二十三 親子
夏休みに入り、義貴は去年と同じようにひーこと毎日図書館に通った。
平穏な毎日だったが、義貴は日々が過ぎるごとに憂鬱になっていた。
義貴の誕生日まであと二ヶ月。
十八歳になったら義貴を舞と結婚させたいと言っていた母親が、何をするか想像もしたくなかった。
義貴にとって救いだったのは、ひーこが今まで以上に側にいたことだった。
あの夜以来、義貴は時々ひーこを抱いた。
大和と千紗都の手前、家に泊まらせることはしなかったが、学校が早く終わった時や夏休みの図書館からの帰りにひーこを家に誘った。
義貴はひーこを抱くことで、精神のバランスをとっていた。
そんなある日の夕方、ふいに義貴の家のチャイムが鳴った。
義貴はひーこを抱いた後だったこともあり、しばらく放っていた。
しかししつこくならす音に根負けして、服を着るとインターフォンのモニタを見た。
そして、そこに映った人物を見て驚愕した。
「なんで」
そこには夕がいた。
義貴がドアを開けると、玄関に夕が飛び込んできた。
そして、夕の腕の中には小さな子供がいた。
一年ぶりに会った夕は、初対面の時の勝ち気な表情が消えていた。
「お願い。この子を助けて」
切羽詰まった様子に義貴も声を出せずにいた。
「私はもうすぐ殺される。それは構わない。でもこの子だけは助けて。
上宮のチカラを少しだけ出せるの。大きくなれば自分で守れるようになる。
小さい時だけでいいから。お願い」
ようやく口を開いた義貴は夕に尋ねた。
「これは、慶彦さんの子か?」
夕は頷いた。
「慶彦は子供が生まれる直前に、私の前から姿を消した。
私の存在も間宮家にばれたわ。
何とか逃げ出したのだけど、一人ではこれが限界。
今、このマンションの外に間宮の人間が張っている。
恐らく子供を出せと言ってくるでしょう。
この子を守れるのはもう、あなたしかいない」
義貴は息をのんだ。
夕は義貴の腕に子供を抱かせると、義貴にキスをした。
夕は義貴から離れると、辛そうな表情で言った。
「あなたに頼む道理はないと分かっている。
でもあのとき私を抱いていたら、この子はあなたの子供だった。
お願い、この子を助けて」
玄関での異変を感じたひーこが玄関に現れると、夕はひーこに言った。
「迷惑ばかりかけてごめんなさい。でもお願い。この子を助けて。間宮に渡さないで」
夕の言葉に驚いた義貴は、振り向いてひーこを見た。
その瞬間、夕は扉を開けて外に出た。
その後ろ姿が、義貴とひーこが彼女を見た最後だった。
「え」
呆然とする義貴の腕に、白いおくるみを着た子供が残された。
ひーこが先に口を開いた。
「慶彦さんがいなくなったって、どういうこと?」
「俺にもさっぱりわからない」
義貴は子供を見て途方に暮れた。
「この子・・・男の子かな?」
ひーこはそう言うと、義貴から子供を受け取った。
すると子供は目を開いたが、子供は泣くこともなく、ひーこの顔をぼんやりと見ていた。
義貴は玄関の内扉に、ボストンバックがあることに気がついた。
鞄を開くと着替えと紙おむつ、ミルクと授乳用品が入っていた。
義貴は呆然と言った。
「・・・まじかよ」
義貴は外に出て夕の気配を追ったが、すぐに気配を感じられなくなった。
夕自身が能力者なので、気配を隠すことはできたはずだが、追われていた何かに掴まっていたかもしれなかった。
夕の存在を知った美子は、夕の居場所を探していた。
恐らく慶彦がそれを察して夕と子供を隠したのだろう。
慶彦のチカラがどの程度か義貴にはわからなかったが、上宮のチカラを持つ人間を殺すのは、簡単なことではないことを知っていた。
義貴は、訳の分からない気持ちのままで家に戻った。
義貴がリビングに入ると、ひーこが子供をあやしていた。
その姿を見た義貴の脳裏に、不安が一瞬よぎった。
もし子供にチカラのコントロールができないのなら、かつて自分が家政婦を飛ばしたように、ひーこが危険かもしれない、と。
しかしひーこが子供を抱いている姿があまりにも自然な光景だったので、根拠はなかったがひーこは大丈夫だと義貴は思った。
ひーこは義貴の気配を感じて振り向くと言った。
「この子、おとなしいね」
黒い宝石のような、大きな瞳の子供はじっとひーこを見ていたが、ふいにぐずり始めた。
「ミルクかな?間宮くん、お湯ある?」
ひーこの言葉に義貴は途惑った。
「うちにポットはない。今、お湯を沸かす」
「よろしく。夕さんの鞄を開けるよ?」
ひーこは義彦をソファに寝かせると、鞄を開けておむつとミルクを取り出した。
すると、ある物に気がついて義貴を呼んだ。
「間宮くん、書類が入っている」
ひーこはファイルを取り出すと、義貴に渡した。
ファイルには夕の運転免許証と夕と子供の戸籍謄本があった。
夕は別人になりすましていたようで、氏名ともに異なっていた。
子供の出生届は出されていて、名前は「義彦」とあった。
生まれたのは三ヶ月程前だった。
夕が義貴を拉致した頃に妊娠したとすれば、計算が合った。
しかし、父親の欄は空欄のままだった。
その直後、義貴の携帯電話が鳴った。
電話の相手が母親だったので少しためらったが、思い切って電話に出た。
すると義貴が口を開く前に美子は言った。
「夕の子供を石井に渡しなさい。石井はマンションの入り口にいるわ」
義貴は即答した。
「渡さない」
美子は淡々と言った。
「まだ高校生のあなたに何ができるの」
「夕は俺に託した。それをあんたに渡したら何をされるか分からない」
そう言うと義貴は一方的に電話を切った。
そしてひーこに言った。
「今、下に石井がいる。以前ひーこを拉致した奴だ。
あいつらが子供を奴に渡せと言っている。
このままだと家に押しかけてくるだろう。
話をしてくるから、ひーこはこの部屋にいて子供を見ていてくれないか?
