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第二章 名前

あの日から、少しだけ世界が変わった。

相変わらず、教室はにぎやかで、私はその中にうまく溶け込めているとは言えない。それでも、不思議と前ほど苦しくはなかった。

理由は、きっとひとつだ。

私は、教室の後ろの席をそっと見る。

玲王は、窓の外をぼんやりと眺めていた。何かを考えているような、でも何も考えていないような、そんな横顔。

ふと、視線が合う。

一瞬だけ驚いたように目を見開いて、それから少しだけ笑った。

その、ほんのわずかな変化だけで、胸の奥がやわらかくなる。

——こんな感覚、初めてだった。

休み時間。

玲王が、少しだけ迷うようにしながら、私の席に近づいてくる。

周りの何人かがそれに気づいて、視線が集まる。でも、前みたいに息苦しくはならなかった。

玲王は一度立ち止まって、深く息を吐くような仕草をしてから、ゆっくりと手を動かした。

「……おはよう」

ぎこちない。少し形も違う。

でも、それが分かった瞬間、思わず笑ってしまった。

玲王は少しだけ眉をひそめる。

「……ちがう?」

そう言いたげに、もう一度同じ動きをする。

私は首を横に振って、手を動かす。

「合ってる。でも、ここ、こう」

彼の手にそっと触れて、指の向きを直す。

ほんの少しの違い。でも、それだけで意味が変わる。

玲王は真剣な顔で私の手を見て、同じように動かしてみる。

「……こう?」

「うん。今の、きれい」

そう伝えると、玲王は少しだけ照れたように視線を逸らした。

その反応が、なんだか少しだけ可愛くて、また笑ってしまう。

その日、初めて気づいた。

——私、この人の名前を知らない。

当たり前のことなのに、今さら気づいたことに少し驚く。

聞こうとして、でも手が止まる。

どう聞けばいいんだろう。

そんなふうに迷っていると、玲王の方が先に気づいたみたいだった。

少しだけ首をかしげて、それからノートを取り出す。

さらさらとペンを走らせて、私に見せてきた。

『名前、分かる?』

私は首を横に振る。

すると、玲王は少しだけ笑って、もう一度ペンを動かした。

玲王れお

その文字を見た瞬間、なぜか胸の奥がじんわりと熱くなる。

「……玲王」

小さく、口の形だけでなぞる。

音は出ない。でも、その名前を覚えたいと思った。

私はノートを受け取って、自分の名前を書く。

『凛』

少しだけ緊張しながら見せると、玲王はじっとその文字を見つめたあと、ゆっくりと顔を上げた。

それから、手を動かす。

「……りん」

まだ少し不器用な形。

でも、ちゃんと伝わる。

名前を呼ばれるだけで、こんなにも胸がいっぱいになるなんて、知らなかった。

「もう一回」

気づいたら、そう手を動かしていた。

玲王は少し驚いた顔をして、それから小さく笑う。

「……りん」

今度は、少しだけ丁寧に。

その動きを、私はしっかりと目に焼きつけた。

それから、少しずつ。

私たちは話すようになった。

手話はまだ完璧じゃないけど、玲王は何度も繰り返して、ちゃんと伝えようとする。

分からないときは、ノートに書く。

それでも伝わらないときは、表情でなんとかしようとする。

その全部が、まっすぐで。

気づけば、私は自然に笑っていた。

無理に作った笑顔じゃなくて、本当に出てくる笑顔。

ある日、玲王がノートを差し出してきた。

『これ、合ってる?』

そこには、いくつかの手話のイラスト。

どれも少しずつ違っていて、どれも少し惜しい。

私はペンを取って、一つずつ直していく。

『ここはこう』『これは逆』

玲王はそれを真剣に見て、何度も手を動かす。

「……難しい」

そう言いたげな顔。

でもすぐに、ノートに書き足す。

『でも、覚えたい』

その一言に、胸がぎゅっと締めつけられる。

どうして、そこまでしてくれるんだろう。

そう思うのに、聞けなかった。

聞いたら、壊れてしまいそうで。

放課後。

教室に残っていたのは、私と玲王だけだった。

窓から差し込む夕方の光が、机や床をやわらかく照らしている。

静かで、落ち着く時間。

私は鞄に教科書をしまいながら、ふと顔を上げる。

玲王が、こちらを見ていた。

少しだけ迷うような表情。

それから、ゆっくりと手を動かす。

「……凛」

名前を呼ばれて、胸が跳ねる。

「なに?」

そう返すと、玲王は一瞬だけ目を逸らして、それからまた私を見る。

「ちゃんと話せるの、凛が初めてかも」

その言葉に、時間が止まったみたいに感じた。

うまく返せない。

何か言わなきゃいけないのに、言葉が見つからない。

でも、その沈黙すら、苦しくなかった。

むしろ、大事にしたいと思った。

帰り道。

少しだけ距離を空けて歩く。

並んでいるのに、触れない距離。

でも、遠くはない。

ふと、玲王がこちらを見る。

何か言いたげにして、でも何も言わない。

そのまま前を向く。

そんな小さなことが、なぜか胸に残る。

気づけば、隣にいるのが当たり前になっていた。

名前を呼ばれることも、話すことも、笑うことも。

全部が少しずつ、特別になっていく。

気づけば、隣にいるのが当たり前になっていた。

名前を呼ばれることも、話すことも、笑うことも。

全部が少しずつ、特別になっていく。

ふと、玲王が手を動かす。

「……また、明日」

少しだけ不器用なその言葉に、胸があたたかくなる。

私は小さくうなずいて、同じように手を動かした。

「また、明日」

ただそれだけの約束なのに。

どうしてこんなにも、嬉しいんだろう。

そのときの私は、まだ知らなかった。

この何気ない一言が、こんなにも大切になるなんて。


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