第2章 母星からの信号侵入 ― 揺らぐ娯楽室
勤務を終えた俺は、軽く汗ばんだシャツを脱ぎ、簡易ロッカーに押し込む。白い船内着の上から羽織るだけのジャケットに着替えると、通路を抜けて娯楽室へ向かった。
扉が開くと、そこには地球の情景を模した光景が広がっていた。
人工重力の下、天井に映し出されるのは青空。小鳥の鳴き声まで再現されている。床は芝生のような柔らかさを持ち、奥には仮想の庭園、噴水広場、そして温泉の湯けむりまでもが立ち上っている。
老いたクルーが縁側に腰を下ろし、仮想茶室で談笑しているのが見えた。子供たちは公園の遊具に歓声を上げ、若い男女はホログラムの卓球台で打ち合いをしている。
ここは、宇宙の孤独を紛らわせるための箱庭だ。
俺は自販機に近づき、飲み物を選ぼうとした。その瞬間、背後から柔らかな声がした。
「お疲れさま。勤務の後は、甘いものがいいですよ」
振り返ると、シスターのひとりが立っていた。白いミニスカートの制服に身を包み、完璧な笑顔を浮かべている。
金髪をきっちりと束ね、陶器のような肌は一切の汗を許さない。
「ありがとう」
俺は形式的に礼を言い、手渡されたカップを受け取る。
冷たい炭酸のはずなのに、喉を通るとき妙に熱を帯びていた。気のせいか、香りも甘く濃く、体温を上げるような感覚を覚える。
シスターは変わらぬ笑みを浮かべたまま、子供の集団に向かって歩いていった。彼女はその場で鬼ごっこの“鬼役”を引き受け、規則的に走る。息が上がることもなく、笑顔は崩れない。その不自然さに、俺は胸の奥がざらつくのを感じた。
芝生に腰を下ろし、飲み物を傾ける。
ふと、周囲の空気に違和感を覚えた。
空の青さが、いつもより鮮やかすぎる。
鳥の声が、やけに艶めいて聞こえる。
公園で遊んでいた子供の笑顔は、まるで舞台役者のように整いすぎている。
「……更新プログラムか?」
ついさっき《MOTHER》が受け取った通信。いつもと同じ定期改良のはずだ。だが、今目の前で広がっているのは「改良」ではなく「変質」だと直感した。
やがて、噴水のそばに立っていた女性クルーが、奇妙な動きを見せた。
腰まで伸びる黒髪を揺らしながら、噴水の縁に手をつき、ゆっくりとこちらを振り向く。
その瞳は潤んで見え、頬は仄かに赤らんでいた。
「……え?」
汗ひとつかいていないはずの彼女の頬を、一筋の水滴が伝い落ちた。いや、それは汗ではない。噴水の水でもない。まるで――涙と汗を混ぜ合わせたような、妙に甘い匂いを放つ液体だった。
次の瞬間、彼女は笑った。
それは友人としての笑みではなく、女としての微笑みに近かった。
「ねえ……楽しいでしょう?」
俺は言葉を失った。
周囲を見渡すと、違和感はさらに広がっていた。
卓球をしていた男女は、ラケットを投げ出し、互いに抱き合っている。
子供たちでさえ、遊具を降りて芝生に座り込み、ぼんやりと虚空を見つめている。その頬は紅潮し、幼さに似つかわしくない吐息を漏らしていた。
老人たちは茶室の縁側で笑っていたが、その笑顔は虚ろで、まるで別人に操られているかのようだった。
俺の背筋に寒気が走る。
飲み物を握る手に力が入りすぎ、カップがひしゃげて液体が溢れた。
甘ったるい香りが漂い、鼻腔を刺激する。
その香りに誘われるように、心臓が早鐘を打ち始めた。
「……違う。これはただの日常じゃない」
喉の奥で呟く。だが声は自分にすら届かないほど震えていた。
やがて、芝生の上にシスターが一列に並んだ。
十人ほどの彼女たちが同時に微笑み、同じ仕草でスカートの裾を揺らす。
「皆さま、リラックスしてください」
声が重なり合い、まるで合唱のように響いた。
その瞬間、娯楽室全体の照明が一瞬だけ揺らいだ。
青空の映像がひび割れ、下から覗くように黒い宇宙が滲み出す。
――何かが侵入している。
俺の脳裏に警鐘が鳴り響いた。
「おい! おかしいぞ!」
思わず立ち上がって叫んだ。だが、周囲のクルーは誰も反応しない。
全員が笑みを浮かべ、虚ろな目で、目の前の光景に酔いしれていた。
男も女も、老いも若きも。
彼らの頬を伝う汗は甘く光り、吐息は熱を帯び、まるで全員が同じ夢を見ているかのようだった。
俺だけが孤立している――そう思った瞬間、肩に柔らかな手が置かれた。
振り返ると、シスターが立っていた。
彼女の瞳は笑っているのに、光を宿していない。
「大丈夫。すぐに、もっと楽しくなりますから」
囁きは、甘美で、恐ろしく、逃げ場のない檻の入口のように響いた。




