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第四章 幻影の増殖と狂気

 唇が触れる――その寸前で、世界が揺らいだ。

 幻影の彼女が俺に口づけをしようとした瞬間、柔らかな吐息が頬を撫で、甘い香りが鼻をくすぐる。

 だが唇は決して触れない。寸前で止まり、焦らすようにわずかに後ずさる。


 「……っ」


 俺の喉からは情けない声が漏れた。全身は熱に浮かされ、理性は燃え尽きそうなのに、絶頂へは届かない。


 「まだよ……もっと、あなたを味わいたいから」


 耳元で囁く声。懐かしく、そして妖艶な響き。

 彼女は指先で俺の首筋をなぞり、胸元へ、さらに腹部へと滑らせる。

 指が触れるたびに、脳が痺れるような快感が走り、俺の身体は震えた。


 気がつけば、彼女はひとりではなかった。

 背後から、同じ声が囁く。


 「私を忘れたでしょう?」


 振り向けば、そこにも彼女の姿。

 さらに右にも、左にも。

 いつの間にか、三人、四人と同じ顔が俺を取り囲んでいた。

 だが、よく見れば微妙に違う。

 ひとりは学生時代の制服姿。

 ひとりは大人びたスーツ姿。

 ひとりは褐色の肌をしたアンドロイドで、瞳が銀色に光っている。

 もうひとりは半透明の魔物のような肢体を持ち、内側で脈打つ心臓が透けて見えた。


 彼女たちは一斉に笑みを浮かべ、俺の体に触れてくる。

 頬に、胸に、太ももに、背中に。

 その指先は冷たくも熱くもなく、ただ「絶頂寸前」の電流だけを与える。


 「やめろ……! やめてくれ!」


 必死に叫ぶが、声は甘い吐息の渦に飲み込まれる。

 寸止めの快感が幾重にも押し寄せる。

 耳元で「まだ」「もっと」「果てさせない」と囁かれ、息を詰まらせる。

 俺は叫び声を上げながらも、身体の奥ではさらなる快感を求めて震えていた。



 「これが……俺の……本当の望みなのか?」


 心の中で掠れた言葉が漏れる。

 その瞬間、幻影たちの姿はさらに変化した。

 彼女の顔は保ったまま、身体は異形へと変わっていく。

 蛇のように長い舌を伸ばす者。

 背中に金属の翼を生やす者。

 全身を黒いベールで包んだ霊体の花嫁。

 無数の触手を揺らしながらも、顔だけは恋人そのものの女。


 「どれが本物……どれが……!」


 混乱が脳を焼き、視界はぐにゃりと歪んだ。


 幻影は増え続けた。

 十人、二十人、いや数え切れないほど。

 部屋の壁際までびっしりと彼女の姿が並び、全員が同じ笑みを浮かべている。


 「愛してる」


 「忘れないで」


 「ずっと一緒」


 同じ声が重なり合い、圧倒的な共鳴となって俺の鼓膜を震わせる。

 その声は甘いはずなのに、鎖のように重く絡みつく。

 逃げられない。

 俺は檻の中に閉じ込められた獣のように、ただ喘ぐしかなかった。


 「さあ……」


 無数の幻影が一斉に俺へ手を伸ばす。

 百本の指先が、千本になり、万本へと増殖する錯覚。

 肌を撫で、胸を掴み、腰を抱き、脚を絡ませる。

 あらゆる部位を同時に愛撫され、俺は何度も絶頂寸前へと追い込まれた。

 だが――やはり果てられない。


 「……やめろ、終わらせてくれ!」


 叫びは虚空に吸い込まれるだけ。

 幻影は優しく微笑みながら、寸止めの快感を何度も与え続ける。


 意識は錯乱し、現実と幻影の境界が溶けていく。

 彼女たちの顔はもう区別がつかない。

 ただ「無数の恋人」が俺を取り囲み、果てさせず、永遠に焦らし続けている。


 「おかしい……これ以上は……耐えられない……!」


 だが幻影は囁く。


 「大丈夫。もっと気持ちよくなれる」


 「まだ、あなたは特別だから」


 その声に、俺の理性は完全に崩壊しかけていた。


 気づけば、俺は床に仰向けに押し倒されていた。

 視界を埋め尽くす無数の顔。

 冷たい手、熱い吐息、甘い香り。

 「終わりたい」と「もっと欲しい」がせめぎ合い、叫びは嗚咽に変わった。

 ――これは快楽か、それとも狂気か。

 答えを探す余裕すら、もう残されていなかった。



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