無限想歌:最終話:想いの還る場所
エピローグがありますが、ひとまず無限想歌true-end終了です。
無限想歌:最終話:想いの還る場所-東利也
その女性は、俺と瀬戸の前に突然現れた。
ノックもなしに、一言の挨拶も無く、ドアを蹴破らんばかりの勢いで部屋に転がり込んでくると、振り乱した髪をかまうこと無く俺の手を取り、
「小羽ちゃんが、由香さんを殺そうとしてるんです!だから、速く止めなくては!
」
と、涙目で語りかけてくる。
・・・・・・とりあえず、思考が停止した。
突拍子の無いことにある程度の耐性はついてきたような気がするんだけれど、やっぱし無理なもんは無理。
そしてそれは、たぶん、瀬戸も同じ。
目配せで、目の前の女性の素性を知っているかと瀬戸に問いかけるが、彼女も、俺と同様に困った顔をするのみ。
部屋の空気が凍る中、「急いで!」と叫んだ女性は俺の手を取り、無理矢理にでも俺を立ち上がらせようとする。
さすがに見かねた瀬戸が、混乱気味の彼女に静止をかけた。
俺から視線を女性に向き直し、彼女を見据える。
「落ち着いて下さい。 由香先輩が、どうしたっていうんです?」
瀬戸は、普段の彼女からは想像もできないくらい優しい声で、女性に語りかけた。そして、
「由香先輩には、頼もしい護衛が付いています。万が一にも、彼女が傷つけられるようなことは、あり得ないんですよ」
と、微笑みかける。
けれど。
「その、万が一が起こったんです!峰岸さんに・・・・・・久遠さんでもいいです。確認して下さい!彼女は、今、この病院にいないんです!此処ではない場所で・・・・・・っ!」
けれど、女性は悲痛な叫びをあげるだけで、まったく落ち着きを取り戻すそぶりがない。それどころか、あげくには峰岸と久遠の名を引っ張りだしてくる始末だ。
「・・・・・・瀬戸、ごめん。確認してくれないか?オレ今、携帯壊れてるしさ?」
峰岸と、久遠。今回の件で、俺を・・・・・・俺と由香を救おうと奔走してくれた、大切な友人だ。今日目覚めたばかりの俺は、まだ二人には会っていない。
瀬戸の話だと、俺と由香の保護のために、現在進行形で手を打ってくれているとーーーあいつを・・・・・あの、くそガキを、「消し去る」ために、行動しているということだった。
「・・・・・・ちょっと、まってて」
二人の名を聞いた瀬戸は表情を消すと、病室内にもかかわらず携帯を開いた。
もちろんマナー違反というか、タブーを犯しているわけだが、そんなことをとがめる人間等ここにはいない。
俺自身、あの二人の名を聞いた時から、動機が止まらないでいる。
「あ、峰岸?いま、ちょっといい?」
携帯越しに、「うん、うん」と答える瀬戸。
その、「うん」という応答が重なるたびに、彼女の表所が固く、青ざめていく様子が見て取れた。あわせて、俺の鼓動が跳ね上がる。
彼女が頷くたびに、心臓が拍動を一拍ずつ跳ね上げていく。
「わかった。言う通りにする」
震える手で、瀬戸は携帯を閉じた。
そして、峰岸たちーーー峰岸と久遠が、この病室に向かっていることを、教えてくれた。そして。
「由香さん、病室を脱走したんだって。そして今、万騎が原の土手にいるみたい・・・・・・小羽って幽霊と、一緒に。それで・・・・・・・とにかく、峰岸と久遠がこっちに向かってるから、勝手なことはするなって。頼むから、「此処」にいてくれって・・・・・」
瀬戸の不安気な声が、無機質な病室に響く。
その声を境に、一斉に世界は音を閉ざした。
無音が、俺を襲う。無音の中の鼓動が、俺の神経を刺激する。
「なんだよ、それ・・・・・・」
思考を放棄するまいと、水を口に含ませた。
からからの喉に、ぬるくなった水が染み渡る。
「なんで、あいつ・・・・・・なに、してんだよ!」
脳裏をちらつく、あの時の光景。
戦火と怨火、二つの火が彩る世界でーーー二人が、涙を流す、あの光景がーーー
