決壊する思い
夜が明けた。結局夫が寝室に戻って来ることは無かったけれど、久しぶりにぐっすりと眠った所為か、いつもより目覚めが清々しく感じる。
夫はもう起き出している頃だろうか?
そう思いながらも、いつもより就寝が遅かったからまだ眠気が僅かに残っている。恐らくまだ侍女は来ないだろう。
ミューレイはいつもの時間に侍女が起こしに来るまで、ベッドの中で暫し微睡んだ。
どの位時が経ったのか、静かに入室した侍女の囁くような声に半身を起こした。
「奥様、ご起床下さい」
侍女が背もたれにクッションを重ねてくれている間に、微かなノックと共にハウスメイドがワゴンを引いて部屋に入室した。
ワゴンにはミューレイお気に入りの茶器が用意されている。通常であればハウスメイドが紅茶を淹れるべきなのだろうけれど、紅茶を淹れるのが殊の外得意な侍女が手ずから紅茶を淹れ、ミューレイにソーサーごとティーカップを手渡した。
カップを持ち上げて侍女が淹れてくれたアーリーモーニングティーを一口飲むと、爽やかに口の中に広がり、紅茶の香りが鼻腔を抜けて眠気を押し流してくれる。
飲み終わったティーカップが回収されワゴンを押したハウスメイドが一礼して部屋を出るのを確認し、侍女はそっとミューレイに声を掛けた。
「奥様、お仕度を致しますか?」
「ええ、お願い」
侍女の手を借りてベッドから降り、昨晩夫から掛けられたガウンを脱いでナイトウエアだけになると、侍女は普段見慣れない扇情的なナイトウエアに目を丸くしていた。
それも当然の反応だ。ミューレイは普段こういったナイトウエアとは正反対の者しか着用してはいないのだから。
……肌の露出が多いナイトウエアを見られるのは少しだけ恥ずかしかったけれど、何も言わず静かに着替えを手伝ってくれる侍女に心から感謝した。
侍女の先導で居間へ入ると、既に朝食の準備が整えられていた。壁には家令が控え、数人のハウスメイドが給仕のために静かに動いていた。
いつものように席に着くと、向かいの席にもう一人分の朝食が準備されていることに気付く。
控えていたハウスメイドに夫の事を聞けば、「もうすぐいらっしゃるとお聞きしています」と控えめにそう言った。
朝食を一緒に摂るだなんて、いつぶりだろう?
普段夫は早くに起き出し、一人で朝食を終えると直ぐに王宮へ出仕してしまう。
だからミューレイは毎日、夫が出掛けた後に一人で朝食を頂いていた。
もしかしたら夫は、昨日のミューレイの様子を気遣い、朝食を遅らせて下さったのかもしれない。
勿論、ただの気紛れかもしれないけれど…。
そう思うと、少しの申し訳なさと共に嬉しさが込み上げてくる。
慌てて居住まいを正し、落ち着きなくドアを見ていると、メイドの言う通り、夫はそう時を待つことなく居間に入ってきた。
「おはよう、ミューレイ」
「おはようございます、旦那様」
夫は朝食後に直ぐに出掛けられるように、パリッとした淡いブルーのシャツに白いタイを付け、片手にジュストコールを持ち、品の良い紺色のベストを纏っていた。
爽やかな色合いの服は、夫の柔らかな栗色の髪に映え、とても良く似合っている。思わず顔が緩み、夫の格好良い姿に胸が高鳴った。
穏やかに微笑んで向かいに座った夫の顔は、少しだけやつれて見える。昨晩はあまり眠れなかったのだろうかと、不安が過った。
「旦那様…」
「なんだい? ミューレイ」
「少し、お疲れが見えるようですが、お体の具合があまり宜しくはないのではありませんか…?」
「いや、昨日は少し遅くまで起きていたんだ。きっとその所為だろう」
「そうでしたか」
夫の言葉に頷き、手元に置いてあるグラスを手に取った。
夫も同じようにグラスを手に取り、目の前に並べられた温かなスープと焼き立てパンを食べ始める。
暫く、食器の音だけが居間に響いていた。
食事を終えて一息付いたところで夫に目を向けた。
ミューレイの視線に気付いたのか、夫が僅かに顔を上げる。
「……昨晩、私のお話を聞いて下さると仰いましたね」
「ああ」
夫は真摯な眼差しでミューレイを見つめると、口元を拭ったナプキンをそっとテーブルに置いた。
その一挙手一投足にいちいち反応してしまう。
けれど昨日からの決意を思い出し、自分自身を奮い立たせた。
「本日のお帰りを、お待ちしています」
「…分かった。なるべく早く帰れるようにする。今晩は、一緒に晩餐を摂ろう」
「はいっ」
思わず元気よく返事をすると、夫は頷いて席を立ち、「先に失礼するよ」と足早にダイニングを出ていった。
晩餐の約束をしたのは、もしかすると婚約していた時以来の事かもしれない。
常ならばミューレイから言い出さなければ何も言わない夫が、自ら晩餐の約束をしてくれた。
夫が、私の事を考えてくれている。それはこれまでには考えられないことだった。
……今夜こそ、これまで出来なかった話をしよう。
正直な気持ちを話そう。
そして夫の気持ちも、出来たら教えて欲しい。時間はたっぷりある。先ずは何から話そうか?
