追放された鑑定士を迎えに来たのは、勇者であり…ひとりの男だった
初めての投稿になります。なろう小説が好きで作品を投稿するのが夢でした。よろしくお願いします。
森が、妙に息を潜めていた
風は葉を揺らさず、鳥の影もない。
魔物の気配すら、薄い。
「……いやな感じがする」
思わず足を止めると、前を歩いていた戦士が振り返った。
「どうしたよ、勇者? 魔物の反応ねぇなら楽勝だろ」
鎧の肩に剣を担いで、いつもの調子だ。
貴族の三男坊。腕は立つが、口も態度も軽い。
ローブ姿の魔術師が、ふうとため息をついた。
「また“未来視”ですかな。便利な能力ですが、あまり頼りすぎると足がすくみますぞ、勇者殿」
年嵩の貴族。魔術学院の出で、知識もプライドもやたらと高い。
聖女は、退屈そうに扇をあおいでいる。
「どうせ何も起こりませんわ。さっさと森を抜けてしまいましょう。わたくし、土の匂いは苦手ですの」
三人とも、身分は高い。
俺に対しては敬意を装うが、平民に向ける視線はいつも冷たい。
そんな空気の中で、俺だけが“何か”を感じていた。
胸の奥が、かすかに疼く。
未来視が、まだ形にならない輪郭だけを指し示している。
(……先だ)
森の奥。見えない何かに、薄く光る線が伸びている。
「お前たちは道に沿って進んでいろ。俺は少し迂回する」
そう告げると、戦士が不満げに眉をひそめた。
「またかよ。単独行動好きだな、勇者」
「危険は先に潰す。俺の役目だ」
軽くそう答えて、俺は三人から離れた。
落ち葉を踏む音だけが耳に残る。
森の匂いが濃くなり、空気が重く沈んでいく。
胸の奥の疼きは、だんだんと鮮明になってきた。
魔物の気配とは違う。だが、魔王核に似た底の見えない魔力。
(……何だ)
視線の先、木々の間に小さな影が見えた。
地面にしゃがみ込み、何かに手を伸ばしている。
破れた布服。簡素なベルト。軽装の防具。
頭には盗賊風のバンダナ。
その足元には、黒い石がひっそりと転がっていた。
「おい」
声をかけると、影がびくりと跳ねた。
「あ、す、すみませんっ!」
慌てて振り返った顔は、まだ若い。
年齢は……俺より少し下か、同じくらいか。
痩せて小柄だが、目だけは妙に澄んでいた。
「俺、ただ……これが光って見えて……!」
「光って?」
黒い石を見下ろす。
見た目はただの石だ。
だが、近づいてみると……確かに、薄い魔力のざわめきがある。
魔王核の残り火のような、いやな気配。
「……お前、職業は?」
「鑑定士です……」
この世界では、本名を軽々しく名乗らない。
職業で呼び合い、名前は深い縁を結んだ相手にだけ明かす。
だから、俺も名ではなく職で呼ぶ。
「鑑定士。その石から手を離せ。危険だ」
「で、でも……中に、何か……眠ってる感じがして……。
魔力の流れが、おかしいんです」
震える指で石を示すその様子は、怯えと確信が入り混じっていた。
魔術師の声が背後からかかる。
「勇者殿、何を……。ああ、平民の鑑定士ですかな。こんなところで何をしておるのやら」
いつの間にか三人も追いついてきていた。
戦士があきれたように肩をすくめる。
「おいおい、こんなガキ構ってる場合か? 早く魔王の核を探しに行こうぜ」
聖女は、鑑定士を一瞥して鼻を鳴らす。
「薄汚れていますわね。森で野宿でもしているのかしら」
鑑定士は一歩下がり、胸当ての布をぎゅっと握った。
怯えながらも、目だけはこちらから逸らさない。
(……昔の俺に、少し似ている)
魔族の襲撃で家族を失い、瓦礫の中で震えていた子どもの頃。
誰も手を差し伸べてくれなかったあの日。
俺を拾ったのは、あの人だけだった。
師匠――元勇者パーティの盗賊。
肩書きは盗賊だが、中身は義賊で、世界を誰よりも憎んで、誰よりも優しかった人。
あの人の顔が、一瞬脳裏をよぎる。
放っておけなかった。
「鑑定士」
呼びかけると、小柄な身体がびくりと震えた。
「は、はい……!」
「お前、その石から離れろ。そして――俺の後ろに立て」
「……え?」
「お前は鑑定士だ。なら、お前にしかできない仕事がある」
茶色の瞳に、一瞬だけ光が宿る。
戦士がわかりやすく顔をしかめた。
「マジかよ勇者、連れてくのかよ?」
聖女も眉間に皺を寄せる。
「勇者様は、お情けが過ぎますわ。そんな平民ひとり、どうということはないでしょうに」
魔術師だけが興味深そうに鑑定士を見ていた。
「ほう。“視える”鑑定士、ですかな……」
俺は、仲間たちに短く言い切った。
「今日からお前は俺のパーティに同行する。鑑定士として、だ」
鑑定士は慌てて胸の前で手を揃え、頭を下げた。
「……お、お世話になります……勇者さん」
その声は震えていたが、確かに喜びが滲んでいた。
