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15話 抱きしめたい





 迅は、父が再婚して以来、家に帰るのが嫌で仕方なかった。

 新しく義母になった女は、予想通り迅の嫌いなタイプの女性で、必要最低限の会話しか交わさないようにしている。

「迅さん」

 紅を塗った唇で、けばけばしい化粧を施した女は、結婚した後でも遊女の様相から抜け出さない。

 媚びを売るような話し方は、癖になっているのだろう。

 真面目で女遊びの一つも知らない迅とは、合うはずがなかった。

「お父様がお呼びですよ」

「……後から行きます」

 忙しいんです、ときっぱりはね除けて、迅は一言も話さずに廊下を歩いていく。

 父の話なんて、どうせろくなものじゃない。義母と仲良くしろだとか、興味もないくせに学校の話を聞いたりするのだ。

「迅さん」

 追いかける声に、渋々振り返る。

「何ですか」

 迅よりも背の低いその女は、僅かに着物を着崩して、男を誘うような流し目をする。

 嫌悪に胸がムカムカして、眉を顰めた。

「あなた、いつも帰りが遅いのねぇ」

 妙に語尾を上げる口調が気に入らない。

 こんな女が、なぜ加佐見家の中を我が物顔で歩いているのか。

 迅はさらに眉間に深く皺を刻み込んだ。

「あなたには関係ないことです」

 不快感をあらわにした声で、迅は言い捨てる。

「そうかしら?」

 下品な笑いを浮かべて義母は迅を見る。

「あの人は気づかないけど、あなた、いつも甘い香りをさせて帰ってくるわねぇ」

 どこの女の所に通ってるのかと、そう言いたげな目つきだ。

 迅は激しく気分を害した。

 甘い香りは、瑠璃を包み込む薔薇の香りだ。

 義母のような、安っぽい低俗な香りとは違う。

「二度と俺の前でその話をするな!」

 聖域を穢された気分だった。

 激しい怒りを露わにして、迅は目の前の女を睨み付けた。

 鋭い眼光に女が怯むと、今度こそ振り返りもせず、大きな足音を立てて廊下を歩いて自室へ戻った。




 義母がこの家に来てから、いつもこんな感じの日常だ。

 父が以前よりは家に居るようになったが、相変わらず迅と顔を合わすことはほとんどない。

「くそっ」

 迅の気持ちが落ち着ける場所は、母親のいる仏壇と自分の部屋だけだ。

 自室には、使用人すら入れないようにしている。部屋の片づけくらいは自分でするし、掃除だって苦にならないからだ。

 何より家の中で唯一くつろげる場所を、他人に土足で入られたくなかった。

「何も知らないくせにッ!」

 どれだけ瑠璃が純真な輝きを放っているか。

 あの清廉な心が、澄んだ瞳が、どれほど美しく愛しいか。

 甘い香りを身に纏って迅を包み込む、あのしなやかな腕。

 迅をやさしく抱きしめて、慈しんでくれる。

 瑠璃の傍にいることが、迅にとっての至福だった。他愛もない話をして、薔薇の匂いに酔いしれて……瑠璃を抱きしめたいと何度も思った。

 おそらく、抱きしめても、嫌がることはないと思う。しかし、この腕に抱くことができても、それで満足できるとは思えなかった。

「瑠璃……」

 迅は、囁くように瑠璃の名前を呼ぶ。

 どんなに嫌なことがあっても、瑠璃を想えば幸せだった。

 花が静かに咲くような、綻ぶ笑顔を見るだけで胸が熱くなる。まるで夢の世界にいるようで、醜い現実に戻りたくないと思ってしまうのだ。

 瑠璃と一緒に、遠くへ行けたらどんなに良いだろう。

 泣き出しそうだった瑠璃の言葉を思い出し、迅は自嘲して肩を落とす。

 ……出来るわけがない。

 瑠璃を、誰よりも溺愛する月読がいるのに。

 迅が瑠璃を抱きしめただけで「瑠璃にまとわりつく虫」として排除されそうな気がする。

 それでも、瑠璃を諦めたいとは思えなかった。




 + + +




 その日は珍しく、月読が迅に声をかけてきた。

「加佐見」

 少し怒ったような声に、迅は身構える。

 瑠璃のことで何か言われるかもしれないと思った。

「何だ?」

 振り向くと、月読は笑顔を浮かべていた。

 だが、厳しい目で迅を見下ろしている。

「今日は、瑠璃に会わないで欲しいんだ」

「何故?」

「昨日、熱を出したんだ。最近は調子が良かったから、様子を見てたけど。ずっと寝てるから、今日は駄目だ」

 月読の硬い表情に、加佐見は青ざめた。

 瑠璃の体が弱いということを、すっかり忘れていた。

「分かった」

 迅は重苦しい声で答える。

 月読は頷き、すぐに去って行った。これ以上は話したくない、とでも言いたげな態度である。

 声を落としていたので、今の会話を周りに聞かれることはなかった。

 だが、近くにいた元村は、怪訝そうな顔で加佐見の元へ駆け寄ってきた。

「何だ、今の」

「……大した用ではない」

 瑠璃のことを話したくなくて、そう答える。

 しかし、それで元村が納得するわけがない。

「そうか? お前、月読とよく話してるじゃねーか」






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