二 交際
翌日からの学校生活は、一昨日までと何ら変わらなかった。
義貴は彼女と顔を合わせたときに「おはよう」と挨拶されたが、周りは誰も不思議な表情をしなかった。
彼女のリアクションは、教室では当たり前のようだった。
義貴はそれまで、彼女に挨拶をされていたかも覚えていないほど、彼女への印象が薄かった。
これまでは。
あの発作以降、義貴は彼女から目が離せなくなっていた。
***
数日後、義貴は移動教室へ移る時に、舞と彼女が廊下で話をしている姿を見かけた。
先に声をかけたのは舞の方だった。
「ひーこちゃん。久しぶり」
「舞ちゃん」
義貴が二人は知り合いだと聞いたとき、互いの雰囲気があまりにも違うので違和感を覚えたが、一緒にいる二人は仲の良い友達に見えた。
舞は彼女よりも一つ年上だったが、彼女が敬語を使わないのは自然の事のようだった。
柔らかな陽射しが降り注ぐ午後、彼女たちの周りに光の輪ができて、義貴の目に眩しく映った。
舞は穏やかな笑顔で彼女に言った。
「最近、ひーこちゃんや大和くんと会っていないって、父と話をしたばかりなの。よければ遊びに来て」
「ありがと。近いうちに寄らせてもらう。電話するね」
そう言って二人は離れた。その光景は普通だったが、周りが普通ではなかった。
同級生の女子学生がひーこに抱きつくと、叫ぶように言った。
「ちょっとひーこ、夏日先輩とタメ口きけるって、どういうことよ?」
「幼なじみだから」
「幼なじみって。夏日先輩とあんな会話ができるのはひーこだけよ?夏日先輩にどれだけファンがいると思っているの?!」
友人に羽交い締めにされている彼女を見た義貴は、今更になって驚いていた。
——舞はそんなに人気があったのか。
彼女はしかし、事もなげに応えた。
「そう言われても。ずっとこうだったし、今更敬語なんておかしいよ。きっと大和だって同じリアクションするだろうし」
「あんたたち姉弟は・・羨ましいわ」
義貴はぼんやり思った。
——女はこれほど肝が据っているのか。それとも彼女だからだろうか。
***
それから数日後、充から義貴に電話があった。
「ひーこちゃんの身体には、特に変わったところはないようだ」
叔父の電話を受けた義貴は、これで彼女との接点は「同級生」だけになると思っていた。
義貴はそれで良いと思った。
事実、二人は教室でも特別話をすることもなく、日々が過ぎていった。
***
二人の関係が変わったのは、学年が変わった四月の事だった。
義貴の通う高校はクラス替えがなかった。
花冷えの日が続いた頃、義貴が熱を出して学校を休んだ。
その日の夕方に、突然ひーこが義貴のマンションを訪ねてきたのだ。
熱があってだるかった義貴は、家の呼び鈴が鳴ってもしばらく放っておいた。
しかし、何度も鳴るインターホンに急き立てられてモニターを見ると、彼女の顔が見えた。
「間宮くん、いる?」
義貴はモニターにアップで映る彼女の顔に驚きつつ、玄関に向かった。
そして扉を開けると、学生鞄の他に買い物袋を持ったひーこが立っていた。
義貴の顔を見た彼女は笑顔で言った。
「風邪をひいたって聞いたから来てみたの。ひとりだからご飯を食べていないだろうと思って」
義貴はとっさに声を出せなかった。
そして思った。
——俺が仮病を使って休んでいたら、彼女はどうするつもりだったのだろう?
義貴はそう呆れつつも、彼女が来てくれたことが素直に嬉しかった。
しかし嬉しさを隠すために、わざと意地の悪いことを言った。
「えらい無防備だな。ひとり暮らしの男の家にひとりで来るなんて」
義貴が言うと、彼女は意外そうな表情になった。
「そういうの、気にするんだ?