こうして、
世界の命運を握ることになる鑑定士との旅が始まった。
* * *
鑑定士は、弱かった。
少し歩けば息が上がり、
少し走れば膝が笑う。
魔物が出れば、反射的に俺の背中に隠れる。
剣も短剣もろくに振れない。
木立の根に躓いて転ぶことすら珍しくなかった。
戦士は、それを隠しもしない。
「なあ勇者、正直言っていいか」
「言わなくていい」
「言わせろって。こいつ、戦力になってねぇよな?」
聖女は扇を畳みながらため息をつく。
「歩みが遅くなりますわ。わたくしの脚が棒になりますの」
魔術師は肩をすくめた。
「肉体的な強さは期待しない方がよろしいでしょうな。だが、鑑定能力が本物なら話は別ですが」
三人の視線は冷たい。
身分と能力で人を測る貴族らしい視線だ。
そのたびに鑑定士は、縮こまりながら頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……。
俺、もっと頑張りますから……」
弱々しい声音。
だが、不思議と、それでも折れてはいないのがわかった。
(頑張る、か)
平民が「頑張る」と口に出す時、そこにはたいてい必死さがある。
それを笑う権利は、少なくとも俺にはない。
実際――鑑定士には、確かな役割があった。
魔物の巣に近づいた時、
鑑定士はふいに足を止めた。
「……この岩、変です」
指さす先の岩は、見た目には何の変哲もない。
「何がだ?」と戦士が鼻で笑う。
「魔力の流れがねじれてる……。
たぶん、触ったら“目を覚ます”タイプのやつです」
「おい、岩が目覚めてどうすんだよ」
軽口を叩きながらも、俺は未来視を覗く。
霧の向こう、確かにその岩に触れた未来がちらりと見える。
そして――岩が牙を剥き、冒険者を丸飲みにする未来も。
「迂回する。戦士、軽く遠回りだ」
「へいへい」
鑑定士の忠告を無視した時もあった。
その時は決まって、嫌な罠に引っかかった。
未来視で薄く見えていた“危険な点”と、
鑑定士が感じ取る“歪んだ流れ”は、不自然なほど一致していた。
(……やっぱり、ただの鑑定士じゃない)
そう思う一方で、
貴族三人の目は、日ごとに険しくなっていく。
「平民のくせに、勇者様のそばにいるのですよ」
聖女はある晩、焚き火の光の中でそう言った。
「身の程というものを知るべきですわ」
「まったくだな。俺たちが命がけで戦ってんのに、あいつだけ後ろで震えてるだけってのはよ」
戦士は火に薪を投げ込みながら続ける。
「魔物の位置がちょっとわかるくらいで、勇者パーティに混ざれると思うなよってな」
魔術師は顎髭を撫でながら、少し違う意味で鑑定士を見ていた。
「しかし、あの者、魔力の流れの読み方が異常ですぞ。
単なる天性か、それとも――」
「それとも?」
「“器”ですな。何かを宿すための」
嫌な言葉だった。
師匠が、かつて呟いたのを思い出す。
“あいつは勇者って器にされて殺されたんだ”
“器”という言葉は、ろくな思い出を連れてこない。
* * *
旅が始まって数日。
汗と埃にまみれた俺たちは、ようやく川辺にたどり着いた。
澄んだ水音。
冷たい風。
陽光が水面をきらきらと反射している。
「よし、今日はここで休む。水浴びもしておけ」
そう告げると、戦士が両手を広げた。
「やっとか! 汗で鎧が張り付いて気持ち悪かったんだよな!」
「わたくしも衣を清めたいですわ」
聖女がわざとらしくため息をつく。
「泥の匂いは好きではありませんの」
魔術師はローブを丁寧にたたみながら、近場の岩に腰を下ろした。
鑑定士は少し離れた浅瀬にしゃがみ込み、靴を脱ぎ始めた。
その動きはどこか慎重で、
ときどき周囲の視線を気にしているようだった。
(……水浴びも、安心してできないか)
頭に巻いたバンダナを外し、
額の汗をぬぐおうとした――その時。
強い風が吹いた。
バンダナが、ふわり、と宙を舞う。
浅瀬の真ん中まで飛ばされてしまった。
「あっ……!」
鑑定士が慌てて手を伸ばす。
だが、その間に――
長い黒髪が、ぱらりとほどけた。
きつく巻いていたせいで、波打つようにふわりと広がる。
水面の光を映しながら揺れるその髪は、
思わず息を呑むほど綺麗だった。
首筋は細く、白い。
肩も、少年にしては華奢すぎる。
鑑定士は青ざめて、両手で髪をかき集めた。
「み、見んなッ! 頼むから見ないでくれ……!」
声が裏返っている。
喉の奥で泣きそうな音が絡んでいる。
(……ああ)
気づいてしまった。
鑑定士は、女だ。
なのに“俺”と名乗り、男として振る舞っている。
「大丈夫だ」
ゆっくりと口を開く。
「俺は誰にも言わない。見なかったことにする」
