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旅立ちの日

ニルスが親方に呼ばれたのは十五歳の誕生日を迎える一週間ほど前のことだった。工房の奥の親方の部屋に入ると親方の他にもう一人小柄な男がいた。


「これがニルスだ。読み書き算盤、あと剣術も一通り習わせてある」

親方は、男にニルスを紹介した。


読み書き算盤は、工房の仕事の合間に先輩の職人から教わった。アルカザイア公用語が中心だが、製本に必要な文字数字なども含まれる。製本工房には、仕事で必要な読み書きを習うための教則本があり、先輩たちも同じ本で習ったのである。


剣術は、これはメダスの町の道場に通わせてもらった。町の道場は騎士の剣術などとは違い、行商人になるための護身術を教える場であった。将来、町の防壁の外へ出るだろう者で護衛をやとうことのないものは道場で護身術を習う。


製本家(ブックバインダー)サティだ。私の工房はアフテラにある。私と一緒に来るか?」

サティと名乗った男は、そう言ってニルスにも丁寧に挨拶した。ニルスは、大人からそんな風に挨拶されたことに緊張して顔を赤くした。もちろん尋ねられたからといってニルスに選択の余地があるわけではない。


徒弟は大体十五歳で職人になる。職人になったらすぐ工房を持てるわけではない。多くの場合は、また別の親方の下で働くのだ。そうしていくつかの工房を渡り歩いて、いろいろな仕事やその仕方を見て独り立ちするが、そのうち工房を構え親方になる者はホンの少しだけだ。一生を親方の下の職人で終わる者も少なくない。ニルスはその第一歩としてアフテラのサティの工房に行くことになったということなのだ。


「魔法は使えるか?」

「はい。火の魔法が少し使えます」

製本の見習いに火の魔法は危ういと思われるかもしれないとニルスは、また別の意味で緊張した。しかしそれは考え過ぎだったようだ。

「火か。(にかわ )を溶くために使えるな。出発は三日後だ」

サティがそう言うと、親方の合図でニルスは親方の部屋を後にした。親方とサティは、その後もずっと話をしていたようだったが、三日となるとニルスにも片付けなければならないことがある。


まず、工房に戻って職人のライアスに話しかける。

「アフテラのサティさんの下に行くことが決まりました。出発は三日後だそうです」

ライアスはちょっと顔を上げて遠くを見るようにしてから聞いた。

「そうか、今の本はどこまで進んでいる?」

「マティスさんの転写本をちょうどさっき二冊目の折りが終わってプレスにかけたところです」

「三日だといろいろ準備もあるだろう。今日中に三冊目の折りまでやりなさい。それが終わったら、片付けや準備にかかっていいぞ」

製本の工程には、プレスだとか糊が乾く間とか、すぐに次の工程にかかることのできない部分がある。そのため、この工房では三冊を一組として仕事をするのが普通であった。折りの作業だと三冊目をプレス機にかけたころには一冊目の綴じを始められるのである。

ニルスは言われるままに自分の作業台に戻り三冊目の折を始めた。今、作っている本は三枚の紙を一つの折り丁にする。一冊分の紙の束を上から三枚ずつとって、ページ数を確認しながらへらを使ってきっちり折っていく。簡単な作業だが、ここで乱れると最後の仕上がりに響くのである。大きな工房で取り扱う印刷の本には折丁ごとに符丁がついていて間違えないようになっていると聞いている。しかし、精霊インクを使った転写本にはそんな符丁はついていない。また、もともとのインクの量によって転写がうまくいかないこともある。そんなページを発見するためにも素早く目を走らせながら折っていくことが必要である。手と目を忙しく動かしながら、ニルスは旅立ちの(はなむけ)は何だろうかと考えていた。


