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チカラ  作者: 長月ニーナ
24/32

二十四 折衝

会議は翌々日の日曜日に決まった。

義貴は当日の朝、車でひーこを迎えに来た。

その車は義彦が義貴の家に来た日、ひーこを自宅まで送ってもらった時と同じ車で同じ運転手だった。

義貴はひーこを家に送れなかったので、父親に頼んで配車してもらっていた。

父親の部下には、美子にも手が出せなかったからだ。

ひーこは改まった席だと聞いていたので、桜色のワンピースを着て出てきたが、自分の服を意識するよりも、義貴の背広姿に見とれてしまった。

グレーのスーツを着て、黒塗りの車から降りる義貴は高校生には見えなかった。

千紗都がひーこを見送るために玄関に出てきていた。

千紗都は義貴が子供を抱いていることに驚いた。

しかし、義貴のしっかりした挨拶に全てを納得した。

「娘さんをお借りします」

に黙って頷いた。そして小声で独り言を言った。

「何だか嫁に出す気持ちだわ」

千紗都はひーこの背中を軽く叩くと、

「大丈夫。私の娘だから」

と檄を入れた。ひーこは黙って頷くと、義貴から義彦を受け取り、車に乗り込んだ。

間宮家に向かうまでの車内で、ひーこは母親から侑子の実家である『坂倉家』について聞いたことを思い出していた。


***


昨日は珍しく千紗都が家にいた。

ひーこは思い切って義貴の家のことについて尋ねた。

「間宮くんのおうちに行くことになったの」

千紗都は驚いた表情をしたが、すぐに昔の記憶を思い出して娘に言った。

「間宮家は株式投資や不動産事業で大きくなっていった家よ。

元は地方財閥の一つだったけれど、間宮くんのお祖父さんの代から急激に成長している。

間宮くんや舞ちゃんのお母さん達の家は、代々お医者さんが多いわね。

坂倉病院は戦前からあるの」

ひーこは他人事のように聞いていた。

「そうなんだ」

「間宮くんはたぶん、お父さんの経営を引き継ぐでしょう。

同族会社はいくつかあるようだけど、経営はほぼ全て間宮くんのお父さんが仕切っているから、かなりの才能と体力を要するわ。

間宮くんが会社を継いだら、お嫁さんは大変よ」

ひーこは母親の真剣な言葉に、しばらく返答できなかった。

「間宮くんはお医者さんになりたいって言っているけども」

「医師免許を取ること反対されないでしょう。

お父さんはまだ若いから、すぐに後を継ぐ必要もないだろうし。

でも他に跡継ぎがいなければ、いずれ彼が継ぐでしょう」

ひーこは自分で入れたお茶のカップを見つめた。

千紗都はひーこの表情を複雑な気持ちで見ていた。

そして忠告した。

「間宮くんの背負っている物を見るのは悪くないわ、ひーこ。

好きだけでは乗り越えられない壁もあるから。

これからどうするか、彼の背後を見て、ゆっくり考えなさい」

ひーこは黙って頷いた。

千紗都は何度かひーこに義貴とのつきあいを辞めることを勧めようとして、やめた。

かつて義貴が千紗都に「ひーこと別れない」と言った真剣な表情を、気持ちを大事にしたかった。

二人を見送りながら、千紗都は思っていた。


——結論は二人で出せばいい。


***


三人を乗せた車は小一時間ほど走った。

そして義貴の家の門をくぐり、ある建物の玄関の前で止まった。

義貴は助手席から降りると、後部座席のドアを開けた。

義貴はひーこに尋ねた。

「車に酔っていないか?」

義貴は義彦用の荷物と、ひーこの鞄を持った。

「大丈夫」

ひーこはチャイルドシートから義彦を抱き降ろした。

義彦は抱き上げたときに少し目を開けたが、再び目を閉じた。

ひーこは改めて建物を見て、その大きさに息を呑んだ。

その建物は一見すると、高級旅館のような佇まいだった。

「すごい、大きいね」

それはひーこの素直な感想だったが、義貴は黙ったままひーこを建物の中に案内した。

中は黒と漆喰の壁が基調となっているが、古めかしい様子はなかった。

人気のない様子にひーこは途惑った。

「間宮くんはここで暮らしていたの?」

「ここは人が集まる時に使う建物だ。本邸は別にある」

義貴は部屋の一つをノックすると、扉を開けてひーこを勧めた。

ひーこが中に入ると、部屋は応接室のような造りになっていた。

