三十 婚約
それから四年が過ぎた。
ひーこは高校卒業後、義貴の家で暮らしていた。
大和が地方の大学へ進学し、母親も仕事で出張が増えたのを機に、橋本家の三人は別々に暮らすことにしたのだ。
ひーこは義貴の家の近くにある大学の家政学部に進学していた。
ひーこは義貴と一緒に暮らす際に、大学だけは卒業することを母と約束をしていたので、学業と義彦の育児に専念していた。
義貴は医学部に進学していた。
最初は入学直後から休学するつもりでいたが、ひーこが義彦の面倒を見られる時間帯に受講できる講義をとっていた。
その日、ひーこと義彦はキンモクセイの花の匂いのする秋の風の中を、手を繋いで歩いていた。
「ひーこ」
義彦は四歳になっていた。
ひーこは義彦を育てるにあたり、あえて自分を「ひーこ」と呼ばせ、母親ではないことを告げていた。
周りの人間にはひーこと義彦の関係を聞かれる時に少し困ったが、夕のことを思うと母親とは言えなかった。
ひーこは義彦に尋ねた。
「今日の晩ご飯は何にしようか?」
「たまごやき」
「たまごやきかぁ。たまごやきをうすく切って、ごはんの上にのせてちらしずし、とかどう?」
「うん」
義彦は素直で明るく、育てやすい子供だった。
義貴は義彦を他人に預けるのを拒むので保育園には通わせていなかったが、人見知りもせず元気に育っていたので、街で会う顔見知りの大人に義彦は人気者だった。
「義彦、今日は舞ちゃんに会いたいのだけど、一緒に会ってくれる?」
「いーよ」
ひーこは義彦を連れて、舞と約束した喫茶店に向かった。
義貴が通う大学のすぐ近くにあるその店は、義貴がコーヒー豆を買いに来る店で、義彦は店員に可愛がられていた。
マスターの妻は、ひーこと義彦を笑顔で迎えた。
「あら、ひーこさんと義彦くん、いらっしゃい」
「こんにちは。今日は待ち合わせで来ました」
「奥にいる美人さんかしら?」
店員が示す店の奥に向かうと、舞が座っていた。
「舞ちゃん」
ひーこが舞と会うのは久しぶりだった。
「ひーこちゃん、久しぶり」
舞は相変わらず清楚な雰囲気でいた。
舞は今春に大学を卒業し、間宮家の系列会社に入社していた。
「うん。子連れでばたばたするけど、ごめんね。義貴は講義だから」
ひーこは店員にカフェオレとミルクを頼むと、義彦とともに舞の向かいの席に座った。
「ううん。義彦くんにも会いたかった。義彦くんは私のことを覚えていないよね?」
舞は義彦に尋ねると、義彦は言い返した。
「ママに似ている」
義彦の言葉に舞はどきっとした。
「義彦くん、ママのことを覚えているの?」
驚いた舞がそう尋ねると、ひーこが返した。
「私が言ったの。舞ちゃんは義彦のママの従妹だからよく似ているよって。
義彦にはまだ「いとこ」はわからないけどね」
「そう・・・」
ひーこは飲み物が来ると、義彦が飲める温度までミルクを冷ましていた。
舞はその様子を微笑ましく見ていた.
