幻想歌
無限想歌
幻想華:再会と再開
<東 俊也>
考えてみると俺は、どうしようもないくらいに男子高校生であり、それ故に、女子が好きだった。
おそらく、そのことは鳥が翼で大空を飛行し、魚が水の中で呼吸できるくらいに自然なことで、だからこそ、男子高校生である俺が修学旅行先で見知らぬ女にマウントポジションを取られるという夢を見たとしても、決して攻められることはないはずだ。
そこは、旅館の一室。辺りは暗く、唯一の光源は障子から差し込む月明かりのみ。一日ばか騒ぎした相部屋の友人たちは、死んでいるかのように静かな寝息を立て、部屋のあちこちに散在している。
もちろん、その光景は夢の中のものだ。現実問題として、女子が俺のとこに夜這いしてくるなんてこと、あるはずもない。
だからこその、夢。そう、何度も言うが、男子高校生の俺がそんな夢を見たところで、それはもう若気の至りであり、なんの問題も——
「兄さま……」
……ただ一つ問題があるとすれば、それは俺の夢に出てきた幼女が、明らかに「幼女」としか表現できないような存在であり、しかも、「兄さま」設定。
その娘はまるで、心の底から愛おしそうに俺に手を伸ばし、そのひんやりと冷たい両の手で、俺の頬を包み込んだ。そして一言、「会いたかった……」とつぶやき、その目に涙を浮かべる。そんな幼女の向こう側には、天井が透けて見えている。
はっきりと、天井に敷かれた板の木目が幼女を無視して、俺を睨みつけていた。こんなとき、両目視力2.0の潜在能力を恨めしく思える。
「もうどこにも行かないで下さい、兄さま。もう、二度と……」
さてさて、ここでもう一度、俺の夢の問題点について考えてみると、やはり一番の問題は、マウントポジションを取りにきた(夜這いに来た)のが幼女であるということくらいだろう。見た目は、そこそこ可愛い。まあ、かわいい。
けれど、だからといって、幼女はない。そのありえなさは、幼女が透けていることとか、およそ重みを感じることの出来ない彼女の体重とか、後はなんで普段着が着物なのとか、そんなことがどうでも良くなるレベルのありえなさだ。
「……五人。全員良し。」
見回りにきたと思われる現国の辰田が、何でもない気軽さで部屋の戸をあけ、これまた何気なく俺たち六人(幼女含む)を五人と数え、これまた何事もなく「良し」の評価を俺たちの部屋につけ、出て行った……「よし」じゃねぇよ、辰田。よくねぇじゃん!
『っく!』
全然動かない体と、絞り出しても出ない声。
『んだよ、くそ!こんなの、ありえないだろうが!!!』
幼女を前に俺は、指一本動かせず、瞬きと一つ、出来ずにいた。それは月光を背負い美しく輝く幼女に見とれていたからではなく、ただ単に、金縛りにあっていたというだけの話なのだけれど。
※
<『それ』あるいは「小羽」>
深い深い深淵を漂っていた『それ』は、ある日突然『わたし』というカタチを得た。
『……?』
『それ』として存在していたモノは、なぜ『それ』が「わたし」というモノになり得るのかもわからぬままに———『それ』はすでに、「わたし」としてのカタチを本来のモノとしていた。そして、「わたし」となった『それ』は、『それ』であった頃の記憶というものをほとんど全て失っており、ともすれば、「わたし」にとっては『それ』というモノは、一時の夢のような存在へと成り果てていたのだ。
『そうだ、兄さまだ。兄さまが、迎えにきてくれたんだ!』
眠い目をこすりながら、わたしは必死に手を伸ばした。何故かは分からないけれど、わたしには分かったんだ。「兄さまが迎えにきてくれた」ってことが、どうしようもないくらいに感じられ、涙が出るくらいにうれしかった。
『兄さま! 兄さま! 小羽はここです! 弥生兄さま!』
わたしは、必死に手を伸ばした。だって、わたしは『ずっと』待っていたのだから。わたしは、「兄さま」がわたしのことを迎えにきてくれるって、ずっと信じて『待っていたのだから!』
「誰か、おれ呼んだ?」
まぶしいお日様の中、兄さまはきょろきょろと周りを見渡している……もう、いじわるなんだから。こんなにわたしは待っていたのに、こんなにじらすなんて。本当なら、ぎゅっと抱きしめてくれたって、罰は当たらないはずなんだから!
