彼女は張り裂けんばかりの声でモニタに向かって叫んだ。
「私、樹の知り合いの二階堂みつきです。
あなたに・・ひーこさんにひどいことをしてごめんなさい。
謝るから、お願いだから助けて!!」
彼女の言葉から、ひーこは彼女の事を思い出した。
自分を樹の家に連れて行った人物であることを。
ひーこは自分の顔が強ばるのを感じた。
——今のこれも演技かもしれない。
ひーこは思ったが、彼女は義貴に対して言っているのだと思い直した。
ひーこは返事をしないままモニタを切ると、義彦に言った。
「義彦、ここにいて。いい?」
黙ったままの義彦に言い聞かせると、ひーこはリビングのドアを閉めて玄関に向かった。
そして扉を開けると、みつきが立っていた。
「あ」
みつきはひーこの顔を見て表情が硬直した。
ひーこは冷静な声で言った。
「あなた、私を覚えている?」
みつきは声を出せなかった。
自分が彼女と樹を引き合わせた。
その結果、彼女は樹に襲われたのだ。
「義貴に何の用?」
ひーこは冷ややかに言ったが、彼女の服装を見て尋常ではないことを認識した。
「私・・監禁されていたの。何とか逃げ出したのだけど・・・」
みつきがそう言った直後、背後から迫ってくる音に二人は気がついた。
「いやっ、助けて・・・」
怯える彼女を見た瞬間、ひーこは自分でも信じられない行動をとった。
みつきを玄関に引きずり込むと、自分が表に出てドアを閉めた。
義貴の家はオートロックなので、ドアは一旦閉まると、鍵がなければ外から開けることができなかった。
そして部屋の前の踊り場に現れたのは——間宮亮だった。
ひーこも、そして亮も、互いの存在に驚いて息を呑んだ。
ひーこが亮に会った時には甘えん坊のような幼い印象を受けたが、今の彼は目つきが鋭く、殺伐とした表情だった。
最初に口を開いたのは亮だった。
「みつきを出せ」
無表情の亮は淡々としていた。
ひーこは玄関のドアに立ちはだかり、動かずに言った。
「あの子に何をしたの?」
「お前に関係ない。どけ」
「私をどかしても、扉は開かない」
亮が近づいてきたが、ひーこはドアの前から動かなかった。
亮はひーこの服の首元を掴むと締め上げた。
「みつき、扉を開けろ。この女を殺すぞ」
亮がドアに向かって言うと、ひーこは亮の腕を掴んで言い返した。
「開けちゃだめ。この扉は外から開かないし、私は鍵を持っていない」
ひーこの冷静な対応は亮を逆上させた。
亮はひーこの服から手を離すと、直にひーこの首を持ち、絞め始めた。
異変を感じた義彦は、リビングを飛び出して玄関に駆けつけた。
「ひーこ?」
しかし義彦にはドアを開けることができなかった。
亮は手に力を込め続けながら叫んだ。
「開けろ!早くドアを開けろ!」
ひーこは首を絞められて声を出すことができなかった。
何とか亮の腕を引き離そうとひーこはもがいたが、逆上した亮の容赦のない力に抵抗しきれなくなり、次第に意識がなくなっていった。
みつきは膝が震えて座り込み、泣き崩れたまま動くことができなかった。
次の瞬間、玄関のドアに衝撃が走った。
亮は背後から何かのチカラを感じてそれを避け、非常階段まで飛んだ。
亮が顔を上げると、ドアの前に義貴の姿があった。
***
その頃の義貴は、講義の間の休憩時間で、教室を移動していた。
そして義貴は義彦の呼ぶ声を感じた。
——とうさん。
義貴はチカラで義彦とひーこの居場所を探した。
二人が家の近くにいることは分かったが、家まで距離があるので、ひーこの状況を読み取ることは難しかった。
しかし自分の家で起きた異変を不安に思った義貴は、とっさに自分の身体を家まで飛ばした。
義貴は自分のマンションの階段の踊り場に降り着くと、部屋の扉の前で男がひーこの首を絞めているのを目撃した。
義貴は反射的にチカラを相手に投げつけた。
男がそれを避けてひーこから離れた瞬間、義貴は崩れ落ちるひーこの身体を受け止めた。
しかし義貴は、ひーこの様子を見て緊張した。
——ひーこ、息をしていない。
首を絞められたひーこは意識がなく、呼吸をしていなかった。
ひーこから離れた男・亮は、義貴の気配を察してチカラを回避すると、義貴に向かって言った。
「その女は二階堂みつきをかくまっている。あいつを出せ」
義貴は亮の思いがけない言葉に驚いていた。
「二階堂みつきが?」
「研究所から脱走した。みつきを出せば俺はすぐに消える」
義貴は背後の状況をチカラで視た。
義貴の部屋の中はチカラに対するシールドしてあるので、義貴自身でも玄関周辺しか読むことができなかったが、玄関の内側に二階堂みつきと義彦がいるのが分かった。
——ひーこがみつきをかくまった?どうして?