夫の帰りが今から待ち遠しく感じて、私は控えていた侍女を連れ、浮き足立って自室へ戻った。
そうしていつの間にか、晩餐の時間になっていた。
夫が出掛けた後、自室へ戻ってからは刺繍を刺しても上の空で、手元が疎かになってしまっていた私を見兼ねた侍女が、刺繍を止めて読書をしてはどうかと勧めてくる。
本を開いたまでは良いものの、その内容がミューレイの頭の中に入って来ることは無かった。
晩餐の時間が近付きイブニングドレスへと装いを変えると、今までになく緊張して胸元を押さえた。
控えていた侍女が、夫が帰って来たことを告げ、ダイニングルームへと先導してくれる。廊下の奥に見えてきたダイニングルームの外には既に夫の従者が控えていて、夫が中に居ることを教えてくれる。
常よりも随分早く帰宅した夫は、もしかすると帰って直ぐにこちらへ向かったのかもしれない。
そう思うと、申し訳なさで自然と早足になった。
落ち着いた調度品が並ぶダイニングルームの中に入ると、ゆったりと腰掛けていた夫がにこやかに出迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ただいま、ミューレイ」
夫の向かいに腰掛けると、ハウスメイドがそれに合わせてワインを注いでくれる。
ワイングラスを手に取り、互いのグラスを軽く持ち上げて挨拶し、手元のグラスを口元に引き寄せてワインの芳醇な香りを確認し、ワイングラスを傾けて一口飲んだ。
酸味のある深い味わいが舌に広がった。
ああ、美味しい。
ワインの豊潤な香りの余韻を味わい夫を見ると、柔らかな眼差しでミューレイを見つめていることに気付き、頬がかっと熱くなった。
早朝に着ていたベストを脱ぎ、襟元を寛げて髪を後ろに撫で付けた夫は、普段はかっちりとした装いで凛々しい雰囲気を持っている。けれど今は、疲れているのこともあってか、妖艶な男の色気が滲み出ていた。
並べられた食事に手を付け、手元を疎かにしないようナイフを動かしながら、思わず夫に見とれてしまう。
本当にミューレイには勿体無い程恰好良い人だ。
その思いが伝わったのか、伏せていた目を上げ、夫がゆっくりと話し掛けてくる。
「今日はミューレイは一日、何をしていたんだ?」
「今日は……」
ミューレイは咄嗟に、一度開いた口を閉じた。
以前、刺繍の話題が出た時には、夫に不快な思いをさせてしまった。
夫は口を閉ざしてしまったミューレイを不思議そうな眼差しで見つめ、その手を止めてミューレイの返答を待っている。
……もう、間違えたくはない。
「今日は、部屋でゆっくりと過ごしていましたの。読書をしたり、刺繍をしたり。ですが今日は中々進みませんでした」
「そうか」
「旦那様は、今日はお忙しかったのですか?」
「いや…。ここ最近は然程忙しくはないな。新しく赴任した騎士も多いし、私は直接の指導を行っているわけではないから」
「そうなのですね」
私の相槌に頷いた夫は、一度視線を空へ飛ばし、「そういえば」と切り出した。
「昨日のナイトウエアは、ミューレイが選んだものか?」
「……はい」
「とても良く、似合っていた」
「……! ありがとうございます」
恥ずかしくて頬が熱くなるのを感じながら、ミューレイは落ち着きなく視線をやり、ドレスの裾をきゅっと握りしめた。
夫が似合うと言ってくれたナイトウエアは、親友からこの日の為にと譲って貰った品だ。
もしかしたら、はしたないと思われているかもしれないとそう思っていた。
夫に掛けられた意外な言葉が嬉しくて、思わず満面の笑みを浮かべれば、夫は口元を緩めて優しい眼差しで見つめてくれる。
……こんなにも嬉しい思いをしたのはきっと結婚式以来かもしれない。
話の流れでミューレイは思い切って夫に尋ねた。ミューレイがこれまで話したかったこと。聞きたかったことだ。
胸が先ほどまでとは違う、緊張感でバクバクと鼓動を高鳴らせる中、勇気を振り絞って夫の目を見つめた。
「旦那様は、私に何か不満がございますか?」
「不満?」
「はい。私はこれまで、あまり公爵夫人としてきちんと振る舞う事が出来て居ませんでした。その地位に見合うこと、旦那様の妻としてするべきことをきちんと出来ていなかったと、そう思うのです」
「………………」
「ですから、これからは少しでも旦那様の隣に立つ人間として、お役に立ちたいのです。その為に、不出来な部分を直し、もう一度公爵夫人として相応しい女性となって、旦那様の隣に立ちたいのです」
「ミューレイ」
夫は、私の言葉に意外そうな表情で目を見張り、そっと息を吐いた。
―――落胆、されてしまっただろうか?
