試験
――その日を、人は審判の日と呼ぶ――
無機質なコンクリート造の巨大な建物。広く開け放たれた入口は暗い奥へと続き、まるで海獣の喉奥へと飲み込まれていくよう。そこに巣食うのは、果たして人か、それとも魔物か――。
この建物の一角に設けられた試験会場には、この日、国の各地から若者たちが集まっていた。彼らは己の未来を賭け、一斉に筆記試験に挑むのである。
楕円形のホールには机と椅子が整然と並び、その一つひとつに緊張と期待を宿した受験者が腰を下ろす。そして時を迎えると、彼らは一斉にペンを走らせた。
カリ、カリ、カリ……。幼虫が木の内側を食い進むような細かな音が、ホールの隅々へゆっくりと染み渡り、蠢く。
試験は滞りなく進み、やがて最後の一つを残して束の間の休憩時間に入った。張り詰めた空気がふっと和らぎ、受験者たちの内面が表情に滲み出る。
余裕のある笑みを浮かべるのは名門大学の出身者。うつむいて両手で顔を覆うのは試験の出来を悔いる者。首を傾げて頭を掻く者は、もはや『なぜ自分はここにいるのだろう』と自問しているかのようだった。他にも、虚空を見つめて放心する者、精神統一に必死な者、平然を装いながら膝を震わせている者……。
だが、どのような者にも時は等しくに訪れる。
ブザーが鳴り、最後の試験が始まった。
試験官が通路に沿って歩き、無言のまま一枚ずつ裏返した用紙を配っていく。
「始めてください」
その一声を合図に、受験者たちは一斉に紙をひっくり返した。空気を切り裂くような紙の擦れる音が走る――だが次の瞬間、異様な沈黙が会場を包み込んだ。そう、筆記音すらしなかったのだ。
【答えろ】
紙には、ただその一文だけが印刷されていた。
困惑が水面の波紋のように広がり、誰もが息を潜めた。喉を鳴らす音すら憚られるような重い沈黙だった。
「……あの、すみませーん」
しばらくして、一人がおそるおそる手を挙げた。会場内のすべての試験官の視線が、その一点に収束した。
「これ、問題用紙が足りないんじゃ――」
「退室」
最も近くに立っていた試験官が告げた。コツ、コツと靴音を響かせて歩み寄り、青年の肩に無言で手を置き、退席を促す。
「え? え?」
青年は困惑の色を浮かべながら立ち上がった。助けを求めるようにあたりを見回したが、誰一人として彼と目を合わせようとしない。ただ冷たい沈黙と排除の気配だけが漂っていた。
背中を押され、彼はそのまま部屋の外へと追いやられた。ドアが閉まる音がホールに響くと、会場は再び凍りついたような静けさに包まれた。
しかし、受験者たちの脳内では猛烈な思考の電流が駆け巡っていた。
答えろ、とは何を? 何を問われているというのか? 哲学的な問いか、数学的な計算か。あるいはこれは心理テストなのか。
やがて、ぽつぽつと降り始めた雨のように、ペンが紙を叩く音が徐々に広がっていった。
そのペン先に焦りと困惑を宿し、ある者は自己アピールを連ね、ある者は紙いっぱいに論理を展開し、またある者は『素晴らしい問題だ。まさに人生の核心を突いたものだ』と称賛した。国家への提言を綴る者もいた。
そしてついに、試験終了のブザーが鳴り響いた。
それぞれが信じた『答え』を書いた受験者一同は、不安と自己暗示に等しい達成感と引き換えに、そっとペンを置いた。
「事前に伝えたとおり、試験結果は後日、特設サイトで公開される。受験番号を必ず控えておくように。なお、成績は企業採用の参考材料として共有される。以上、解散」
張り詰めていた空気が一気にしぼんだ。椅子の軋む音とともに受験者たちは立ち上がり、ぞろぞろと会場を後にしていく。胸を張って勝利を確信している者、血の気を失って壁伝いに歩く者、解放に喜ぶ者、「死にてえ……」と呟く者――。
「はい?」
その中で一人、ぼんやりした顔で歩いていた青年が、試験官に腕を掴まれた。青年は間の抜けた声を漏らし、そのまま人の流れと逆方向、別室へと連れて行かれた。
椅子に座るよう促され、青年は戸惑いながら腰を下ろした。
室内を見渡す。棚には鷹の剥製や何かの勲章、壁には鹿の首や、額縁に入れられた何かの格言が並んでいる。まるで校長室みたいだ、と青年は内心呟いた。
「……これは、どういうことかな?」
黒い革張りの大きな椅子に腰掛けた男が、机の上の一枚の紙をつまみ上げ、青年に問いかけた。
青年は目を細めて、その紙を確認すると首を傾げた。
「どういうことって……どういうことですか?」
「……君はこの紙に何も書いていないね。それはなぜかな?」
「……ああ、わからなかったからです」
「わからなかった……?」
「はい。何について『答える』のか、わからなかったからです」
男は紙を手から離した。【答えろ】の一文だけが記されたその紙が、ひらりと机に落ちた。
「なるほど、もっともだ。しかし、君は他の答案用紙にも何も書いていないようだね?」
「はい。どれも難しくて答えられなかったんです。すみません……。小さい頃からずっと『わからないなら余計なことするな!』って叱られてきたので。それに、白紙のままのほうが綺麗だし、いいかなって。あの、それ、お土産にもらってもいいですか? 弟たちがいるので。一緒に絵を描きたいんです」
「なるほど……。つまり、体制への抗議のつもりでやったわけではないのだね?」
「たいせい……?」
「なるほど、なるほど」男は頷き、ゆっくりと口角を上げた。
「君は合格だ」
「えっ」
「他の会場でも、何も書かなかった者はいなかった。答えを求めるという行為そのものが、時に最大の罠となる」
「……なるほど。よくわかりません」
「それでいいんだ。君は合格だ」
「じゃ、じゃあ僕、就職できるんですか? やったー! やたー! ばんざーい! ばんざあーい! ぶぁんざああーい! ぶぁんざあああい!」
青年は椅子から跳ねるように立ち上がり、両手を高々と掲げて喜んだ。男は微笑み、試験官たちも拍手を送った。やがて男が視線で合図を送ると、試験官が青年を退室させた。
ドアが閉まったあとも廊下から踊るような足音が響き、やがて遠ざかるように小さくなっていった。
「よかったですね。無事に候補者が見つかって」
「ああ。何も書かないというのは、自分の意見や答えを持たないということ。つまり、最も操りやすい人間だ。次の大統領にふさわしいのは、彼だ」