『兄さま、わたしはここです! 弥生兄さま! 意地悪しないで!』
わたしはもつれる足を必死に動かしながら、兄さまの後を追う。兄さまはあくまでも私に「気づいていないふり」をするつもりらしく、すたすたと取り巻きの供を連れてどこかに行こうとしている。
「まって、兄さま! おいてかないで! もう小羽を一人にしないで!」
必死に弥生兄さまの名を呼びながら、私は追いかける。もう、ぜったいに、わたしは弥生兄さまの傍を離れないと誓いながら。
「弥生兄さま!」
わたしは、ひたすらに兄さまのあとを追い続けた。その途中で、弥生兄さまが「あずま」とか「としや」とか、そんな変な名で呼ばれていたような気がしたけれど、それでも、わたしはひたすらに「弥生兄さま」の後を追い続けたのだ。
※
<東 俊也>
悪夢という夜を乗り越えて俺は、健全たる朝を迎えていた。
冷たい外気を遮断する窓からは、冬の到来を感じさせる細い零れ日が部屋の中を照らしている。
「……」
俺は無言で布団に座っていた。その目は、胡乱。
俺の友人大半は、本日のメインイベント自由行動に備え、あれやこれやと身支度を整えている。その中にあって俺は、布団にぼけ〜と座っている「ふり」をしていた。
「おい、東何やってんだよ。ぼけっとしてないで、さっさと準備しろ。今日は峰岸たちの班と廻るんだろうが」
友人が、さっさと支度しろと俺を促す。というか、女子陣をまたせて機嫌を損ねるようなことをするなと、暗におれに警告しているだけなんだろうけど。
「ああ、スマン。なんか、昨日変な夢見てさ。寝起きが悪いのなんのって……」
急かす友人に苦笑まじりに返し、俺はやおら布団をたたみ始める。もちろん、布団の横にちょこんと行儀よく座っている「座敷童」には目もくれない。
「夢? なんだそれ。ゆめとか、俺最近全然見てねぇわ。どんな夢だったん?」
髪をセットしながら、右よし左よしと呟く友人の背に、俺は生暖かい視線を送る。はたして、「兄さま設定の幼女が夜這い来た」という欲求不満全開の話をするか、「着物姿の半透け幼女にビビらされて失神した」という情けない話をするか、いったいどちらの話し方が、友人の中での俺の地位を下げずに済むかと考えてみるのだが……もう、幼女が夢に出てきたというだけで、色々ダメだということに、今更ながら気づかされる。
「いや、なんかよく覚えてない。夢って、そんなもんじゃねぇ?」
夢の話は脇に置いて、今日のプランニングについて話そうぜと、友人の横に立つ。俺たちの前には、一枚の鏡。それは、特別な呪いが込められているとは露程も考えられない程に、量産型の臭いをかもし出していた。そんな鏡を前に、俺は歯磨きをゴシゴシとこなす。もちろんこのとき、鏡越しにじっと俺を見つめる「座敷童」と目を合わせるようなヘマは、しない。
「さて、飯にするか。たしか、朝食ってバイキングだったよな?隣一階の白鴎の間だっけ? 何時から?」
さてさて、急いで食事をとらなければと、友人を誘っていそいそと部屋を出る。このとき、頼むから座敷童は部屋から出れない設定であってくれと願った俺の心の叫びが天に届いたのかどうなのか、昨晩の幼女は俺を追ってくることなく、俺は部屋の戸をパタリを閉じ、しかるべき朝食の間へと向かったのだった。
※
<小羽>
なんていうか、わたしは日の当たる世界では、兄さまには見えない存在らしい——と分かったのは、兄さまが目を覚ましてから部屋を出て行くまでの様子を観察していたからだ。
兄さまは、目を覚ましてからぼ〜っとしていた。その目は、わたしとは全然関係ないところを見ていて、悲しくなった。そして、結局最後までわたしに気づくことなく、部屋の戸を閉めて、供と一緒に朝食へと行ってしまった。
「昨日もそうだったし、やっぱりわたしは……幽霊なのかな?」
昨日も、日の当たる世界で兄さまは私に気づいてくれなかった。泣こうが叫ぼうが、兄さまは私に振り向いてくれなかった。結局、兄さまが気づいてくれたのは、私が騒ぎ疲れた明晩……兄さまが、たまたま「トイレ」に行こうと目を覚ましたときだった。
でも、やっと兄さまが気づいてくれたと思った矢先に、兄さま、白目向いて気絶しちゃった……