「なんだよ、それ!だって、由香には護衛が付いてるんだろう?シロさんみたいな魔法使いがさ!?それなのに、なんで、そんなことになるんだよ!?」
行き場の無い不安が怒りを呼び、何の罪も無い瀬戸へと怒声を発してしまった。
そんな理不尽な俺に瀬戸は気を悪くすることも無く、「落ち着いて」と諭すように手を握りしめてくれる。
ひんやりとした瀬戸の手が、心地いい。
自分以外の他者のぬくもりが、俺の不安を和らげてくれる。
けれど。
「はやく、行きましょう!事情は理解されたのでしょう?ならすぐに、あなたは立ち上がるべきです!」
けれど、見知らぬ女性はそれを許してくれない。
俺の空いた手を再び引くと、無理に立ち上がらせようとした。
当然ながら何の準備もしていない俺は病床からずれ落ち、無様にも床に滑り落ちることになる。
「ちょっと、何をするんですか!やめてください!」
地べたを這いずったまま顔を上げることの出来ない、俺。
そんな俺をかばうように、瀬戸が女と俺との間に身を滑り込ませた。
それでも、女は俺の手を離さない。
「だいたい、あなたは誰なんですか?峰岸の話では、使いを私たちのもとに出した覚えは無いって言ってましたよ?
・・・・・あなたのことは、まるで承知してませんでした!
あなたは、どこの誰なんですか? 何が、目的なんですか?」
瀬戸の強い声が、俺の耳を打つ。
俺はどうすればいいのか分からず、相変わらず俯くだけだ。
俯いて、震えるばかり。そんなことは、ヒーローのすることじゃない。
そんなのは、弱者が、愚者が、俺が・・・・・俺が今までさんざんまらやってきたことだ。もう十二分なほどにやらかしてきたことだ。
だから俺は、そんな自分と決別するために、瀬戸に協力を申し出たんだ。
由香とあいつを守れるようにと。そしていずれは、それ以外の誰かすらも、まもれるようにと。
なのに、もう、こんなところで。
こんなにもすぐに、俺は・・・・・・・
「まだ終わりじゃない。あなたなら、彼女達を救えます。あなたなら・・・・・・「兄」であることを選んだあなたなら、きっと。」
声は、頭上から降り注ぐ。「まだ終わりじゃない」という言の葉。
そして、こころに響く、「兄」という幻想。
その二つの言葉反響し合いながら、俺に「諦めるな」とささやきかける。
「俺なら、止められる?」
俯いた顔を上げ、視線をあげた。
そこに見えるのは、か細い瀬戸の背中と、見知らぬ女性の厳しい表情。
彼女は、「可能性は低いですが、ゼロではありません」と、俺の手を強く握り返した。そして、懐から石をーーーシロさんがもっていたのと同じ、あの奇麗な石を取り出す。
・・・・・・その石を見た瞬間、俺は彼女の意図を察した。
だから。
「連れてってくれるんですか?」
短く、問いかける。その答えは、「それがあなたの答えなら」という簡単なものだった。
だから、俺は。
「東、ダメ! 安易に動いちゃ! 此処は、峰岸たちを・・・・・・」
瀬戸の静止を遠くに、俺は女性の手を握りかえしていた。
目の前の女性が、誰かなんて知らない。目的だって分からない。けれど俺は、無意識のうちに、ただただ、握り返していた。それは反射的なもので、おれが意図してやったけじゃない。
・・・・・・でも、十分だったようだ。
彼女は、それを「答え」と受け取ったらしい。
「起動」
短い呪文の後に、世界が歪みを見せた。
グニャンという、あの、過去に跳ばされた感覚に似た違和感が俺の頭を遅い、そして・・・・・・
無限想歌:最終話:想いの還る場所-シロ・アルトリアル・シュバルツ
空間転移の石を起動しようとした、その時だった。
「?」
時空という均衡が、崩れていた。
それは、転移術式を使用した場合に生じる当たり前の事象なのだけれど、
残念ながら、わたしは「まだ」術式を起動していない。
「かまえろ」
短く、マイクが警告する。
時空の歪みは私たちの10メートル先。