義貴には状況を理解できなかったが、亮に向かって言った。
「今、無理に連れて帰っても彼女は同じ事を繰り返すぞ」
亮は即座に返した。
「お前には関係ない。彼女はわずかだがチカラを持っていたので訓練していた。もう野放しにできない」
義貴は亮に提案した。
「分かった。ならば彼女をしばらく預かる」
「何だと?」
亮は義貴の言葉の意図を読めなかった。
義貴もとっさの判断で、深く考えていたわけではなかった。
ただ、必死だった。
「彼女が自分の意志で逃げ出したのなら、それ相当の理由があるのだろう。
彼女が落ち着くまで俺が預かる。だから今は帰れ」
亮は義貴の提案を理解した。
しかしすぐには頷かなかった。
義貴は冷静な声で続けた。
「お前が彼女に命の保証をするなら、必ず彼女をお前に返す。本人が拒否しても、だ。
俺には彼女を心配する理由もかくまう必要もない。
ただ、彼女が落ち着くまで時間をやれ。彼女は居場所がないからここに来ただけだ」
亮はひーこと義貴を見ていたが、一言言った。
「二日後に連絡する」
亮はそう言うと、階段を下りていった。
***
義貴はチカラで彼の気配が離れたことを確認すると、部屋の中にいるみつきに向かって言った。
「ドアを開けろ」
みつきは、義貴の声に弾かれたように玄関を開けた。
義貴はひーこを抱いたまま、なだれ込むように玄関に入った。
「ドアを閉めろ」
義貴はみつきに言うと、ひーこを玄関のあがり口に横たえた。
そして義貴はひーこの顎をあげて気道を確保すると、ひーこの心臓にチカラで刺激を与えた。
ひーこは振動で肩を震わせたが、反応がなかった。
「ひーこ、ひーこ!戻ってこい」
義貴は心臓マッサージを繰り返しながら、ひーこの名前を呼び続けた。
義貴は冷静に状況を判断していたが、内心は人生で初めて動揺したと思うほど、心底焦っていた。
しばらくするとひーこが咳き込むような仕草をして、息を吐いた。
ひーこが自発呼吸を始めたことを認識すると、義貴はひーこの手首を掴み、時計を見ながら脈拍を数え始めた。
ひーこの呼吸が規則的になったことを確認した義貴は、ひーこの身体を抱きしめた。
「よかった・・・ひーこ」
義貴は安堵のあまり、自分の声が震えるのを感じていた。
自分の心臓が、これほど高鳴るのを、義貴は初めて経験した。
ひーこを失うことを考えるのが、怖かった。
義貴は自分の生命力をひーこに注ぎ込むかのように、しばらくひーこを放さなかった。
みつきは義貴の迫力に押されて、ただ呆然と立っていた。
しかし状況の深刻さを認識するにつれて、歯が鳴りだし、膝が震えてその場に座り込んだ。
義彦はおずおずとひーこの側に座ると、父親に尋ねた。
「ひーこ、いたい?」
義貴は顔を上げると、義彦に安堵の表情を見せた。
息子を落ち着かせる父親の優しい顔。
みつきは彼のそんな表情を初めて見た気がした。
義貴は優しい声で言うと、義彦の頭を撫でた。
「驚かせて悪かったな、義彦。ひーこは大丈夫」
そして次の瞬間、義貴は厳しい視線でみつきを睨んだ。
「お前、何でここにいるんだ?」
亮以上に冷酷な瞳の義貴に、みつきは声が出せなかった。
義貴はひーこを寝室に運ぶと、ベッドに横たえた。
義彦はひーこの側で泣いていた。
「義彦はひーこのそばにいなさい。
部屋のドアは開けておくから、ひーこが起きたら俺に知らせろ」
義貴は義彦に言いつけると、寝室を出た。
そしてみつきにはリビングの椅子に座るように指示すると、黙ってコーヒーを入れ始めた。
義貴はお湯を沸かしながらみつきの様子を観察した。
義貴は冷静になると、彼女の薄着の服装や憔悴しきった表情から、尋常ではない状況にいたことは察した。
しかし彼女は、樹とひーこを引き合わせた張本人だった。
そのせいでひーこがどれだけ傷ついたかを考えると、義貴は彼女に対して簡単に理解を示す気にならなかった。