鑑定士は、濡れた長髪の隙間からこちらを見た。
茶色の瞳が、不安と恐怖で揺れている。
「……ほんとに……?」
「本当だ。お前の事情を詮索する気はない。
隠したいなら隠せばいい。それだけの話だ」
鑑定士は震えながら、
流れてきたバンダナを片手で拾い上げた。
「……ありがと……勇者さん……」
その声は、いつもの“俺”の声なのに、
どこか柔らかく聞こえた。
森の影から、視線を感じる。
目をやると、木陰の向こうで聖女がじっとこちらを見ていた。
表情は読みづらい。
だが、何かを“見た”目だった。
嫌な予感が、背筋を撫でた。
* * *
その夜、焚き火の前で、俺はペンダントを握りしめていた。
黒い革紐に通された小さな銀の飾り。
かつて女勇者が身につけていた証。
師匠の、そしてあの人の、遺骸のようなもの。
熱はないはずなのに、手のひらがじんわりと温かい。
目を閉じると、
遠い昔の光景が脳裏に浮かぶ。
王都が魔族に襲われた夜。
赤い炎。崩れる城壁。
叫び声と、焼ける匂い。
家が潰れ、気づけば俺は瓦礫の下に閉じ込められていた。
息が苦しい。
何度も叫んだが、誰も答えなかった。
やがて、瓦礫の隙間から差し込んだ光が、誰かの顔を照らした。
「……おい、生きてんじゃねぇか、坊主」
無精ひげ。
ぼさぼさの髪。
どこにでもいそうな盗賊風の男。
だが、その目だけが妙に優しかった。
「立てるか?」
差し出された手は、煤で黒く汚れていた。
それでも、温かかった。
それが、師匠との最初の出会いだ。
師匠は俺を拾い、育てた。
盗賊のアジト。
屋根裏部屋。
盗んだパンを半分こ。
夜になると、裕福な貴族の屋敷に忍び込む。
「いいか坊主、盗む相手は太るほど金持ってるやつだけだ。
腹を空かせてるやつから盗ったら、そいつは“ただの泥棒”だ」
俺は師匠から、盗み方と同じくらい、
人の線の引き方も教わった。
ある夜、俺たちはとある貴族の屋敷に忍び込んだ。
寝静まった廊下。
月明かりに照らされた大広間。
目当ての金銀はすぐに見つかった。
だが、その部屋の壁には、一枚の大きな絵画が飾られていた。
鎧をまとった女。
マント。
その隣に立つ盗賊風の男。
二人を中心に描かれた勇者一行。
絵の中の女勇者は、まっすぐ前を見据えていた。
首元には、月のような形のペンダント。
それは、師匠の胸にもかかっているものと同じだった。
「これ……」
思わず声が漏れる。
師匠は一瞬だけ目を伏せ、
その絵を睨むように見つめた。
「坊主。その女は――勇者だった」
簡単な言葉。
だが、その声の奥に、深い傷が滲んでいた。
師匠は、勇者パーティの盗賊であり、
あの女勇者の恋人だった。
魔王を討ち果たしたあと、
勇者は“英雄”として讃えられ、
やがて“邪魔な存在”として処理された。
「国ってのは怖ぇぞ。
物語に勇者は必要だが、本物の勇者は邪魔なんだとさ」
師匠は、冗談のように笑った。
だが、その目は少しも笑っていなかった。
「じゃあ、師匠は……」
「俺は、逃げたヘタレさ。
あいつは最後まで“勇者”だったけどな」
それ以上、俺は何も聞けなかった。
その数日後。
俺たちは、囲まれた。
夜の路地。
背後から迫る鎧の音。
王国の紋章を掲げた私兵たち。
「義賊なんて言葉でごまかしてきたが――
結局俺は、あいつの真似事してただけだな」
師匠は笑いながら、俺の前に立った。
「坊主。走れ」
「いやだ、一緒に――!」
「ガキが背負うもんじゃねぇ。勇者も、義賊も」
剣の雨が降る。
師匠の身体が、血の花を咲かせるように穿たれる。
それでも笑って、
最後の力でペンダントを外した。
「……あいつの光は、お前のほうが似合う」
ペンダントが俺の首にかかった瞬間、
眩しい光が視界を埋めた。
次に目を開けた時、
俺は簡素なベッドの上だった。
周りには、見知らぬ神官と兵士。
そして――俺を“勇者”と呼ぶ声。
「新たな勇者が選ばれた」
そう宣告され、
俺は世界に担ぎ上げられた。
師匠の最期の言葉も、
女勇者のことも、
誰も知らないまま。
ペンダントを握る手に、力を込める。
(俺は、なりたくて勇者になったわけじゃない)
だからこそ、
貴族に見下される平民を見ると、胸が痛む。
鑑定士がいじめられるたび、
俺はあの夜の師匠を思い出していた。
胸の奥がじくりと痛む。
その痛みと同時に、
未来視の霧が静かに揺れ始めた。
白い霧の向こう――
黒い渦。
森を飲み込む影。
その中心に、鑑定士が立っている。
(……嫌な予感しかしない)
ペンダントの光が、
微かに脈打った。
* * *
それから間もなく、森の中心にそれは現れた。
木々が輪を作った空間。
地面に黒い染みが広がり、
