8話 母親
「瑠璃っ。体が冷えている。部屋へ戻った方が良い」
いつから、あの庭に居たのだろうか。
迅は気遣わしげに、瑠璃を見つめた。
瑠璃は潤んだ瞳で、迅を見上げる。ものも言わずに、迅の服を掴み、訴えるように瞳を揺らした。
瑠璃の体調を気遣うなら、このまま家の中に返した方が良い。
分かっているのに、甘えるような瞳に、抗えない。
瑠璃と、離れたくない。
迅が逡巡していると、また新たな声が届いた。
「ネイサン。どこへ行ったの?」
遠くから、鈴の鳴るような声が響く。
迅がそちらを向いた時には、使用人は踵を返して足早に駈けていった。
「おかあさまだ」
瑠璃が浮かない声で迅の腕に縋り付く。
必死に迅を見上げて「行かないで」と泣きそうな顔をした。
「ああ。瑠璃の側にいる」
柔らかな黒髪を撫で、安心させるように力強く答える。
すると瑠璃は、ホッとしたように迅に抱きついた。
瑠璃の柔らかい体に、頬が緩む。
「あら? お客様?」
日傘を差したドレス姿の貴婦人が、迅を見て首をかしげた。
迅は、ベッドに身を横たえた瑠璃を、心配そうに窺う。
そして、使用人が運んできた、果物と水に目をやった。
グラスの中には薔薇の花びらが入れてあり、甘い匂いと鮮やかな色彩を醸し出していた。
「これね、薔薇水っていうんだよ」
瑠璃が言うには、普通の水を飲むより、体に良いらしい。
これで、薬を飲むのだという。
用意された果物は、瑠璃が「食べたくない」と言ったので、そのまま籠に収まっている。
今はこの部屋に二人きりだ。
先ほどまで、例の使用人と、瑠璃の母親だという夫人がこの部屋にいた。
夫人は瑠璃の体を心配していたが、瑠璃は「出て行って」と追い出したのだ。
迅は驚いたが、夫人は大人しく引き下がった。
瑠璃に、薬を飲むように伝えると、迅に頭を下げて出て行った。
「きれいな人だったな」
夫人は、この洋館の雰囲気に相応しく、絹のドレスを身にまとっていた。
まだ若く、母親というには少し躊躇われる美貌だ。
「ぼく、おかあさまは嫌い」
軽やかな羽毛布団に体を沈めて、瑠璃は小さな声で反論する。
無理やり薬を飲ませるから、と。
子供のような言い草に、迅は笑みを浮かべた。
「何を言う。家族がいるだけでも、幸せ者だぞ」
迅は手を伸ばして、瑠璃の絹のような黒髪に触れる。
瑠璃は、迅の手を掴み、暖を取るように両手で包み込んだ。
瑠璃の幸せそうな微笑みに、迅は胸の奥が熱くなった。
「迅は、家族がいないの?」
瑠璃が、あどけない口調で尋ねてきた。
蔑みも憐れみもない、ただ純粋な疑問を口にした瑠璃に、迅は困った表情をする。
「家族はいる。父と祖父の三人暮らしだ」
他にも使用人がたくさんいるのだが、彼らは家族ではない。
「お母様は?」
「俺が幼少の頃に亡くなった」
「そう」
瑠璃は、迅の淋しそうな瞳を見て、胸が痛んだ。
迅の悲しみが、掌から伝わってくるみたいだ。
居たたまれずに、瞼を伏せた。
「……お母様のこと、大好きだったんだね」
大切な人でなければ、愛する人でなければ……悲しみなど生まれない。
瑠璃の言葉に、迅は狼狽えた。
心の奥に仕舞った思いを、吐露しそうになる。
「ッ……そうだな。母親、だから」
嬉しい時も、悲しい時も、迅の頭を撫でてくれたのは、亡くなった母だけだ。
迅を抱きしめて、愛してくれたのは。
父ではなく、母だった。
「瑠璃も、あまり我が侭を言って困らせるものではないぞ?」
諭すように言うと、瑠璃が笑う。
小さく頷いて、掴んだ迅の手のひらに、頬を寄せた。
ひんやりとした瑠璃の体は、なかなか温まらない。
「迅は、あたたかい」
瑠璃が、目を閉じたまま呟く。
「そうか」
迅は嬉しそうに頷いて、瑠璃の顔をいつまでも眺めた。
+ + +
大きな門構えの日本家屋が、迅の住む家だ。
数十人の使用人が仕える、加佐見家の一人息子。それが迅である。
子どもの頃から裕福な暮らしを送っていたが、迅は自分の家を疎ましく思っていた。
「お帰りなさいませ」
「坊ちゃん、お帰りなさい」
長い廊下を歩いて自室に向かえば、迅の姿を目にとめた使用人達が、次々に頭を下げる。必要以上にへつらうのは、主人である迅の父親が留守にすることが多く、迅が代わりの主になるからだ。
あるいは、息子の迅に媚びを売って気に入られれば、今よりもっと昇給出来ると思いこんでいるに違いない。
「父は?」
「今日もお仕事で遅くなると仰ってました」
最近、父親のことを尋ねると、決まって同じ返事が返ってくる。
また、女の所に通っているのだろう。それを「仕事」と言い訳するのが見苦しい。