「……トイレ? あれ、トイレって、何?」
なんだか、頭の中がぐるぐるする。なんだか、わたしのモノじゃないモノが、私の中に在る感じ。だって、「トイレ」なんて、私は、知らない。けれど、知っている。
「……」
視線をずらすと、そこには「テレビ」があった。あれは、「ニュース」とか、「バラエティ」とかが観れる箱だ。この「リモコン」の「電源」を押すと「スイッチ」が入り、「情報」を受け取れる。
「……」
よくよく考えると、今のこの世界は「未知」だらけだった。それは「テレビ」だってそうだし、「水道」だって、そう。昨日は「コンクリートジャングル」なんてものまで観たはずなのに、けれど、なぜか少しも真新しさを感じない。
「……わたしは、小羽。わたしは、寿小羽」
なんだか急に不安になり、わたしは自分の名前を声に出してみた。お父様とお母様から戴いた大切な名であり、兄さまと姉さまが——
「……」
———兄さまが、可愛いと言って下さった、わたしの大切な名を、口に出してみる……けれど、いっこうに不安は消えない。それどころか、なにか、黒いモノがわたし中に根を張るように広がる感じがして、私はいてもたってもいられず、部屋を抜け出し、兄さまを追った。
「兄さま……兄さま!」
なんだか、怖い。半透明な自分という存在や、この世界に外ざまであるという孤独感——それよりなにより、私は、『わたし』というモノが恐ろしくてたまらない。
「うう、え〜ん。にいさま〜! 弥生兄さま〜!」
わたしは、わんわん泣きじゃくり、兄さまを探し求めた。その声が届くことはないと誰かに言われた気がしたけれど、それでもわたしは兄さまを求めずにはいられなかったんだ。
※
<東 俊也>
旅館の朝飯ってのは、なんとなく物足りない。実際のところ、品数事態は家で食べるよりはよっぽど多いのだろうが、無駄に豪華な膳にのっているのが、それら全てを台無しにしている気がする。
「おい、キヨ。今日って、どこ行くんだっけ? 寺? 街?」
みそ汁に口をつける前に、そう言えばと悪友の清水に話を振る。なんとなく、あんまり寺は廻りたくはない気分なんだ。なんか、変なのに取り憑かれそうな気がするし……
「さぁな。峰岸達はなんか行きたい場所があるとかで、そこに行けたら後はどこでも良いって言ってたぞ」
もぐもぐと漬け物をそしゃくしながら、「う〜ん、微妙」と独り心地に返すキヨ。こいつ、女子と一緒に廻れるってのがメインになってて、就学旅行及び京都の名所ってのが完全にサブになってやがる。
「いや、おまえ、それってつまりは、俺たちに廻る場所まかせるってことなんじゃねぇの?」
俺は、箸をつけものに伸ばし、ご飯の上に載せる。あとは、パリポリとその食感を味わうだけ——だったんだが。
「え、俺たち? 俺たちって、俺たち? いや、なんも考えてねぇよ?」
情けなさ過ぎる友人の顔を見て、何となく箸が止まる。
そして、若干引きつった顔のキヨを横目に俺は、ため息一つ。たしかに、別に俺たち男がプランたてなきゃならんってことはないんだろうけど、たぶん、峰岸のグループだったら、『当然男がエスコート』と考えいてるのは……間違いないはず。
「なら、それでいいじゃん。まずは峰岸達が行きたい場所に行って、あとのことはその時に考えれば良いし」
箸を、動かす。ポリポリと歯ごたえの良い漬け物を口の中で砕き、その食感を楽しむ–——なんてこと、今までなかった。ああ、普段しないことをするってことは、今の俺が普通じゃないってことなんだろうな。
「ごちそうさま。集合って、八時半からだったよな?場所は、玄関前だろ? 俺、ちょっとやることあるから、しばらくドロンするわ。待ち合わせには間に合うようにするし、プランニング、時間があるんだったら少しねっといてくれ」
言うだけ言って、席を立つ。背後から、「どんだけお前らラブラブなんだよ」とかなんとか言われたけれど、それには手を振って答えとする。
たしかに、ドロンする理由が彼女との逢い引き―——なら、俺もどんだけだと思うよ。
けどな。
「さっきから兄さま兄さま兄さま、兄さまってなんなんだあいつは! っくっそ、こんなの、反則だろうが……」
