9話 餌
瑠璃にも言ったとおり、母親を愛していた迅は、女遊びに耽る父親が嫌で仕方なかった。
「お食事は」
「部屋でもらう」
簡潔に答えて、迅は家の奧にある仏壇へとまっすぐに向かう。
そこには、亡くなった母がいる。帰宅したら焼香するのが、迅の日課だった。
「母上」
額縁に納められた白黒の写真を眺めて、迅はため息を吐いた。
写真の中の女性は、美しい着物を身に纏い、長い髪をきれいに結い上げている。意志の強い瞳が印象的で、それはしっかりと迅に受け継がれていた。
迅が『母』と呼べるのは、この人だけだ。
父が妾を作り、そのうちの一人を後妻に据えようとしているが、迅は快く思っていない。
遊女上がりの女など、迅が最も毛嫌いする人種だ。
考えてもせんのないことだとは思いながら、迅の眉間には皺が寄る。
迅は立派に成長した男子だが、ときどき、母親に頭を撫でて欲しいと思うことがあった。 記憶に残る母の手は、細くたおやかで、とても優しかった。
「瑠璃の指も、細かったな」
迅は、己の左手をじっと見る。瑠璃はいつも、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。
抱きしめた体の細さに驚き、ふるえる声音に心を奪われた。
瑠璃をとりまく甘い薔薇の匂いは、狂おしいほどに胸の奧をかき乱す。
離れれば離れるほど、恋慕が募っていった。。
「瑠璃……」
瑠璃は男だ。
分かっているが、迅は瑠璃に恋をしていた。
相手が瑠璃であるなら、この感情もおかしいとは思わない。
迅は今まで、大人達の醜さを目の当たりにして育ってきた。だからこそ、瑠璃の純粋さが、聖域のように感じられる。
「母上。部屋に戻ります」
迅は仏壇に頭を下げると、立ち上がって自室へと戻っていった。
+ + +
雨藍が家に帰ると、弟の瑠璃は眠っていた。
出迎えたのは、夫人だ。
「お帰りなさい。雨藍」
にこやかな笑みを見せる夫人に、雨藍もにっこり微笑む。
「ただいま、母様。瑠璃は?」
「具合はよさそうだわ。けれど、少し露が足りないようね」
夫人は心配そうな表情で、ため息を吐く。
瑠璃の病弱さは、昔から変わらない。透き通るような白い肌は、まるで人形のようだ。時々、本当に生きているのか疑いたくなる。
「今日は、瑠璃の友達が会いに来たのよ。貴方の同級生だと言っていたわ」
夫人は、探るような視線を向ける。
雨藍は笑みを消して、冷たく言い返した。
「あれは、瑠璃のお気に入りです。間違っても手を出さないように」
雨藍の言葉に、夫人が目を丸くする。
「まあ。餌ではなくて? たしかに、一滴も飲んでない様子だったけど」
「今はまだ、餌じゃない……」
「餌でないのなら、瑠璃に近づけて大丈夫かしら?」
夫人は心配そうに呟く。
その視線は、雨藍に向けられていた。
雨藍の性格からして、餌でもない人間を愛する弟に近づけるなんて、考えられないことだ。
雨藍たち兄弟と夫妻は同族だが、血の繋がりはない。
けれど、何十年も親子をやってきたのだ。
雨藍の対応が信じられなくて、夫人は心配になったのだろう。
「アレは、そのままでいいんですよ」
雨藍は、苛々したように親指を噛む。
夫人にきつい眼差しを向けた。
「余計なことはしないでください。俺が狩りをすれば問題ないのだから」
狩りの出来ない瑠璃に代わって、雨藍はいつも二人分の狩りをする。そうやって今までやってきた。
雨藍も、迅を信用しているわけではない。
だが、瑠璃があの男に執着を見せているのだ。
弟を溺愛する雨藍は、瑠璃が悲しむと分かっているのに、迅を殺すことは出来なかった。
「残念だわ……美味しそうな人だったのに」
そう呟いた夫人に、雨藍は鋭い眼差しを向けた。
雨藍が忠告を発する前に、廊下をトコトコと歩く音が聞こえた。
「雨藍? 帰ってきたの?」
ひょこっと顔を覗かせたのは、藤色の着物を着た瑠璃だ。
雨藍はサッと椅子から立ち上がって、瑠璃に駆け寄った。
「ただいま、瑠璃」
「おかえりなさいっ」
瑠璃は飛びつくようにして、雨藍に抱きつく。
両手を首に回し、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「瑠璃。起きても大丈夫なの?」
夫人が穏やかに尋ねると、瑠璃はこくんと頷く。
けれど、雨藍に抱きついたままだ。
二人がそうしてくっついているのも、いつものことだった。
「薔薇のスープを作ったの。椅子へお掛けなさい」
夫人は瑠璃を促して、キッチンへと向かった。
甘ったるい薔薇の匂いが漂ってくる。
瑠璃は笑顔で、大人しく椅子に座った。




