十二 許嫁
慶彦がひーこと義貴を車から降ろしたのは、叔父の病院から二キロほど離れたところだった。
ひーこには意識がほとんどなかった。
慶彦はそのまま車を発車させた。
義貴はひーこを抱いたまま歩き始めてほどなく、叔父の車が見えた。
車から充が出てきて言った。
「義貴くん、ひーこちゃん。無事かい?」
「叔父さん。ひーこの熱が高い」
助手席から舞も出てきて言った。
「早く車に乗って」
義貴とひーこは、充と舞に促されて車に乗った。
後部座席に乗った義貴は、ひーこの頭を再び自分の膝に乗せた。
ひーこはかすかに目を開けて、義貴の手を掴んだが、すぐに目を閉じた。
義貴は片手でひーこの手を掴み、もう片方の手でひーこの頭を撫でた。
充は車を走らせながら言った。
「舞から二人が出ていった経緯を聞いたよ」
舞はひーこの状況を見て泣きそうな声を出した。
「居場所は大体わかったのだけど。助けに行けなくて、ごめんなさい」
義貴は二人に詫びた。
「いや、こちらこそ、すいません」
「舞は千紗都さんを思いこませるのに大変だったんだよ」
義貴は充の言葉を半分理解できなかった。
義貴がひーこを車椅子に乗せて病室に戻ると、ひーこのベッドにはくまのぬいぐるみが置いてあった。
舞はぬいぐるみをベッドから下ろしながら言った。
「これをひーこちゃんの代わりにしたの」
人をあやつるチカラがある舞は、ひーこの代わりにくまを置き、周囲の人間にひーこと思いこませていた。
充だけは経緯を知っていたので、治療をするフリをしていた。
仕事の合間に来ていた千紗都は、眠ったままのひーこを面会時間ぎりぎりまで見守っていた。
充は義貴と二人でひーこをベッドに横たえると、診察を始めた。
舞は義貴に言った。
「千紗都さんと大和くんには、義貴くんは退院したと言っておいたから、そのつもりで」
「わかった。ありがとう」
充は看護師を呼んで、ひーこに点滴の準備を指示した。
「熱がひどいな。ひーこちゃんはかなり辛かったろう」
充の言葉に、義貴は辛い表情で言った。
「傷が痛むみたいで」
充はひーこの処置をひととおり終えると、義貴を連れて病室を出た。
「何があったんだい?」
そう問う充に義貴は何も応えられなかった。
充は続けた。
「間宮から君の行く先を尋ねられたよ。そのうちご両親からも連絡が来ると思うけど」
義貴は軽くため息をついて言った。
「一度、家に戻ります」
時計を見るともう夜の十二時を過ぎていた。
ひーこはほぼ半日苦しんだのだと思うと義貴の胸が痛んだ。
***
ひーこが目を開けたのは、翌日の昼過ぎだった。
頭はぼうっとしたが、身体の火照りがなくなっていた。
「ひーこ」
自分を呼ぶ声の方を見ると、母親の千紗都の顔が見えた。
「母さん」
「具合はどう?」
千紗都はそう言うと、ひーこの額に手を乗せた。
ひーこは自分が子供に戻ったようで、少し嬉しくなった。
「大丈夫。心配かけてごめんなさい。今日の仕事は?」
「土曜日だから、休みよ。本当に。びっくりした」
そこにいる母親はテレビで見る「橋本千紗都」の表情だった。
家にいるときは普通の母親だったが、仕事をしている母親の顔は凛として美しかった。
ひーこが病室を見回すと、母親は言った。
「間宮くんは大和と昼ご飯を食べに行っているわ。
間宮くんの怪我の具合は良いみたい。彼はもう退院したのよ」
ひーこはためらいつつ、思い切って言った。
「ごめんなさい」
母親は迷わずに返した。
「どれのこと?」
「怪我のこともだけど、間宮くんのことも」
「そうね。できればひーこから紹介して欲しかったな」
母親は穏やかに言うとひーこに飲み物を差し出した。
ひーこは黙って飲み物を飲んだ。
「怪我をしてからほとんど食べていないそうね。
食べられそうなものがあれば言ってね」
「うん」
確かにほとんど食事を取っていなかったが、空腹感はなかった。
痛み止めの注射を打っていたので、傷は昨日ほど痛まなかった。
ひーこは怪我の具合を見ながら言った。
「汗かいたから、着替えようかな」
「着替え、手伝おうか?」
「大丈夫」
そう言っているうちに、義貴と大和が部屋に戻ってきた。
ひーこから見た義貴は、頬と腕の怪我を除けばいつもの彼だった。
声をかけたのは大和だった。
「ひーこ、起きたか?」
「うん。心配かけて、ごめんね」
ひーこは病院を抜け出したことを言ったつもりだったが、大和からは、
「昨日はずっと寝ていたって聞いたけど。そのせいか、顔色がよくなったな」
と微妙にとんちんかんな発言が返ってきた。