不安に思いながら夫を見れば、夫は一度首を横に振ってミューレイの顔を覗き込んだ。
「不出来な等と思ったことは一度もないよ。ミューレイは公爵夫人として、とても上手くやってくれている。もしミューレイが負い目を感じるように私がさせてしまったのならば、申し訳ない。けれど本当に、ミューレイは結婚してからずっと、この邸では主人としてきちんと采配してくれていたし、公爵夫人として相応しい振る舞いをしてくれていた。私にとっては、最高のパートナーだと思っているよ」
夫の言葉に、今度はミューレイが驚愕する番だった。
常々妻としても、公爵夫人としてもきちんと振る舞えていない自分をずっと恥じていた。
その役割もきちんとこなせず、夫との冷えきった夫婦仲でさえ、互いの溝を埋めることすら出来ていなかったミューレイを夫は気遣い、労いすら与えてくれる。
その優しさに、思わず熱いものが込み上げ、後から後から涙が溢れてきて止まらない。
涙が頬を伝うのを感じそっと眦を抑えると、いつの間にか席を立った夫がミューレイの座る席の隣に立ってそっとミューレイの肩を抱き、自身の胸に引き寄せた。
夫の服を濡らしてしまうと顔を離そうとしたミューレイの後頭部を軽く押し、優しい手付きで背中を撫でる手に、ミューレイは胸のつかえが全て押し流されるのを感じた。
「大丈夫だよ、ミューレイ」
そう囁く夫の胸で思う存分涙を流したミューレイは、しゃくり上げながら夫の服をぎゅっと掴んだ。
ミューレイを抱きしめる腕が、こんなに固く、そして優しいことを今改めて思い出した。
嬉しくて、悲しくて、辛くて。
どう表現して良いかも分からない感情が複雑に混じり合い、夫の腕の中で涙と共に外へ外へと流れていく。
数分、数十分程泣き続けたミューレイは、ようやく涙が乾き、ひりひりと瞼が痛み出した頃、夫の胸から顔を上げた。
夫の服はすっかり色が変わってしまい、握りしめていた部分にはくっきりと大きな皺が出来ているのを見て、思わず焦ってしまう。
ああ、夫の服をダメにしてしまった。
夫はそんな私を静かに見つめ、「気にするな」と言って、慌てるミューレイの髪を撫で、宥めるように優しくその背中を叩いた。
「ごめんなさい、旦那様。お見苦しい所をお見せしてしまって…」
「いいや。私の方こそ、今まで随分悩ませてしまっていて申し訳ない。これからはお互いの思いを、きちんと言葉で話して行かなければいけないね」
「はい…」
「ミューレイ、今夜寝室で待っていて欲しい。私も、聞いて欲しい事があるんだ」
夫はそう言って私を立ち上がらせ、控えていた侍女の手に引き渡すと、そっとミューレイの額にキスを落とした。
「ゆっくり湯浴をしておいで。私も直ぐに後から向かうよ」
離れてしまった夫の温もりが寂しくて、思わずじっと夫を見つめれば、夫は穏やかで、けれど何処か熱の篭った眼差しで見つめ返し、自室へと向かうミューレイを静かに見送った。




