二十九 縁談
間宮家と舞の食事会は、十月半ばの土曜日に行われた。
義貴は母親から電話で呼ばれた。
義貴は舞に請われて、一緒にホテルへ行った。
二人がホテルの最上階にあるレストランに着いたときには、義貴の両親と樹が先に着いて待っていた。
レストランといっても、ホテルのスイート・ルームのような広さの個室を貸し切っており、五人でいるには十分に広かった。
調光がほどよくとられ、快適な空間だった。
しかし義貴には、これ以上苦痛な場所はなかった。
五人はメニューを決めて、ウェイターが部屋を出たのを見届けてから会話を始めた。
最初に口を開いたのは義樹だった。
「久しぶりだな、義貴」
実際、義貴が彼らに会ったのは、義彦とひーこを紹介した会議以来だった。
義貴は軽く頷いた。
両親は息子の受験の心配を全くしていない。
大学に合格することは当然の事だった。
しかも母親は別の心配をした。
「あの子供を預ける気にならないの?義貴。
大学に入学してすぐに休学なんて、どうかしているわ」
一般の母親なら頷ける言葉だった。
しかし義貴は、母親が自分の研究材料に義彦を欲しいだけなのだと知っていた。
義貴は母親の言葉を聞き流して樹を見た。
濃いグレーのスーツを着た樹は、決して義貴を見ようとしなかった。
ほどなく料理が運ばれてきた。
この時点で、当事者の舞と樹は直接会話をしていない。
所詮、家同志の結婚なのだと舞も義貴も、そして樹も理解していた。
快適な部屋と美しく美味しい料理。
しかし部屋の空気は凍っていた。
誰もがほとんど言葉を交わさないまま、しかし着実に舞と樹の結婚話は進んでいくのだ。
食事のコースが終わり、コーヒーとデザートが運ばれてきたとき、樹は静かに席を立った。
樹はトイレに入った直後、激しい吐き気に襲われた。
トイレの個室で吐きながら、樹は思っていた。
——こいつら、全員おかしい。
舞と義貴は、形式的とはいえ元婚約者だ。
義貴と結婚させるのが得策でないと判断すれば、次をあてがう。
家のために動く彼らの精神構造に、樹は耐えられなくなっていた。
樹は自分で「間宮」に入ることを望んだ。
しかし、間宮とその一族は樹の想像をはるかに超えた異常ぶりだった。
樹には義貴が、始終自分を睨む異母兄弟が一番まともだと思った。
義貴が自分を恨むのは分かる。
しかも樹がひーこを抱いたことは、舞以外の全員が知っていた。
義樹は息子を放任していたが、行動は把握していた。
義貴のことも、自分のことも。
なのに平然としている親と周りの人間に、樹は嫌気が差した。
それは、自分自身にも当てはまった。
樹がトイレの個室から出ると、手洗い場に義貴が立っていた。
憔悴しきった樹は、諦めたように異母兄を見た。
「何」
樹は義貴がひーこの話をするのだと思った。
しかし義貴は、意外な人物の名を口にした。
「なぜ二階堂みつきを大和につきまとわせる?」
「何?」
みつきは樹の友人の妹だった。
樹の友人——二階堂輝は樹の中学と高校の同級生で、大の親友だった。
輝の家は樹と違い平穏な家庭で、それがかえって樹には良かった。
本人は学校の中では少し派手で、だから樹と気が合ったのだが、一方で家族や妹を大事にしていた。
しかし輝は、高校一年生の時に交通事故で亡くなった。
みつきは年子の兄が大好きで、兄の親友の樹になついていた。
しかしみつきは兄の急逝以降は精神が安定せず、女子高に合格したものの不登校になっていて、樹や兄のいた高校の寮に出入りをしていた。
みつきは『樹の言うことなら何でも聞く』と言って離れなかった。
だから樹は母親の所有していたマンションにひーこを誘い込むためにみつきを使った。
しかしその後は、ほとんど連絡をとっていなかった。
樹は思った。
——みつきが?大和に?どうして。
みつきの行動を理解できていない樹に対して、義貴は言った。
「ひーこを連れ込むのに、あの女を使ったんだろう?今度は大和につきまとっているそうだ」
義貴の言葉に、樹は愕然とした。
近頃は受験と称してみつきに構わなくなっていたが、樹はみつきの行動を把握していなかった。
樹は正直に言った。
「それは俺の指示じゃない」
義貴は冷静に、しかし厳しい口調で返した。
「ならやめさせろ。大和も失いたいのか?」
「どういう意味だ」
怒りを露わにしたのは樹の方だった。
