余命百日、恋を忘れた聖女はもう一度、春を見に行く
第1話 呪いの宣告
朝が、ひどく冷たかった。
聖堂の窓から射す光は淡く、床に落ちる影がわずかに揺れる。
リシェルは、祈りの姿勢のまま動けずにいた。
祈るたび、胸の奥に小さなさざ波が立つ。
それが不安なのか希望なのか、自分でもわからなかった。
鐘が、ゆっくりと鳴った。
いつもの朝と同じはずなのに、その音はどこか遠く聞こえた。
扉の向こうで、司祭が彼女の名を呼ぶ。
「聖女リシェル。神託のお言葉が届きました」
声に従って歩み出ると、白い光が祭壇を包み、空気が震えた。
リシェルは膝を折り、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、灰色の空と、一人の騎士の背中。
アラン――彼の名を思い出すだけで、胸の奥に灯がともる。
その灯が、今日、試されるのだと知った。
司祭の声は、祈りと共に降りてきた。
「神は告げられました。
百日後、あなたは“恋”を忘れる」
時間が、止まったように思えた。
光の粒が宙に浮かび、誰も息をしていない。
“恋を忘れる”――言葉の意味を理解した瞬間、
リシェルの心臓が、ひとつ、強く脈打った。
命ではなく、記憶が奪われる。
それは穏やかで、残酷な死に似ていた。
「……どうして、そんな罰を」
声が震えた。
司祭は目を伏せたまま、静かに答える。
「あなたの癒しは、痛みを越え、神の領域に触れました。
人が悲しみを乗り越える力を、神から奪ってしまったのかもしれません」
神は、与えすぎた愛を取り戻す。
リシェルは、目を閉じたまま頷いた。
それが“罪”なら、受け入れるしかない。
けれど、胸の奥でひとつの名前が滲んだ。
アラン。
その名だけは、どうしても失いたくなかった。
夕刻、彼が来た。
黄金色の光の中、鎧の輪郭が鈍く光る。
リシェルの姿を見つけると、いつものように笑った。
「神託を受けたって聞いたけど……何の話だ?」
リシェルは、小さく息を吐いた。
笑うと、涙が出そうだった。
「百日後に、私……あなたのことを思い出せなくなるらしいの」
冗談のように言ったつもりだった。
でも声は震え、沈黙が落ちた。
アランは笑おうとした。けれど、すぐに笑みが消えた。
「そんなの、ありえないだろ。
神様だって、俺たちの気持ちまでは奪えない」
彼の声は、強がりに似ていた。
その優しさが、いっそう痛かった。
リシェルは、手を伸ばした。
その手を、アランが取る。
指先が触れた瞬間、かすかな痛みが走った。
春先の氷が割れるような音が、胸の奥で鳴った。
アランが驚いたように手を離す。
「今……少し、冷たかった」
リシェルは微笑んだ。
「それが、たぶん“始まり”なの」
沈黙が流れる。
遠くで鐘の音が二度、鳴った。
雪解けの水が軒を伝って落ちていく。
それを見つめながら、リシェルは言った。
「私、今日から日記をつけるの。
忘れてしまうなら、文字に残す。
たとえ心が消えても、言葉が覚えていてくれるから」
アランは何も言わなかった。
ただ、彼女の肩にそっと手を置き、
いつものように、祈りの言葉を唱えた。
その声を聞きながら、リシェルは目を閉じる。
温もりが、少しずつ薄れていく気がした。
それでも、怖くはなかった。
“恋を忘れる”という呪いが、本当に始まったとしても、
この手に残る感触だけは、まだ確かにあったから。
夜。
聖堂の窓から差し込む月明かりの下で、リシェルは羽ペンを取った。
小さな灯を頼りに、最初の一行を書く。
――一日目。
神は、私から恋を奪うと言った。
でも、私は今日、恋の意味を知った。
それは“失うことを恐れる気持ち”だった。
風が、火を揺らした。
炎が小さく揺れて、影が踊る。
リシェルはペンを置き、微笑んだ。
この祈りが誰に届かなくてもいい。
百日後の私が、今の私に手紙を書くように。
――もしも恋を忘れても、私はあなたを覚えている。
第2話 消えていく記憶
夜の鐘が三度、遠くで鳴った。
音の余韻が街の石壁に吸い込まれていく。
アランは聖堂の外に立ち、冷たい空気を吸い込んだ。
金属の匂いがする。――剣を磨いたあと、血の匂いが消えないように。
今日、彼女の言葉を思い出していた。
“百日後に、あなたのことを思い出せなくなる”
それは冗談みたいに笑っていたけれど、笑い方がいつもと違っていた。
目の奥に、冬の終わりのような透明な痛みが見えた。
アランは、信じていなかった。
いや、信じられなかった。
彼女が何を失おうと、二人でいた日々まで消えるはずがないと。
だが、帰り道でふと、名前を呼びかけようとして――舌が止まった。
彼女の名が、喉の奥で引っかかった。
リ、リ……なんだったか。
ほんの一瞬、記憶が抜け落ちるような空白。
心臓が冷えた。
彼女の呪いは、彼だけに始まったのかもしれなかった。
その夜、アランは眠れなかった。
寝台の脇に置いた日記帳を開き、彼女がくれた書簡を読み返す。
“今日の空は少し白かった。あなたの剣の輝きに似ていた。”
そんな言葉が並んでいるだけの、平凡な手紙だ。
けれど、それを読むたびに胸がざわつく。
翌朝、騎士団の訓練場で剣を振りながら、アランはまた彼女を思った。
風を切る音の合間に、彼女の声が混じる。
“剣は、誰かを守るためにあるんでしょう?”