間宮くんはひとり暮らしなのにあまり食べ物を買っていないみたいだったから。
うどんくらいつくってあげるよ」
彼女の推測は正しかった。
義貴は今朝からスポーツドリンクしか口にしていなかった。
「なぜ食べ物がないってわかる」
「牛乳がなかったから」
きっぱりという彼女を見て、義貴は思った。
——前に、コーヒーを入れた時のことか。
義貴はそう思い出しながら、自分でも思いがけない行動に出た。
義貴は彼女の腕を掴んで玄関に引き込み、扉が閉まる音と同時に彼女の肩を抱き寄せて自分の腕の中に入れた。
どうしていきなりこんなことをしたのか、義貴自身もわからなかった。
ただ、自分を純粋に心配してくれた彼女の存在が嬉しかった。
彼女は驚くでもなくそのまま立っていたが、右手で義貴の腕に軽く触れて言った。
「ほんとうに熱があるね。身体が熱い」
彼女の身体を通じて聞こえる、少し曇った声は、不思議と義貴を心地よくさせた。
義貴は目を閉じて思った。
——俺は誰かに触れたかったのかもしれない。
義貴は彼女に尋ねた。
「何で驚かない?」
義貴は彼女を離さなかった。
しかし彼女は、この状況の中でも冷静に言った。
「驚いてはいるよ。でも私を襲う気なら、ベッドのある居間に行ったときにすると思うし。
それに本当に熱いよ、間宮くん。立っていられないんじゃない?例の発作?」
義貴は、彼女の言葉を聞いて気持ちを落ち着かせた。
義貴は彼女の耳元で言った。
「いや、ただの風邪だと思う」
義貴はゆっくり彼女から離れると、素直に詫びた。
「ごめん。悪かった」
「うん」
義貴は彼女を見ながら思った。
——彼女は本当は怯えていたのかもしれない。
義貴は不安に思ったが、彼女の柔らかな笑顔を見て安堵した。
義貴は彼女を部屋に入れると、彼女に言われるままに汗で濡れていた服を着替えた。
彼女はてきぱきと鍋焼きうどんを作り、ダイニングテーブルに乗せた。
義貴が食事をしている間、彼女は義貴の向かいに座り、お茶を入れて飲んでいた。
義貴は家にコーヒーしか置いていないので、彼女が持参したのだろうと義貴は思った。
机の上にはりんごとみかんまであった。
食事を終えた義貴は彼女に尋ねた。
「ずっと家事をやっているのか?」
「まあね・・・中学生の頃からかな。
母親は昔から働いていたから、いないも同然だったけど、祖母がいたから。
祖母は私たちが高校にあがる直前に亡くなってからは、弟が掃除を担当して、私が食事を作っている」
「そうか」
彼女は湯飲み茶碗をテーブルに置くと、唐突に尋ねた。
「あれから発作はあるの?」
彼女の真剣な表情に、義貴は一瞬言葉を詰まらせた。
「いや。なぁ、橋本さん」
「ひーこ、でいいよ。何?」
「俺が怖くないか?」
義貴は思った。
——砂糖瓶を動かしたくらいで俺の「チカラ」を理解していないのならそれでもいい。
すると、ひーこは穏やかな表情で言った。
「怖くはないよ。夏日のおじさんが言っていた。
間宮くんはしっかりしているけど、一人でいて寂しいだろうって」
ひーこの言葉に義貴は面食らった。
——寂しい?誰もいない方がいい。傷つけずに済む。見たくない事を見ないで済む。そう思っていたのに、俺自身が人を避けていたのに。
義貴にはこれが「恋」なのか、判らなかった。
しかし、ひーこが自分にとって必要な存在であることは判った。
だから、自然な気持ちで言葉を発した。
「ひーこ、俺とつきあわないか」
***
義貴の突然の告白に、ひーこは一呼吸おいて言った。
「熱があるから?」
「違う」
義貴は否定しつつも思った。
——もしかすると。俺のせいで、彼女は辛い思いをするかもしれない。だから断ってくれてもいい。
しかし、彼女の返事はためらいがなかった。
「いいよ。でもどうすればいいのかな?私、家で家事とかしないといけないのだけど」
ひーこの声は淡々としていたが、義貴にはひーこの「いいよ」が胸に響いた。
義貴は畳みかけるように言った。
「俺の世話まで頼むつもりはない。学校でも、これまで通りの関係で構わない。時々会って話ができれば」
