三 襲撃
事件は突然起きた。それは五月に入って間もない頃だった。
義貴が学校から戻り、玄関のドアを開けた瞬間、ひーこの声が聞こえた気がした。
その感覚は、義貴にとって初めてだった。
義貴は鞄を玄関に放り込むと、外に向かって走り出した。ひーこの叫ぶような、声にならない声の元を辿って走ると、川岸にたどり着いた。
ひーこは対岸の河川敷で、男達に囲まれていた。
河川敷にはヨシが背丈まで生えているためか、岸の上の道を歩く人間はひーこの様子に気がつかず素通りしていった。
義貴のいる岸からも、草に邪魔をされて肉眼では様子が見えなかった。
義貴はチカラを使って男達の姿を視た。
——男が三人、いや上にもう一人いる。
高校生ぐらいの男が、三人がかりでひーこを押さえつけていた。
ひーこは両腕と右足のすねにあざをつくり、さらに顔を殴られて引き倒されていた。
男の一人がひーこの身体に馬乗りになり、ブラウスのボタンを外し始めた。
義貴は思った。
——橋を渡る余裕はない。
義貴は足下の小石を、チカラを使って男達の頭にめがけて正確に「飛ばし」た。
川を越えて彼らに小石が当たった瞬間、さらに義貴はチカラを使い、自分自身を岸の向こうへ飛ばした。
石が当たった男達は、悲鳴のような声とともに地面に倒れた。
「うわっ」
それと同時に、義貴はひーこの上にのしかかっていた男の首元を掴むと、川に吹き飛ばした。そして義貴は倒れていたひーこを抱きかかえた。
ひーこの制服のベストは脱がされ、ブラウスは派手にはだけていた。
スカートには泥が付いていたが、それ以上の服の乱れはないように見えた。
義貴が視線を感じて見上げると、岸の上に男の視線を感じた。
上にいた男にも石を飛ばしたはずだが、当たった形跡はなかった。
その男は義貴と同じ制服を着ていたが、義貴は彼に見覚えがなかった。
義貴は思った。
——おそらく同じ学校の生徒では、ない。
彼らの雰囲気は尋常ではなかった。そして、義貴がチカラで投げた石を避けられる人間は、同じチカラを持つ人間であることを意味した。
義貴は小柄の男を睨みながら考えた。
——俺が目当てか。何のために。
すると、その男の姿は道路の方に消えた。
一瞬、義貴は追いかけようかと考えたが、腕の中にいるひーこを思い出して動きを止めた。
義貴はひーこに声をかけながら、ベストを胸元に掛けた。
「ひーこ」
ひーこには意識はあるようだが、自分の身に起きた状況を把握できていないようだった。
ひーこはかすれた声で言った。
「間宮くん」
いつもは見開く大きな目が、腫れた頬に押された今はうっすら開くだけだった。
「ひーこ、俺が判るか?」
義貴はひーこに大丈夫か、とはとても聞けなかった。
ひーこの頬は腫れあがり、痛々しかった。
ひーこは呟くように言った。
「顔が・・・痛い」
ひーこは唐突に咳き込み、少し血を吐いた。
「口を切ったか?頬が腫れている。無理してしゃべらなくていい」
義貴が訊くと、彼女は首をゆっくりと縦に振った。
「歩ける?家まで送る。それとも俺の家に来るか?うちの方が近い」
「・・・まみやくんち」
ひーこは胸元を整えると、ベストを着て立ち上がった。
義貴の腕に縋りながらもひーこは自分で歩いたが、移動する間はほとんど顔を上げなかった。
本人は頭が重くてあげられないようだったが、ひーこの左頬は腫れていたので、顔をあげていれば目立つほどだった。
義貴は人の視線をひーこから遮るように、影になるように歩いた。
同じ学校の制服の人間を見かけたりしたが、周りは暗くなってきたので周囲の目もさほど気にならなかった。
***
マンションに着くと、義貴はひーこをソファに座らせた。
ひーこは少し戸惑いながら言った。
「ソファが汚れちゃう」
ひーこは自分の服に泥がついているのを気にしていた。
義貴はひーこを傷つけないように言った。
「かまわない。ひーこの方が大事だ」
義貴は濡らしたタオルで保冷剤を包み、ひーこの腫れた左頬にそっと当てた。
反対側の頬も赤くなっていたので、水で濡らしたタオルを当てた。
しばらくそうしていると、ひーこはゆっくりと状況を把握してきたようで、思い出すようにつぶやいた。
「クラスの子と・・・・分かれて川のところまで来たら、男の人たちとすれ違って・・・なんだか近くですれ違っていやな感じがすると思ったら、後ろから抱きつかれた・・・・」
「そうか」
義貴はひーこの頭に手を乗せた。ひーこは小さな声で言った。
「いきなり顔を殴られたら頭がくらくらして・・・あんまり覚えていないけど」
ひーこの声はろれつが回っていなかった。
義貴はひーこに諭すように言った。