転移術式ジャミングの「ぎりぎり範囲外」だーーーつまりは、術者は「私たち」を「意識している」ということ。
背後に回った夕日が醜く歪み、その以上を私たちに視覚として告げていた。
「ふたりとも、こちらへ。さあ、はやく」
二人を守ろうと、伊吹さんへと手を伸ばした。
けれど、空間の異常を察知した伊吹さんがとっさに振り返ったため、彼女の手は弧を描いて私の手をすりぬた。
場を緊張が支配し、皆が皆、固まる。
紅い紅い世界で、その場の全員が見守る中、像が、結ばれる。
転移術が完成し、その、術者の姿が・・・・・・って!?
「し、師匠!?
・・・・・と、東君?」
術者が姿を現した。
先日のこともあって、私たちは「悪意」の再来を予想していたんだけれど、現実は、その反対・・・と言っていいのかは分からないけれど、少なくとも現れた彼女は、私たちに「悪意」なんて持っていないはず。もちろん、「敵意」とかもなくて。
でも。
「あん? あのガキ、目ぇ覚ましたのか?」
真っ青な顔をした東君が、パジャマ姿でこちらを見つめていた。
今の彼は、今にも倒れそうなほどに血色の悪い。
立っているのもやっとっていう感じかな?
いかにも病人の体って言う格好だ。まあ、伊吹さんも同じ格好だから、べつに彼だけが変って分けじゃないんだけれど。
そんな、彼の後ろで。
希代のトラブルメーカーこと我らが師匠は(正確には私とマイクだけだけど)、☆(・ω<)と悪戯っぽくポーズを決めた後、さっさとトンズラを決め込んだ。
懐かしい「起動」という呪詛を唱え、霞のように消え去る。
当然ながら、背後で空間をねじ曲げられた東君はたまったものではない。
やられたことがあるから分かるけど、この転移術って、自分が転移するよりも自分の側で転移される方がよっぽど気持ち悪くなるんだよね。タバコの副流煙みたいなもの?
・・・・・・だからだろうけど、東君も例に漏れずに、ビクリと後ろを振り返った。けれど、そこには誰もいない。
彼は一瞬ぽかんとした表情を見せると、ガシガシと頭をかきだして、「え〜?????」と、誰にともなく叫び声をあげていた。
・・・・・・その気持ち、分かるよ、東君。
と、私は言いたかった。あの女に関わった人たちの共通認識が、「え〜〜〜〜?」だからね。ほんとにもう、「え〜〜〜」以外の何者でもない。
だってあの人、適当だからね。
天才のくせに、適当だから。ちゃんと説明もせずに全部を一人でやっちゃう人だから。
だから、凡人はその意味をくみ上げることができないまま放置されるんだよね、最終的に。でも、そこに悪意はない。
師匠に限っては、それは無いから。だから。
きっと。
この光景も、意味は分からないけれど、でも、信じられる。
この、物語の結末は。
500年というときを経て紡がれた物語の結末と、その意味は、きっとーーーー
無限想歌:最終話:想いの還る場所-寿小羽・伊吹由香 vs 東利也
その人は、傘の人だった。
絶望の雨の中でふさぎ込んでいた私に、微笑みと傘を差し出してくれた人。
あの雨の日に見た美しい彼女の雰囲気はどこにも無くて、なんだか別人みたいだった。幼いというかなんと言うか、こんな姿の私が言うのもなんだけれど・・・・・・
その人が、兄さまを連れて現れた。
何の前触れも無く唐突に現れ、そして、これまた何も言い残すことなく、兄さまを残して消えてしまった。
「・・・・・・」
混乱中の兄さまと、固まる私たち。
兄さまはどうか分からないけれど、少なくとも私たちは、まるで状況が分からないんだもの・・・・・・ひょっとして、私だけが知らされていないのかもしれないけれど。
でも、時は過ぎていく。
暖かい光は地平線へと身を隠し、空には星が顔をのぞかせていた。
確実に時は過ぎてゆき、兄さまはその間に気持ちを鎮められたみたい。
・・・・・・ゆっくりと、こちらに視線を向けられた。
眉を寄せて、あきらかに不機嫌そう。うんうん。ぜったいに、怒ってる。