奥にはベビーベッドが用意されていて、その側に二十歳代後半の女性が立っていた。

女性は軽くお辞儀をすると、義貴に言った。

「義貴様、お久しぶりです」

義貴は頷くと、ひーこに言った。

「何かあったら彼女に聞いたらいい。

俺が迎えに来るまではこの部屋を出ないで。

トイレは奥の扉にある。

困ったときは彼女に尋ねて。彼女は俺への連絡手段を持っている」

ひーこが頷くと、義貴は家政婦に向かって言った。

「俺以外の人間を、橋本さんと子供に近づけるな。親父の了承は得ている」

「かしこまりました」

家政婦はそう言うと、丁寧にお辞儀をした。

義貴はひーこに手を軽く挙げてから部屋を出て行った。


***


ひーこは義貴の大人びた様子に驚きながら呟いた。

「何だか高校生じゃないみたい」

ひーこは息をつくと、義彦をベビーベッドの上に置いて布団をかけようとした。

しかし、義彦はベッドに置かれた途端、火がついたように泣き出した。

「あれ、起こしちゃった?」

ひーこはあわてて義彦を抱く。

すると義彦は泣きやんだ。

「どうしたの。この雰囲気に驚いた?私も驚いているけどね」

ひーこは義彦に言ったが、当然返事はない。

義彦はひーこの手から離れるのが嫌らしく、ひーこの服の袖を離さなかった。

ひーこは諦めて、義彦を抱いたままソファに座った。

所在なげなひーこは、部屋にいる家政婦を見た。

彼女はにっこりと笑った。

彼女は濃紺のワンピース、いわゆるメイド服を着ていたが、飾りがほとんどなく、スカートも長いので落ち着いた雰囲気だった。

ひーこは家政婦に尋ねた。

「あの、間宮くんを昔から知っているのですか?」

「はい。義貴様のお世話をしていました」

「いつもあんな感じですか?」

「はい」

ひーこは黙った。

彼女は笑顔だが、必要以上の事を話す気はないようだった。

ひーこが「お名前を窺っても良いですか?」と尋ねても、「単なる家政婦です。私の事はお気になさらずに」とだけ返した。

三十分ほど経った頃、突然部屋の扉が開き、入り口に女性が立っていた。


家政婦は微笑みながら、しかし声は明瞭に女性を拒絶した。

「恐れ入ります美子様、お下がり下さい」

美子と呼ばれた女性は、年齢が分からないほど若く華があった。

「わかっている。義貴は入り口にシールドを張っている。

この建物の中ではチカラを使うなと言っているのに」

女性はイライラした表情でひーこと義彦を睨んだ。

その会話でひーこは認識した。


——間宮くんのお母さん。


ひーこは美子の勢いに呑まれて黙っていたが、やおら立ち上がるとお辞儀をして言った。

「はじめまして、橋本姫呼です」

美子はひーこをにらみつけて言った。

「子供を寄越よこしなさい」

ひーこはしかし黙ったまま、一歩も動かなかった。

動じている訳でもなかったが、身体が動かなかったのだ。

義彦はひーこの服をずっと握っていた。

美子はしばらくひーこと子供を見ていたが、軽く舌打ちをして、ドアを閉めた。

閉まる瞬間、美子の背後に樹の顔が見えた気がして、ひーこの心臓が高鳴った。

扉が閉まると、ひーこは息をするのを忘れていたかのように息を吸った。

家政婦はひーこの様子を見ながら言った。

「橋本様、大丈夫ですか」

「はい」

ひーこがゆっくりとソファに座ると、家政婦が聞いた。

「お飲み物をお持ちします。ご希望はおありですか?」

「アイスティを」

「かしこまりました」

家政婦は飲み物の準備をすると、ソファの前のテーブルにグラスを置いた。

グラスにはストローが挿してあった。

家政婦は言った。

「私は義彦様に触れないように言われています。召し上がるときに、お気を付け下さい」

ひーこは義彦をソファに置くか迷ったが、義彦はひーこの袖を離さなかったので、義彦にこぼさないように気をつけながらグラスを取り、アイスティを一口飲んだ。

飲み物を口にして、ひーこは初めて自分の喉の渇きを知った。

義彦にもミルクを与え、おむつを替えたところで扉が開いた。

そこには義貴が立っていた。

「ひーこ、待たせたね。出られるか?」

ひーこは心底ほっとした。

「大丈夫。ちょうどおむつも換えたところ」

ひーこはそう言って義彦を抱き直した。

「俺が義彦を持とうか?」