そこから黒い煙が立ち上っている。
やがて、それは形を持った。
人のようで、人ではない。
獣のようで、獣でもない。
黒い影がうねり、赤い核を中心に脈打つ。
戦士があからさまに顔を引きつらせる。
「おいおいおい、何だよあれ……!」
聖女の唇が震える。
「こ、こんなもの……聞いておりませんわ……!」
魔術師は、蒼白な顔で呟いた。
「魔王核の……原型……。
勇者殿、これは小細工では倒せませぬぞ」
鑑定士は、その場に膝をつきそうになっていた。
両手で胸を押さえ、苦しげに息を吐く。
「近い……。あいつ……“呼んでる”……。
俺の中の……これを……」
影の主が、こちらを向いた。
顔はない。
だが、確かに“目”があるように感じた。
次の瞬間、黒い腕が伸びた。
一直線に、鑑定士めがけて。
「!」
鑑定士は避けられない。
未来視がそう告げるより早く、体が動いた。
「どけッ!」
鑑定士の肩を掴んで引き寄せ、地面に転がる。
背後で大地が抉れ、土と石が吹き飛んだ。
影の主は間髪入れず、再び腕を振り下ろす。
狙いは、やはり鑑定士だ。
戦士が叫ぶ。
「なんであいつだけ狙うんだよ!」
聖女が怯えたように身をすくめる。
「や、やはり……あの者、何か持っていますのよ……!」
魔術師は震える声で言った。
「“同質反応”を起こしているのです。核と、あの者の中の何かが……!」
影の主の意志が、脳裏に響いた。
――返せ。
――我が光。
――我ガ、砕ケタ魂ノ欠片ヲ。
鑑定士は耳を押さえ、顔を歪める。
「……うるせぇ……! 俺は、お前のもんじゃねぇ……!」
意味は分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
(あいつの中に、“何か”がある)
ペンダントが、胸元で熱を帯びた。
先代の女勇者が身につけていた光と、
鑑定士の中の“それ”が共鳴している。
戦闘は、混沌そのものだった。
影の腕を斬り落としても、すぐに再生する。
核を狙おうとすれば、黒い瘴気が防ぐ。
戦士の剣も、魔術師の炎も、聖女の祈りも、決定打にはならなかった。
鑑定士の胸の奥から、
ときおり白い光が漏れる。
それが影の主の肌に触れるたび、
黒い肉がじりじりと焼ける。
(……光だ)
俺は確信した。
(あいつの中には、勇者と同じ……いや、それ以上の“光”がある)
だから狙われる。
だから憎まれる。
だから、このまま放っておけば――
「勇者殿! 核が限界ですぞ!」
魔術師の声が飛んだ。
「あれが完全に形を取れば、もはや我々では――!」
未来視が走る。
霧が裂け、一本の道が見える。
幻でも希望でもない。
ただ一つの可能性。
(行ける)
ペンダントを握りしめる。
師匠の声が、どこかで笑ったような気がした。
“選べ。坊主。お前はもう、自分で選ぶ歳だ”
「戦士、左の腕を押さえろ! 聖女、俺から目を離すな! 魔術師、俺の合図で核を焼け!」
叫びながら、俺は鑑定士を見た。
「立てるか、鑑定士!」
鑑定士は、震えながらも立ち上がった。
「……足は震えてるけど……
あんたの背中が見えるうちは、大丈夫だ……!」
弱い。
だが、その目だけは折れていない。
それだけで十分だった。
俺は地を蹴った。
影の腕が襲いかかる。
未来視が、その軌跡を先に描き出す。
右へ避ける。左を切る。
足元の影を跳び越える。
そのすべてに鑑定士の光が追いつき、焼き払っていく。
戦士の剣が腕を押さえ、
聖女の光が俺の傷を癒し、
魔術師の炎が核の周囲を削る。
霧の中で見えた“線”と、
今この場で交わる仲間たちの動きが、ぴたりと重なっていく。
(次だ……!)
未来視が告げる。
(五秒後、核が露出する。その瞬間――)
「鑑定士!」
「な、なんだよ!」
「五つ数えろ。俺が開ける。お前は、そこに光をぶつけろ!」
「五って……!」
「できる! お前ならできる!」
鑑定士は唇を噛みしめ、震える指を折った。
「いち……に……」
影の主が咆哮する。
世界が揺れる。
残滓たちが一斉に俺めがけて飛びかかる。
戦士の叫び声。
聖女の祈り。
魔術師の呪文。
すべてが遠く、
目の前の“線”だけがはっきり見えた。
「さん……よん……」
未来視が、最後の景色を映す。
胸の中心が空く。
核が剥き出しになる。
そこに――。
「ごッ!」
鑑定士の叫びと同時に、
俺は剣を振り下ろした。
黒い肉が裂け、赤い核が露出する。
その瞬間、背後から白い光が轟いた。
「うおおおおおおおおお!!」
鑑定士の光が、一直線に核へ飛ぶ。
未来視が、それが届く未来を映す。
(届け――!!)
光が核を貫いた。
影の主は、断末魔のような叫びをあげた。
――アァァァァァァァ……!
