契約結婚から始まった恋
レティシアは家族が嫌いだ。
権力に執着する父、贅沢の限りを尽くす母、お金にしか興味のない兄。
レティシアの家は伯爵家だが、父のせいかおかげか身分に不相応の発言力を有している。
それを利用してお金を集め続ける兄も、ドレスや宝飾品を買いあさる母とも、相性は最悪だった。
彼女はただ、優しい日々を穏やかに暮らしたいだけだったから。
みんなみんな嫌いだった。
だから、現実から逃げるようにレティシアはよく歌劇場に通っていた。
屋敷にいたくない彼女にとって、現実を忘れられる歌劇場は逃避行の先として最適だったのだ。
足しげく歌劇場に通っては、歌姫たちが織り成す物語に魅入って少しだけ現実を忘れる。
実家が裕福だからこそできる贅沢であることから目をそらしながら、レティシアは現実逃避を続けていた。
そんな日々を送っていたレティシアに転機が訪れる。
歌劇場で隣に座っていた一人の青年だ。
レティシアが歌劇の余韻に浸り、人が少なくなるまで座っている隣でじっとしていた。
ようやく立ち上がって人のまばらなホールを抜けて劇場を出ようとしていたレティシアを追いかけるようにして呼び止めて、声をかけてきた。
「アリディ伯爵家の娘だな?」
「はい。なんでしょうか」
背後からの呼びかけに振り返ったレティシアの瞳に端正な面持ちの青年が映った。
まばらに人が通るホールでなんだか輝いて見える美貌の持ち主だ。
遅れて彼がジェローム・クローデル公爵だと気づいたレティシアは慌ててドレスの裾を持ち上げてカーテシーをする。
遠目にだが夜会で何度か見かけたことがあった。父から「取り入れ」と言われたのに反発して、距離を取っていた人物でもあった。
「失礼いたしました。クローデル公爵。どうかなさいましたか?」
「ああ、いや……」
顔を上げたレティシアの問いかけにジェロームは迷うように言葉を切った。視線が伏せられる。
長いまつげが顔に影を落とすのを見て、レティシアは美しい方だな、とどうでもいいことを考える。
「その、君は婚約者がいないと聞いたが」
「仰る通りです」
レティシアに婚約の話は何度も持ち上がった。
だが、そのどれをも父親が「もっといい話があるはずだ」と断っているのだ。
権力を追い求めるレティシアの父は彼女の結婚をもってさらなる地位を手に入れようとしている。
その結果、レティシアは成人を迎えた十六歳だというのに浮いた話の一つもない。
貴族の令嬢として現状に思うところはあるが、別に嘆いているわけではない。
家を出たいという思いは強かったが、無理に相手を見つけようとは思わなかった。
「俺と――契約結婚をしないか」
いわれた言葉の意味を、すぐには呑み込めなかった。
一拍おいて意味を理解したレティシアは、大きく瞳を見開く。
はく、と口を動かしても言葉が出てこない。
ごくりとつばを飲み込んでからからに乾いた喉に少しだけ水分を送ってから、レティシアはゆっくりと問い返した。
「本気、ですか?」
「ああ」
まっすぐにレティシアを見つめる瞳に、嘘の色はない。
戸惑って視線を伏せた彼女を射抜くように真摯な面持ちで返答を待っている。
「貴方は、私のお父様をご存じではないのですか?」
口から零れ落ちたのは求婚への返事ではなく、レティシアを取り巻く環境への疑問だった。
レティシアの問いかけに、ジェロームが纏う雰囲気が少しだけ軽くなった。
肩をすくめて「ああ」と一つ頷かれる。
「権力に目のない人だ」
「……それ、なのに?」
「君を傍に置きたい。それでは不満か?」
意図がわからない。あえてぼかした言い方をされている。
不審の色を宿した眼差しで見上げるレティシアに、ジェロームが浅く息を吐いた。
「俺は君を傍において置きたいんだ。君にとっても悪い話ではないはずだ。家を出たいのだろう?」
「どうしてそれを」
「みていればわかる」
家族仲は微妙なようだからな、苦笑交じりに告げられてレティシアはため息をこらえられなかった。
「その通りです。契約結婚、と仰いましたが『契約』の部分を伺っても?」
「君は微笑んで俺の隣にいるだけでいい。望むならアリディ家へ支援もしよう」
「実家の支援はいりません。ですが……そうですね。お話をお受けします」