義貴は彼女の前にコーヒーと砂糖を置いた。
義貴は自分も一口飲むと、みつきの対面に座り、みつきを見据えて言った。
「どうしてここに来た?」
義貴の問いに、みつきは小さな声で応えた。
「ごめんなさい」
「謝るのは後でひーこにしろ。お前のせいで彼女は死ぬところだったんだ。
先に俺の質問に答えろ」
みつきは義貴の厳しい声に、身体を震わせながら言った。
「私、家を出て研究所で暮らしていたんだけど・・逃げ出して・・・でも・・・家に戻ったら家族が死んでいて、行く場所がなかった・・・」
「家を出たのはいつだ?」
「三年くらい前」
「何で研究所に行った?」
「樹が高校を卒業したら会ってくれなくなって。
そうしたらある日、石井って男が私に言ったの。
チカラをつければ樹に会えるようになる。
私にはその才能を感じるって。
それで、石井のいる研究所に行くようになって・・」
研究所とは、義貴の母親が経営する病院の附属研究所を指していた。
そこは様々な研究が行われているが、母親の側近である石井の管轄は、超能力のある幼児の能力開発だった。
義貴のチカラは遺伝的要素が大きいが、一般社会にもごくまれに似たようなチカラを持つ能力者が存在した。
みつきはたどたどしく言った。
「超能力?みたいなの。私は割とくじ運が強かったりしたけど、でもうまくチカラを使えなくて。
そのうち研究所に寝泊まりするようになった。
でも私、樹に会えると思って一生懸命練習した。
そしたら同じように能力を持つ人の中で一番強い亮が・・私のチカラを気に入ったって言ってくれて、いろいろ面倒をみてくれた・・・。
そうしたらある日、石井がいきなり『樹とはもう会えなくなった、かわりに亮とつきあうように』って・・・でも・・・私」
みつきは話をしているうちに感極まって涙ぐんだ。
そして叫ぶように言った。
「樹が好きだからいやだって言ったら、石井とセンセイが私に用済みだって言って・・・。
そうしたら亮が・・私を助ける代わりに自分と結婚しろって・・・。
亮を断れば殺されるし、でも亮と結婚なんてできない」
義貴はみつきの言葉に半ば呆れていたが、平静を保って言った。
「四年前、どうして橋本大和につきまとった?」
「石井に頼まれたの。
石井の催眠術に大和がかからなかったから、大和に特別なチカラがあるかもしれないって。
だから大和に近づいて、チカラの有無を探るように言われた。
でも私には分からなかった。
そうしたら橋本姫呼・・・さんに見られた。
そしたら突然、石井がもういいから、研究所で本格的に訓練を受けるように誘われて、研究所で暮らすようになった・・」
「何故監禁されるようになった?」
義貴がみつきに尋ねた時、義彦の声がした。
「とうさん、ひーこ起きた」
義彦の言葉を聞いた直後、義貴はみつきの尋問を止めた。
「待っていろ」
義貴はみつきにそう言うと、席を立って寝室に向かった。
それまでリビングと寝室のドアは開けておいたが、義貴は寝室に向かうまでの間に、それぞれの部屋のドアを閉めた。
寝室は遮光カーテンを閉めていたので昼間でも薄暗く、ベッドの脇にあるライトが部屋の中を照らしていた。
ほの暗い部屋の中、ひーこは右手の甲を自身の額に乗せ、左手を義彦の頭に乗せていた。
そして義貴が枕元に立つと、ひーこはぼんやりした表情で義貴を見た。
義貴は冷静な声でひーこに尋ねた。
「ひーこ、俺が分かるか?」
ひーこは軽く頷いた。
義貴は一瞬安堵した表情をしたが、すぐにひーこの左手首を掴んで怒鳴った。
「この馬鹿!」
***
義貴がひーこに怒鳴ったのは、これが初めてだった。
今までにない剣幕に、ひーこは驚いて義貴を見た。
義貴はひーこを睨みながら続けた。
「何であの女を家に入れた?モニタで見て誰だか分からなかったのか?