ひーこは湯飲みの縁を指でたどりながら、軽く笑って返した。
「クラスメートなのに」
ひーこにとって、異性から告白されたのは初めてのことだった。
そんなひーこに義貴は言った。
「もしかすると、俺のチカラのせいで、ひーこを傷つけることがあるかもしれない」
ひーこは義貴の言葉の意図が分からなかった。しかし真剣な義貴の表情に黙って聞いていた。
義貴はそのまま続けて言った。
「でも守るから。そばにいてくれないか」
ひーこは少しはにかみながら返した。
「うん」
そう頷くと言葉を続けた。
「まずは早く風邪、治して。明日も辛かったら電話して。
うどんは多めに作ったけど。他に食べたいものがあれば作るよ」
そう言って、ひーこは帰っていった。
夜になっても義貴の熱は一向に引かず、充に往診を頼んだ。
充は診察を終えた後、義貴の話を聞いて驚いた声を出した。
「ひーこちゃんとつきあう?ひーこちゃんを好きなのかい?」
義貴は冷却シートを額に乗せながら応えた。
「判りません」
充は軽く息を吐いた。
「君は、間宮家の跡継ぎだということは判っているよね?」
それは暗に、舞の許嫁であることを示唆する言葉だった。
義貴が黙っていると、充が続けた。
「強制するつもりはないよ。
私は義貴くんも、舞にも、自分の好きな道に進んで欲しいと思っている。将来も、結婚も。
でも、君の両親は黙っていないだろう。君は単なる家の跡継ぎではないから」
義貴は充の言葉を黙って聞いていた。
「舞は今や「下宮」の能力の唯一の系統者になってしまった。チカラの継承は本人の意志では避けられない事だ。舞も自覚している。それに間宮家が、舞を放っておくとも思えない」
舞の持つチカラとは、人の心を操ることのできる能力のことだった。
かつて「下宮」と呼ばれた一族に伝わるチカラは、義貴と同じように、親から受け継いだ能力だった。
「下宮」の能力は女系にのみ受け継がれており、舞の母親が能力者だった。
「下宮」の能力者を「間宮」一族の中につなぎ止めておくためにも、間宮の能力を持つ後継者が下宮の能力者と結婚するのは暗黙の事項だった。
義貴の両親のように。
義貴は返答ができなかった。
充は辛そうな表情で言った。
「ひーこちゃんは、私や舞にとって大事な子だ。ひーこちゃんの母親と舞の母親は親友だった。
そしてひーこちゃんの父親と侑子は、同じ事故で亡くなっている。
家族を亡くして以来、私もひーこちゃんの母親も仕事があったから、あまり子供達に構えなくなった。
舞は一時ショック状態で会話をしなくなって、三人でいる間だけ普通の子供のように遊べた時期があった。親を失った子供同士、寂しさを癒していたのだと思う。
彼らの結束は他の人とは違う。子供達を悲しませるようなことは、しないでくれないか」
充のそれは責めている口調ではなかった。
「はい」
「続きは熱が下がってからにしよう。病人に長く話をして、すまなかった」
充はそう言って部屋を出て行った。
義貴は思った。
——確かに、熱が上がりそうだ。
義貴は自分でもどうしてひーこに『つきあおう』と言ったのか分からずにいた。
——自分の立場が判らないわけじゃない。
義貴の持つ力。これは間宮家が代々受け継いできたチカラだった。
しかし、念動力は間宮家本来の能力ではなかった。最
も大きな力は「先読み」だった。「先読み」は予言に似たような能力だが、自分が意識しない未来を知ることはめったになかった。
株価の変動や政治や経済の動向を読むことはできる。
数値の予測が「お家芸」なのだ。もちろん、これだけで家が栄えた訳ではない。
でもこの力を持っていた間宮家は、経済界で繁栄してきた。
義貴は間宮家の中で、最も能力の高い血を引き継いでいる。
そして同じように能力を持つ下宮家——女系のため家督は崩壊しているが——との連携を強めるために長い間、間宮家と下宮家は血縁関係を結び、繁栄してきた。
しかし義貴は間宮家の中で、「家族」を感じたことはなかった。
義貴は思っていた。
——他人のほうがましだ。