義貴は家政婦に義彦を抱かせなかったので、ひーこがずっと側についていたことを知っていた。

しかしひーこは、

「義彦を抱いている方が安心するから。このままでいさせて?」

と言ったので、義貴は頷いた。

そしてひーこの頬に触れて言った。

「ひーこには聞くのがつらいこともあるかもしれない。

でも、何を聞いても動じないで。後でちゃんと説明するから。

俺の言葉だけ信じて。そして」

義貴はひーこを軽く抱き寄せると、耳元で言った。

「先に言っておく。夕は亡くなった」

夕は美子の部下に拘束されたが、移送の途中で車から飛び降り、後続車に轢かれたのだ。

近くにある病院に搬送されたが、そのまま死亡したという。

義貴の言葉にひーこは言葉を失った。

義貴はひーこの身体を離し、義彦に言った。

「俺にできるだけのことはする」

義彦は黙って義貴を見ていた。

義貴は軽く頷くと、ひーこを促して部屋を出た。

義貴は歩きながら言った。

「会議室には舞がいるけど、話ができる雰囲気ではないな」

ひーこは尋ねた。

「舞ちゃんも?」

「会議によっては夏日の伯父さんも来る。今日いるのは近親者だけだ」

二人は階段を上り、廊下を進んだ奥の部屋に会議室があった。


***


義貴が扉を開けると二十人ほどの人間が座っていた。

ほとんどが男性だった。

ひーこは端の席に座っていた舞と目が合ったが、まるで別人のように表情がなかった。

ひーこも笑いかけることは避け、視線を逸らすと義彦を抱き直した。

義貴はひーこを自分の席の隣に案内すると、ひーこの横で紹介した。

「橋本姫呼さんと、義彦です」

義彦の名前を口にした途端、皆の視線が義彦に集中した。

ひーこは動物園の動物になったような、奇妙な違和感を持った。

義彦はひーこ服の裾を握ったまま動かなかった。

参加者の一人から質問が来た。

「子供は能力者だね。間宮?上宮?」

義貴は静かに返す。

「上宮のチカラは持っている」

次に義住が質問した。

「義貴くん。子供をどうするつもりかな」

「俺が育てます」

部屋が静まりかえった。沈黙を破ったのは義住だった。

「君はまだ子供だ。自分が成人するまで、間宮家に預けたらどうかな?」

義住の言葉に、義貴は美子を見ながら言った。

「預けたら、母親の研究材料にされるだけだ」

批判された母親はしかし、冷静な声で言った。

「義貴、学校はどうするの?ずっと見られるわけではないでしょう」

「高校卒業認定試験を受けて大学を受験します。大学に合格したらしばらく休学します」

「ばかなことをいわないの。高校もあと半年でしょう?大人に任せなさい」

母親は苛立ちながら返した。すると義樹も言った。

「義貴。橋本さんも、ということかな?お前のわがままに彼女をつきあわせるのか?」

義貴は即答した。

「彼女は今まで通りです。

彼女に来てもらったのは、彼女とおつきあいすることを認めて欲しいからです。

彼女は私のチカラも理解しています」

すると部屋中からどよめきが沸いた。

それを制するように義住は言った。

「義貴くん。たとえ子供がいようと、君は未成年だよ?

もう少し自分の将来をじっくり考えたらどうかな。

それに君と舞は結婚を約束している間柄であることを、忘れていないよね?」

すると義貴は切り札を出した。

「間宮家と下宮家のことを考えたら、俺と舞は結婚しない方がいい。

すでに俺と下宮家との子供ができた以上、俺と舞の子供は女の子である可能性が高い。

ならば舞は別の男性と結婚して女児をもうけ、下宮の跡継ぎにした方がお互いの家のためだ」

義貴の発言で部屋が静まりかえった。

過去の事例を見ても、間宮家と下宮家の間の男児は同世帯に一人しか生まれなかった。

しかし間宮家と一般女性との間には男児が生まれた——義貴の父親・義樹と伯父の義住、そして義貴と樹がいい例だった。

血縁者を増やすならば、義貴と舞をこのまま結婚させるのは得策ではないと誰もが納得した。

舞は、義貴の言葉にはっとなった。

義貴から夕との間に子供ができた話を聞いたとき、にわかに信じられなかった。

何があったにせよ、義貴が他の女性を抱くとは思えなかった。

しかし、事態は義貴の望む方向に進んでいた。

舞は思った。


——ひーこちゃんは、義貴くんの子供を了承したのかしら。本当に?


