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2話 美しい人






 迅の日常は、いつも変わりがない。

 気の合う学友達と遊びに行っても、遠出をしても、基本的にはまっすぐ家に帰るのが当然だと思っている。勉学のために時間を割くことも、当たり前だと信じている。

 だから、本屋へ行ったついでに、噂の洋館へと足を向けたのは、本当に珍しいことだった。

 魔が差したというほどではないか、何か不思議な力が働いていたのかもしれない。

 本屋を後にして迅が道を歩いていると、微かな甘い匂いを感じ取った。

 花の香りだろうかと、辺りを巡らしても風に乗ってきたようでそれらしいものは見あたらない。

 だが、迅はとても気になった。

 香りのする方向へと進んでいくと、元村に聞いた噂の洋館が目に入る。

 不気味だ、と言っていたことを思い出して少し躊躇った。

 だが、男がそんな些細なことで引き下がるのは情けない。そう思って、迅は古びた洋館へと向かったのだ。

 近くに行くと、すぐに香りの正体が掴めた。

「……薔薇か」

 いつこんなに咲き乱れたのかと思うほど、薔薇の花が一面に色とりどりの華やかさを醸し出していた。

 近づくと、むせかえるような匂いがする。

 匂いが強くて、頭がくらくらしてきた。

 どんな薔薇が植えてあるんだろう。

 迅は興味が出て、塀を眺めた。

 迅の身長は高く、背伸びすれば中の様子がうかがえる。他人の家を覗くのは行儀が悪いが、好奇心が勝った。

 そっと中を窺うと、想像していた様子とは違っていた。

 庭は広く、塀に沿って無数の薔薇が植えられている。洋館にも蔦が張っていて、ますます古びたイメージをわき出させる。建物は想像していた通り古くさかったが、それよりも異様な雰囲気が漂っていた。

 どこが、というわけではない。

 迅の直感がそう告げているのだ。

「……ぁ」

 小さな声がした。

 どこから聞こえたのだろうと、声のした方を見れば、塀のすぐ側に、蹲っている人影が見えた。

「ぃた……っ」

 こぼれ落ちそうな声だ。

 そこに迅がいることに、全く気づいていない。

 迅は心臓をばくばくさせながら、その声のする方をじっと見つめていた。

「っ……ぅぅ……ッ」

 震える吐息が聞こえる。

 しゃくりあげるような音で、泣いているのだと分かった。

 可愛らしい泣き声をあげる、その声の持ち主を慰めたい。

「ど、どうした……?」

 迅はとっさに声を掛けた。

「ぇっ?」

 驚いたように、振り返る音が聞こえる。

 だが、薔薇の大群の下に居ては、塀の上から覗く迅の姿は見えないのだろう。

 見つかっては、何を言われるか分からない。

 そんな常識は吹き飛んでいた。

 ただ、これ以上泣いてほしくなくて、慰めたいと思ったのだ。

「……だれ?」

 零れるような麗しい声が、迅の鼓膜を震わせる。

「ここだ。お前の上にいる」

 迅がそう言うと、地面に蹲っていた美しい声の持ち主は、ゆっくりと立ち上がって塀の方を見上げた。

「ッ!?」

 現れた麗人に、迅は息を呑む。

 艶のある黒髪が揺れて、綺麗な顔が露わになった。

 肩で揃えた美しい髪は、萌葱色の着物によく似合っていた。

 伏せられていた瞼が上がり、ガラス玉のように透き通った瞳が、迅を見つめる。

 ……こんなに美しい人がいるのか?

 彼の人のふくよかな唇は、ゆっくり形を変えて、もう一度「だれ?」と尋ねる。

「あっ……その、怪しい者ではないっ」

 そこで初めて、自分が闖入者だということに気づいて慌てた。

「この街に住む、加佐見(かざみ)(じん)という」

 迅が名乗ると、相手は右手で自分の髪を掴んで恥ずかしそうに俯く。

「ぼくは……瑠璃(るり)

 その麗人の名を知って、迅は心の中で歓喜した。何と美しい名前だろうと心に深く刻み込む。

 瑠璃が女性ではなく少年だということも気付いたが、迅にとっては些細なことだった。

 思わず身を乗り出すと、瑠璃の小さな両手に傷跡が見える。

「その手……怪我したのか?」

 擦り傷のような、引っ掻いたような傷跡から、わずかに血が滲んでいた。

 驚く迅に、瑠璃は首を横に振って静かに答える。

「これは、棘に刺さってしまったから」

「手当をしなければ」

 瑠璃の、綺麗な手が傷ついている。

 そう思うと、迅はいても立ってもいられなくなった。

 無礼を承知で……否、そんなことは頭になくて、迅は離れたところにある門を見つけると、そちらへ向かって走っていく。

 迅は勝手に他人の庭に入り込み、瑠璃の元へと駆け寄った。





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