義彦の世話が一段落ついて、ひーこが飲み物を飲んだ時の舞は神妙な表情になっていた。
「ひーこちゃんに話しておこうと思って」
「何?」
「私、樹と正式に婚約したの。彼が大学を卒業したら、入籍する」
舞の話は淡々としていた。
しかし、話を聞いたひーこの脳裏には、樹との様々な出来事が浮かんだ。
樹はひーこが中学時代に通っていた剣道クラブの友人だった。
仲の良い幼なじみだった。
ある日、ひーこは樹に乱暴された。
それ以来、ひーこは彼と会っていない。
舞は続けて言った。
「間宮家は、私を樹と結婚させるのが得策だと判断したの」
ひーこも表面上は冷静に聞いていた。
しかし舞の次の一言で、ひーこは冷静さを失った。
「樹がひーこちゃんに・・・何をしたのかも聞いた」
その瞬間、ひーこの視界が狭くなった。
自分の頭から血の気が引く感覚が分かり、そのまま前屈みになって顔を伏せた。
舞は『自分が樹の全てを理解した上で結婚する』という意味でひーこに告げたつもりだった。
しかしひーこは、自分が思い出したくなかった記憶を、舞の口から聞いたことが辛かった。
舞が自分と樹の間の出来事を知っていることにもショックを受けた。
舞はひーこの反応に驚いていた。
「ひーこちゃん?」
ひーこは大丈夫だと言いたくて首を横に振ったが、息が苦しくて声を出せずに身体も起こせなかった。
ひーこは体全体が心臓になったように、全身が脈を打つのを感じた。
冷や汗をかきながらひーこは思った。
——あれから四年も経つのに。
ひーこは自分でも身体への衝撃に驚いていた。
舞がひーこの反応に驚いて、ひーこの肩に触れようとした。
「ひーこちゃん、ごめんなさい」
その瞬間、ひーこは言った。
「触らないで」
ひーこは義貴から、舞には記憶を操作できるチカラがあることを聞いていた。
ひーこは舞が自分と樹の過去を消すかもしれないと思ったのだ。
しかしひーこは、樹との記憶を消す訳にはいかなかった。
ひーこが辛い理由は、自身の体験だけではなかったからだ。
ひーこは声を絞り出すように言った。
「私が辛いのは、義貴の・・・記憶の方だから。だから、私に触らないで」
ひーこは舞に『私の記憶を消さないで』とは言えなかった。
舞は、ひーこの言葉に軽い衝撃を覚えていた。
子供の頃から仲が良かったひーこに拒絶されたのは、生まれて初めてのことだった。
舞は為す術もなくひーこを見つめていた。
「ひーこちゃん」
舞が呟いたその時、義彦がひーこに触れた。
ひーこは身体を軽く震わせたが、すぐに義彦だと気がついた。
義彦は泣きそうな声でひーこに言った。
「ひーこ、いたい?」
ひーこは顔を横に向けると、泣きそうな表情の義彦を見た。
ひーこはゆっくり手を伸ばして義彦に触れた。
ひーこはそのまましばらくじっとしていると、ふっと楽になり、身体を起こした。
「ごめんね・・・大丈夫」
そう言いながらひーこは、義彦の存在に感謝した。
舞はひーこの顔色が真っ白になっているのを見て、胸が痛くなった。
しばらく二人は黙っていたが、ひーこが落ち着いたのを見計らって舞は言った。
「ひーこちゃん。ごめんなさい」
ひーこは椅子の背もたれに身を委ねると、舞を見据えてゆっくりと言った。
「舞ちゃんが悪いわけじゃない。私もびっくりした」
舞は首を横に振った。
舞の目には涙が光り、涙声で返した。
「ひーこちゃんには直接話しておきたいと思ったけど・・・私のわがままだった。ごめんなさい」
ひーこは舞の悲しい顔を見たくなかった。
ひーこは義彦を抱き寄せて身体の支えにすると、かすかに笑顔を浮かべながら言った。
「もう、謝らないで」
舞はしかし、再び首を横に振って言った。
「ひーこちゃんが義貴くんと結婚したら、嫌でも私たちに会う機会が増えてしまう。私のことも嫌いになってしまうかもしれないけど・・・」
舞が言い終わる前にひーこは割って入った。
「それはないよ」
舞はひーこの強い口調に驚いてひーこを見た。
ひーこの頬に涙が伝わっていた。
ひーこは涙を拭うことなく、声を震わせながら言った。