すると美子は鋭い声で言った。

「ならば、親子鑑定をさせなさい。義彦が本当のお前の子供かどうか」

美子の言葉に舞も周囲も我に返った。しかし義貴は即答した。

「その必要はない」

きわどい会話の中でも、義貴は終始冷静だった。

その直後、義彦はぐずり始めた。

ひーこが立ち上がり優しくあやす。

その神々しい姿は周囲の大人を黙らせるほど眩しかった。

「義彦、こっちに来い」

義貴が手をひーこの方に差し出すと、義彦はひーこの手を離れて宙に浮き、義貴の手に移った。

それはあたかもマジックを見ているようだった。

義貴は義彦を抱えて言った。

「チカラを持つ人間なら、今のは誰のチカラなのか分かるはず。

義彦はすでに上宮のチカラを使えます。

他に上宮のチカラを持つ男がいますか?それでも俺の子供ではないと?」

義貴の言葉に周囲の反応はなかった。

義貴はひーこに義彦を渡すと、ひーこと二人で並んで立った。

「俺は——いや、私は未成年ですが、家のことも考えていきます。

義彦もちゃんと育てます。だから、私たちの事は静かに見守って下さい」

義貴も、そしてひーこも自然に一緒に頭を下げた。


***

 

ひーこと義彦は、義貴に連れられて控え室に戻った。

ひーこは部屋に戻った途端に緊張が解け、ソファにぐったりと座り込んだ。

義彦も会議室を出てからずっとぐずり続けていた。

ひーこは義彦に声をかけた。

「義彦、がんばったね」

義貴はひーこの頭を軽く撫でて言った。

「お疲れ」

そして義貴はひーこから義彦を受け取った。

「義彦も、ありがとな」

義彦は猫の子のように泣きながら、義貴の袖を掴んでいた。

義貴は義彦が泣きやみ、自分から手を離すのを待っていた。

義彦が落ち着いたのを見た義貴は、ひーこに言った。

「まだ会議の途中だから俺は会議室に戻るけど、そんなに時間はかからないから。

もうしばらくここにいて」

「うん。義彦、こっちにおいで」

ひーこは義貴から義彦を受け取った。

そして義貴に言った。

「ありがとう」

「何で?」

「親族に紹介してくれて」

義貴は複雑な表情をしたが、黙ってひーこの頭を再び撫でると、部屋を出て行った。


***


義貴が会議室に戻ると、美子は次の議題を口にした。

「次回から会議に樹を参加させます」

美子の後ろに樹が立っていた。

異母兄弟を見た義貴は息を呑んだが、表情には出さなかった。

義貴は淡々としていたが、心の中では怒りが沸きあがっていた。


——どれだけ殴りたいと思ったか分からない。


美子はまるで自分の子供を紹介するように、嬉しそうに言った。

「夫の子供の仲里樹です。義貴と同じ年で、夫も認知もしています」

すると参加者からざわめきが聞こえた。

樹の存在は非公式に知られていたが、一族の会議に樹が現れたのは初めてだった。

参加者の一人が意見を出した。

「跡継ぎの一人と考えて良いのなら、戸籍も間宮に移してはどうか?」

美子は樹に尋ねた。

「そうね・・・どうかしら?」

母親の仕草がまるで樹の恋人のようで、義貴は気分が悪かった。

母親もそうだが、父親が何も言わないことにも腹が立っていた。

樹は父親に尋ねた。

「間宮にならなければだめですか?」

すると義樹は応えた。

「跡継ぎになる気があるのなら、間宮を名乗りなさい」

すると樹は少し躊躇いながら言った。

「わかりました。よろしくお願いします」

樹は頭を下げた。それで会議は終わった。

義貴は早くその場から離れようとしたが、父親に呼び止められた。

「せっかくの機会だから、昼食を一緒にしたらどうだ?橋本さんと話をしてみたい」