そんな兄さまが最初に視線を定めたのは、ねぇ様だった。
ねぇ様は、「やっはー?」と意味の分からない返事を返して、ついで、「たはは」と力の抜けるような笑いを零した。
それを見届けた兄さまの視線は、次いで私へ。
ギロッと鋭い眼光が私に向けられ、私はとっさにねぇ様の後ろに身を隠した。
ちょっとだけ顔をだして兄さまを確認するも、どう考えも、顔が怒ってる人のそれだった。
「どういう、こと?」
つかつかと私たちの目の前まで歩いてきた兄さまは、私たちを問いただした。
そう、その短い問いは端的で、だからこそ、いくらでも捉えようがあるものだった。
・・・・・・私は、返せなかった。
何も言えない。だって、分からないんだもの。なにも、分からない。
だから、ギュッとねぇ様の服の裾を掴んだ。
そしたら、ぽんぽんと、頭をなでられた。
見上げると、ねぇ様が私を見下ろしていて、「大丈夫だから」と笑っている。
力強く、「私に任せて」とも言ってくれた。そして、意を決して兄さまに向き直り、腹の底から声を張り上げて、
「どうもこうも、こういうこと!万事OK!
わたしと小羽ちゃんは、仲直りしました!事後報告だけど、以上です!」ーーーと。
そんなふうに、ねぇ様は・・・・・・声を張り上げて、予想以上に酷い返答を返した。
私たちの後ろに控えるシロさんが「う〜ん?」と唸り、光の人は「やっぱアホの子か」と零し、徹さんは無言。
さすがに場の空気を察したねぇ様も、一物思うところがあるらしく、「いや、質問がアバウトすぎるからじゃない?」と、言い訳めいたことを口にしていた。
・・・・・・場は、完全に凍っていた。
魔法使いさん達も何か言ってくれればいいのに、貝みたいに口を閉ざしたまま、なにも言ってくれない。それは、ちらっと伺った表情からも分かるけれど、魔法使いさん達にとっても兄さまの登場って言うのは、予想外だったみたいなんだよね。
そして、そんな空気を変えようと、ねぇ様が再び口を開いた。
「それにしても目覚ましたんだね、よかった〜。いつ目覚めたの?今日の午前中はそんな話聞かなかったし、3時以降だよね?だって、私が抜け出したのが・・・・・・「ふざけんな」」
明るく努めるねぇ様の声に割り込むように、重い兄さまの声が私の心に響いた。
兄さまは、声を震わせながら、涙を瞳に溜めながら、もう一度。
「ふざけんな!」ーーーと。
「ふざけんなよ」と息を切らせながら、兄さまはねぇ様を睨みつけていた。
そして、せき止められていた水が溢れ出すように、兄さまは言葉を八つ裂きバヤに紡ぎだした。
何してんだよ、と。
何勝手なことしてんだよ、と。
病院抜け出すとか何考えてんだ、と。
そもそもなんで焦げてんだよ、と。
それで大丈夫だなんてよく言えたもんだな、と。
どうみたってボロボロじゃねぇか、と。
止まらなかった。兄さまは、止まらなかった。
溢れる言葉に際限はなく、言葉を紡ぐたびに込められた想いは重みを増していった。そして、兄さまの怒りの矛先は私にも向けられた。
兄さまの怖い顔が、瞳がーーー私の瞳を射抜く。
私は、その瞳を、知っていた。私は嫌というほど、それを知っていた。
かつての私が粗相をーーー兄さまの大切な婚約者であるねぇ様から逃げ出すたびに、兄さまが私に向けられていた視線。
とても、怖い瞳。本当なら、そんな瞳を私に向けないでほしい。
でも、それでも、その恐怖は兄さまが確かに私を見てくれているという暖かさももたらしてくれていたのも確かだった。
そんな、視線。わたしは、叱られると思った。
当たり前だ。叱られるくらいなら、まだいい。ひょっとすると、拒絶されることだって・・・・・・
私は、たまらず目をつむった。 怖かった。死んでいるのに、心臓が跳ね上がるのが分かった。
私は恐怖に負けて目をつむり、口びるを噛み締めて、俯く。
そうやって、この恐怖に耐えようとーーー
「もう、いいでしょう!小羽ちゃん、怖がってるじゃない!