巨体が崩れ、
黒い破片が四方八方に飛び散る。
飛んできた破片から鑑定士を庇うように抱き寄せ、
俺はその場に膝をついた。
耳鳴り。
焦げた匂い。
胸の奥でまだ暴れる未来視。
やがて――
静寂が訪れた。
「……勝った、のか……?」
小さく、鑑定士の声がした。
俺はその頭を支えながら、深く息を吐いた。
「ああ。間違いなく、俺たちの勝ちだ」
鑑定士は、かすかに笑った。
「そっか……よかった……。
俺、また……邪魔したかと思った……」
「してない。お前がいなきゃ、詰んでた」
その言葉に、鑑定士の指先が震えた。
だが――
安堵は長く続かなかった。
鑑定士の胸の奥で、
まだ白い光が暴れていたのだ。
耐えきれなかったのか、
鑑定士はそのまま意識を手放した。
戦士は、複雑な表情を浮かべている。
「……あいつ、マジで何者なんだよ……」
聖女は、恐怖と嫌悪を隠そうともしなかった。
「勇者様と同じ光を宿しているなんて……。
そんなもの、ただの下民が持っていていいはずありませんわ……」
魔術師は、冷静な声で言った。
「“器”ですな。勇者殿のそれと似た性質の。
ですが、制御もされておらぬ。危険な不安定要素ですぞ」
彼らの目は、
もはや鑑定士を“仲間”として見てはいなかった。
俺は、鑑定士を抱きかかえたまま、唇を噛んだ。
(お前は……何者なんだ)
問いは、眠る鑑定士にも、自分にも向けられていた。
* * *
森の外れの廃小屋に避難し、
俺たちはその夜をそこで明かした。
鑑定士は簡素なベッドに寝かせ、
俺は傍らの椅子に腰を下ろした。
夜が更け、炎が小さく揺れる。
鑑定士の寝息は安定している。
だが、胸元はときおり微かに光る。
あの白い光――影の主を焼いた、正体不明の光。
戦士が、堪えきれないといった様子で口を開いた。
「なあ、勇者」
「なんだ」
「マジで聞くけどよ。あいつ、連れてくのか?」
聖女も腕を組む。
「危険ですわ。あの者がいる限り、魔物や災厄は寄ってきますのよ。
勇者様の負担も増えるだけですわ」
魔術師は火を見つめたまま、静かに告げた。
「勇者殿。あの者は“光の器”であり、不安定な爆弾でもあります。
しかも身分も正体も偽っている。信用に値すると、なぜ言い切れますかな?」
言葉一つひとつが、胸に刺さる。
「鑑定士は何も悪くない」
それだけは、揺るがなかった。
「お前たちにとっては不安かもしれないが、俺にとっては必要な仲間だ。
あいつが何度、俺たちを助けたと思ってる」
戦士は黙り込んだ。
しかし、その表情は納得とは程遠かった。
聖女は首を振る。
「勇者様は甘いのですわ。
あの者を庇えば庇うほど、勇者様ご自身を危険に晒すことになりますのに」
魔術師が、静かに決定打を放つ。
「勇者殿。
“鑑定士を庇う未来”と“世界を救う未来”、
どちらを取るべきかは明白でしょうな」
答えられない。
未来視の霧が、
静かに揺れている。
そこには、様々な分岐があった。
鑑定士を連れて行く未来。
置いていく未来。
戦士たちと別れる未来。
ひとりで戦う未来。
だが――
ひとつだけ、異様に強い線があった。
“鑑定士が側にいるまま進んだ場合の、全滅”。
その映像はあまりに鮮やかで、
あまりに現実的で、
あまりに悪趣味だった。
(……ふざけるな)
握りしめた手が震える。
「あいつを連れていけば……俺たちが死ぬ」
そう告げているに等しい未来。
だが、だからといって――。
そのとき、眠っていたはずの鑑定士が、微かに身じろぎした。
「……勇者さん……」
うわごとのような声。
目は半分閉じている。
「……俺……邪魔ばっか、してない……?」
未来も理屈も関係なく、
胸が痛んだ。
戦士、聖女、魔術師。
三人が、俺の返事を待っている。
このままでは――
鑑定士は三人の意思で“追い出される”。
(それだけは、俺の口で……)
選ぶしかなかった。
* * *
翌朝。
空は薄曇り。風は冷たい。
鑑定士はようやく目を覚まし、
まだだるそうに身体を起こしていた。
「……おはよう、ございます……」
戦士が立ち上がり、真正面から鑑定士を見下ろした。
「なあ、鑑定士」
「……はい」
「お前、自分がどういう立場か、分かってるか?」
聖女が冷たく笑う。
「あなたがいると、魔物が寄ってくる。勇者様が危険に晒される。
わたくしたちにとって、あなたは“恐怖の種”ですわ」
魔術師は淡々と告げた。
「力そのものは認めましょう。ですが――扱いきれぬ力は災厄だ」
鑑定士の顔から、徐々に血の気が引いていく。
「……俺、そんなつもりじゃ……」
「“つもり”の問題ではありませんのよ」
聖女は一歩近づき、鑑定士を見下ろした。
「結果として、あなたがいることで勇者様が危険になる。それが問題ですの」
「勇者」
戦士が俺を見る。
「俺たちは、お前を守りたい。
だから――」
「追放すべきだ」と、
その顔は無言で言っていた。
鑑定士の視線が、俺へ向く。
茶色の瞳。
怯えと期待と、ほんの少しの希望。
「……勇者さんは……どう思ってるんだよ」
心臓が、嫌な音を立てた。
本当は――
行くな、と言いたかった。
一緒に来い、と言いたかった。
名前を教えろと、呼びたいと、笑ってほしいと、
そう願いたかった。
だが、未来視は残酷だ。
