25話 何もできなかった
元村は、魔に魅入られた迅を、静かに諭した。
魔に心を奪われた人間は、ときおり、狂ってしまう。
だから、迅をこちら側に引き留めようとしたのだろう。
「月読は、もういない。俺達の日常は、元に戻るんだよ」
「嘘だッ!」
迅は激しく叫んだ。
首を振って、言葉を絞り出す。
「……愛してたんだッ」
今でも、愛しているのに。
「一緒に行くと、約束したんだッ!!」
瑠璃に、永遠を誓った。
ずっと傍にいると、約束した。
無垢な心で、迅を愛してくれた、天使のように愛しい人。
「どうして、俺を連れて行ってくれなかったんだッ!?」
迅は、そばにあった薔薇をベッドから払い落とした。
どんなに芳しい匂いを放っても、瑠璃の甘さには敵わない。
「止めろ、加佐見」
元村は迅の腕を掴み、諭すように言った。
「もうここには誰もいない。諦めろ」
「諦められるわけないだろう!?」
迅が、どれほど瑠璃を愛していたか、知らないくせに。
「もう二度と、瑠璃に逢えないかもしれないんだッ!!」
遠くへ行く。
そう言ったのだ。
彼らは、人間ではなかった。
でも、そんなことは、どうでも良かった。
「俺には、瑠璃だけだったのに!!」
どんなに涙があふれても、この悲しみを癒やすことはない。
思い返すほどに、記憶は鮮明で。
染みついた薔薇の香りと、瑠璃の匂いが、今も迅を包んでいる。
「……仕方ねぇだろッ」
迅の激情を目の当たりにしても、元村にはそう言うしかなかった。
彼らは人外の者だ。
人間を襲い、害をなす者を恋い慕っても、決して幸せにはなれない。
「……一人にしてくれ」
迅は、絞り出すような声でそう言った。
「分かった。ドアの外にいる。だけど、お前が変な真似しないように、ちゃんと見張ってるからな」
元村はそう忠告する。
迅が自殺を図るのを止めるために、そう言ったのだ。
「……」
迅は黙って頷いた。
元村は、迅を痛ましそうに見つめて、部屋を出た。
一人になっても、迅の涙は止まらなかった。
どれほど瑠璃を愛していたか。
心をもぎ取られたように苦しくて、このまま死んでしまいたかった。
元村は、懐に仕舞ったお札を取り出した。
家の中には、清々しい朝の光が差し込んでいる。
朝方に、加佐見家の使用人から「坊ちゃんが帰ってこなかった。行き先を知らないか」と尋ねられ、慌てて探しに出たのだ。
そして、月読が住んでいた洋館に辿り着き、この部屋で迅を見つけた。
迅が、何かにとりつかれたのは、明らかだった。「瑠璃」というのが誰か分からないが、月読が関係しているはずだ。
「畜生っ」
胸に引っかかったモヤモヤは、いまだに晴れない。
その原因も、分かっていた。
「月読の野郎ッ!」
この家に住んでいたはずの彼は、姿を消してしまった。
もう、学校にも来ないだろう。
だから、この街も平和になるはずだ。
「俺は、何にもできなかったな……」
いろんな情報を手に入れて、怪しいと思う奴を問い詰めたのに、結局は何も変えられなかった。
「……あいつ、泣いてたなぁ」
迅の泣いている姿など、幼少の頃以来ではないか。
『愛していたんだッ!』
迅はそう叫んでいたが、愛とは、いったい何なのだろうか。
元村には、分からない感情だ。
しばらく経つと、部屋の方から聞こえる泣き声が、小さくなった。
ようやく、落ちついてきたのかもしれない。
元村は、ホッとして目を閉じた。
これで、全てが終わったのだ。
迅は、生きている。
恋を失った男が立ち直るまでは、そばで慰めるのも、友人の役目だ。
「あいつ、立ち直れるかな?」
少しの心配はあるが、いずれ時が解決してくれるだろう。
+ + +
瑠璃は、両手いっぱいに薔薇を摘んで、その香りにうっとりする。
身に馴染んだ匂いは、瑠璃の心を落ち着かせた。
やっと、涙も枯れて、家族に笑顔を見せられるようになった。
曇天の空を、仰ぎ見る。
この広い空の下に、どこかに、迅がいるのだろう。
どうか、分かって欲しかった。
……愛していたから、道連れには、できなかったんだよ?
永遠の煉獄に苦しむのは、瑠璃だけでいい。
「瑠璃っ」
大好きな声に、瑠璃はパッと振り返る。
抱いていた薔薇を放って、駆け出した。
「雨藍っ!」
「瑠璃。もう部屋へお入り」
風が冷たくなっきたので、雨藍は瑠璃を心配して呼んだのだ。
「雨藍。これ、迅に」
一つだけ手放し損ねた薔薇を、兄に差し出す。
雨藍は、優しく微笑んで受け取った。
「あいつにあげるの?」
頭を撫でれば、瑠璃は嬉しそうに頷く。
雨藍は瑠璃の肩を抱いて、家の中へと連れ戻した。
瑠璃が大人しくベッドに戻ると、雨藍が先ほどの薔薇を、花瓶に挿して戻ってきた。
「ありがとう、雨藍」