もっと言うこと、あるでしょう?なんで、素直になれないのかな〜?」
ーーー声が、聞こえた。
闇の向こうから優しいねぇ様の声が聞こえ、それは一滴の雫を暗闇に呼び込んだ。闇に広がる、透明な波紋。わたしは、広がる闇の波紋に、いつかの景色を幻視した。
その幻では、私が相も変わらず城を抜け出していて。
そして、そんな私をねぇ様がいつものように探しにきてくれて。
そしてそして、ほんの少しの間、二人でお話しをする。
そう、ほんの少しの間だけ。だって、ねぇ様が来てくれたら、その、直ぐ後にはーーーー
(うぅ、にいさま・・・・・・)
ーーーねぇ様が来てくれた、その直ぐ後には、兄さまが現れて、私を叱るんだ。
怖い瞳で。城主の瞳で。容赦なく、私をーーーー
「おまえ、そうやって下の連中甘やかす癖どうにかしろよ!
おまえがそんなだから、あいつら、つけあがるんだろうが!」
私をーーー兄さまは叱ろうと、するのに。
粗相をしでかした私を、兄さまが叱ろうとするのに、それが当たり前なのに、なのに、ねぇさまは・・・・・・
「ちゃんと、あとから私が言い聞かせるから!だから、今はいいでしょう!?
それよりも言うことあるでしょうって、言ってんの!」
なのに、ねぇ様は、かばってくれたんだ。
「お転婆な義妹をお許しください」と。「あとから、私がきつく言い聞かせますから」と、そう、かばってくれてーーーー
「そうやって今まで、おまえがきつく言った試しがあったか?」
(そうやって今まで、姫がきつく叱って下さった試しはありましたか?)