このまま共に旅を続ければ、
いつか必ず“あの未来”に行き着く。
俺は勇者だ。
世界を救うように仕立て上げられた人間だ。
そして何より――
鑑定士に死んでほしくなかった。
だから。
「……ここまでだ」
口から出た言葉は、
思っていることとは真逆だった。
鑑定士の肩が、小さく震える。
「お前は、旅に向いていない。
弱いし、倒れるし、足を引っ張る」
言いながら、
自分の胸を殴りたくなる。
違う。本当は違う。
お前は、俺たちを何度も救ってくれた。
だが、とどめを刺す言葉は――
どうしても変えられなかった。
「ここで別れよう。
……生きていけ」
それだけが、本音だった。
鑑定士は、少しだけ目を見開き――
次の瞬間、弱々しく笑った。
「……そっか。
うん……分かった。
俺、弱いもんな……」
責める言葉は、ひとつもなかった。
荷物を手に取り、
よろよろと立ち上がる。
「今まで……世話になりました」
その背中は細くて、軽くて、
今にも折れそうで。
それなのに、
一歩一歩、確かに前に進んでいった。
声をかけたかった。
待て、と。
名前を教えてくれ、と。
だが、その瞬間に気づいてしまった。
俺は――
あいつの名前を、まだ知らない。
呼び止める言葉すら持たないまま、
鑑定士は森の影に消えていった。
* * *
(……俺、本当に追放されたんだな)
森の細い道を歩きながら、
鑑定士――まだ名を知られていない少女は、
乾いた笑いをこぼした。
胸は重く、足は痛い。
光の反動で、体の奥がずっと熱を持っている。
「ごめん……勇者さん……。
俺、ほんと足引っ張ってばっかで……。
追放されても、文句言えねぇよな……」
声に出して、
ようやく少しだけ実感が湧いてきた。
盗賊として生きてきた頃から、
女であることを隠して生きてきた。
男として振る舞えば、
舐められることも減る。
盗賊仲間に変な目で見られずに済む。
そうやって、自分を守ってきた。
誰も信用しない。
誰にも期待しない。
“俺”でいれば、それでいい。
そう思っていたのに――。
頭布が外れた時。
長い髪が見えてしまった時。
勇者だけは、何も聞かなかった。
責めず、詮索せず、
ただ「隠したいなら隠せばいい」と、
そう言ってくれた。
胸の奥が、妙に痛かった。
「……勇者さん……。
あんたが未来視で見た“全滅”には……
きっと俺がいたんだよな……」
だから追放した。
自分一人を切り捨てて、
パーティ全員を守ろうとした。
(そう思えば……少しは、マシか……?)
マシではなかった。
少しも。
ふらつきながら歩き続け、
やがて足が止まった。
夕暮れの森。
木々の隙間から差し込む光が、赤く滲む。
「……はぁ……。
もう、動けねぇ……」
背中を木にもたせかけ、ずるずると地面に腰を落とす。
息は浅く、胸はきゅうっと痛む。
その時だった。
ザァ……
風ではない。
“何か”が擦れる音。
顔を上げると、
森の奥から黒いもやが流れてくるのが見えた。
霧。
煙。
影。
それらが混じり合って、人の形とも獣の形ともつかない塊を作る。
忘れようにも忘れられない匂い。
「……影の……主……?」
あの日、勇者たちと一緒に倒したはずの存在。
その、残りかす。
黒い影が、ゆっくりとこちらを向く。
顔はない。
だが、確かに“自分”を見ていると分かる。
そして――近づいてくる。
「……なんで……。
なんで俺なんかに……」
答えは、胸の奥が知っている。
白い光。
影の主を焼いた、あの光。
それは、自分の中から溢れたものだ。
だから狙われる。
だから追い詰められる。
逃げようと足に力を込めても、
力は入らなかった。
「勇者さん……」
名前すら知らない相手のことを、
それでも“勇者さん”と呼んだ。
返事はない。
返してくれる人は、もうここにはいない。
影の腕が伸びる。
冷たく、重たい気配。
(……そっか)
妙に落ち着いた。
(勇者さんの未来視、当たってたんだな。
俺が一緒にいたら、きっとあの人、死んでた……)
自分が死にかけているのに、
考えているのは、あの人のことばかり。
「……ごめんな……勇者さん……。
俺……やっぱ……役立たずでさ……」
影が、目の前まで迫った。
その瞬間――
胸の奥で何かが弾けた。
眩しい白。
影の主を貫いた、あの光と同じ。
残滓が怯えるように形を崩し、
森の闇に逃げ込んでいく。
「っ、は……」
呼吸が乱れ、視界が暗くなっていく。
「今の……何だよ……。
俺の中の……何なんだよ……これ……」
答えは出ないまま、
世界が闇に沈んだ。
* * *
同じ頃。
俺は胸を押さえて膝をついていた。
「っ……!」
心臓を掴まれたような痛み。
未来視が暴れる時の、あの嫌な感覚が何倍にも膨れ上がっている。
戦士が慌てて駆け寄る。
「勇者!? おい、大丈夫かよ!」
聖女も顔を青ざめさせる。
「勇者様っ!? ど、どこかお悪いのですの!?」
魔術師が眉をひそめた。
「未来視の発作にしては……強すぎますぞ……」
霧が押し寄せる。
視界が白に染まり、
そこにひとつの映像が浮かんだ。
暗い森。
倒れ伏す影。
黒い髪。
震える指。
息のない鑑定士。
(……やめろ)
拒絶しても、映像は消えない。
胸が、焼けるように痛む。
(やめろって言ってんだろ……!)