この工房では、それぞれの誕生日に他の者が協力してプレゼンをと贈る習わしがあった。ニルスが工房に来て初めての誕生日を迎えたときには、へらをもらった。教えてもらいながら自分で削って油に漬けて大事に使ってきた骨製のものである。九歳では小さなナイフをもらった。ナイフは製本作業にいろいろと必要だが、それぞれに癖があって人のを借りると後々使いづらくなる。それで早めに自分のナイフを持たされた。何度か指に切り傷を作り痛い思いをしながら使い方になれてきたのだ。針をもらったのは十歳で綴じを教わったときだ。製本用の針は縫い物の針より太くて長い。そして、針先がとがりすぎていては紙を傷つけるのでヤスリで先端を少しだけ丸くする。あまり丸くしすぎると、それはそれで使いにくい。その加減も使いながら覚えてきた。十一歳でもらったコツというのは四角い硬めの木の欠片である。職人の好みによっていろいろな大きさがあるが、ニルスのそれは片手にのるくらいの大きさである。これで紙の束をまっすぐに整える使いこなせば便利な道具である。十二歳で糊を使うときの刷毛をもらった。馬の毛を使ったもので黒い木でできている。大きさや用途に応じて工房で共同で使う刷毛はたくさんあるが、自分の刷毛はやはり使い勝手がいい。糊や膠を使った後はよくよく洗って乾かして大切に使ってきた。十三歳でもらったのは目打ち。持ち手が丸くなっていてすっぽりニルスの手に収まる。これで穴をあけて綴じるのだ。十四歳では真鍮でできた短い定規をもらった。


そして十五歳。職人となる年には、別の工房に移るにしても、この工房に残ることになってもちょっと豪華なプレゼントがもらえることになっていた。それを(はなむけ)と呼んで徒弟の間では楽しみにしていた。一昨年、隣町の工房に行ったヘルガは綴じ台をもらった。ヘルガは綴じが特に上手だった。新しい工房に行ってもきっとその腕を見込まれていろんな綴じを覚えていることだろう。

ニルスは直接はあったこともないが、十年ほど前に王都の工房へ修行に行った徒弟はなんと金箔押しの型をもらったらしい。王都の工房ともなると金箔装飾の本も多いだろうという配慮である。もちろん装飾によって何種類もの型を使うので多くは工房ごとに備え付けの型を使う。が自分の型があればちょっとしたものにも箔押しをすることができる。さて、自分は何をもらうのだろうとニルスは今からわくわくしていた。


新しい親方はどんな人だろうとか、アフテラってどんな町だろうとか、そもそもアフテラってどこにあるんだろうなどとふっと気を緩めるとそんな不安が次々とわき上がってくるが、それこそ考えても仕方ないことである。新しい親方がどんな人であろうと、ニルスはその新しい親方の工房で働くしかないのだし、アフテラがどこにあってどんな町であろうと新しい親方の工房はそこにあるのだから。


三冊目の折りを終わって紙の帯できっちりまとめて二枚の板にはさんでプレス機にはさむ。大きなハンドルをぐるぐる回して鉄板を下ろし、天板が板につくまで板がずれないように指を添えている。ずっと何年もやってきた手順をニルスは間違いなくこなした。


「今日はもうあがっていいぞ。ここの片付けや旅の準備もあるだろう」

ライナスに仕事が終わったことを告げに行くと、そう言ってもらえたのでニルスは自分の作業台のまわりを片付け始める。隣で小さい徒弟のテオが何か言いたそうにしているが、今はまだ休み時間じゃない。徒弟がおしゃべりをしていい時間ではなかった。ニルスもそれはわかっているので、後でという風に頷いてみせて、作業台の引き出しからぼろ布をとりだした。その布で、今まで使っていた工房の道具をちゃんと拭いてしまっていく。次にこの道具を使うのはどんな人だろうか。

自分の道具は、同じ布でふいてあまり布で自分で作った道具入れにしまう。その後、作業台の上のゴミを集めてゴミ箱に捨て、ぼろ布を洗い場で洗う。洗った布で作業台の上をきれいに拭いてできあがり。下に落ちたゴミは箒で掃き集めてゴミ箱に捨てる。そうして、すっかりきれいになった七年間使ってきた作業台をもう一度しっかりみると工房の中の皆に頭を下げた。


「あがらせてもらいます。ありがとうございました」


「おう、元気でな」

「がんばれよ」

「焦らずに、こつこつやるんだぞ」

それに答えて、職人たちが声をかけてくれる。それを背にニルスは工房を後にした。


「サティさんと一緒に行くんだってね。サティさんはいい人だよ。しっかりした技術もあるし、頼りになる人だ。旅の製本家(ブックバインダー)としてはピカイチさ」

工房の外にでると、おかみさんがニルスを見つけて呼び止めた。その言葉で、おかみさんもということは、親方も新しい親方のことをよく知っているらしいことがわかってなんだかほっとした。