けれど、さっきから泣きべそまじりに俺を呼ぶ声が、廊下を行ったり来たり。なんとなく、「あいつ」が俺を捜して堂々巡りしているのが分かる。そして、それに答える必要がないことも、あるいは、答えない方が良いってことも、なんとなく、分かる。しかも、声が呼んでるのは弥生とかいうやつで、俺じゃない。……そもそも俺は弥生とかいう名前じゃない。なのに、どうしたって、この声が俺を呼んでるとしか思えないのだ。
「ああ、もう。これも、ぜったいあいつのせいだ。あいつとつき合いだしてから、なんかこういうのに弱くなってるし」
ぶつくさと良いながら、俺は「声」をたよりに「座敷童」を探す。そして、もう一度、遠い彼の地で授業を受けているはずの彼女に心の中で文句を言うと、急ぎ足で
急ぎ足で
俺は、自分でも気づかないくらい必死に、声のする方へと歩を進めていた。
※
<寿 小羽>
私が生きていた頃は、わたしが着物の裾をたくし上げて城を走りまわろうものなら、すぐに女中の婆につかまり叱られた。しかも、そのあとすぐにお父様とお母様からもおしかりを受けて、そして、でも、結局最後には---
「……」
けれど、今は私を叱ってくれる人なんて、一人も居ない。それどころか、私が存在していることを認めてくれる人だって、兄さまを除けば、一人も居ないかもしれない———だから、廊下を爆走したところで、何の問題もないのだ。
道行く人(廊下を歩いている人)は、全部私をすり抜けてしまうし、無駄に折れ曲がる道だって、壁を透き通れば簡単に短縮できる。足音だって響かないし、誰にも迷惑はかけない。
「……兄さま!」
わき上がってくるのは、兄さまへの怒り。けっきょく、兄さまは昨日から私をからかっていただけだったんだ。
「逃げられるとお思いですか!? 止まってください、にいさま!」
私は、自分が死者であることが分かる。自分がこの世界の外座にいるということが、どうしようもなくはっきりと感じ取ることができるーーーそれがどれだけ孤独で不安なことなのか、この世界で今も生きている兄さまには分からないんだ!
……分からないだけなら、まだいい。けれど、兄さまは私を無視した!
結局、お日様が昇ってようがお月様が昇ってようが関係なく、兄さまは私が見えてたんだ。それなのに、兄さまは『昨日』と『今朝』に渡って、私を辛かって遊んでいた!
「ゆるしません、にいさま! ぜったいに、捕まえてみせます!」
※
<東 俊也>
廊下は基本的に走ってはいけないのだろうが、髪を振り乱した半透幼女に追い回されているときくらいは、そんなくだらないルールは破っても良いと思う。
『いやいやいやいや、無理無理無理!』
心の中で絶叫しつつ、俺は西館のカーブをドリフト気味に曲がる。そして、減速時に詰められた霊間距離をなんとか引き離そうと、再び筋肉をしばきにかかる。
額には、わずかに汗。息はすでに若干とはいえないくらいに揚がり、筋肉は乳酸が溜まっている旨をシンシンと告げ居ていた。
「ガチで無理! もう、無理、てか、あいつ、むちゃくちゃだ!」
幼女の足は、そんなに速くない。ここがだだっ広い公園かどこかなら、やつを確実にぶっちぎれる自信がある。ただ悲しいかな、ここは旅館だ。はっきりいって、通行人が邪魔すぎる上に、直線があまりにも少ない。くねくねと曲がりくねった道だらけで、百歩譲ってそれだけならまだ良いが、無駄に贅沢なカーペットが俺の自慢の足を引っ張っていた。
対して、幼女は基本的に通行人を無視する……
うん、足自体は速くはない。だが、やつは「避ける」という動作が必要ないため、そんなに足が速くないくせに、なぜか結果的に俺とドッコイくらいで廊下を移動していた。しかも、足音がしない。
そして、ときたまやつは壁をすり抜けてくる。衝撃の、ショートカットだ。まじで、心臓に悪い……
「ああもう、なんでこんなことに!? あれ!? てか、なんで、俺はあいつにおいかけられてるんだっけ!?」
酸素が足りないと文句を言う脳に鞭をうち、答えを出せと責め立てるが……答えは、出ない。
とにかく今わかることは、俺が途中で地雷を踏んだということだ。
なんか知らんが、最初は上手くいっていた。どっからだ!?