あのときの笑顔が、刃のように鋭く思い出された。
その笑顔が、すでに記憶の奥で色を失いつつあることに気づいたのは、昼過ぎだった。
指揮官に呼ばれたとき、名前を呼ばれても返事が遅れた。
“アラン、ぼんやりしているぞ”
仲間の声が響き、世界の輪郭が少しずつ遠ざかる。
――彼女を忘れ始めている。
呪いは、彼にも及んでいた。
その日の夕方、彼は聖堂に戻った。
扉を開けると、香の匂いがした。
リシェルが机に向かい、羽ペンを動かしている。
彼女の背中は小さく見えた。
「アラン。今日も無事に?」
顔を上げた彼女の笑顔は穏やかで、どこか遠い。
「ええ、いつも通りです。……リシェル」
名前を口に出した瞬間、安堵した。
言葉はまだ、ここにある。
彼女の手元をのぞくと、羊皮紙に小さな文字が並んでいた。
“二日目。今日、彼は私の名前を呼んでくれた。まだ、大丈夫。”
その文を読んで、喉が詰まった。
「これ……」
「日記。神の呪いが進んでも、文字だけは嘘をつかないでしょう?」
そう言って微笑む彼女の横顔に、何かが崩れ落ちる音を聞いた気がした。
アランは、そっと彼女の手を取った。
温もりが、昨日よりも淡い。
彼女は気づいているのか、いないのか。
指を絡めながら、小さく呟いた。
「ねえ、アラン。恋って、どんな匂いだと思う?」
「匂い?」
「うん。たとえば、花の匂いみたいに形のないものなら、きっと消えても残る気がして」
彼女は笑った。その笑みが、どこか祈りに似ていた。
アランは答えられなかった。
けれど、代わりに彼女の髪に顔を寄せた。
香のような、春の前の風のような匂いがした。
その瞬間、彼は思った――
もしこの匂いまで忘れる日が来るのなら、自分はどう生きていけばいいのだろう、と。
夜、彼は再び日記を開いた。
手が震えて、文字が滲んだ。
――二日目。
彼女は穏やかに笑っていた。
だが、その笑顔を思い出そうとすると、輪郭が霞む。
彼女の名を十回書いた。
インクが乾くたびに、心が乾いていくようだった。
ふと窓の外を見ると、空に白い月が浮かんでいた。
光が床を照らし、書きかけの文字に影を落とす。
アランはその影を指でなぞり、静かに呟いた。
「リシェル……」
その名が、また遠くへ行く。
翌朝、目を覚ますと、日記の最後の一行が滲んで読めなかった。
インクのせいか、涙のせいか、もうわからない。
彼は剣を握り、窓を開ける。
冷たい風が頬を打ち、花の香りが流れ込む。
春の気配。
――あと九十八日。
彼女の記憶が完全に消えるまで。
その数字が、静かに胸の奥に刻まれた。
アランは目を閉じた。
彼女を忘れる前に、できることを探そう。
それが、騎士としてではなく、一人の男としての誓いだった。
風がカーテンを揺らし、机の上の日記がめくられる。
そこには、昨日の文字が残っていた。
“二日目。恋の匂いは、まだここにある。”
アランはペンを取り、続けて書いた。
“俺の匂いも、君に届いていますように。”
第3話 百日目の旅支度
冬の終わりは、いつも気づかないうちに過ぎていく。
聖堂の外では雪解け水が流れ、遠くの山の稜線が少しずつ滲んでいた。
リシェルは、机の上の小さな砂時計を見つめていた。
百日――あの日から、もうそれだけの時間が過ぎていた。
最初の三十日は、祈ることに費やした。
次の三十日は、書き続けることで保った。
そのあとの三十日は、想い出を言葉にしない練習をした。
そして今日、最後の一日が訪れる。
手帳を開く。
ページの隅に、震える文字で書かれている。
“百日目。恋を忘れる日。”
その文字を指でなぞるたび、インクが擦れて薄くなる。
まるで、心そのものが摩耗していくようだった。
リシェルは、引き出しの奥から古びた包みを取り出す。
白いスカーフ、乾いた花、アランがくれた短剣。
そして、一枚の地図。