あの女に何をされたか忘れたのか?何でひーこが外に出ていたんだ。
亮に対抗できないことは分かっているだろう?ひーこは死ぬところだったんだぞ!」
ひーこも義彦も、義貴の迫力に押されて声も出せずにいた。
義貴はひーこの左手を両手で包むと、ひーこの枕元の床に膝をついた。
「死ぬところだった」
義貴はそう繰り返すと、ひーこの手の温かさを確かめるようにひーこの左手を自分の額に当てて目を閉じた。
ひーこは俯いた義貴をしばらく見つめていた。
そして、ひーこは義貴に言った。
「ごめん」
その直後、ひーこの目から思いがけず涙がこぼれた。
義貴の迫力に驚いたのか、義貴の苦しそうな表情が辛かったのか、ひーこにも分からなかった。
ひーこは喉に痛みを感じ、しかも泣いていたので嗚咽がこみあげてうまく言葉にできなかったが、それでも繰り返した。
「ごめんなさい」
義貴は目を閉じたまま、ひーこの言葉を耳にしても、そのまましばらく動かなかった。
ひーこは義貴を見ていたが、次第に涙と嗚咽で息が苦しくなり、右手で枕元のティッシュを探した。
義貴はゆっくりと目を開けると、黙ったままひーこの上半身を起こしてやり、ティッシュの箱をひーこに持たせ、ゴミ箱を手元に置いた。
ひーこは嗚咽がとまらないまま鼻をかみ、息も絶え絶えになっていた。
そんなひーこの背中を義貴は黙ってさすった。
ひーこが落ち着いた頃になって、義彦がようやく口を開いた。
「ひーこ、だいじょうぶ?」
「大丈夫。ありがと」
ひーこがかすれた声で言い返すと、義彦は安心したように笑い、ひーこのふとんに上ると、ひーこの横に寝転がった。
義貴はひーこの首の様子を診ると、
「今日は学校に行くのをやめておけ。家で寝ていろ。
今、飲み物を持ってくる」
と言って寝室を出て行った。
***
みつきは寝室の前で二人のやりとりを聞いていた。
義貴が急に部屋を出てきたので驚いたが、義貴はみつきに一瞥すると、黙ってリビングに向かった。
みつきは、義貴が泣いた後のような表情をしていることに驚いていた。
みつきはためらったが、ひーこのいる寝室のドアをノックすると、部屋に入った。
そして静かな声で言った。
「ひーこさん・・・謝って済む事じゃないけれど・・・ごめんなさい」
みつきは自分の声が震えるのを感じていた。
ひーこは真っ赤な目でみつきを見上げると、照れたように笑いながら言った。
「怒られてしまった。びっくりしたわ」
ひーこはみつきに怪我がないことを見てとると、みつきを見据えて言った。
「なにが、あったの?」
みつきは、ひーこの問いに何て応えてよいか分からずにいた。
すると義貴がホットミルクを持って部屋に入ってきた。
「こいつの話は俺が聞く。ひーこはこれを飲んで横になっていろ。後で話をするから」
義貴はそう言うと、ひーこにカップを渡した。
ひーこは義貴の言葉に黙って頷いた。
義貴はふとんの上にいた義彦を抱き上げると、みつきに言った。
「二人ともリビングに来い」
みつきは義貴に促されて寝室を出た。
義彦は義貴の顔を見て、遠慮がちに言った。
「ぼく、おなかすいた」
義貴は興奮していたのでほとんど空腹を感じなかったが、時計は昼過ぎであることを示していた。
義貴は自分では全く料理をしない。
義貴が義彦と二人暮らしの時には、離乳食のレトルトを買っておいたが、ひーこが来てからは、お菓子程度のものしか家に置いていなかった。
義貴が冷蔵庫の中を見ながら思案していると、背後からみつきが言った。
「私、作る」
みつきはほとんど料理をしなかったが、兄が鍋焼きうどんが好きだったので、休みの日には時々作っていた。