たしか、あいつを探し当てて、そんでもってわんわん泣きついてくるあいつを前にしてどうしていいか分からなくて、「今朝はあんなに静かだったのに、なんて声で泣いてんだ」ってあやそうとしたあたりから……『!!!』
※
<みしらぬ一般人Oさん>
小野清は喜寿を迎える爺様で、そのお祝いにと娘夫婦につれられ、京都の老舗旅館に二泊三日の旅行に訪れていた。
「……」
清は、生粋の熊本県民であり、それこそ戦争以外では熊本の外というものを知らなかった。
そして、彼の半生を語ればいろいろとそれだけで一本の小説になるのだが……まあ、なんにせよ、とにかく重要なのは、今日という日が、清の喜寿記念良好の初日であり、そして今まさに清爺様は、朝早くから旅館入りというのもなんだが、これから二泊する旅館にチェックインしようとしている所であるということを頭に止めていただいていれば、差し障りはないだろう。
「……」
清爺様は、娘夫婦がチェックインを済ませる間、自信の半生を振り返りながら、ある意味ではその到達点である家族旅行を過ごす旅館を感慨深げにながめていた。そんなとき、視界に行儀を知らない一人の青年が、下半身だけの『何か』を引き連れて現れたのだ。
彼は、『追いかけらテルんだっけ!?』っと叫んだあとに、下半身だけの『何か』からドロップキックをその背後に受け、転倒。さらにはそのままゴロゴロと転がって、うまいこと開いた玄関の自動ドアから転がり出て、そのまま外へとフェードアウトして行った。
「……」
そして、それをゆっくりと追いつめるように、下半身だけの『何か』は締まった自動ドアをすり抜け、こちらもまた清の視界からフェードアウトしていった。
「……」
結局、清は年甲斐もなく「この旅館にだけは泊まりたくない」とカウターで手続きを進める娘夫婦に訴え、別の旅館を取り直すことになるのだが……それはまた、別の話である。
※
<東 俊也>
あり得ないくらいの勢いで旅館の外に蹴りだされた俺は、無様にも地球に頬擦りすることになった。
まあ、イタい。痛い上に、イタい。
俺が今いる場所は、人の往来の激しい旅館の玄関先だった。だからだろうか、痛い視線が容赦なく降り注ぐ。
「……」
わき上がる羞恥を押さえ、今まで必死に押さえていた理性を押しのけてわき上がってくる感情を胸に、俺はゆっくりと立ち上る。そして、再び逃走。
周りの人たちには何の弁解もせず、ただただ、人がいない場所を目指してひた走る。すると、「いい加減に諦めてください!」という罵声が後ろから飛んできた。もちろん俺はそんな声を無視し、人気のなさそうな場所を探しながら、旅館の敷地を走る。
※
<寿 小羽>
兄さまに秘技をお見舞いして数分後、私は完全に追いかけっこを詰んでいた。
「にいさま、これまでです。おとなしく観念して、謝って下さい!」
兄さまの前には、壁。それも、とびきりノッポなやつで、飛び越えるのは絶対ムリ。わたしなら行けるけど(すり抜けられるけど)、生者である兄さまには絶対ムリ。
そして、背後には私。どう足掻いたって、兄さまに逃げ場なんか無い。逃げ場なんか無いはずなのに、兄さまの背中からは……
「もう、逃げねぇよ。ああ、もう逃げるのは止めだ」
ゆっくりと振り向く兄さまの顔は、般若のそれ。引き延ばされた口からは「さんざんコケにしやがって……」と、どう考えたって妹に向かって言っちゃいけない言葉が漏れ出ている。
……兄さまが、無言で近づいてくる。手をワキワキさせながら、若干危ない人の目で、一歩一歩私に近づいてくる
「簡単なことだったんだよな。そう、簡単なこと……」
