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第三章 ひずみ

それは、壊れるようなものじゃなかった。

音もなく、目に見えるわけでもなく。

ただ、少しずつ。

気づかないくらいゆっくりと、形を変えていった。

あの日から、玲王と過ごす時間は、当たり前みたいになっていた。

朝、教室に入ると、最初に探すのは決まっている。

後ろの席。

そこに玲王がいるだけで、ほんの少しだけ安心する。

目が合うと、軽くうなずく。

それだけでいい。

言葉なんてなくても、“分かる”気がした。

「おはよう」

玲王の手が動く。

前よりもずっと自然で、迷いの少ない形。

私は小さく笑って、同じように返す。

「おはよう」

そのやりとりが、好きだった。

ほんの数秒なのに、一日がちゃんと始まる気がするから。

授業中。

黒板に書かれる文字を追いながら、ときどき玲王の方を見る。

ノートを取る手が、少しだけ遅れる。

黒板とノートを何度も見比べている。

その様子に気づいて、私はそっとノートを少しだけ寄せる。

玲王が気づいて、こちらを見る。

一瞬だけ驚いて、それから小さくうなずく。

「ありがとう」

その手の動きに、私は首を振る。

「いいよ」

それだけのことなのに、胸の奥があたたかくなる。

昼休み。

教室はにぎやかになる。

グループごとに集まって、楽しそうに話している。

私はいつも通り、自分の席でお弁当を開く。

そのとき、ノートが差し出される。

玲王だった。

『一緒にいい?』

私は少しだけ迷ってから、うなずく。

玲王は向かいに座る。

向かい合って食べるのは、少しだけ緊張する。

でも、不思議と落ち着く。

『好きな食べ物、なに?』

私は少し考えてから書く。

『オムライス』

玲王が少しだけ笑う。

『子どもっぽい』

少しむっとして、書き返す。

『そっちは?』

『カレー』

思わず笑ってしまう。

手話で返す。

「同じじゃん」

玲王も笑う。

そんな、どうでもいい会話が。

どうしてこんなに楽しいんだろう。

放課後。

教室に残って、ノートをまとめる。

窓から差し込む光が、少しだけやわらかい。

玲王も、少し遅れて準備をしている。

ふと、視線が合う。

玲王が手を動かす。

「一緒に、帰る?」

私は小さくうなずく。

「うん」

帰り道。

少しだけ距離を空けて歩く。

並んでいるのに、触れない距離。

でも、それが心地よかった。

無理に近づかなくてもいい。

それでも、ちゃんと隣にいる感じがする。

信号で止まる。

玲王がこちらを見る。

何か言いたそうにして、でも言わない。

そのまま前を見る。

そんな時間が、好きだった。

——その頃からだった。

少しずつ、“違和感”が生まれたのは。

教室の中。

笑っている顔。

動く口。

聞こえない会話。

今までもずっと同じだったのに。

どうしてか、急に遠く感じる。

玲王と話しているときだけ、ちゃんと“つながっている”。

それ以外の時間は、急にひとりになる。

それに気づいてしまったから。

ある日、グループでの作業があった。

周りが話し合っている。

私は口の動きを追う。

でも、速くて分からない。

誰かが笑う。

理由が分からないまま、少し遅れて笑う。

一瞬、誰かと目が合う。

何か思われた気がして、視線を逸らす。

胸の奥が、ざわつく。

——ちゃんと、できてる?

分からないまま、時間だけが過ぎていく。

そのとき、玲王がこちらを見る。

少しだけ心配そうな顔。

でも、私は目を逸らした。

——大丈夫。

そう、自分に言い聞かせる。

休み時間。

玲王が手話で話しかけてくる。

でも、頭に入ってこない。

さっきのことが残っている。

うまく笑えない。

うなずくタイミングも、少しズレる。

玲王の手が止まる。

「……どうした?」

私は首を振る。

「なんでもない」

でも、その言葉は軽くて。

自分でも、嘘だと分かる。

放課後。

教室に残る。

人が減っていくほど、空間が広く感じる。

静かなはずなのに、落ち着かない。

分からなかった言葉。

合わせた笑顔。

気づかれたかもしれない不安。

全部が、一気に押し寄せてくる。

息が、浅くなる。

どうして、こんなことで。

今まで、平気だったのに。

机に視線を落とす。

ノートの文字が、にじむ。

そのとき。

視界に、手が入る。

玲王だった。

しゃがんで、私の顔をのぞき込む。

「凛」

名前を呼ばれる。

それだけで、何かが崩れそうになる。

「……大丈夫?」

私は首を横に振る。

——言えない。

玲王はノートを取り出す。

『なにがつらい?』

震える手で書く。

『分からないのが、こわい』

『みんなの中にいるのに、ひとりみたいで』

書いたあと、目を逸らす。

玲王は、ゆっくりうなずく。

そして、手を動かす。

「無理、しなくていい」

その瞬間、涙がこぼれる。

止まらない。

玲王は、何も言わない。

ただ、そばにいる。

「ここ、出よう」

うなずく。

廊下に出る。

空気が少し軽い。

玲王が立ち止まる。

少し迷って。

そっと、私の手に触れる。

あたたかい。

涙が、またあふれる。

少しの沈黙のあと。

玲王が、ゆっくり手を動かす。

「……俺さ」

一度、止まる。

それから。

「片耳、聞こえないんだよね」

時間が、止まる。

私は顔を上げる。

玲王は、少しだけ苦く笑う。

「だから、分かる」

その言葉に、胸がぎゅっとなる。

「分からない感じも」

「置いていかれる感じも」

一つ一つ、確かめるみたいに。

ゆっくりとした手話。

私は何も言えない。

ただ、涙だけがこぼれる。

「でも」

玲王の手が、少しだけ強くなる。

「ひとりじゃない」

その言葉が、まっすぐに届く。

私は、少しだけ玲王に近づく。

逃げるみたいに。

でも、玲王は手を離さない。

——そのとき、思った。

この人がいれば、大丈夫かもしれないって。

でも同時に。

こんなふうに頼ってしまったら。

きっと。

失ったとき、もっと苦しくなる。

そんな予感が、胸の奥に、静かに残った。


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