義貴自身、ひーこを好きなのかはよく判らなかった。
義貴は今まで人に触れるのを避けてきた。
いつかの家政婦のように、大事な人を傷つけるのが怖かったからだ。
でもひーこは、義貴の心に平気で飛び込んできた。
彼女が触れて義貴の発作が止まったのは、偶然だったのかもしれない。
彼女が義貴の発作で飛ばされなかった理由は、単に義貴がチカラを制御できたからかもしれない。
しかし、水を飲んではじめてのどが渇いていたことに気がついたかのように、人のあたたかさを義貴は知ってしまった。
ひーこがいれば、また発作が起きても辛くない気がした。
そう思えるくらい、義貴は精神的に追いつめられたところにいた。
だから、義貴はひーこを離したくなかった。
***
義貴は熱が下がってからはじめて学校へ行った日の放課後、ひーこを呼び止めてお茶に誘った。
二人は川面が見える喫茶店に入ると向かい合わせの席に座り、義貴はコーヒーを、ひーこは紅茶を頼んだ。
店員が飲み物を置いて去った後、ひーこは言った。
「冗談じゃなかったんだ。よかった」
義貴は不思議な気持ちで尋ねた。
「何が?」
「つきあうこと」
ひーこは照れたように言うと、紅茶を飲んだ。
義貴は軽く息を吐きながら言った。
「冗談だったら他の人にするよ。ひーこを泣かせたら、夏日の叔父さんに怒られる」
ひーこは少し笑った。
「そっか。舞ちゃんのおじさんは、私たちのことを可愛がってくれているから」
そして続けて言った。
「間宮くんのこと、聞いてもいいかな?」
「いいよ」
「家族はいないの?」
「両親はいる。でもどちらもほとんど家にいない。
俺も家にいたくなくて、舞のいる高校に行くのなら家を出ていいと言われたから越境入学した」
「そっか。あの発作は昔から?」
「子供の頃から。何で?」
ひーこは義貴をまっすぐ見て言った。
「辛かったね。私は割と丈夫だったのだけど、弟は小さい頃によく熱を出していて、かわいそうだって思っていた。
だから、公園で具合悪そうにしている間宮くんを見たときに、放っておけなかった」
「弟に話をしたの?俺のこと」
ひーこの弟、橋本大和は隣のクラスにいた。
体育の時は隣のクラスと合同だったので、大和を見かける機会はあったが、特別に話をすることはなかった。
「つきあう話はしたよ。大和は隣のクラスだから、体育とかで間宮くんを見かけていたみたいだし。
いけなかった?」
「そういう意味じゃない。俺には兄弟がいないから、そういうのは解らないだけ」
義貴は思った。
——普通の姉弟は、そんなに何でも話をするものなのか。
ひーこは軽く頷くと言った。
「大和はいいけど、母さんはすごく心配性だからまだ話せないな。
家には週に二、三日くらい寝に帰ってくるくらいでほとんど会わないけど、普段いない分だけすごく心配性で。
母さんはアナウンサーなの。私とはあまり似てないけどね」
義貴はテレビを見ないので知らなかったが、ひーこの母親である橋本千紗都は、夕方のテレビでニュースを読んでいる、才色兼備のアナウンサーだった。
ひーこは続けて言った。
「母さんはテレビだとしっかりしているように見えるけど、家では抜けていて全然違うの。
日頃構っていない分だけ授業参観とか、学校のイベントがあると仕事抜けて強引に来るし。
うれしいけど、母さんは目立つから恥ずかしくて」
だからこんな地味な子供になってしまったわ、と彼女はぼっそり言った。
義貴は思った。
——ひーこはたぶん、自分に向けられた愛情をきっちり受けとめる子供だったのだろう。
義貴は自分でも意識しないうちに、笑顔になっていた。
「いい母親じゃないか。ひーこの家は楽しそうだな」
「そうね」
ひーこがそう言った瞬間、義貴は背後から人の視線を感じた。
気がつかないふりをして周りを観察したが、知り合いらしい人物は見えなかった。
義貴はこの時には気がついていなかった。
彼の母親が息子の状況を見て何を考えるのかを。
後になって、充が示唆した言葉は、義貴の思っていたものとは違う意味であったことを義貴は知ることになる。




