TiPs~命の在処
今回は、TiPsです!
主題は、命のお話。
TiPs~命の在処
命とは生まれるモノでなく、宿るモノである。
故に、魂や精神といった、俗にいう「生命体」においてのみ適応される概念とは同一視されるべきではない。
命はあくまでも個を構成するための外的素因であり、翻って、個の外界に存在するモノである。
ーーー命は、世界に宿る。
個ではなく、世界に宿るモノなのだ。
だからこそ、個は生きることを許されている。
仮に、命が個で完結する概念であれば、おそらくそこには、生という営みそのものへの矛盾が生じてしまうだろう。
ーーー生きている者は、すべからく命がある。しかし、命あるモノが皆生きているのかと問われれば、答えは否だろう。
あくまでも、命は免罪符にすぎない。
世界に宿った命は、ただの招待状のようなものーーーそれが、ヒトが尊いと敬う、尊厳の真実である。
※
Tips~chance:兄:汝の名を問うー君の名を、呼ぶ:縁
「自分が何者なのか」っていう問いかけは、いいあえて妙なんだよね。
だって、何者なのかという問いの対象が「自分」でありながら、それでいて、その問いに答えるのもまた、「自分」なんだから。
一見すると、閉ざされた概念みたいじゃない? この質問って。
自分で問うて、自分で答えるーーーそれは、ある意味では完全な「個」という解に直結するんだろうけど・・・・・・でもね。
この問いかけに、そう臨むことは、本質的に間違ってると思うんだ。
だって、「自分」なんてものは、「他者」がいなければ生まれないんだから。「他人」がいて、「自分」がいる。「自分」がいるから、「他人」がいる?
ふふ、鶏と卵の問題みたいだよね?どっちが「因」で、どっちが「果」なのか。でもまぁ、それは今回は関係ない話か。
要は、「自分」という存在を成立させるには、「他者」という存在が前提に無ければならないってこと。だったら、「他者」を排して導きだした「自身」という答えは、そもそもがおかしいってことになるよね。
……だからね。
だからこそ、問い続けなければならないんだ。
それは、とてもつらいことだけれど。でも、それを成すことができれば。
そうすれば、自然と自分の「立ち位置」が見えてくるはず。
多くの場合、それは自身が幾重にも張り巡らされた縁に絡み取られて、身動きが取れなくなっていることを自覚させるだけで……終わるのだけれど。
でも、その上で。
その、縁のーーー張り巡らされた因果の網の中、それでも尚、君が何かに臨むのであれば。何かに臨むことを、望むのであれば。
君は、「誰か」に成るよ。
君は「誰か」に成って、そしてーーーその時君のそばには、「誰か」がいるはずだ。
「誰か」という君がいて、「誰か」という他者がいて。
そしてそこに、ほんの人に握りでもいい……互いを想い合う、心の縁が延ばされていれば。
君は、「世界の定義する君」ではなく、君として、物語を紡ぎ続けることができるはずさ。だから、屁理屈をこねるんだ。
彼はもう、「兄」であることを選んだ。
彼は、選んだんだよ。そして、それだけでは、物語は突破できない。本来はそれだけで十二分に奇跡なんだろうけれど、でも、その先がある。
けれど、彼が「兄」であり、君が「妹」であるだけでは、その先へは至れない。
彼は、彼だよね? 君が、君であるようにさ。
彼は「兄」であると同時に、彼なんだ。だから、お願いだ。
どうか、選んでほしい。君が、君であることを。
たとえ世界が許さなくとも、それでも。
君には、君でいて欲しいんだ。
※
TiPs~命と、縁
ーーーさあ、真名を明かそう。
それの「真名」は、「命」である。それは、無数に張り巡らされた縁の元に、「それ」として、君の前に立つ。
さて、君はどうする?
君は、「それ」を尊いと思えるか? あるいは、「それ」に至高の価値があると信じることがーーーできるかい?
優しき縁の網で護られていた「それ」は、自らの意志で己を護る殻を食い破ったモノからこぼれ落ちた・・・・・意志なき、存在だ。
そのこぼれ落ちたモノは願望機とよばれる現象でありながら、ただの「命」として、君の前に降り立ったんだ。
その、意味を。
「それ」が、「命」として、君の前に立つことを・・・・・・君が、望んでくれるなら。いや、君が、望んでくれなければ。
その奇跡の器には、「命」が宿ることは無く、そして、その帰結として、この物語は・・・・・・
いや、命と、縁のお話でした。