「ひーこはお前が何をしたか、大和に話をしていない。
それがばれてみろ。大和がお前を許すと思うか?」
義貴の言葉は大和の正確な心理を突いていた。
とっさに言葉を返せない樹を見て、義貴は続けた。
「俺が自由に出歩けないと思って甘く見るな。学校までの距離ならチカラを飛ばせる」
義貴はそう言うと、樹を残してトイレから出て行った。
樹は義貴の雰囲気に呑まれて、顔色をさらに悪くした。
樹には間宮の「先読み」のチカラはあったが、義貴の持つ『触れずにモノを動かす』チカラがほとんど発現しなかった。
樹は人間の動きを読むことはできたので、持ち前の運動神経も相まって喧嘩は強かったが、「チカラ」を持つ義貴には対抗できない。
ましてや離れたところにいるみつきを守ることは不可能だった。
樹は自分と義貴の「チカラ」の差を実感した。
樹が蒼い顔のまま席に戻ると、義樹が樹に言った。
「食事を終えたら私たちは帰るから、樹は舞とラウンジでお茶でも飲んで行きなさい」
樹が不在の間に、舞とも話がついていたのだろう。
樹は父親に短く応えた。
「はい」
樹はすぐにでも帰って寝てしまいたいほどの疲労感に襲われていたが、父親の言うことに従った。
義貴は先程の凄みをかけらも感じさせずに、無表情で座っていた。
***
舞はホテルのエントランスで、義貴に礼を言った。
「義貴くん、今日は来てくれてありがとう」
「いや。何もできなくて、ごめん」
名目上は舞と樹のお見合いなので、義貴はついていく訳にはいかなかった。
舞は義貴に黙って微笑むと、樹とともにラウンジへ向かった。
義貴は帰宅用に用意された車を断り、一人で地下鉄の駅に向けて歩き出した。
昼間とはいえ肌寒い街中をコートも着ずに、ネクタイを外して足早に歩きながら思った。
——こんな狂った世界に、どうして樹は自分から来たんだ?
義貴には樹の気持ちが理解できなかった。
認知はされていても、婚外子の樹は間宮家に入る必要はなかったのだ。
しかし、樹には樹の理由があった。
***
ホテルのラウンジは広く、客はまばらだった。
舞と樹は暖かい陽射しの中で、向かい合って座っていた。
ラウンジからは、大きな庭園が見えた。
樹には綺麗な景色が眩しく、気分をいっそう悪くした。
「大丈夫?顔色が悪いけど」
そう尋ねた舞の言葉が、二人で話をした最初の会話になった。
樹は黙って舞を見返した。
舞は清楚で嫋やかで美しかった。
しかし、人を操ることのできるチカラを持ち、その強さは美子に次ぐという。
表情の乏しい彼女の内面を、樹は見ることができなかった。
「・・ああ」
「私はあなたを覚えているわ。中学生の頃、橋本姉弟と同じ剣道クラブにいたでしょう?
私はよく彼らの試合を見に行ったのよ」
「・・・ああ」
樹も舞には見覚えがあった。
舞の美しさは他者を圧倒させるだけのチカラを持っていた。
さらに美子から舞の家の事情を聞かされていた。
橋本姫呼と幼なじみであること、母親が亡くなっていること、そしてチカラのことも。
二人はしばらく黙ったままお茶を飲んでいたが、突然舞が樹に尋ねた。
「なぜ間宮に入ったの?伯父様の血をひいているからといって、間宮に入る必要はなかったのに」
舞がこのタイミングで切り出したのは、美子が舞たちの行動をチカラで把握できる距離を超えたと判断したからだった。
会議の後で、充や義貴と会議の内容について話をするのは、いつも間宮家から離れたところまで移動してからだった。
特に美子には、例えば樹と義貴がトイレで何の話をしていたかも把握できた。
樹は舞の問いに答えなかった。
代わりに樹は舞に質問した。
「俺と結婚するんだぜ、あんたはそれでいいのかよ?」
「私には拒否権がない。父もいるし」
そう応える舞に迷いはなかった。
樹は話題を変えた。
「ひーこと大和とは、今も仲が良いのか?」
「ええ」
樹はしばらく考えていたがネクタイを緩めると、舞を見据えて言った。
「義貴が俺をどうして憎んでいるのか、知っているか?」
樹の質問に舞は怪訝な表情をした。
義貴が樹を嫌っているのは知っていたが、『憎んでいる』という表現は穏やかではなかった。
しかし、ひーこと義彦を連れてきた会議の後、義貴が廊下で樹の姿を見たときの表情は、尋常ではないと舞も感じていた。
「義貴くんはそこまであなたのことを嫌がっているの?