頭を下げたレティシアは、嬉しかったのだ。
理由はわからないが、傍に置きたいと隣で微笑んでいてほしいといわれて嫌な気持ちになる人はいないだろう。
頭を下げたレティシアにじっと注がれる視線。その意味を、まだ彼女はきちんと理解していなかった。
▽▲▽▲▽
レティシアの結婚を一番喜んだのは案の定父親だった。
良縁が結ばれたと上機嫌の父親はレティシアの幸福ではなく、自身の権力の上昇にしか目がないのは明らかだったが、レティシアは何も口に出さなかった。
結婚して家を出てしまえば、たとえジェロームがアリディ家を父親が望む形で支援しなくとも罵倒されることもない。
婚約を結び、そのまま間を置かず結婚式を挙げてレティシアはクローデル公爵夫人となった。
居をクローデル家に移したレティシアは屋敷の女主人として家を取りまとめた。
契約結婚といわれていたから、さして大事にされないのかもしれないと覚悟していたのだが、いざ結婚生活を送り出すと案外大切にされている実感があって、意外に思いつつも嬉しい日々だ。
レティシアがジェロームを本当の意味で愛し始めるのに時間はかからなかった。
例えば、朝起きた時優しく紡がれる挨拶だとか、執務の終わりに声をかけると穏やかに笑ってくれるとか、寝る前に労わりながら頭を撫でてくれるところとか。
だが、ジェロームを愛して気にし始めると、別のことにも気づいてしまった。
おそらく、彼はレティシアを通して誰か別の人を見ている。
そう勘づくのに、時間はさしてかからなかった。
数日葛藤した末に、レティシアは直接ジェロームに尋ねることにした。
夜、寝る間際。夫婦だから同じ寝室のベッドで横になって、勇気を振り絞ったのだ。
「ジェローム様が、本当に愛している方はどなたですか」
まっすぐにジェロームの瞳をみる。向かい合っているレティシアの言葉に、彼は少しだけ目を丸くした。
そして困ったように眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「気づいてしまったからです。貴方は私を通してだれかを見ていると」
ジェロームが浅く息を吐き出した。
少しだけ視線を伏せて、それから覚悟を決めたようにレティシアを見つめる。
「初恋の人に、似ているんだ」
そうっと紡がれた言葉。愛に溢れるそれに、レティシアの胸がずきりと痛む。
やっぱり、と予感が当たっていたことにひそかに落ち込む彼女にさらに追い打ちがかかった。
「彼女は平民で俺は公爵だった。結ばれるなど土台無理な話で、だから代わりとして面影が似ている君を傍に置いた」
残酷な現実を知らされて、胸が痛む。
契約結婚にそんな裏が隠されているなんて、出会ったときは考えもしなかったことだ。
いや、あの時に知っていたとして。選択が変わったのか、レティシアにはわからない。
そんなことはどうでもいいと、家から逃げることを選んだ可能性だってあったから。
「俺はあの子によく似た君を傍に置きたい。君は円満に家を出られた。悪い話ではなかっただろう?」
確かに、その通りだ。裏切られたと感じるのはお門違いだとわかっている。それでも。
「……はい」
悲しみを押し殺して、レティシアは頷いた。反論する気力はなかった。
ジェロームもそれ以上言葉を重ねることなく、レティシアに背を向けて寝てしまった。
(好きな方がいるのは仕方ない。でも結婚したのは私なのだから、振り向いてもらえるように頑張ろう)
翌日、一人ベッドで目が覚めたレティシアは心の中でそう考えた。
まだジェロームのぬくもりが残るシーツに触れて、決意を固くする。
それからレティシアは奮闘した。
ジェロームの初恋の人が平民だという情報があったから、料理長に頼んで慣れない手料理に挑戦したりした。
平民は自分の食事は自分で作ると聞いたからだ。
だが、結果は惨敗。
美味くつくるどころか、食べれるものが出来上がらなかった。
いままで大抵のことは要領よくこなしてきたレティシアにとって、自分ができないことを知るのは初めてのことだった。
落ち込んだレティシアだが、方向を変えることにした。
できないことを嘆いても仕方ない。ならば、できることを、と。