ふたりで約束した丘へ――春に咲く青い花を見に行こう、と言っていた場所。
彼はもう、その約束を覚えていないかもしれない。
けれど、それでも行こうと思った。
たとえ誰も来なくても、自分の心がまだそこへ向かう限り。
鏡の中の自分を見つめる。
頬が少し痩せ、髪に光の筋が混じっていた。
人は、恋を失うときに年をとるのだと知った。
それでも、目の奥だけは変わらない。
恋をしている目を、神様はまだ取り上げていない。
小さな灯りの下で、羽ペンを取る。
最後の日記を書くために。
――百日目。
今日は、丘へ行く支度をした。
あなたが来なくてもいい。
けれど、もし風の向こうで同じ空を見ていたら、それでいい。
書き終えて、インクを乾かす。
窓の外には、鳥の群れが北へ飛び立っていた。
春が来る。
神の呪いにも、季節は止められない。
扉を開けると、廊下に薄い陽が差していた。
修道女たちはすでに祈りの時間に入っており、誰もいない。
リシェルはそっと外套を羽織り、短剣を腰に差す。
風が冷たい。けれど、どこか懐かしい匂いがした。
――花の匂い。
外へ出ると、石畳に薄く霜が残っていた。
足音を立てるたび、静寂が少しずつ崩れていく。
丘までは半日の道のり。
夜までに辿り着ければいい。
それだけの距離が、彼との記憶を繋ぐ一本の糸に思えた。
門を抜けると、街の子どもが声を上げた。
「聖女さま、どこへ行くの?」
リシェルは微笑みながら答える。
「春を迎えに行くの」
子どもは意味がわからないように首をかしげたが、それでも笑った。
その笑顔に、かつてのアランの面影を見た。
歩きながら、リシェルは心の中で名前を呼ぶ。
――アラン。
声に出すと、風が返事をする。
春の風は、記憶の断片を運ぶ。
会話の続きのような、温もりの欠片。
道端に咲いた小さな白花を摘む。
花弁が指先で揺れ、香りが広がる。
恋の匂いって、こんなだっただろうか。
あの日、彼が答えなかった問いが胸の奥で再び響く。
“形のないものなら、きっと消えても残る”
――そう言ったのは自分だった。
ならば、この花の香りの中にも、まだ彼がいる。
空が茜色に染まるころ、リシェルは丘の手前で足を止めた。
荷を降ろし、手紙を取り出す。
封を切らないまま、何度も読み返した文字たち。
彼が送ってくれた最後の手紙。
“春になったら、また会おう。”
あの言葉が本当なら、もうすぐだ。
風が強くなった。
遠くの空に、一羽の鳥が円を描く。
その羽音を聞いた瞬間、胸の奥が小さく震えた。
誰かが自分を呼んでいるような気がした。
けれど振り返っても、誰もいない。
ただ、丘の上の花々がざわめいていた。
まるで何かを待っているかのように。
リシェルは足元の花に触れ、呟いた。
「もし彼が来なければ、この丘が見届けてくれるわ」
その声が風に溶ける。
鞄から日記を取り出し、もう一度開く。
ページの隅に、昨日の彼の筆跡があった。
“俺の匂いも、君に届いていますように。”
指先でその文字をなぞった瞬間、胸の奥に微かな温もりが戻った。
風が変わった。
どこか遠くで、鎧が鳴る音がした。
丘の向こうから、誰かの影が近づいてくる。
リシェルは目を細めた。
逆光の中、その人影はゆっくりと形を結ぶ。
――春が、来た。
リシェルは日記を閉じ、胸に抱いた。
涙は出なかった。
ただ、長い旅を終えたような静けさが心を満たしていた。
神が奪おうとした恋の記憶は、形を変えて戻ってきたのかもしれない。
言葉ではなく、風の中の匂いとして。
空に、青い花びらが舞った。
それを見上げながら、リシェルは微笑んだ。
「ようやく、春に追いつけたわ」
第4話 春を見に行く
風が、丘を渡っていく。
白い花びらが空に舞い、陽光の粒をまとってきらめいた。
その中心に、ひとりの影が立っていた。
リシェルは瞼を細めた。
風の中の輪郭が、ゆっくりと形を結んでいく。