この部屋の中には、あいつらは入ってこられない。
俺が戻るまで誰が来ても、インターフォンに出なくていい。
俺しか鍵を持っていないから、絶対に扉を開けないでくれ」
ひーこは義貴の真剣な表情に、とっさに返事をできなかった。
しかしすぐに義貴に向き直ると、冷静に言った。
「分かった。間宮くんが戻るまで、ドアに触らない」
義貴は軽く頷くと、ひーこの額に手を翳した。
ひーこは思わず目を閉じたが、特に何も感じなかった。
「何?」
ひーこが尋ねると、義貴は穏やかな瞳でひーこを見つめて言った。
「おまじない」
「なにそれ?」
義貴はひーこに下宮の能力を遮るシールドを張った。
もし母親がひーこに直接対面しても、ひーこが母親に操られることはなくなった。
義貴はひーこに軽く笑いかけると、ひーこの頭を撫でて言った。
「なるべく早く戻る」
義貴は部屋を出て行こうとしたが、ひーこの次の言葉に立ち止まった。
「うん、待っている」
子供を抱きながらのひーこの言葉に、義貴は胸が熱くなった。
ひーこの方に振り返り、再び笑いかけて部屋を出た。
ひーこの言葉に落ち着いた分だけ、義貴は意識を集中できた。
——ひーこと子供を守ってみせる。
義貴は階段を下りながら、自分の中の何かが変わるのを感じた。
義貴が一階の踊り場に降りると、石井が数人の男とともに立っていた。
義貴が右手を翳すと、石井以外の男達が吹き飛んで壁に崩れた。
表情ひとつ変えずにチカラを発動する義貴に、石井は息を飲んだ。
「義貴様。美子様から連絡がいったはずですが」
義貴は石井の言葉を遮ると、殺伐とした声で言った。
「夕はどうした」
「身柄を保護しました」
——保護?拉致ではないのか?
義貴はそう思いながら、冷淡な口調で続けた。
「だったら夕を連れてこい。子供は彼女に渡す」
「今は意識がありません」
「ならば断る。あいつは俺の子供だ。俺が育てる」
石井は義貴の言葉に、これまでにない気迫も圧倒されて言葉を失った。
義貴は無表情のまま、石井に告げた。
「これから親父と話をして、近日中に一族の会議を開く。
それまでお前や美子、およびその関係者がひーこと子供に接近することを禁ずる。
さもなくば、間宮家の次期家長としてお前と美子を処罰する」
石井に返す言葉はなかった。
美子はともかく、義貴には石井を力ずくで「処罰」することは可能だったからだ。
義貴はそう言い切ると、マンションに戻っていった。
石井は義貴の後を追うつもりで歩こうとしたが、足が先に進まなかった。
義貴はマンションの入り口に、チカラでシールドを張っていた。
そこに近寄ろうとする人間の足を止めるようにチカラを使っていたのだ。
石井は義貴の能力を恐れた。
「義貴様のチカラが前よりも強くなっている」
石井はそう呟くと、携帯電話を取り出して美子に連絡しようとしたが、手にしたそれは中身だけが破壊されていた。
石井は、気を失って倒れている男達の中で呆然と立ちつくした。
***
ひーこは粉ミルクの説明書を読み、見よう見まねでミルクを作った。
ひーこは以前に従姉が子供の世話をする様子を見ていたので、粉ミルクを扱う手順は知っていた。
しかし自分が実際にやるのは初めてだった。
ひーこは自分の手の甲にミルクを出して熱さを確認すると義彦を抱き上げ、ほ乳瓶の乳首を義彦の口に当てた。
すると義彦は黙って飲み始めた。
「赤ちゃんって、意外と泣かないのかな?」
義彦がミルクを飲み終えると、ひーこは義彦を立て抱きにしておくびをさせ、おむつを替えて再び義彦を抱いた。
義彦がほとんど声をあげないのは、不安だからか、安心だからか、ひーこには分からなかった。
ひーこは小さな命を抱きながら夕のことを考えた。
ひーこが玄関に行ったとき、夕は義貴とキスをしていた。
そして彼女が発した言葉を思い出した。
——あのとき私を抱いていたら、この子はあなたの子供だった。
ひーこは思った。
——あのとき、は間宮くんを病院から拉致した時のことだ。
夕さんが間宮くんに頼んだ事は、間宮くんの子供を産むこと、だったんだ。
当時はどういう経緯で二人が解放されたのかはわからなかったが、ひーこはようやく夕の望みを理解した。
しかし義貴は夕を抱かなかった。
