14話 一緒にいたい
「初めて会った時のことを、覚えているか?」
「?」
「瑠璃は、泣いていただろ? 手のひらを傷だらけにして」
「そうだったかな?」
「ああ。俺は、すごく悲しかった」
迅は、瑠璃の両手を取り、手のひらを上に向ける。小さな手はひんやりと冷たく、細くしなやかで美しい。
その指先に、唇を寄せた。
あの時ほど傷ついていないが、少しだけ、棘で引っ掻いた跡が残っている。迅はその傷口を癒すように、唇で触れた。
瑠璃は不思議そうな顔をして、迅に両手を任せている。
「ぼく、覚えてない」
「なら良いんだ。瑠璃の泣いてる顔は、もう二度と見たくないからな」
迅は、瑠璃を愛しげに見つめる。
その顔を見て、瑠璃の胸はきゅっと締めつけられる。
どうしてか、涙がこぼれそうになって戸惑った。
陽の落ちかけた庭は、風に揺れる葉擦れの音しか聞こえない。
先ほどの使用人は、遠くにいるのか、館の中に入ったのか。何の気配も感じられなかった。
「……迅」
瑠璃は、ふるえる声で迅を呼んだ。
ガラス玉のように透き通った瞳で、まっすぐに迅を見つめる。
「瑠璃?」
迅は、思わず息を呑む。
その瞳に、涙が浮かんでいたからだ。
「ぼくのこと、好き?」
「ああ。好きだ」
迅は、ためらわずに答えた。
「瑠璃が、好きだ」
もう一度繰り返せば、瑠璃は微笑みを浮かべる。
「ぼくも……迅が、好き」
無垢な告白に、迅は瑠璃の指先をぎゅっと握る。
馬鹿みたいに頬が熱くて、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「俺は、瑠璃と一緒にいたいっ」
思わず、そう口走っていた。
すると、瑠璃は可愛らしく首をかしげる。
「今、ここにいるのに?」
まるで分かっていない瑠璃に、迅は握った手を引き寄せて、手の甲に唇を押し当てる。
神聖な誓いのように、真摯に言葉を紡いだ。
「ずっと、瑠璃と一緒に居たいんだ」
「ずっと?」
「ああ」
「……死ぬまで?」
「そうだ。死ぬその瞬間まで、瑠璃の傍にいたい」
もう瑠璃だけしか見えなくて、迅はひたむきなまでの愛を告げる。
きらきらと輝くような黒曜石の瞳は、迅だけを映した。
その澄んだ瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「遠くに……」
小さな唇から紡がれた声は、そこで途切れる。
「瑠璃?」
迅が促すと、瑠璃は切なく微笑んで、囁くように言った。
「ぼくと一緒に、行ける?」
「もちろんだ。
「遠く、だよ。……すごく、すごく遠くまで……」
「ああ。どこへでも。瑠璃の側にいられるなら」
迅が答えると、瑠璃は唇を噛みしめる。
涙に濡れた瞳は、ずっと迅だけを映していた。
+ + +
雨藍が帰宅して弟の部屋へ向かうと、珍しくベッドに潜り込み、掛け布団を頭まで被っていた。
「瑠璃?」
「……来ないでっ」
布団の中から制止が掛かる。
だが、雨藍は瑠璃に駆け寄った。
「瑠璃、どうしたの?」
優しく尋ねながらも、無理やり布団を剥ぎ取る。
「雨藍っ」
非難めいた視線も無視して、雨藍は瑠璃の顎を掴んだ。
顔をジッと覗き込む。
「目が真っ赤。泣いたの?」
「ちがっ……」
「うそ。涙の跡が残ってる」
微かな怒りを含んで、雨藍は弟の頬を両手で包み込む。
「加佐見が、瑠璃を泣かせたの?」
「違うっ! ぼくが勝手に……」
思い出したら、また胸が苦しくなって、涙が溢れる。
「瑠璃。泣かないで」
愛しい弟の眦に唇を寄せ、涙を掬い取る。
なだめるように髪を梳きながら、雨藍は瑠璃に接吻けた。
「んぅ…」
あたたかなものが流れ込んできて、瑠璃は瞼を伏せる。
冷たい体に熱が灯って、深い接吻に意識を流される。
「瑠璃」
弟にだけ見せる、慈しみの表情で、雨藍はやさしく瑠璃に触れる。
「雨藍」
なだめられて落ちついたのか、瑠璃は兄の手を握って泣きそうな顔をする。
「何があったの。怒らないから言ってごらん」
子供に言い聞かせるように問い質す。
瑠璃はふるえながら、消え入りそうな声を出した。
「……一緒に、いたい」
あふれる想いに任せて、瑠璃はぽろぽろと涙をこぼした。
「迅と、ずっと……ずっと一緒にいたいっ」
人ならぬ身で、恋の成就を望むのは愚かなことだ。
老いもなく、人間のようにすぐ死ぬこともない瑠璃は、迅と一緒になれないことを悲しんだ。
「瑠璃……あいつが好きなんだね」
静かに泣く弟を悲しそうに見つめて、雨藍は何度も髪を撫でる。
「加佐見も、一緒に連れて行きたいの?」
迅を仲間にすれば。
彼が人間であることを捨てれば……瑠璃は、迅とずっと一緒にいられる。
兄の問いかけに、瑠璃は悲しみに濡れた瞳を晒す。
唇を引き結んでかすかに笑んだ。