それは異母兄弟だから?美子さんと会っているから?」
樹は淡々と言った。
「ひーこをレイプしたから」
舞は樹の言葉をとっさに理解できなかった。
「うそよ」
先日の会議の席の後でも、義貴の家で会ったときも、ひーこに変わったところはなかった。
舞は話をするにつれて、自分の声が震えそして大きくなるのを抑えられなかった。
「あなた、ひーこちゃんの友達じゃなかったの?
ひーこちゃんが義貴くんとつきあうのがそんなに嫌だったの?どうして」
すぐに舞は周りの視線に気がつき、口を押さえた。
そんな舞の反応に樹は少し驚いたが、すぐに何故か安堵の表情をした。
樹は静かな声で言った。
「あんたにも感情があったんだな」
「私をからかっているの?」
舞は樹を睨んだ。
樹は愁いを帯びた表情で言った。
「違う。俺は初めて責められたよ」
「え?」
「ひーこを抱いた後、ひーこは俺に背を向けて、黙ったまま床に座り込んでいた。
部屋に乗り込んできた義貴は『これで満足か?』って言って、ひーこを連れて出ていった。
二人とも今のあんたみたいに俺を責めなかった。
もし大和にばれたらどうなるんだろう?俺は殴られるだけでは済まないな、きっと」
舞は半ば呆れた表情で樹を見た。
「それはいつの話なの?」
「あんたらのじーさんが死んだとき」
舞は祖父の葬式で義貴が急にいなくなったことを思い出した。
翌日の朝の会議で見た義貴は、いつもと変わりなかった。
そんな事があったなど、少しも感じさせずに。
樹は淡々と語った。
「二人は別れるだろうと思っていた。
義貴は完璧主義だから、ひーこを許さないだろうと。
だから美子は俺に義貴の不在の時を教えたんだ。
ひーこがあいつと別れたら、俺はひーこに傷つけたことを生涯かけて償うつもりだったのに。
義貴がひーこのそばにいて俺を近づけさせない。
俺はひーこに、謝ることすらできていない」
舞は黙って聞いていたが、樹を見据えると言った。
「間宮の家に入って間もないけど、どうかしら?
会議や経営や親族とのやりとりって、精神的に辛いわよね。
でも義貴くんはずっとこの世界を生きてきたの。
母親は息子に顧みず、父親は多忙でほとんど会わない。
でも後継者だから幼少の頃から会議に出されていて。
しかも義貴くんのチカラは他の能力者よりも強い分だけ、チカラを暴発させる『発作』を頻発させた。
そんな彼の支えがひーこちゃんよ。
ひーこちゃんとつきあい始めてから、義貴くんは発作を起こさなくなったし、雰囲気もずいぶん変わった。
義貴くんにとって、ひーこちゃんはそんなに軽い存在じゃない」
舞が言うと、樹は即答した。
「そうだな。俺が間違っていた」
樹はそう言って口を閉じた。
二人はしばらく沈黙した。
日がゆっくりと雲に隠れた頃、樹が口を開いた。
「もう俺には何もない。
家族もいないし、ひーこにも会えない。俺が間宮に入ったのは、祖父母の遺言だ。
俺の母親は自慢の一人娘だったらしい。
だけど間宮の愛人になって、挙げ句に早死にした母を不憫に思っていたらしい。
祖父さんが死ぬ間際に、せめて俺に間宮の跡継ぎになって欲しいと言っていたよ。
間宮がどんな世界か知りもしないのに」
樹は舞を見て言った。
「あんたに旦那を選べないなら、俺をあんたの好きにしていい。破談にしても」
そういう樹の目は空虚だった。
舞は樹を悲しい気持ちで見た。
「私はあなたと結婚するでしょう。でも私は私を好きな人に抱かれたい。だから」
舞は樹を見据えていった。
「私を抱くのは、私を好きになってからにして」
樹は驚いた表情で舞を見返した。
「おもしろいことを言うな」
「普通の女の子だって同じよ。順番が違うだけ」
舞の言葉に、樹は初めて表情が和らいだ。
「そうか。そうかもな」
そんな彼の姿が、舞には悲しく映った。