私の目の前まで来た兄さまは、ゆっくりとその大きな手を私のほほに伸ばし、そして、優しく―――
※
<寿 小羽>
「みいさま、やめへくははい!」
目の前でフガフガ言っている座敷童を前に、俺はしたり顔。
おそらく、こいつは「兄さま止めて下さい!」と言いたいんだろうが、俺がほっぺを両脇に思いっきり引き延ばしているため、フガフガ言うのが精一杯。
「冷静に考えたらよ? お前が俺に触れるんなら、俺もお前に触れるってことだよな?」
背後からの容赦ない一撃を受けてぶっ飛ばされた瞬間、俺は閃いた。
そう、こいつが俺に触れられるってことは、俺だってこいつに触れられる---なら、こんなガキンチょに負けるわけが無い---と。まあ、一種の賭けではったのだけれど。
「なんへ、いひはふすふの(なんで、いじわるするの)!」
こいつにマウントポジションとられた最初は、こいつってば半透けだし、他人には見えないし、服は何か知らんが着物だし、見てくれは生きた日本人形みたいだし、etc...まあなんにせよ、怖かった。ああ、怖かった。けど、
「なんだあの軽い蹴りは! あんだけ追い回しといて、最後があれか!? 恥かいただけじゃねぇか!」
男には、メンツってモノがある。普通に考えて、人前で転ぶってのはできればご遠慮願いたい失態だ。にもかかわらず、あのとき俺は「一人で」ぶっ飛んで、「一人で」大転倒を噛ましたあげく、まさかのうつ伏せで地面に静止―――はっきり言って、幽霊に蹴られたことよりも、起き上がって周りの反応見る方が怖かった。
んで、そのありえない羞恥を俺にもたらした「幽霊の蹴り」ってのが、これまた全然痛くも痒くもないやつで、普通に立ってたら、「は?」っ鼻で笑えるレベルのしょぼい蹴りだった。まあ、感覚的には後ろから膝かっくんやられた時のイラっと感に似てる。
「はなしへ! にひはま! はなしへ!(はなして! にいさま! はなして!)」
さて、どうしてくれようか、このくそガキ霊……パッと見、こいつは半透けで体重軽くてちっちゃくて他人には見えないだけで、あとはその辺の子供と全然変わらないみたいだ。
「うう、にいはま! うううう!」
コケにされているのが悔しいのか、半透け幼女の目がだんだんと険しさを増している。しかし、なんてことは無い。所詮は、子供だ。それは、「蹴られた時」によ〜っく分かった。
だから、こんなガキンチょとケンカして負けるほど、おれはおちこぼれておまえ、それはーーー!!!!!
※
Tips~
男には、絶対的な急所というものが存在する。
そう例えば、股間だ。ここは、男にとっては生まれた時から息子であり、何もにも代え難い、「相棒」である。
男同士のケンカでは、暗黙の了解として、この不可侵領域への攻撃は避けるのが礼儀である。
そのため、やんちゃをしている男連中も、ここをやられるという経験はほぼ無いーーーしかし、例外もある。そう、子供だ。
子供達は、事の重大さというものをあまり考えず動く年頃だ。そのため、目の前にあるモノにとりあえず手を伸ばそうとする。
それは例えば、気に食わない大人なんかに玉砕覚悟で向かって行くと時などもそうで、そうなった場合、互いの身長差によっては、子供は目の前に在る、男の大人にとっては急所とも言うべきところを――――
※
<TiPs>
それは悪友仲間と夜通し騒いだ明くる朝のこと。
本来は、昼過ぎまで爆睡していてもいいような、そんなアホみたいな眠気の中で、東はバカ友に起こされた。
———不機嫌な、東。
しかし、そんな空気もモノともせず、友人は己の下腹部を指し———
「クララが立ったよー!