「舞ちゃんのこと、嫌いになれないよ。私たち、ずっと一緒だったじゃない。父さんと、舞ちゃんのおばさんが亡くなったときだって・・・辛いときだって、一緒に乗り越えてきたじゃない」
舞はひーこの言葉に胸が苦しくなった。
「ひーこちゃん・・・私も、よ。私は義貴くんと争うことなんてしたくない」
すると、ひーこの背後から声がした。
「俺もだ」
声の相手は義貴だった。
義貴の背後には店のマスターもいて、二人を心配そうに見ていた。
義貴の突然の出現に、ひーこも舞も驚いた。
義彦だけが喜んで、義貴に抱きついた。
義貴は義彦を抱き上げると、二人に向けて言った。
「義彦が呼んでいる気がして、来てしまった。
店の中に入ろうかどうか悩んだけれど、ここまで来て見ないふりをするのも嘘になるから」
義貴はマスターに騒動を詫びてコーヒーを注文すると、義彦を抱いてひーこの隣の席に座った。
義貴は、先に講義を終えたひーこに義彦を託して、講義を受けているはずだった。
ひーこは驚きのあまりに涙が止まり、冷静になって義貴に尋ねた。
「講義は?」
「出てきちゃったよ」
そして義貴は舞を見て言った。
「邪魔してごめん。二人で話をしたいって言ったのに」
義貴は家の会議で二人の婚約の話を知っていたのだが、ひーこには黙っていた。
舞が自分からひーこに話をしたいと言っていたこともあるが、義貴は樹の話をひーこにしたくなかった。
舞は義貴を見て首を横に振ると、静かに言った。
「ひーこちゃんを傷つけてしまった。義貴くんも同席してもらうべきだった」
舞は寂しそうに微笑んだ。
ひーこは舞の表情が辛かった。
ひーこの表情は強ばっていたが、何とか笑顔を作ると、舞に言った。
「私こそ、ごめんなさい。おめでとうって・・すぐに言えなくて」
ひーこはそう言うと、ひと呼吸おいてから続けた。
「おめでとう、舞ちゃん」
舞は少し照れたような表情をした。
「ありがとう」
義貴は義彦を抱いたまま、二人の様子を黙って見ていた。
***
四人は喫茶店を出た。
ひーこが義彦に上着を着せている間、舞はひーこに聞こえないように気をつけながら義貴に話しかけた。
「義貴くんにも迷惑かけちゃったわね」
舞の言葉に義貴は少し途惑った。
舞は少し微笑んで続けた。
「私と樹は、清いおつきあいなのよ」
義貴は舞の言葉を理解できずにいた。
「樹には、私を抱くなら私を好きになってからにしてって言ったの。
そしたら私に全然触れないの。
樹は私を嫌いな訳ではないと言うけどね」
そう言う舞は、安堵した表情で続けた。
「樹はね、ひーこちゃんが好きなの。忘れられないの。ずっと」
舞はひーこを見ながら言ったので気がつかなかったが、義貴は鋭い瞳で舞を見ていた。
——そんなことは聞きたくない。
義貴はそう思ったが、黙っていた。
舞は恐らく自分の不安を誰かに話をしたかったのだろう。
舞が義貴以外に樹の話をできる人間がいないことを、義貴は知っていた。
義貴にとって、それがどんなに辛い内容でも、舞の言葉を遮れなかった。
義彦が唐突に、義貴の足に飛びついた。
「とうさん」
舞はひーこを振り返ると、微笑んで言った。
「来てくれてありがとう。また連絡するね」
「うん。またね」
ひーこが言い返すと、舞は少し足早に歩いていった。
義貴はひーこの額に触れながら尋ねた。
「ひーこ、大丈夫か?」
普段はほとんど汗をかかないひーこの前髪が、汗で濡れていた。
ひーこは少しだけ動悸を覚えつつも、微笑んで応えた。
「大丈夫」
義貴はしばらくひーこの顔を見ていたが、ゆっくりと口を開いた。
「今から大学に戻っても講義に間に合わないから、家に帰ろう」
義貴はそう言って義彦を抱き上げると、肩車をした。
ひーこは二人の様子を微笑ましく見ながら言った。
「じゃあ、夕飯の買い物をして行こう」
そしてひーこは義貴と並んで歩いた。
まだ夕方だったが、あたりはほの暗くなっていた。
夕方の、淡いオレンジ色に染まった世界の中で、義貴はきっぱりと言った。
「来年になったら義彦を保育園に入れようと思う」
「どうしたの?急に?」
義貴の突然の決意に、ひーこは少し驚いていた。