その時、大和の後ろにいる義貴が、自分の唇に人差し指を当ててひーこに黙っているようにサインを送っていた。
ひーこは思わず口を閉じた。
「ひーこ、何か食べたいものはないか?昼食の時間を過ぎているから、病院のご飯は出ない」
大和の問いにひーこは返した。
「じゃあ、バニラアイスがいい」
「わかった。買ってくるよ」
大和はそう言うと、部屋を出て行った。
千紗都は義貴に、「ひーこが着替えたいようだから、少し出ていましょうか」と言って義貴を促して、二人も部屋の外へ出た。
廊下は義貴と千紗都の二人だけしかおらず、しばらく沈黙が続いた後で千紗都は義貴を見て言った。
「間宮くん、ちょっと座ってくれるかな?」
義貴は黙って近くの長椅子に座った。
千紗都はきっぱりとした表情で言った。
「私はひーこも大和にも、好きになった人とおつきあいしてもらいたいと思っているわ。
だから間宮くんとのつきあいにあれこれ言うつもりはないの。だけど」
千紗都は言葉を切った。
「私は間宮くんの家の事を少し知っている。あなたのお母さんのことも。
だからあえて言うけれど、もし真剣なつきあいではないのなら、ひーことのつきあいをやめてほしい」
義貴は千紗都の話に少なからず驚いた。
しかしすぐに静かな声で言った。
「ひーこに怪我をさせたのは俺の責任です。それは謝ります」
義貴は千紗都を見て続けた。
「でも、俺は別れません」
義貴は昨日一晩考えていた。
このままひーことつきあうことで、さらに彼女を傷つけるかもしれないと。
彼女は最初から自分に好意を持っていたわけではなかった。
その彼女を巻き込んだのは自分だ。
今なら元のクラスメートに戻れる。
だけど、ひーこは誘拐された自分を追いかけて、一緒に帰ろうと言ってくれた。
ならば。
自分のチカラを強くして、もっと強くなって、ひーこを守ればいい、と思い直した。
義貴はひーこの怪我を通じて、今の自分にはひーこが必要であることを痛感していた。
だから義貴に迷いはなかった。
「わかった」
千紗都が言ったその時、廊下に大和と舞の姿が見えた。
「そこで舞ちゃんに会ったから。みんなの分のアイスも買ってきたけど、食べるよね?」
呑気な大和は笑顔で言った。
***
着替えを終えたひーこは、病室で皆とアイスを食べた。
喉を通る冷たさにひーこはほっとした。
しばらくして大和と千紗都は家に戻り、病室にはひーこと義貴と舞が残った。
ひーこは二人に尋ねたいことがあったが、ずっと聞けずにいた。
ひーこは石井から聞いた言葉を思いだしていた。
——義貴さまには許嫁もおられます。
まだ少し熱があるひーこは、今なら感じるショックも弱いと考えて、思い切って聞くことにした。
「二人に聞きたいことがあるのだけど」
舞は何も言わなかったが、義貴は穏やかな声で言った。
「・・・何?」
ひーこはしばらくうつむいていたが、ふいに顔を上げて義貴を見た。
「間宮くんに許嫁がいるって、本当?」
ひーこには、義貴よりも舞の方が驚いていたように見えた。
義貴は静かに言った。
「ああ」
ひーこは予想をしていたので驚かなかったが、次の言葉を言うのは今まで以上に勇気がいった。
「許嫁って、舞ちゃんのこと?」
石井は、義貴の許嫁がひーこの知っている人物だと言った。
もしそれが事実ならば、ひーこに思い当たる相手は一人しかいなかった。
本当は義貴だけに尋ねようとも思っていたのだが、今更止められなかった。
ひーこは彼の許嫁に恋の相談をしていたのかと思うと、とても残酷な気がしていたのだ。
自分にも——舞にとっても。
義貴は淡々と応えた。
「そう」
さすがにひーこの表情が固まった。
ひーこの表情を見た舞が言いかけた。
「ひーこちゃん、私は・・・」
それを義貴が遮った。
「それは事実だけど、親が決めたことだ。
俺たちは、もしお互いに結婚したい相手ができたら、結婚したい相手と結婚すると決めているから」
義貴のきっぱりした口調にひーこは何も返せなくなってしまった。
舞は義貴を窘めた。
「義貴くんの口ぶりじゃ、ひーこちゃんは何も言えなくなってしまうわよ。
ひーこちゃん。これは、ひーこちゃんと義貴くんがつきあい始めるよりも前に話し合って決めていたの」
それは事実だった。
舞は中学生の頃に好きな人ができ、義貴に相談していたのだ。
義貴は舞を嫌いではなかったが、親の意向に従う気になれなかったので、舞と合意していた。
「ひーこちゃん、ごめんなさい。黙っていて」
舞に謝られたが、本来はひーこが謝られる道理はなかった。
ひーこは安易に聞いたことを後悔した。
「ううん」
部屋に重い沈黙が訪れた。