・・・・・・私は、この光景を知っていた。
そう、結局こうやって、二人で叱られるんだ。私とねぇ様は、兄さまに叱られる。ねぇ様は悪くないのに。なのに、私のせいで、兄さまに叱られる。一緒になって兄さまに、叱られてくれる。
この光景はーーー他の誰でもない、私が・・・・・・この、わたしが。
生前の寿小羽が信じていた、光景だった。
いつまでも変わらないと、信じていた光景。
今日も明日も、ずっとあり続けると望み信じ続けた、あの日の光景。
あれから私たちの間には、とても遠い時間が流れた。
絶望的な時の隔たりが、厳粛な世界の理が、私たちに絶望的な別離をもたらしたのに。
それなのに、私は現在、あの場所に居た。
とても歪んでいて、正しいところなんて一個もなくて、
長い時の果てに見失ってしまっていた大切な、私の始まりの場所に。
そんな場所に、今、私は。
「ほら、小羽ちゃん。あいつ、ひねくれてるモンだから、こっちから依ってやんないとダメなんだよ。だから、ほら。言ってあげて。あいつが、素直になれるように」
ねぇ様が「ほらっ」と、やさしく背を押してくれる。
それに少しだけ勇気をもらった私が俯いた顔を上げ、意を決して眼を開いていく。すると、そこには。
「・・・・・・」
無言で涙をこらえている、兄さまが居た。
きつく歯を食いしばり、目をまっ赤にして、私たちを睨みつけている。
そんな兄さまの気持ちが・・・・・・今なら、痛いほどに分かる。
かつての私もきっと、今の兄さまと同じ顔をしていたはずだから。
自分が知らぬ間に、大切なものが失われることへの恐怖。そして、その悲しみを前になす術のなかった自分のふがいなさ。それは次第に、「if」という名の後悔を、私たちにつきつけるんだ。
そう、自分の中で荒れ狂う「if」という可能性。
もしあのとき、こうしていたら。ひょとして、今は・・・・・・そんな、答えのでない「if」の迷宮を彷徨つづけるうちに、人は・・・・・・私は、見失ってしまった。
ーーー自分がいったいどこから来て、どこに行きたかったのか?
「にいさま・・・・・・」
私の口から溢れる言葉は自分でもびっくりするくらいガラガラで、そして、弱々しかった。その声を聞いた兄さまの顔がまた、歪む。
そこには、怒りがあった。そこには、悲しみがあった。でもそれは、一つの答えでもあった。
「に、い、さま・・・・・私はーーーー」
肝心なところで、私は声を詰まらせてしまった。
このままじゃ、伝わらない。私の、想いは。この、私の中にある想いは、兄さまには伝わらない!
「ーーーっ!」
伝えたい想いは、言葉にならなかった。
伝えたいことはあるのに、それを言の葉というカタチに出来なかった。
だから私は、別のカタチでそれを伝えることにした。
勇気を出して、ねぇ様の背に隠れることをやめて、私は。
「っっつ!にいさま!わたしは!」
私は、兄さまの足に抱きついた。
お薬の匂いが染み付いた、味気ないパジャマが私の鼻をくすぐる。ねぇ様のものと同じ、病に伏した者がまとう衣の匂いだ。その衣は柔らかくて、でも、兄さまの足はゴツゴツしてて。それは、目の前の兄さまが、かつての兄さまでないこと無言で私に語っていた。
言葉にせずに、ただただそこに在るだけで、私に無慈悲な現実を宣告していた。
だから、ギュッと、抱きついた。ゴツゴツした、兄さまの足に。兄さまでない、兄さまの足に。
私の気持ちを、伝えるために。私の中にあるのにカタチに成らないその想いを伝えるために私は、必死に兄さまの足を抱きしめた。
「お、まえ、は・・・・・・本当に、この、馬鹿野郎が!」
絞り出される、兄さまの声。その声はどうしようもなく震えていた。
あわせて、私の頭に添えられた大きな手のひらも、同じように震えている。
でも、確かな質感を持って、その無骨で優しい兄さまの手は、私の頭におかれていた。それが、どうしようもなく嬉しくて。ただただ、嬉しくて。
そうして、やっとのことで、わたしは。
この、歪んでしまった旅路の果てにやっと、迷子だった私の想いはーーー
「おかえりなさい、小羽ちゃん」
ーーー彷徨い続けた私の500年分の想いは、ねぇ様の優しい言葉と兄さまのぶっきらぼうな手のひらに、受け止められたんだ。だから、そう思えたから、自然と、言葉が浮かんできた。わたしの、全部の想いを込めた、たった一言の、言の葉が。
そう、たったそれだけを言うために、私は彷徨い続けたんだ。
そう、その言の葉を紡ぐために。その言の葉は、特別でもなんでもない、ありふれたもの。そう、ありふれた特別ーーーその、言の葉は。
ーーーただいま、にぃ様。ただいま、ねぇ様ーーーと。
次回、エピローグです。