父親の話に義貴は一瞬考えたが、父親の背後から母親が言った言葉に体が硬直した。

「そうね。ぜひ。ねぇ、樹。あなたもいらっしゃい。兄弟ですもの」

義貴は背中が寒くなった。

義貴の不在を樹に知らせた母親が、ひーこと樹の間に何があったか、知らないわけがなかった。

義貴は樹が目を逸らしたのを視界の端で見て取ると、平然と父親に言った。

「義彦が会議に出て興奮しているみたいだ。今も泣いて橋本さんを困らせているから、今日は帰る。

また改めて席を設けるよ。父さん」

「何だ」

「ありがとう」

義貴は父親に礼を言うと、母親と樹を見ずに部屋を出て行った。


義貴はひーこのいる控え室の前で呼吸を整えて、荒ぶる気持ちを落ち着かせていた。

樹の存在は、義貴を様々な意味で不快にさせた。

そして義貴は不安に思っていた。


——樹が跡継ぎ候補になるのは構わないが、樹が間宮を名乗るのならば、ひーこと樹の会う機会は増えるかもしれない。


ひーこは表面的にはあの事件から立ち直ったように見えたが、内面は分からなかった。

いずれにしても、義貴はひーこと樹を二度と会わせたくなかった。


——いっそ俺が間宮を出るか。


ようやく落ち着いた義貴は、ひーこの待つ部屋のドアをノックした。

「ひーこ、待たせたね・・・って」

義貴がそう言いながら控え室のドアを開けると、ひーこはソファに座り、口をあけたまま固まっていた。

ひーこがサンドイッチにかぶりつこうとした瞬間に、義貴が声をかけたのだった。

ひーこのあまりの緊張感のなさに、義貴は思わず吹き出した。

「食いしん坊め」

義貴の呆れた声に、ひーこは口ごもった。

「だって」

すると、その様子を見た家政婦が笑顔で言った。

「義彦様がようやく寝つかれて、橋本様は休まれたばかりなのですよ」

義貴はひーこと義彦を見て穏やかな気持ちになると、笑顔で言った。

「疲れたよな。帰ろうか——ああ、それを食ってからな」

「うん」

ひーこは手に持っていたサンドイッチを食べ始めた。

「おいしいです」

ひーこは家政婦にお礼を言うと、家政婦は笑顔で返した。

「ありがとうございます。橋本様は穏やかでかわいらしい方ですね」

ひーこは面と向かって誉められることが少ないので、顔を赤くして照れていた。

義貴はひーこの隣に座ると家政婦に声をかけた。

「俺にも飲み物をくれるか?」

家政婦は笑顔で返した。

「はい。コーヒーで宜しいですよね?」

「ああ」

義貴は背広を脱いでネクタイを緩めた。

その姿を見たひーこは、父親を思い出して少し懐かしくなった。

「お父さんみたい」

義貴はため息をつきながら返した。

「疲れるよ。背広もネクタイも会議も」

「でも背広、似合う。かっこいいよ」

「そう?」

家政婦は義貴とひーこの会話を聞きながら、手早くコーヒーを用意して、義貴の前に置いた。

さらに家政婦は、ひーこの死角になるようにメモを置いた。

彼女はインカムをつけていたので、義貴に連絡することができたのだが、ひーこに聞かれてしまうことを心配して、メモを渡したのだ。

それで義貴は母親がこの部屋に来たことを知った。

義貴は思った。


ーー母親がシールドを察して入らなかったのだろう。


母親が彼女に何を言ったのか義貴には予想できていたが、ひーこの平穏な表情は、そんな事実を何も語らなかった。

義貴は家政婦に礼を言うと、何もなかったようにコーヒーを飲んだ。

もし家政婦がいなければ、義貴はひーこを抱きしめたかった。

笑顔でサンドイッチを頬ばるひーこが愛おしかった。

ほどなくして、舞が控え室を訪ねて来た。