ひーこは二人を見ることができずに、視線を手元の布団に移した。
その様子を見ていた舞は沈黙を破った。
「ひーこちゃん、どうして親が私と義貴くんを結婚させたいのか、話すわ」
舞は仲良しの双子に黙っていた秘密を話そうとしていた。
「舞、やめろ」
義貴は止めた。
舞は、大好きな双子にだから秘密を話したくないと言っていたからだ。
しかし舞は義貴を無言で制した。
「ひーこちゃんが病院を抜け出して半日以上も戻らなかったのに、おばさまが平静にしているの、おかしいと思ったでしょ?」
ひーこは黙って舞の顔を見た。
舞は静かに続けた。
「私にもチカラがあるの。義貴くんのそれとは違って、私は人の記憶を操ることができる。
私がおばさまに、ひーこちゃんが病室で眠っているように幻覚を見せていたの」
そう言う舞の顔はいつも以上に綺麗だと、ひーこは思った。
ひーこと義貴は同時に言った。
「どうして」
義貴はひーこにどうして秘密を告白したのか、舞に疑問を持っていた。
舞は少し照れたように言った。
「私も義貴くんも、親からチカラを受け継いでいる。
義貴くんのご両親は家のためにも、私たちのチカラを受け継ぐ子供が欲しいの。だから許嫁にしたの。
でも母さんはこのチカラを嫌がっていた。
死ぬ前に母さんが言ったの。好きな人と結婚しなさいって。
母さんは好きな人と結婚して、幸せだったって。
私は、私も、義貴くんも、そしてひーこちゃんにも幸せになって欲しい。
二人が結婚するかは別としてもね」
呆然とする二人に対して舞はひとり、安堵の表情を浮かべた。
舞は笑顔でひーこに訊いた。
「ひーこちゃん、質問の答えになっている?」
「うん」
「じゃあ、私は家に戻るわ。ひーこちゃん、今の話は他の人には内緒にしてね。大和くんにも」
「わかった」
ひーこが返すと、舞は笑顔で頷いて部屋を出て行った。
ひーこは舞の姿を見送ると呟いた。
「・・・熱があがるかもしれない」
義貴も舞の様子にあっけにとられていた。
「ひーこにチカラを知られることを、あんなに嫌がっていたのに」
義貴はそう言うとひーこを見た。
ひーこは義貴に見つめられて手持ち無沙汰になり、
「黙っているのが嫌になったのかな?」
と尋ねたが、義貴は気のない返事をした。
「さあ」
義貴は座っていた椅子から立ち上がると、ベッドから半分身を乗り出していたひーこを抱き竦めた。
義貴はひーこの傷に響かないように軽い力で、でもひーこを抱く手を離さなかった。
「間宮くん?」
舞の告白に呆然としていたひーこは、義貴の唐突な行動にさらに驚いた。
ひーこが怪我をして以来、義貴とひーこはほとんどまともな会話をしていなかった。
その代わりに、ひーこは何度も義貴に触れていた気がしていた。
状況とは裏腹に、ひーこは後悔していた。
——抱きかかえられたりとかして、思い出すと、恥ずかしいな。こんなことならもう少しやせておけば良かった。
しばらくして、義貴の声が聞こえた。
「怪我をさせて、ごめん」
今までも義貴に抱きしめられることはあったのだが、ひーこは不思議と緊張しなかった。
これまでの分がまとめてやって来たかのように、ひーこは緊張していた。
「う・・ううん」
ひーこは義貴の声で心拍数があがってしまい、まともな返事ができなかった。
「嫌な思いもいっぱいさせたな」
義貴はそう言うと、ひーこを抱く腕を離して両手でひーこの頬を包み、自分の顔を寄せた。
とっさのことに、ひーこは大きな目を見開いたまま硬直した。
「目を閉じてくれないか」
義貴は言うが、ひーこは義貴の顔を間近で見て気恥ずかしさのあまりに逃げ出したかった。
ひーこは目線を下に落とすだけで精一杯だった。
「む、無理」
義貴はひーこの裏返った声に軽く笑うと、右手でひーこの瞼を軽く押さえて閉じさせ、ゆっくりキスをした。
ひーこはまだ熱があったが、義貴の唇の方が熱く感じた。
それは義貴の本来の性格を感じていたのかもしれなかった。
ひーこに対して、義貴は冷静なつもりだった。
しかしひーこにキスをした時に、自分の中の何かがひーこに触れて解放された気がしていた。
ひーこの唇から自身の唇を離し、その身体を再び腕に抱いた時、義貴はとても落ち着いた気持ちになっていた。
真っ赤になったひーこはしかし、少し嬉しそうな声で言った。
「熱があがりそう」
その声を聞いた義貴はひーこを抱く手を緩めると、ひーこの顔を見ながら言った。
「寝ていていいよ。俺はここにいるから」
ひーこは照れながら思った。
——緊張して、眠れないよ。
しかしひーこは横になると、すぐに眠ってしまった。