義貴と夕の言葉は、ひーこを安堵させた。
そしてひーこは二人のキスシーンを見ても、不思議と不快に思わなかった。
ひーこは義彦を抱きながら言った。
「君のお母さんは真剣だったよ。たぶん、君を守るために」
玄関のドアが開いた。
「ただいま」
そう言いながら真っ直ぐリビングに入ってきた義貴は、まるで身体から熱を発しているような気迫を持っていて、ひーこは本能的に怯えた。
義彦も半分眠っているような表情から、はっきりと目を開いた。
しかし次の瞬間、ひーこ達に向けた義貴の表情は穏やかだった。
義貴はひーこがいたから元の自分に戻れたと思った。
義貴の穏やかな表情を見たひーこは、我に返って言った。
「おかえり」
義貴は自分を落ち着かせるために、軽く息を吸って、吐いた。
「義彦は?どう?」
ひーこの腕の中にいる義彦は、大きく目を開けて義貴を見た。
生後三ヶ月の子供に人の顔が判別できるかどうか、義貴には分からなかった。
義貴はひーこから義彦を受け取ると、ゆっくり手を離した。
「間宮くん」
驚くひーこの目の前で、義彦は抱かれていたときと同じ格好で宙を浮いた。
義貴は義彦には触れなかったが、義彦が落ちても支えられるように手を側で添えていた。
義貴は感心したように言った。
「義彦はもうチカラが使えるようだ。チカラがいつ頃から発現するのか分からないけれど、すごいな」
ひーこは手品でも見ている気持ちになった。
「義彦くんが浮いているのは、この子のチカラなの?」
「うん。俺は支えているだけ」
義貴はしばらく宙を浮く義彦を見ていたが、
「戻ってこい、義彦」
と言う義貴の言葉に反応して、義彦は義貴の腕に戻ってきた。
その瞬間、義貴は決心した。
義貴はひーこをソファに座るように促すと言った。
「ひーこ。俺は夕を抱いていない。それは誓う。でも」
「うん」
「この子を俺の子供だと認知したい。いいか?」
ひーこは驚いた反面、義貴ならそう言う気がしていた。
「去年、俺たちが夕と慶彦さんに拉致されたろう?それは夕がチカラのある、俺の子供を欲しがったからだ。
でも俺は夕を抱かなかった。あの時、慶彦さんが夕を説得してくれたおかげで俺たちは解放されたんだ。
慶彦さんは物を触れずに動かすチカラがあった。
そのチカラを受け継ぐこの子は、間違いなく慶彦さんの子供だ。でも彼は恐らく無事ではないと思う。
だから夕はこの子を慶彦さんの戸籍に入れず、俺に託したんだ。
俺の子だと認知しないと、俺にこの子を守る理由がない」
ひーこは黙って聞いていた。
しばらく沈黙が続いた後、ようやくひーこが口を開いた。
「間宮くんがこの子を育てるの?」
「まずは間宮家に拘束されている夕を解放してもらう。
他に育てられる人がいなければ俺が引き取る」
義貴は手の中にいる義彦を見た。
その様子を見たひーこは、二人を見守る決心をした。そして、ひーこは言った。
「わかった。間宮くんがこの子を引き取るなら、私も手伝う。一人じゃ大変だよ」
ひーこは義貴の手に触れた。
二人は顔を見合わせて、自然と笑顔になった。
ひーこは柔らかい笑顔で言った。
「かわいいね、義彦くん」
義貴はひーこを改めて愛おしく思った。
そして左手でひーこの頭を抱きよせると、自分の胸の中に入れた。
義彦とひーこのぬくもりが、義貴には何よりも大切に思えた。
義貴はようやく自分の欲しかった物を手にした気がした。
三人はしばらく動かなかった。長い間のような、一瞬のような時を過ごした後、義貴はひーこに告げた。
「じきにうちの家で会議を開く。その時にこの子と一緒に来てくれないか?
ひーこを俺の恋人として紹介する。ひーこにとっては聞きたくないようなことを聞かされるかもしれない。
俺もこの子は実子だと言い切る。でも、何を聞いても動じないで。俺を信じて」
ひーこは目を閉じた。
義貴にもたれ、彼の心臓の音を聞きながら、気持ちが固まっていくのを感じた。
「うん。信じる」
ひーこは義貴から離れると、義彦を受け取ってあやし始めた。
義貴は父親に電話をかけた。
「父さん、夕が母さんに掴まった。夕の子供を預かっている。できるだけ早く会議をしたいのだけど・・・」
その内容は、高校生離れしていた。