義貴はみつきを睨んだが、みつきは構わず冷蔵庫からうどんと野菜を取り出すと、台所に立った。
みつきは自分でも驚くほど冷静に食事の支度をした。
土鍋を見つけて水を入れて火にかけ、野菜を洗って切る。
そんな作業を淡々こなすうちに、みつきの頭の中が整理されていった。
「なにつくるの?」
みつきの足下に義彦が来た。
それまで義彦はみつきに近づかなかったが、台所に立つ様子がひーこと重なるのか、みつきの膝に抱きついてきた。
みつきは子供に慣れていなかったが、子供の暖かさが心地よかった。
「うどん」
みつきの言葉に、義彦は嬉しそうに言った。
「うどん、好き」
義貴は最初はみつきを警戒していたが、様子を探るように二人を見ていた。
「義彦、こっちに来い」
義貴は義彦を呼ぶと、義彦は父親の元に走った。
みつきは鍋の具合を見ながら彼らの様子を窺っていた。
先程まで殺気立っていた義貴は、怒りが収まった今になると子供と遊ぶ若い父親にしか見えなかった。
子供の呼び方からしても、子供の父親は義貴のようだが、ひーこの事は名前で呼んでいた。
みつきは子供の年齢を知らなかったが、ひーこの子供ではないと判断していた。
三人がどういう関係なのか聞きたかったが、自分が彼らに質問できる立場ではないので黙っていた。
みつきが鍋をテーブルに運ぶと、すでに人数分の箸と取り皿が用意されており、義貴は子供を連れて寝室に入っていった。
その様子を見たみつきは、研究所にいた時に石井が何度も義貴を賞賛していたことを思い出した。
——義貴様は、知力もチカラも超人的です。
みつきは義貴のチカラを見たことがなかったが、義貴の機転の良さは理解できた。
義貴に連れられてリビングに入ってきたひーこは、嬉しそうな声で言った。
「いい匂い」
「おねーさんが作った」
義彦が言うと、ひーこも笑顔で返した。
「義彦、おいしそうだよ」
ひーこは義彦を椅子に座らせた。
それは普通の家庭で見られる親子の風景だった。
しかしみつきには、泣きそうなほど眩しくて羨ましい世界だった。
かつて自分も、両親や兄に囲まれて、こんな風景の中を暮らしていたのだろう。
でも今は、自分の家族は墓石の下にいるのだと思い返していた。
みつきは思った。
——いろんなものを、無くしてしまった。
そしてもう少しで、目の前にいる人々からも、この光景を奪ってしまうところだったのだと悟った。
***
みつきはふと気がつくと、ソファに横になっていた。
昼食の後、ダイニングテーブルを離れてソファまで歩いたことは覚えていたが、その後の記憶がなかった。
自分の身体には毛布が掛けられており、すぐ側に置かれたベビーベッドでは義彦が眠っていた。
時計は夕暮れの時刻を指しており、部屋は薄暗くなっていた。
そして辺りはシチューの匂いが立ちこめていた。
「起きた?」
ひーこの声にみつきが頭をあげると、台所からひーこがみつきの様子を見に来た。
みつきはひーこに気遣うように尋ねた。
「もう・・・大丈夫・・・ですか?」
みつきはひーこが起きているのを気にした。
「うん。あなたこそ、大丈夫?」
ひーこの穏やかな笑顔がみつきの目に飛び込んできた。
みつきは何故か涙が出てきたので、眠い目をこするふりをしながら言った。
「はい。私、寝ちゃったんだ」
みつきは身体を起こすと、ソファに座りなおした。
ひーこは優しい口調で言った。
「よく寝ていた。いつ研究所から出てきたの?」
「昨日の夜。家に戻ったけど誰もいないし、鍵がかかっていて入れなくて、ずっと外にいたから・・」
みつきが言うと、ひーこはみつきの顔を覗きこんだ。
「そうか。この季節に野宿じゃ、辛かったね」