「無理してしゃべらなくていいよ」
ひーこは視線だけ義貴に向けるときっぱりと言った。
「でも私、なにもされてないよ」
義貴はひーこの言葉を聞いて、胸が痛くなった。
「そうか」
義貴はひーこの隣に座ると、彼女の身体を自分の胸にもたれさせた。
抱きしめるには、今のひーこは痛々しかった。
そして、義貴は言わずにいられなかった言葉をひーこに告げた。
「ごめん」
「なんであやまるの」
不思議がるひーこの声が、義貴の胸に響いた。
——俺の、せいだ。
義貴はそう言おうとして、やめた。
詫びる言葉は今のひーこに何の慰めにならないと義貴は思った。
代わりに義貴は言った。
「守るって言ったのに」
「たすけてくれたじゃない。ひとりで、三人も相手にして。けんか、つよいね」
ひーこは義貴が一人で彼らを追い払ったと思っていた。
ひーこには、義貴が飛ばした無数の石が見えなかった。
ひーこは話し終えてほっとしたのか、義貴から離れてソファに横たわると、そのまま眠ってしまった。
義貴はひーこの頭を軽く上げてクッションを置き、ひーこの身体にタオルケットをかけた。
そしてひーこの様子を見守りながら、彼女の頬を冷やしていた。
***
部屋の中に、ひーこの携帯電話の着信音が響いた。
もう三回目だった。
夜の八時近くなったが、ひーこが起きる気配はなかった。
義貴がひーこの電話を見ると、電話の相手が弟であることが解った。
義貴は少し悩んだが、思い切ってひーこの電話をとった。
そして義貴が大和にひーこが男達に襲われたことを話すと、大和は淡々と言った。
「ひーこが無事なら良かった。迎えにいくよ。間宮の家の場所を教えてくれないかな?」
義貴は大和に自分の家の場所を伝えて電話を切ると、思った。
——世の中の弟は、こんなに姉想いなのだろうか。それとも俺に文句の一つでも言いたいのかもしれない。
義貴は大和に怒鳴られることを覚悟しつつ待っていると、大和が訪ねてきた。
大和はボストンバックの他に、ピザを持っていた。
大和は淡々と言った。
「姉が世話になって」
「いや・・・ひーこはまだ寝ている」
大和は手にしたピザを持ち上げると、少し嬉しそうに言った。
「飯、まだだろう?来るときに買ってきた」
義貴が半ば呆れ顔で大和を見ながら思った。
——この姉弟は、まずは食べ物か。
大和は義貴の表情に応えるように言った。
「腹が減ると、ろくな事を考えないから」
義貴と大和が居間に行くと、ひーこが目を覚ましていた。
まだ頭がふらつくのか起きあがらずに、顔だけこちらを向いた。
「・・・大和。おなかすいた」
大和は荷物を見せながら言った。
「匂いで起きたか。ピザ買ってきた。服も持ってきたから。着替えるか?」
「うん・・・・」
義貴はひーこに言った。
「シャワー貸すから。着替えたら」
「うん・・・」
ひーこはそう応えるとのろのろと起き出して、大和から着替えを、義貴からバスタオルを受け取り風呂場へ行った。
義貴は大和に椅子を勧めると、ピザを乗せる皿を出しながら尋ねた。
「橋本、何か飲むか?」
「お、さんきゅ。ピザ屋のサービスでウーロン茶をもらったけど、暖かいのがいいな。で、何があるの」
「コーヒーとそば茶。お茶はひーこが置いていった」
「ということは、間宮は普段コーヒーなんだな。コーヒーでいいよ。
ひーこも彼氏の家に置くなら、紅茶とかにすればいいのに」
義貴と大和がまともに会話をしたのは初めてだった。
ひーこが平均的な女子高生の背丈なのに対して、大和は同世代の中でも背が高かった。
しかし線が細いので威圧感はなく、姉と同じ大きな目と口は人なつっこさを具現化したようだった。
「間宮、ひとり暮らしで家事とかやっているのか」
部屋にコーヒーの香りが広がった。
「適当。見ての通り、ほとんど物がないし。ひとりだし」
「そうか。うちみたいに三人もいると大変だよ。掃除とか手を抜くと二人とも文句言うし。もっとも、母親は週に何度か寝に帰ってくるだけだけどな」
大和とのなにげない会話は、義貴をひどく懐かしい気持ちにさせた。
義貴は気持ちを切り替えるべく、コーヒーを置いて言った。
「そういえば、夏日と幼なじみだって?」
大和はコーヒーを受け取ると、明るく言った。
「そう。舞ちゃんは高校ではみんなの「お姉様」だから、あんまり話できないけどね。俺たちは間宮の事を前から知っていたよ。入学式のときに舞ちゃんが名簿を見て従弟だって教えてくれたから」
大和はコーヒーを飲んだ。そしてふっと、真顔で言った。
「ひーこ、遅いな」
弟はずっと姉を気にしていたのだ。
「倒れてないだろうな」