得意の刺繍で白いハンカチに幸運の象徴のフクロウを刺繍する。
出来上がったそれをジェロームに渡したが、彼はあまり興味はなさそうだった。
レティシアが契約結婚の本質を暴いてから、ジェロームの態度が少しだけ冷たくなった。そう感じる。
だが、彼女の中の彼への愛情は減るどころか膨らむばかりだ。
(初恋に殉じているのも、素敵に思えるのよね)
恋は盲目だという言葉を自身で痛感するとは思わなかった。
苦笑をこぼして、トレーに乗せた紅茶のポッドと空のカップとソーサーを運んでいたレティシアはジェロームが日中を過ごす執務室の前で足を止める。
トレーを持っているから部屋のノックができない。
普段はメイドの仕事だからこそ、遅れて気づいたレティシアは気持ち大きな声を出した。
「ジェローム様、レティシアです。失礼してもよろしいですか?」
返事の代わりに扉が開かれる。開けたのはジェロームの腹心である執事だ。
静かに開けたわれた扉から中に入る。執務机に向き合っているジェロームが眉をひそめた。
「メイドはどうしたんだ?」
「私がやりたかったのです。休憩などいかがですか?」
部屋にソファと一緒に置かれているローテーブルにトレーを置いたレティシアにやや硬い声がかかる。
「……レティシア」
「はい」
「契約結婚を気にしているのはわかるが、私に愛想を振りまく必要はない」
「っ」
ずばりと最近の行動を指摘され、レティシアは動きを止めた。
ぎこちなくジェロームへと視線を滑らせると、彼は小さくため息を吐く。
呆れられている、そう思った。けれど、走り出した気持ちが止まらないのだ。
ジェロームの言葉はショックだった。けれど、それでめげるような小さな感情ではない。
レティシアは胸のまえでぐっと拳を握りしめて、そうっと口を開いた。
「私が、本心から好きだとお伝えしたら。ご迷惑でしょうか」
勇気を振り絞って伝えた言葉に、ジェロームは目を見開いた。
綺麗な瞳にレティシアが映りこむ。
その時、始めてレティシアは『自分』を見てもらえた気がした。
ここにはいない誰か知らない女性ではなく、レティシア自身を見てもらえている、と思えた。
「……私は彼女を忘れられない。それでも、いいのか」
「構いません。私は本当にジェローム様が大好きですから」
泣きそうな気持で答える。
ジェロームの言葉は残酷だけれど真実で、振り向かせられないのはレティシアの魅力不足だと思っているから。
それでも傍においてほしいと思うし、隣にいたいと願う。ジェロームと生涯を歩むのは自分がいいと我儘にも祈ってしまう。
レティシアの真摯な愛の言葉に、ジェロームが視線を伏せる。そして、絞り出すように。
「……そうか」
そう、呟いた。
▽▲▽▲▽
レティシアがジェロームと契約結婚をして、数年の月日がたった。
穏やかな日々を織り成した二人は子宝に恵まれて、つい先日レティシアが生んだ息子は一歳になった。
一歳になったばかりの息子を抱き上げて、レティシアは隣に座るジェロームを見上げる。
契約結婚をしたとき、レティシアは十六歳だった。
成人しているとはいえ、子供で幼かった。
ジェロームが忘れられないという人と自分を比較して落ち込む日も多かった。
だが、今は違う。
ジェロームとは契約結婚だったけれど、そこには確かな絆があると信じている。
普通の夫婦とは違うかもしれないけれど、貴族の結婚でここまで優しい日々を与えられているのは幸福だと思う。
かつてのレティシアが喉から手がでるほど欲しかった日常だ。
「ねぇ、ジェローム様」
レティシアが抱っこする息子の頬をちょんちょんと突いてきゃらきゃらと笑う様子を楽しんでいたジェロームに問いかける。
「私は、まだ一番になれませんか?」
一つの確信があった。かつてと今は違うのだ、と。
それでも口に出してしまったのはジェロームとの絆の形を確認しておきたかったから。
レティシアの問いかけに、ジェロームはぱち、と瞬きをして。
それから笑み崩れるように微笑んだ。
「もうずっと前から。君が一番だ。レティシア」
ああ、幸福とはこういうことを言うのかと。レティシアもまた深く微笑んだ。
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