みつきは黙ってひーこを見た。
ひーこはみつきに言った。
「お風呂の準備もしてあるの。
下着は買い置きの新しいのがあるし、服は私のを置いておいたから、入って来たら?」
「間宮・・さんは?」
「書斎にいる。
あなたにまだ聞きたいことがあるって言っていたから、今のうちにお風呂に入って」
義貴はひーこと暮らすことになった際に、これまで使っていなかった部屋を書斎に充てていた。
みつきとひーこの会話よりも少し前、みつきが眠ってほどなく、義貴はひーこに告げていた。
「彼女の処遇について間宮家と段取りをつけるから、ひーこは彼女の様子を見ていてくれないか?
逃げることはないと思うけど」
義貴はそう言うと、書斎に入った。
義貴は亮とみつきの話から、研究所での経緯を推察した。
石井がみつきに「チカラ」の素質を見いだし、みつきを研究所に誘った。
能力がそれほど高くないと判断されたが、研究所に長くいたせいで内情を知ってしまい、安易に社会に戻せなくなった。
亮は自分が間宮の後継者になるつもりだったが、樹の出現で焦っていたに違いない。
少しでもチカラを持つ女性を自分のものにしたかったのだろう——と義貴は考えていた。
義貴は悩んだ末に、樹に連絡することにした。
父親から電話番号を知らされていたが、自分からかけるつもりは全くなかった。
しかし間接的にとはいえ、彼女を間宮に近づけた樹にみつきへの対応をとらせるつもりだった。
義貴は携帯電話を取り出した。
***
みつきが風呂から出ると、ひーこは台所でサラダを作り、義貴はソファに座ってコーヒーを飲んでいた。
義貴はみつきを見据えると言った。
「話の続きを聞きたい」
昼間は態度が荒かった義貴も、今は冷静な表情になっていた。
みつきも昼間よりは落ち着いて、素直に義貴の向かいのソファに座った。
義貴はみつきにコーヒーを勧めると、みつきが話をしやすいように尋ねた。
「研究所に監禁されるようになったのはどうして?」
「センセイに会うようになってから。
チカラを強くしたければ、センセイに直接指導を受ける必要がある。
でも外部に漏らされると困るから、しばらく家には戻れないって言われた・・・」
「先生?」
「坂倉・・美子先生」
坂倉は義貴の母親の旧姓で、仕事上の名称でもあった。
つまり母親が彼女の監禁に関わっていたことを意味していた。
「それで?」
「研究所は遠かったし、ちょうどその頃に私が高校に行っていないことが両親に知れて・・・母さんに怒られたから、家を飛び出したの」
「研究所から逃げ出したのはどうして?」
「石井から突然、樹にはもう会えないって言われて。
それなら家に帰るって私が言ったら、石井からもう家には帰せないって言われて。
私は用済みなんだ、って悟ったら怖くなった。そうしたら亮が自分の女になれって・・・。だから亮とつきあうって言って、隙を見て研究所から出てきた」
「石井に殺すって言われたのか?」
義貴の問いにみつきは首を横に振った。
「直接は言われてない。
でも研究所で訓練を受けていた子がどんどんいなくなった。
石井は『具合が悪くなったから内科病棟に移った」って言ったけど・・・移動した子が戻ってきた試しがない」
みつきの苦しそうな表情に嘘はなかった。
義貴は一通り話を聞いた後、みつきに言った。
「明日、樹に会わせてやる」
みつきとひーこは義貴を見た。
***
『明日、樹に会わせてやる』
それはみつきがこの三年間、ずっと望んでいたことだった。
義貴の思いがけない言葉に、みつきは呆然とした。
しかし、義貴の次の言葉でみつきは我に返った。
「ただし明日、一時間だけだ。