義貴が言ったその時、風呂場に続く扉が開いてワンピースを着たひーこが出てきた。
いつもよりも小さな声でひーこは言った。
「お風呂をありがとう」
義貴は私服のひーこを見たのは初めてだった。
普段ならかわいいと思える服も、腫れた顔と露わになった手と足のあざを一層痛々しく見せた。
ようやく三人が揃ったのに、ひーこの怪我を見た二人は言葉を失い、部屋は静かになった。
静寂を破ったのは、気配り屋の弟だった。
「ぶさいくだな、ひーこ」
淡々とした大和の口調に、ひーこも苦笑いして答えた。
「ひどい。でもほんとだ」
しょーがないとかすかに笑う、ひーこの赤い目は泣いた跡のようだった。
大和も呆れたように笑いながら言った。
「ご飯食べよう。飲み物は?」
「口の中を切ったから、熱くないのがいいな」
「ウーロン茶、飲むか?」
「うん」
義貴は姉弟の他愛のない会話を聞きながら思った。
——家での会話はこんな感じなのだろう。家族で言いたい放題言い合って過ごす普通の生活。俺と関わらなければ、今も平和な日だったかもしれない。
ひーこを襲った男達は明らかに、誰かに操られていた。
人を操る能力を持つのは下宮の能力を持つのは女だが、下宮の血をひく男なら、下宮の能力を持つ人間に最初に暗示をかけさせれば操ることは可能だった。
——操っていたのは恐らく、川縁の道にいたあの男だ、とすれば裏で手引きしているのは・・・。
義貴が考えに耽っていると、大和が話しかけてきた。
「間宮?食べているか?」
義貴は大和の声で我に返った。
「ああ」
ひーこは黙って食べていた。
「放っておくとひーこが全部食べるぞ。ひーこは底なしだから」
ひーこは頷きながら言った。
「お腹いっぱいになったら元気になるし」
「否定しないのか」
義貴が呆れたように言うと、大和は笑顔で言った。
「そうだ、間宮。俺のことは大和でいいよ。ひーこも橋本だから」
「わかった」
大和の気遣いが義貴には嬉しかった。
***
義貴の「送っていく」という言葉を二人は断り、双子は家路に向かった。
仲が良い双子であっても、高校生になれば二人で一緒に家に帰ることはほとんどなかった。
昼間はかなり暑いが、夜になると少し肌寒くなる今の季節に、弟の存在がひーこには心地よく思えた。
大和は友人の名前を口にした。
「間宮って、樹に似てない?」
それは、中学生まで二人が通っていた剣道教室の友人・仲里樹の名前だった。
双子は祖母が亡くなる直前に剣道教室を辞めていたので、一年以上会っていなかった。
ひーこは樹の姿を思い出しつつ言った。
「そう?どのへんが?」
「雰囲気かなぁ。さっき間宮と話をしたときに、何となく思った」
「そっか。なんかなつかしいな。樹くんにも会ってないね」
「剣道教室も辞めてしまったし。高校が違えば会わないよな」
二人は家に着くまで、過去の記憶を思い出すことで、今日の忘れたい記憶を埋めるように昔話を続けた。
***
義貴はひーこを襲った人間が「間宮」か「下宮」の人間、そして恐らく自分の母親が関係していると考えていた。
しかし義貴にはその理由が解らずにいた。
義貴とひーこがつきあっていることは、家に知られているとは思っていた。
間宮家が大事な跡継ぎを放っておくはずがなく、義貴は外では常に監視されていたからだ。
しかし婚約者がいるから他の女とつきあうな、という警告であるのならば、義貴に直接言えば済むことで、危害を加える必要はなかった。
義貴は思った。
——自分の能力を試されているのかもしれない。
間宮家の人間が本来の持つ「先読み」の能力は、外から伺うことはできない。
しかし「念動力」は視覚的に評価ができる。
ひーこに危害を加え、それを義貴に助けさせることで能力を測る。
ひーこは絶好の「人質」だった。
義貴は自分の甘さを悔いた。
——わかっていたのに。
これまで義貴は親しい友人を作ってこなかった。
それは発作に巻き込むこと本能的に恐れていたからだったが、義貴にとって「人質」になる人間を作らずに済んでいた。
だからひーこの存在は間宮家、特に彼の母親にとっても喜ばしいものであった。
能力者のチカラを図ったり、爆発的にチカラを増幅させるのに、人質は役に立った。
実際、義貴の父・間宮義樹は愛していた女性を目の前で殺されていた。
そのショックに耐えられなかった父親はチカラを暴発させて、能力は増幅した。
その衝撃で自分の心臓に負担をかけ、それが元で両足を切断することになったことを義貴は知っていた。
「絶対にひーこを守る」
義貴がそう決めてひーこを選んだ時から、「間宮家」に対する戦いは始まっていた。