「「製本家(ブックバインダー)は馬車で行くから、ある程度の荷物はもっていけるよ。着替えとか道具とかこれにいれるといい」

荒い布で作られた物を詰めると子どもの背丈ほどにもなるだろう大きな背嚢をニルスに手渡す。ニルスは礼を言って自分の部屋に帰った。今夜とあと一日で慣れ親しんだこの部屋を片付けなければならない。


翌日、ニルスは持っていく荷物をまとめたり、いらないものをテオにやったり捨てたり部屋を掃除したりと忙しくしていた。職人たちも休み時間に立ち寄って、旅の注意なのか自分のときの自慢なのかはたまた失敗談なのかわからない話をしていく。途中で話に夢中になって手が止まってしまって片付けが遅れてしまうこともあったが、それらの職人たちの話をきいているうちにニルスは今、自分に起こっていることが特別なことではなく誰もが通る道なのだとなんとなく心におちるものがあった。


「ぼくは、ずっとこのままだと思ってた」

だから、テオにそう寂しげに言われたときも笑って答えることができた。

「そんなことはないよ。俺の前にはヘルガ姉さんが隣町の工房に行ったし、テオの後にだって誰かが徒弟にくるんだよ。ちゃんとめんどうみてやれよ」

声もなく頷くテオの肩に手を置くと言葉を続ける。

「それよか、わかってるか?明日から徒弟の仕事、おまえ一人で全部やるんだぜ」

「あ」

テオは今それに言われて初めて気がついたようであった。

「膠や糊の準備も、筆を洗ったり、水を替えたり、ゴミを捨てたりさ」

「う、うん」

「工房の前の掃除もわすれるなよ」

「…うん」

今まで二人でやってきた徒弟の仕事を一人でやることを考えてテオは別な意味で不安になってきたようである。

「ところで、何かあったか?」

「ああ、忘れたお祝いの用意ができたから、ニルス兄さんを呼んできなさいっておかみさんが」

「こいつ、それを先に言えよ!」

ニルスの旅立ちのお祝いには、おかみさんが腕によりをかけた料理が並び、職人たちには酒も振る舞われた。親方の隣にはサティの姿もあった。

「ニルスへの(はなむけ)はこれだ。これからも腕を磨いていい製本家になるんだぞ」

親方から渡されたのは黒い革の箱。中には革刀が入っていた。刃の部分は赤い革のカバーがつけられている。黒い同じ革で作られた研ぎ台もセットになっていた。

「革漉き覚えないとな」

サティが静かな声で言った。

「お、俺…」

ニルスはうれしくて言葉がでてこなかった。これがあれば、革の加工ができる。革の装丁ができるのである。紙や布で装丁するのも美しいが、なんといっても革の装丁は製本の花形である。革の上に箔押しやオンレイ、インレイいろいろな装飾を施して世界で一冊しかない本をつくりあげるのだ。


翌朝、早朝。ニルスは工房の人たちに見送られながら、工房の前で馬車を待っていた。

サティの馬車は黒い馬にひかれた一頭立ての馬車であった。ふるさとの田舎で見た幌馬車ではなく、立派な屋根のある焦げ茶色の馬車であった。飾りこそはないが凝った作りであることは馬車に初めて乗るニルスですら扉のノブなどに見て取れた。また、それが丁寧に使い込まれている。


「こりゃ、すごい馬車だ」

ライナスがびっくりしたような声を上げた。道具を大事にする職人はいい職人だというのが常日頃からの彼の信条である。馬車も旅する製本家(ブックバインダー)の道具の一部とするとサティはかなりいい職人になるのだろう。


ニルスの荷物を積み込み、親方からサティへいくつかの包みが渡される。素材や他の工房へ届けてもらう荷物であろう。すべての荷物の積み込みが終わると、ニルスは工房の皆にもう一度頭を下げた。


「今までありがとうございました。いってきます」


「がんばれよ!」

「いってらっしゃい」

「元気でやるんだよ」

皆の声を背に受けながら馬車に乗り込む。サティは既に御者席に座っている。馬がぶるんと体をふるわせて馬車は動き出した。町中では、ゆったりと進む。そうして町の防壁を抜ける。大きな石造りの門をくぐるとそこは町の外であった。


さあ、旅が始まる。世界はきっと広い。




製本家を主人公とした冒険もの…のはずがまだ「最初の町」から出るところまでです。更新も話の展開同様、まったり気味となる予定です。どうぞよろしくお願いします。

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