鎧の鈍い光。
息を切らしたような姿勢。
そして、聞き慣れた声。
「……やっと、見つけた」
その声が届いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
リシェルは、ただ微笑むことしかできなかった。
言葉を選ぶよりも先に、涙が頬を伝っていた。
アランは足を止め、息を整えた。
春の光の中で、彼はもう戦場の騎士ではなかった。
ただ、ひとりの男としてそこに立っていた。
「どうして……来たの?」
リシェルの声は風に溶けるように小さかった。
アランは少し笑って、首を振った。
「約束を、思い出したんだ。理由はわからない。でも、丘に行かなきゃいけない気がして……」
その言葉を聞いた瞬間、リシェルの視界が滲んだ。
彼の記憶には、もう自分はいないはずだった。
それでも彼は、この丘を選んで来た。
それだけで十分だった。
二人の間に沈黙が降りた。
けれど、その沈黙は痛みではなかった。
風の音と鳥の羽ばたきが、代わりに会話をしていた。
アランは、彼女の手を取った。
その手はもう冷たくなかった。
指先が触れた瞬間、春の温度が流れ込んでくる。
「あなたは……私を覚えていないのよね」
「……たぶん。でも、不思議なんだ。名前も顔も、何も思い出せないのに――この手を離したくないって思う」
アランはそう言って、微笑んだ。
その笑みが、百日前とまったく同じで、リシェルの胸を貫いた。
丘の上で、ふたりは並んで空を見上げた。
花びらが降り注ぎ、風が頬を撫でる。
リシェルは静かに目を閉じた。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
記憶が、逆流する。
最初に出会った日の声。
初めて名前を呼んでもらった瞬間。
剣の輝き、笑い声、夜の祈り。
すべての光景が、いっぺんに溢れていく。
リシェルは思った。
神は恋を奪ったのではなく、試したのだと。
愛が記憶に宿るのか、それとも魂に宿るのか――その答えを見たくて。
アランが、彼女の肩に手を置いた。
「泣いてるの?」
「……いいえ。思い出してるの」
「何を?」
「全部。あなたを。」
風が吹いた。
花が舞い、丘が白い光に包まれる。
リシェルは笑った。
「ねえ、アラン。恋の匂い、覚えてる?」
「たしか……春の花の匂い、だった気がする」
「そう。たぶん、それで合ってる」
二人は、ただ立ち尽くした。
言葉を交わす必要もなかった。
世界のすべてが、静かに祝福していた。
日が傾き、空が金色に染まる。
リシェルはそっと日記を取り出し、最後のページを開いた。
そこには、空白だけがあった。
羽ペンを取ると、震える手で文字を刻む。
――百日と一日目。
呪いは終わった。
愛は消えなかった。
インクが乾くまでのあいだ、風が優しく吹いた。
アランがその肩越しに覗き込み、笑う。
「なにを書いたんだ?」
「秘密」
「教えてくれないのか」
「ええ。でも、きっとあなたなら読めるわ」
アランは微笑み、彼女の手を握った。
その手の中に、もう冷たさはなかった。
夕陽がふたりの影を長く伸ばす。
それはまるで、永遠に続く道のようだった。
丘を渡る風の中に、花の香りが漂った。
それは、かつて彼女が“恋の匂い”と呼んだもの。
記憶の奥に残った最後の証。
リシェルは空を見上げ、静かに呟く。
「ありがとう、神様。奪うだけじゃなく、返してくれたのね」
風が答えるように吹いた。
花びらが舞い上がり、陽が沈む。
その光の中で、ふたりは手をつないだまま立ち尽くした。
――春は、すべてを思い出させる。
忘れることも、愛することも。
そしてそのどちらも、生きるということなのだと。
最終話 恋を忘れた日
春が終わる。
丘の花々が散り、風の匂いが少しずつ夏に変わっていく。
青かった空が白く霞み、鳥の影が遠くに小さく揺れていた。