義貴の母親が義彦を誘拐することを懸念して、義貴は義彦を保育園に入れることを拒んでいたからだ。
「義彦には何かあったら俺を呼ぶように言っておいたのだけど、実際にチカラで俺を呼ぶことができるか不安だった。
でも今日は義彦が自分で判断して俺をちゃんと呼べたから、何かがあっても大丈夫だと思った。
受け入れ先はこれから考えるけど。
義彦も同世代の友達が必要だろうし、俺も講義に出られる時間が増えるから」
ひーこは義貴が義彦を通して、自分の子供時代をやりなおしているような気がした。
「そうだね。ねぇ義彦、来年は友達が増えるよ」
ひーこはそう言うと、義彦の手を握った。
***
その日の夜、舞はレストランで樹と夕飯を食べていた。
デザートに移ったとき、舞は静かに話を切り出した。
「ひーこちゃんに、結婚の話をしてきた」
樹は舞とは別の大学の経済学部に進学していた。
樹は大学に入ると同時に舞と交際を始め、二人で頻繁に会うようになっていた。
樹は他愛のない事のように返事をした。
「そう」
樹は大学の講義に行く時と、舞に会う時以外は父親の仕事の補佐をしていた。
樹は間宮のチカラを持っていたので、父親の側近である叔父の義住も一目置くほど効率よく仕事をこなしていた。
幼い頃の樹を知っている人物なら驚くだろう。
組織に縛られるのを嫌っていた樹が、組織の先頭に立とうとしていたのだから。
樹は淡々と続けた。
「それで舞、今週末だけど・・・」
樹は恋人としてとても紳士的だった。
週末にはデートに出かけ、誕生日やクリスマスなどのイベント時にも当然のように会っていた。
デートの時も、樹はそれなりに楽しんでいるように見えた。
しかし樹は、舞に触れる素振りを全く見せなかった。
それが舞には、樹が『決められた婚約者』を暗に拒絶しているように思えた。
「樹、私といて楽しい?」
突然の舞の言葉に、樹は不思議そうな顔をした。
「どうした?」
舞は穏やかに笑って言った。
「何でもない」
舞も従順な恋人だった。
樹を困らせることもせず、端から見れば十分に仲の良い恋人同士だった。
しかし舞は聞きたくて、でも聞けない言葉を飲み込んでいた。
——今でもひーこちゃんのことが好き?
***
樹は舞を自宅に送った後、家である書類を広げていた。
それは樹の友人の妹、二階堂みつきの消息を示す書類だった。
樹はみつきの行方に気をとられて、舞の心境の変化に気がつかなかった。
四年前、大和の前に現れたという彼女は、高校に行かなくなり、三年前から行方不明になっていた。
みつきがいなくなって半年後に母親が自殺、父親も後を追うように病死していた。
そのみつきが、美子の管轄下である坂倉病院の研究所にいることが分かったのだ。
樹には、みつきがどういう理由で研究所にいるのか分からなかった。
研究所にいることも、樹が偶然見た研究所の写真の中に、みつきに似た少女を見かけたから分かったに過ぎない。
そして研究所の内部を簡単に調べられるほど、今の樹は間宮家一族の中で重要な位置にはいなかった。
研究所は義貴の母親である美子の管轄だったが、最近は美子と個人的な連絡をとらずにいた。
樹はたばこを咥えて火を点けた。
樹は高校を卒業すると、名字を父方の「間宮」に変え、父親のいるマンションの別部屋に住み、大学での授業の傍ら父親の事業を勉強していた。
それは間宮家の一切に関わろうとしない異母兄弟・義貴とは相反する行動だった。
樹は頭の回転も良く、間宮の跡継ぎになれるだけのチカラはあった。
しかし能力自体は義貴の方が強く、さらに義貴には上宮のチカラも持っていた。
二人がまともに家督競争をした場合、樹が不利であることは明白だった。
しかし樹が舞と結婚すれば、家督を継ぐのに十分な条件が揃う。
樹が間宮家を継ぐ下地は整いつつあった。
しかし樹は野心があっての行動ではなかった。
兄である義貴と、そしてかつて自分が傷つけたひーこと対等になるためには、社会的なチカラが必要だと樹は思っていた。
そして全てを知った上で自分を受け入れてくれる舞のためにも。
——もっと強くなりたい。
樹はその一心で間宮家に入っていた。