叫びは、自分の喉の奥でむなしく反響するだけだった。
戦士の手が肩に触れる。
「勇者……。
今の、まさか……」
「……鑑定士だ」
口に出した瞬間、
それは“確定した未来”みたいに重くのしかかった。
聖女が、困ったように眉を寄せる。
「追放したのですから、もう仕方ありませんわ。
あの者がどうなろうと――」
「関係ないとでも言うのか」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「お前たちがあいつを危険だと言って、
俺が追放を選んだ。
その結果が、これだ」
魔術師は沈黙した。
戦士が唇を噛む。
「でもよ……ここで引き返したら、
世界は誰が救うんだよ。俺たちは――」
「知らん」
言ってから、自分で驚いた。
だが、取り消す気にはなれなかった。
「世界より先に、助けるべき奴がいる。
俺はそう思った」
未来視は絶対ではない。
ただ、何もしなければ“強い方の未来”へ流れていくだけだ。
なら――。
俺は立ち上がり、森の方角を睨んだ。
「心当たりがある。
あいつが行くなら、あっちだ」
戦士が慌てて腕を掴む。
「待てって勇者! 一人で行く気かよ!」
「行きたくないなら、来なくていい」
振り払う。
聖女が悲鳴のような声を上げた。
「勇者様っ、いけませんわ! あの者のところへ行ったら――!」
振り返らずに答えた。
「もう一度だけ、俺が選ぶ。
今度は――自分の意志で」
ペンダントが胸で揺れる。
師匠の笑い声が、風のように背中を押した気がした。
* * *
森は、やはり静かすぎた。
だが今は、その静けさの意味が分かる。
何かを飲み込んでいる森。
何かを隠している空気。
未来視の霧が、
一つの点を示している。
倒れた木。
崩れた斜面。
その下で、黒い髪が広がっていた。
「……!」
駆け寄り、その体を抱き起こす。
冷たい。
だが――まだ、息はある。
「おい。起きろ。……鑑定士」
茶色の瞳が、わずかに開く。
「……勇者、さん……?」
かすれた声。
信じられないものを見るような目。
「……なんで……来たんだよ……。
俺、追放……されたのに……」
「死ぬな」
それしか言えなかった。
「お前を追放して、こうなった。
なら、やり直す」
森の奥から、再び黒いもやが湧き上がる。
先ほどより濃い。
先ほどより重い。
影の残滓が、新たな核を求めて集まり始めている。
鑑定士の胸が、鈍く光った。
「……また、来やがったかよ……」
影は怒りに満ちた気配でこちらへ迫る。
――光ノ器。
――今度コソ、砕ク。
俺は鑑定士を支えながら立ち上がった。
「立てるか」
「……立つ。
ここで寝てたら、本気で殺される……」
震える足で、それでも鑑定士は一歩を踏み出した。
未来視が、ゆっくりと動き出す。
霧の向こう、
二人で並んで立つ影。
そこから伸びる一本の線。
(……行ける)
その未来に賭けることにした。
「行くぞ。……鑑定士」
「……ああ」
名前も知らないまま、
俺たちはもう一度、影と対峙した。
* * *
戦いは、さっきよりさらに苛烈だった。
影の残滓は互いに引き寄せられ、
一つの巨大な塊へ変貌していく。
その中心で、赤い核が脈打つ。
まるで心臓のように。
「まだ器を作ってる途中だ……!
いま潰さなきゃ、本物の魔王核になる……!」
鑑定士が苦しげに呟く。
影は吠えた。
――返セ。
――我ガ光。
――我ガ魂ノカケラ。
胸の奥が、強く疼く。
鑑定士の中の何かが、それに応えている。
影の腕が襲いかかる。
未来視が、軌跡を描き出した。
右から来る。左から来る。
足元から突き上げてくる。
「避けろ!」
「言われなくてもっ!」
ぎりぎりでかわす鑑定士。
華奢な身体がしなやかに動く。
盗賊として生きてきた癖が、思わぬところで役立っていた。
一度だけ、長い髪がバンダナの隙間からこぼれた。
すぐに手が伸びて押さえられる。
その仕草は妙に自然で、
長年そうやって“隠してきた”ことが分かる。
(……お前はずっと、そうやって生きてきたのか)
影が胸をかばうように腕を交差させる。
未来視が告げる。
(あの腕を削らないと、核には届かない)
「鑑定士! 右の腕の根本、魔力が薄い! そこを焼け!」
「了解!」
鑑定士の掌から、白い光が放たれる。
線のように細く、鋭い光。
影の皮膚を切り裂き、中の黒い肉を焼く。
影が咆哮する。
――器メ……!
――光ヲ宿スニハ、脆スギル……!
鑑定士が、負けじと叫び返す。
「うるせぇよ……!
