第一章 予感
人の痛みは、見えない。
見えないから、わからない。
わからないから、時々——簡単に傷つけてしまう。
誰にだって言葉にできない苦しさがあって。
誰にだってほかのだれかにはわからない夜がある。
それでも人は比べてしまう。
無意識に線を引いてしまう。
ごめんなさい。
もう一度あなたの大好きが聞きたくて。
私は、白浜凛。ごく普通の高校一年生。ただ、
―私の世界には、音がない。—
朝、目が覚める。カーテンの隙間から差し込む光で、もう朝だと分かる。目覚ましは使わない。使えない、が正しいかもしれない。
制服に着替えて、鏡の前で笑ってみる。ちゃんと笑えているかどうかは、自分ではよく分からない。それでも、笑う。そうしていないと、教室で浮いてしまう気がするから。
ドアを開ける。お母さんが何か言っている。口の動きでなんとなく意味を拾う。
「いってらっしゃい」
たぶん、そう言っている。
私は軽く手を振って、家を出た。
教室は、いつも通りだった。
誰かが笑っている。誰かが話している。名前を呼ばれている人もいる。
全部、“見える”のに、“聞こえない”。
私は席について、周りに合わせて笑う。タイミングが少しズレても、気にしないふりをする。そうすれば、だいたいなんとかなる。
——慣れているから。
その日、少しだけ違ったのは、教室の空気だった。
ざわついている。いつもより、みんなの視線が前に集まっている。
先生が入ってきた。隣に、誰かが立っている。
転校生だ、とすぐに分かった。
男の子だった。—川上玲王—
少しだけ伏し目がちで、でもまっすぐ前を見ている。どこか、不器用そうな空気。
先生が何かを説明している。名前も言っているはずだけど、聞こえない。黒板に書かれた文字を見つめるだけだった。
でも、その子が軽く頭を下げた瞬間、教室の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。
——そのときは、まだ何も思わなかった。
放課後。
私はいつも通り、早めに教室を出ようとした。
人が多い場所は、少し苦手だ。会話の流れについていけなくて、居場所が分からなくなるから。
廊下に出たとき、前から誰かが来るのが見えた。
あの転校生だった。
すれ違う、はずだった。
そのとき、彼の持っていたプリントが、ぱさりと床に落ちた。
反射的に、私はしゃがんで拾う。
彼も同時にしゃがんで、手が少しだけ触れた。
一瞬、視線が合う。
彼は何か言った。
でも、分からない。
私は困って、小さく笑ってごまかす。
そのときだった。
彼の手が、ゆっくりと動いた。
ぎこちなく。確かめるように。
——手話。
「ありがとう」
形は少し崩れていたけど、確かにそう見えた。
息が、止まる。
彼は少しだけ不安そうな顔で、もう一度手を動かす。
「……あってる?」
今度は、そう言っていた。
私は、何もできなかった。
返すはずの手が、動かない。
頭の中が、真っ白になる。
だって——
私の世界で。
この“静寂”の中で。
同じ言葉を使う人に、初めて会ったから。
やっと、ゆっくりと手を動かす。
「……あってる」
それだけで、胸がいっぱいになった。
彼は少しだけ笑った。
安心したように、ほっとした顔で。
——その表情が、なぜか強く残った。
その日、初めて思った。
この人となら。
——ちゃんと、話せるかもしれない。
私の世界は、ずっと静かだった。
でも、ほんの少しだけ。
違って見えた気がした。