お前は樹と一緒にいることはできない。
それは覚悟しろ」
みつきは自分でも驚くほど勢いよく尋ねた。
「どうして?」
「樹のためだ」
義貴が応えると、みつきは切ない表情を浮かべ、それ以上追及しなかった。
「わかりました」
みつきはその後、義貴に何も尋ねなかった。
重苦しい空気の中、義彦は目を覚ました。
「ひーこ、お腹空いた」
ひーこは義彦を抱き上げると、優しい声で言った。
「今日はシチューだよ」
義彦は嬉しそうにひーこに抱きついた。
「シチュー、好き」
みつきは泣きそうな気持ちだったが、義彦の笑顔を見て泣き笑いの表情に変わった。
みつきは元々子供を好きではなかった。
しかし、義彦の笑顔はみつきの気持ちを和らげていた。
***
その日の夜、みつきはリビングのソファに毛布を掛けて寝ることになった。
義貴の家には客が泊まったことがなく、布団がなかったからだ。
それでもソファはみつき一人が寝るには十分に広く、暖房もあったので不便はなかった。
みつきをリビングに残し、ひーこと義貴は寝室に入った。
義彦は普段はリビングのベビーベッドに一人で寝ていたが、みつきと二人にしておくのを心配した義貴は、ベビーベッドを書斎に移していた。
ひーこは寝室にあるクローゼットから、みつきが明日着ていく服を選んでいた。
先にベッドに入っていた義貴は、ひーこに向かって言った。
「明日、ひーこと義彦も一緒に来てくれ」
ひーこは義貴の言葉に途惑った。
ひーこはてっきり義貴がみつきを連れて、樹の元に行くのだと思っていた。
「どうして?」
「みつきを返すまでは、ひーこと義彦を二人で置いておけない」
「家を出なくても?」
ひーこの声は明らかに嫌がっていた。
義貴はひーこをなだめるように言った。
「マンションに放火でもされたら、嫌でも出なくてはいけないだろう?
これは単にみつきが家を出ただけの問題でもなくなった。
みつきは間宮の施設の内容を知りすぎているから、簡単に外に出すわけにはいかない。
亮の行動はともかく、みつきを研究所に連れ戻すのは間宮家の方針だ。
亮があれだけ切羽詰まっているところをみると、みつきを間宮家に渡すのと、亮に渡すのでは結果が違うのだろう。
いずれにしても、俺は家の方針に背いている。
ひーこ達に何をされるかわからないから、近くにいてほしい」
ひーこは不安そうな表情のまま、黙った。
舞と樹の話をしただけで身体に異常を感じたひーこは、樹に会うのが怖かったのだ。
義貴は優しく言った。
「ひーこを樹とは直接会わせないようにする。
約束するから」
義貴の話にひーこは頷いた。
ひーこは服を選び終えると、ベッドに入った。
義貴はひーこを抱きしめると、ひーこのパジャマのボタンを外し始めた。
「ちょっと、義貴」
義貴は途惑うひーこを無視して、ひーこの首筋に唇を付けた。
ひーこの首には絞められた跡が残っていて、義貴はその跡を埋めるように舌を這わせていった。
ひーこは抵抗したが、義貴はひーこの動きをあっさりとかわした。
ひーこはみつきが気になって落ちつかなかった。
「やだ・・向こうに・・・気づかれる・・恥ずかしいよ」
照れるひーこに対して、義貴は冷静に事を進めていく。
「別に構わない。ここは俺の家なんだし、あいつは客じゃない」
義貴はひーこの身体から唇を離して言うと、ひーこに愛撫を始めた。
義貴の脳裏には、息をしていないひーこの姿が刻み込まれていた。
だからひーこが生きていることを実感しないと、とても眠れなかった。
ひーこは昼間の義貴の剣幕を思い出して、抵抗をやめた。
——言い出したら、聞かないんだから。