俺は、俺だ……!」
胸の奥から、また光が溢れた。
それは最初よりもずっと強く、
ずっと安定している。
未来視が、ひとつの光景を見せる。
五秒後。
胸の中心が開く。
赤い核が露出する。
(そこを――)
「鑑定士!」
「なんだよ!」
「五秒後に核が出る! 俺が切り開く!
お前はその瞬間、全力で光をぶつけろ!」
「光をぶつけろって簡単に言うよな……!」
「お前ならできる!」
鑑定士は短く笑った。
「……信じるぞ、勇者さん!」
未来視が、秒を数える。
一。二。三。四――。
目の前が、線だけで満たされる。
影の腕。
残滓の動き。
地面の割れ目。
鑑定士の位置。
すべてが一本の軌道に乗っていく。
五。
「今だッ!!」
剣を振り下ろす。
影の胸が裂け、赤い核が露出した。
同時に、白い光が放たれる。
「うおおおおおおおおお!!」
鑑定士の叫びとともに飛び出した光は、
一直線に核へ突き刺さった。
赤い光と白い光がぶつかり合い、
眩い閃光が森を飲み込む。
影の主は、最後の咆哮をあげた。
――――……!
音にならない音。
それはやがて、静かに消えていった。
黒い残骸が雨のように降り注ぎ、
光を浴びて蒸発する。
俺は鑑定士を抱き寄せ、
その身を庇いながら地面に膝をついた。
しばらくして――。
ようやく、森に本当の静寂が戻ってきた。
荒い息を吐きながら、鑑定士が笑う。
「……生きてる……?」
「ああ」
頷きながら、自分の声にも驚いた。
笑い泣きしたみたいな、変な声だった。
「お前も、俺も。ちゃんと生きてる」
鑑定士は、涙か汗か分からないものをぬぐって、
小さく息を吐いた。
「……よかった……。
俺のせいで誰か死んだら……
マジで立ち直れねぇとこだった……」
胸の中で、何かがほどけた。
「お前のせいで生き延びたんだ、俺は」
その言葉に、鑑定士の目が揺れる。
しばらく、互いに何も言わなかった。
影は消えた。
残滓もない。
森にあるのは、風と葉擦れと、二人の息遣いだけ。
ここまで来て、
ようやく気づく。
俺たちはまだ――
互いの名前を知らない。
「なあ、鑑定士」
「……なに?」
「聞いていいか」
少しだけ、照れくさい。
だが、この流れで聞かなければ、一生聞けない気がした。
「お前の名前。
本当の名前だ」
鑑定士は、きょとんとした顔をした。
そして、少しだけ笑った。
「……今かよ」
「今だ」
鑑定士は、空を見上げた。
木々の隙間から差し込む光が、
バンダナの端からのぞいた黒髪に落ちる。
「昔さ。
拾われた時に、盗賊団の頭に言われたんだよ」
ぽつりと話し始める。
「“お前、ひょろひょろして風に飛ばされそうだな。
葉っぱみてぇにどこにでも行けるように、リーフって呼んでやる”って」
少しだけ誇らしそうで、
少しだけ寂しそうな表情。
「だから……俺の名前は、リーフ」
初めて聞く、本当の名前。
口の中で転がしてみる。
リーフ。
風に揺れる葉っぱ。
どこにでも行ける、小さな命。
「……いい名前だな」
素直に、そう思った。
リーフは、気恥ずかしそうに肩をすくめる。
「勇者さんは?
あんたの名前、俺、まだ聞いてねぇや」
そう言われて、少しだけ戸惑った。
勇者。
ずっとそう呼ばれてきた。
名前ではなく、役目として。
名前を教えれば、
もう逃げられない気がした。
だが――
もう、とっくに逃げ場なんてない。
ペンダントを握りしめる。
師匠の声が、遠くで笑う。
“ようやくかよ、坊主”
「……アレンだ」
静かに告げる。
「俺の名前は、アレン」
リーフの瞳が、ぱっと明るくなった。
「アレン、ね」
ゆっくりと、その名を噛みしめるように微笑む。
「いい名前じゃん」
妙に、くすぐったい。
アレン、と呼ばれたのは、いつ以来だろう。
勇者でも、殿でも、様でもない。
ただの名前。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「よろしくな、アレン」
「……ああ。
これからもよろしく、リーフ」
握った手は、少し冷たくて、
それでも確かに生きている。
風が吹いた。
森の匂いが少しだけ軽くなる。
遠くで鳥が鳴いた。
さっきまで聞こえなかった命の音。
世界はまだ、救われていない。
魔王核の残り火も、どこかでうごめいている。
それでも――。
「なあ、アレン」
名を呼ぶ声が、妙に嬉しい。
「ん」
「俺さ。
あんたの未来視があるなら、
あんたの“隣”くらいには並べるかな」
真っ直ぐな目。
未来視の霧が、
少しだけ晴れた気がした。
そこには、まだ戦いがある。
傷も、涙も、血もある。
だがその隣には。
ずっと、リーフがいた。
「お前なら、並べるさ」
空を見上げる。
葉の隙間からこぼれる光が、
どこまでも眩しくて。
「俺の未来には――
お前がいる」
リーフは、照れたように俯き、
それでもしっかりと俺の手を握り返した。
光を抱く鑑定士と、
影の中を歩いてきた勇者。
二人の旅は、
ようやく、同じ名前を呼び合うところから始まった。