おじいさん、みてみて!クララが、ひとりで―――!」
「世界名作劇場「アルプスのなんたら」と男の生理現象」より抜粋
※
<寿 小羽>
「クララーーーー!!!!!!!!」
奇声をあげてのた打ち回る兄さまを見て、私は一歩後ずさった。
目の前にいる人は、確かに私の兄様。
けれど、今だけは他人であってほしいと思ってしまうのは、なぜだろう?
「に、にいさまがわるいんだもん! わたし、わるくないもん!」
そんなに強くたたいてないのに、にいさまは大げさすぎる。
たしかに、なんかグニョってしたけど、なんかコリってもしたけど、でも、私は悪くない!
「おまえ、俺に何の恨みがあってこんなことを!?
よくも、おまえ、ううぁぁぁああ!!」
瞳に涙を浮かべながら、にいさまはよろよろと立ち上がった。
そして、一歩私に近づく。その様はまるで、魑魅魍魎類いだ。
「兄さまが意地悪するからじゃない!「昨日」から必死にわたしが呼んでるのに無視して!」
私は、兄さまが近づいた分だけ、さらに一歩下がる。
すると、兄さまも兄さまで、さらに一歩私に近づいて来て、気がつけば歩幅の差で距離を詰められた。
兄さまは、ものすごい力で私の方をつかむと、相変わらず涙を浮かべたまま、まくしたてた。
「昨日から、お前を無視してた? あ? いつのことだよ!? 初対面から、ばっちり、目あってただろう!? まぁ、今朝は無視したけど……違う! 俺は、悪くない! てか、おまえは何だ!? そういう何か!? ん!? 見ず知らずの人間に因縁吹っかけて、いたずらしてまわる妖怪かなんかか?」
———言い終わると、兄さまは肩で息をしながら、すとんと腰を落として座り込んでしまった。
<東 俊也>
いったいぜんたい、どこでどんな選択を誤った結果、こんなやつに因縁吹っかけられているのか、まるで分からない。しかも、幽霊のクセに、まさかの禁的攻撃。
情け容赦もなく繰り出されるその拳を前に、俺は腰を引くことしか出来なかった……まあ、くらったけど。
思いっきり喰らったけど、それはそれ。
「もうさ、ここで、手を打とう。昨日のことがどうとか、今朝のことがどうとか、それはもうすげぇ反省してるから、勘弁してくれ」
未だ若干むくれ気味の幽霊(幼女)を前に、おれは跪いて許しを請いでいた。
……たしかに、みっともないと思う。みっともなくて情けない自分に腹さえ立ってくる。けれど、それよりも何よりも、哀愁漂うような妙な切なさが胸に込み上げてきていて、色んな感情を脇に押しのけて泣けてくるんだよ……
「おまえ、なんか、困ってんのか?助けてほしいのか?
それとも、俺が困るの見て楽しんでるだけ?」
顔を上げて、幼女と目を合わせる。やつは、「私は……困ってもいないし、兄さまが困るもの嫌……」とかなんとか、意味不明な返答を返してくる。
……なら、なんで俺に憑きまとってるんだという疑問が当然湧いてくるわけで。
でも、だからと言って、同じ質問をしても、同じように要領の得ない答えが返ってくるのも目に見えているわけで……
「じゃあ、質問を変えようか。お前は、俺にどうしてほしいわけ?」
単純な、質問だ。
簡単な、質問だ。これで答えられないようなら、俺はこいつに「必要ない」ってことになる。
ーーー成された問いから返答までは、一瞬。
時が砂塵のように流れ去るのを肌で感じながら、俺は、幽霊の明確な意志を受け取る。
やつは、何の迷いも無く、何の気負いも無く、ただただ自然と、それを口にしていた。そう、すなわちーーー
「にいさまと、一緒にいたい」ーーーと。
※
<幻想華>
叶わぬ想いを幻想と呼ぶのなら、私はそれらをあえて、夢と呼ぼう。
ーーー夢は、力だ。
幻と同じように在りもしないモノでありながら、それは人に力を与える。
それは、一歩を踏み出す力。
それは、一歩を踏みとどまる力。
それは、俯かぬ、力。
それは、俯いてもーーー再び、顔を上げる力。
それは、すなわち、生きるという、力。
ーーー夢を、私は想う。
夢を想い、幻想を抱く。
そうすれば。
幻はいつの日かきっと、『わたし』に追いつくだろう。