義貴と示し合わせたようにグレーのシンプルなスーツを着た舞は、ひーこがこれまで見てきた彼女とは別人のように見えた。

ひーこには、舞がいつでも花のように清楚で華やかなイメージだった。

会議室で見た彼女はまるで法事に出席しているような、静かで落ち着いた印象を受けた。それでも彼女が微笑むと、再びいつもの彼女の雰囲気に戻った。

初めに声をかけたのは舞だった。

「ひーこちゃん、義貴くん、お疲れ様」

舞が高校を卒業して以来、会うのは久しぶりだった。

舞は近くの大学の経済学部に通っていた。

ひーこは少し途惑いながらも、努めて平静に言った。

「舞ちゃん、ひさしぶり」

「そうね。ひーこちゃんの顔を見たら話をしたくなって。私はもう帰るところだけど、良ければ、一緒に帰りたいなって」

言葉と裏腹に、舞の表情も冴えなかった。

義貴は舞に気を遣うように言った。

「子供がいてうるさいけど、いいか?」

舞は少しだけ微笑んで言った。

「義彦くんね。顔を見せてもらっていい?」

「どうぞ」

ひーこは席を立つと、ベビーベッドから義彦を抱き上げた。

義彦は目を覚ましたが、相変わらず泣かなかった。

「義彦、舞ちゃんだよ」

義彦はひーこの腕の中で、舞を凝視した。

舞は笑顔で言った。

「かわいい。こんなに見つめられると穴が開きそうだわ」

舞は嬉しそうに義彦の手を軽く握った。

そしてひーこを見て言った。

「ひーこちゃんは、すっかりお母さんみたい」

舞の言葉にひーこは少し照れた。

ひーこは義彦のことを、自分の子供のように思えていたからだ。

自分に言い聞かせるようにひーこは応えた。

「私が産んだ訳ではないけどね。でも、すごくかわいい」

舞はひーこの様子を見て確信した。


——この子は義貴くんの子供ではない。でも上宮の能力を持っている。どうして?


義貴はひーこと義彦の荷物を持つと、舞とひーこを廊下に促した。

部屋を出るとき、ひーこは家政婦に礼を言った。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

家政婦は笑顔で返した。

「ありがとうございます」

三人で廊下を歩く。

ひーこは最初は二人と並んで歩いていたが、義彦が軽く暴れ出したので意識が逸れて、二人よりも後れて歩いた。

「ちょっと、くすぐったいよ」

ひーこの声に義貴が振り返ると、義彦がひーこの腕の中で手足をばたつかせていた。

それを見た義貴は安堵したが、後方の陰に樹の姿を見て表情が固まった。

ひーこの笑顔の後ろに見える陰。

義貴はひーこから義彦を受け取ると、樹の姿をひーこの目から隠すようにひーこの斜め後ろに立ち、ひーこを促すように歩き出した。

舞はその様子に気がついたが、黙っていた。

ひーこは義貴の配慮に気づかずに笑顔で言った。

「間宮くん。義彦を抱くなら、鞄は私が持つよ?」

義貴は穏やかに返した。

「大丈夫。ひーこはちゃんと前を向いて歩けよ。転ぶぞ」

「なにそれ?もう、子供じゃないんだから」

そう言って笑うひーこの横顔が樹には眩しかった。

昔と同じひーこの笑顔を見た樹は声をかけることなく、彼らの背中を見送っていた。


***


帰りの車は三列シートの奥にひーこと義彦が座り、中央に義貴と舞が座った。

ひーこと義彦は車に乗ってほどなく眠ってしまった。

「疲れたのね」

舞は二人の寝顔を見て微笑んだ。

舞は、義貴が自分との婚約を円満に解消させようという意図を感じて礼を言った。

「跡継ぎの事、ありがとう」

しかし義貴の表情は硬かった。

「礼を言うのはまだ早い」

「なぜ?」

「今になって樹を間宮に迎えようと言い出したのは何故だと思う?