ひーこは右手で義貴の頭を抱くと、左手で自分の口を塞いだ。
***
廊下にはベッドのスプリングの音と、ひーこの吐息がかすかに響いた。
みつきは暗い廊下に座り込んで、じっとしていた。
昼寝をしてしまったので寝つけず、トイレに立ったときに二人の様子に気がついた。
みつきは盗み聞きをするつもりはなかった。
ただ、ひーこの声を聞いて思っていた。
——ひーこさん・・・あの時と違う。
みつきは、樹がひーこを抱いたときも廊下にいた。
みつきはひーこの悲鳴を聞きながら、それでも樹に抱かれる彼女が羨ましかった。
しかし今は、好きな人に抱かれるひーこを羨ましいと思った。
夢の中で、みつきに声をかけてきたのは亮だった。
「みつき」
研究所で、みつきが最初に会ったのは亮だった。
少し幼く、いじめっこの印象すらあった亮だが、みつきには最初から優しく接していた。
カードの柄を当てる練習も、みつきには丁寧に教えていた。
亮が最初からみつきに好意を持っていたかはみつきには判断できなかったが、ある日を境に亮の態度が大きく変わった。
みつきが研究所を出たいと言った日、亮は態度を豹変させてみつきに言った。
「俺はお前が好きだ。ずっとここにいろ」
真剣な表情の亮に、みつきは途惑った。
「・・何を言っているの?」
「じゃなければお前は・・・」
亮の言葉が遠くなっていった。
かわりに女性の声が自分を呼んでいた。
「みつきちゃん?」
みつきが我に返ると、ひーこがみつきの顔を覗きこんでいた。
リビングは朝の光に包まれて、ひーこの表情も軟らかく見えた。
「起こしてごめんね。うなされていたから心配になって。大丈夫?」
「はい」
部屋の中はパンの焼ける匂いが漂っていた。
ひーこは穏やかに微笑みながら、みつきに尋ねた。
「朝はいつもパンなのだけど、いいかな?」
「はい」
みつきはソファから起きた。
そしてひーこはみつきを誘うと、風呂場の脱衣所へ向かった。
脱衣所の鴨居には、洋服がいくつか掛かっていた。
ひーこはみつきに向き直ると言った。
「着替え、私の服で気に入ったのがあればいいけど」
どれもよそゆきなのは、みつきが樹に会うことを知っているひーこなりの配慮だとみつきは思った。
黙って部屋を出て行くひーこの後ろ姿を見ながら、みつきは胸が痛くなった。
——どうしてひーこさんはこんなに優しいんだろう。
みつきは借りたワンピースに着替えて鏡を見ると、自分がとても貧相に思えた。
みつきが研究所に住むようになってから、自分でもはっきり分かるほど痩せた。
そんな自分を好きだと言ってくれた亮のことは嫌いではなかった。
しかし樹が好きだったみつきは、亮を異性として好きとは言えなかった。
みつきはその瞬間、ひーこの苦しみを初めて理解した。
——ひーこさん。
もし自分が亮に抱かれたら、そしてそれを樹に知られたら、どんな気持ちか。
ひーこが樹に抱かれていた間の悲鳴、それは今のみつきの心の叫びと同じだった。
みつきはひーこにした事の重大さをようやく理解した。
その途端、みつきは涙が出て止まらなくなった。
床に座り込んで、声を出して泣き出していた。
「みつきちゃん、どうしたの?」
ドアの外からひーこがノックした。
「開けるよ?」
そう言って扉を開けたひーこに、みつきは泣きながら言った。
「ごめんなさい。ひーこさん。私・・・あなたにひどいことをした」
「どうしたの?」
そう尋ねるひーこに、みつきはただ謝った。
泣きじゃくるみつきにひーこは優しく言った。
「あんまり泣くと、目が腫れてしまうよ?」
ひーこはみつきの背中を優しくさすると、みつきが泣きやむまで側にいた。