あの日から、百日が過ぎた。
リシェルは丘の上の小さな家に住んでいた。
朝は祈り、昼は畑を耕し、夕暮れには花を摘む。
アランも、同じように静かに暮らしていた。
ふたりは、言葉をあまり交わさなかった。
語りすぎると、言葉の中に嘘が混じってしまう気がしたからだ。
代わりに、視線と仕草と沈黙が、日々の会話だった。
ある日、リシェルはふと気づいた。
アランが、もう自分の名を呼ばない。
それは自然なことのように思えた。
彼が彼であるように、自分がリシェルである必要も、もうなかった。
その夜、彼は寝台の隣で小さな声を出した。
「……なあ。夢を見たんだ」
「どんな夢?」
「丘で誰かと花を見ていた。顔はよく覚えていないけど、幸せな夢だった」
リシェルは微笑んだ。
「きっと、それはいい夢ね」
「うん。……その人が、お前に似てた気がする」
彼女は答えず、彼の手を握った。
その手の温もりが、彼に伝わったかどうかはわからない。
けれど、彼の呼吸は穏やかになり、やがて眠りに落ちた。
夜明け前、リシェルは起き上がった。
机の上に置いた日記帳を開く。
最後のページに、まだ少し余白が残っていた。
彼の寝顔を見つめながら、ペンを取る。
――百日と百日目。
私は、恋を忘れた。
でも、愛を失わなかった。
インクが乾く間、外では鳥が鳴き始めた。
リシェルはペンを置き、そっと窓を開ける。
朝の風が頬を撫でる。
花の匂いが、まだ残っていた。
丘の向こうには、淡い霧が流れていた。
その奥に、春の名残のような光が揺れている。
リシェルは目を閉じた。
記憶が遠のく。名前も、言葉も、声も。
けれど、心の奥に、ひとつの感覚だけが残った。
――あの人と手をつないだときの温度。
神は、愛を奪わなかった。
形を変え、世界のどこかに散らしただけだった。
花の香りに、風の音に、土の温もりに。
それらすべてが、愛の続きなのだとリシェルは知った。
外に出ると、丘の花々が風に揺れていた。
その真ん中に、ひとりの男の影が見えた気がした。
けれど、次の瞬間には風に溶けて消えた。
幻か、記憶か、もう区別はできなかった。
リシェルは微笑み、呟いた。
「さようなら」
そして少し間をおいて、
「――ありがとう」
その言葉は、風に乗ってどこまでも遠くへ流れていった。
空の彼方で、何かが応えるように光った。
丘の上に陽が昇る。
朝露が花びらに宿り、小さな虹が浮かぶ。
リシェルは目を細め、その光の中に立った。
――恋を忘れるとは、悲しみを終えることではない。
愛を、形のない場所へ返すことだ。
彼女は胸に手を当てた。
心臓が、まだ静かに動いていた。
“生きている”という確かさが、少しだけ遅れて届く。
その鼓動は、かつてアランの胸で聞いた音と同じだった。
空の青さが、少しずつ濃くなっていく。
リシェルは、日記を閉じて小さく微笑んだ。
ページの端に書かれた最初の文字が、光を受けて淡く輝いた。
――一日目。神は、私から恋を奪うと言った。
けれど今、その言葉は静かに書き換えられていた。
“神は、恋を奪うふりをして、愛を残した。”
風が吹き、花が舞う。
それは、春の終わりを告げる花吹雪だった。
丘を渡る風の中で、リシェルは立ち尽くしたまま目を閉じた。
頬に触れる風が、彼の指先のようにやさしかった。
彼女はゆっくりと息を吐き、空に囁く。
「また、春に会いましょう」
その声が消えると同時に、光が丘を包んだ。
花びらが舞い、空が開け、世界がひとつの祈りのように静まった。
――愛は消えない。
ただ、記憶という形を離れて、風になる。
そしてその風は、また誰かの頬を撫で、
新しい恋のはじまりを告げるだろう。
丘の花々は、ゆっくりと揺れていた。
まるで微笑んでいるかのように。
春の終わり、愛の続き。
リシェルは、空を見上げて静かに微笑んだ。
――終。