母さんは麻子さんの血統を間宮に伝えることを苦々しく思っているはずだ。

しかも相手が自分の息子とはね。

自分の血は間宮に残さなくてもいいから、舞を樹と婚約させて、間宮の跡継ぎにすると言い出すかもしれない」

義貴の指摘に、舞は言葉を失った。

義貴は前を向いたまま、呟くように言った。

「樹が本当に間宮に入るかどうか、気にしておく必要がある。でも俺はあいつと関わるのは嫌だ」

舞は義貴がいつになく険しい表情をしていることが気になった。

「彼はひーこちゃんと同じ剣道クラブにいたわ。何度か見に行っているから覚えている。

ひーこちゃんは、このことを知っているの?」

舞はひーこと樹の間に何があったか知らなかった。

舞の言葉に、義貴は何と言って良いのかわからずにいた。


***


樹は間宮家を後にするひーこの表情を見て、複雑な気持ちになった。

義貴はひーこと別れるだろうと思ったのに、義貴があろうことか他の女と子供を作るとは。

そしてひーこは、その子供を嬉しそうに抱いている。

樹は軽く混乱していた。

もし樹がひーこを抱いていなかったら、樹は会議室からひーこを連れ出し、二度と義貴に返さなかっただろう。

樹は改めて自身の軽率な行動を後悔した。


——あの剣道場で二人に会わなければ。否、あの日ひーこを抱いていなければ。


樹が考えを巡らせていると、背後から唐突に声が聞こえた。

「どう、舞は?」

鋭い美子の声に、樹は心底驚いた。

樹が振り返ると、美子が唇の端をあげて笑っていた。

「舞を抱けばお前のチカラはもっと強くなる。義貴に匹敵するほどに。舞にはそういうチカラがある」

樹は美子を見た。

「どうして、自分の息子を大事にしない?」

樹の言葉に美子は笑った。

「あの子は夫にさんざん言ってようやく産んだ。

でも自分の子供だから愛せるわけじゃない。

義貴を産んだ時、私の精神は崩壊寸前だった。

夫の愛人に子供ができ、姉は私の研究の邪魔をする。

いろんな事に追われているうちに、あの子は私を拒絶するようになった。

夫がつけた家政婦にはやすやすと抱かれるくせに、私をチカラで拒絶した。

だからやりなおしたかった。

私の卵巣機能が落ちて卵子がとれなくなったから、冷凍保存をしていた過去の能力者の卵子で代わりを作った。

でもどれも失敗ばかり。

結局、一番優秀だったのはあの子だったわ。

今日の会議の進め方も、自分にいい方向に話を向けられる」

そう言った美子は、樹の頬をなでた。

「あなたのチカラが強くなれば、あの子に競争相手ができる。

ちょうど私と麻子のように。

強くなってちょうだい、樹」

美子は自分の部屋に樹を連れ込むと、抱きついてキスをした。


***


樹と美子が会ったのは、樹が中学二年の頃だった。

樹を育てていた母方の祖父母が相次いで亡くなり、樹は父親に会うために間宮家を尋ねた。

当時、すでに父親は間宮の家を出てマンションにいたのだが、樹はそれを知らなかった。

自宅を訪ねた樹は偶然に美子と遭い、家に呼ばれた。

美子は樹を一目見て、夫の愛人の子供だと分かっていた。

夫への愛情はなかったものの、樹は美子にとって屈辱的な存在だった。

しかし美子は、チカラを使って樹を誘惑した。

チカラの存在を知らなかった樹は、心と体が遊離した状態で美子を抱いた。

当時、樹は童貞ではなかったが、自分の母親と同年代の人間を女性と思ったことはなかった。

しかし身体は自分の意志とは関係なかった。

ほどなく父親や義理の兄に知られることになり、美子が特別なチカラで自分を操っていることも知った。

しかしその頃には、美子は樹を操れるだけのチカラを使っていた。

美子は身体を合わせればそれだけ相手を操ることができる。

美子が操れなかったのは義樹だけだった。

樹は思った。


——俺は闇を選んで歩き、ひーこは光の中を歩いている。


その頃の橋本姉弟は、父親を事故で亡くして間もなかった。

同じように肉親を亡くした二人。

それでも明るく生きていた。

双子のやりとりを聞いているだけで、樹は楽しかった。

橋本姉弟と過ごす剣道教室は、樹にとって唯一のまともな日常だったのだ。

そしてひーこを想うことで、狂いそうな自分の精神を正常に戻していた。

しかしひーこへの想いが強くなるにつれて、彼女を自分の暗闇に染めたくなった。

そう考える自分が怖くなり、樹に声をかけてくる女と代わる代わるつきあっていった。

ほどなくして橋本姉弟が剣道教室を辞め、ひーこと逢わなくなったことで樹の気持ちも落ち着いてきた、はずだった。

あの時、ひーこの高校の剣道場で義貴に遭わなければ。


——ひーこ。


樹は自分でも意外なほど、ひーこを愛していることに気がついた。

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