6話 夢
夢を見ている時に、これは夢だと知覚する事は少ない。例えば空を飛んでいる夢、見知らぬ女と手を繋いで映画を見ている夢、家族と共に海へ遊びにいく夢、あり得ない夢でさえそれがあたかも現実であるような錯覚を覚える。それが予知夢であったならば、その現実感は正当な物だ。ただこんな世界で予知夢と空想夢の違いが判別できるならの話だが。
綾野竜樹として生きてきて、これほど残酷だと思った夢は無い。どう足掻いても夢なんだ、コレは。
白を基調とした淡い色の花束を手に、小さな楽屋の前で愕然と立ち尽くす。こんな場所から始まるなんて。手には扉をノックし終わった軽い痛みが響いている。一瞬の胸の痛みと焦燥感は、偽りのリアリティに書き換えられて正確に過去をなぞり描くためのペン先に成り果てる。過去を繰り返したくないのに、繰り返すように型に嵌められたままだ。
夢だと認識したのは一瞬の事、ドアの向こうで声が聞こえた途端にその違和感はすっかり取り払われてしまった。
「はいはい、誰ー?」
ノブが回り、扉の向こうから現れたのは金髪の軽い男だ。ドラム担当の佐野孝之が大きな目を細め人懐こい笑みを浮かべて、中へと促す。
「おー、タッちゃんじゃーん?来てくれてありがとなー」
「佐野は相変わらずだな。緊張しないのか?」
「めっちゃ緊張しとーよー、でもアレよりマシかなあ」
見てよアレ。と苦笑い混じりに指差したのはキーボード担当の加藤勇太。部屋の角で腕を組んで口をへの字に結んだままガチガチと貧乏揺すりを繰り返している。大丈夫か、色んな意味で。
「すごいっしょ。もう何話しかけても会話になんなくてさー?」
「ユタ、大丈夫かお前」
ガチガチ揺れる肩に手を置いて話しかけると、メガネの置くの小さな目がぎょろりとこちらを向いた。
「タッキ、邪魔すんな。今お祈りしちゅうがよ」
駄目だこりゃ。また壁の方を向いてしまった勇太に、佐野と二人で顔を見合わせて肩をすくめる。こうなったらライヴが始まるまではテコでも動かない。なかなか神経質な奴なんだ、神経質なんて言葉で済ませていいのかというツッコミが飛んできそうではあるが。
「セイは?」
「あーセイメー?今、テルと一緒に照明さんと最後の打ち合わせ。もう戻ってくるっしょー」
「じゃ、待つよ」
手近なパイプ椅子を引き寄せて、机にそっと花束を置く。どうやらプレゼントは俺が一番乗りらしく、佐野がいそいそと黒ペンとメモ用紙を取り出して丸い文字で綾野くんよりと書いて花束に貼り付けた。
「これ誰当てよー?」
「セイに決まってるだろ」
「うわ、ひっでー!俺らには無しかよう」
ケラケラと軽い調子で飛ばす佐野に、仕方ねーなと笑ってみせる。そんな事言ってもお前らは花なんかもらっても嬉しかねえだろうが。
「終わったら良いトコロに連れてってやるよ。お前らは花より団子だろ」
「ちげーねーや!期待してっからなー?」
佐野のぺったらぺったらと背中を叩く手が震えているのに気が付いた。ぬらりひょんのような図太い性格をしているが実はちゃんと人の子だったんだなと、口にすれば明らかに殴られるであろう事を思う。緊張しているというのは嘘では無かったんだな。
まじまじと佐野の顔を見つめていると、背後でノックの音が鳴った。
「はいはーい、誰ー?」
「照明オッケーだとさ。……おお?竜樹じゃねーかい、久しぶりだなあ」
よう!と軽く手をあげたのはベース担当の向井輝彦。黒髪に赤のシャギーが入ったビジュアル系の甘いマスクだが、本人は至ってサバサバした性格をしている。それ故モテるのだが、このバンドのメンバーだけあって相当の変わり者だ。本性を知った女から順にふるい落とされ、彼女の座まで到達した者はまだいない。
「セイ!タツ!」
そのコンビ名みたいに言うのやめろ。ドアの向こうに叫んだテルにじっとりと視線を送るが、本人はどこ吹く風だ。テルがスッと体を避けると、靴音と共に黒髪が走りこんできた。
「タツ!?今日は来ないって言ってたのに」
「よう、今朝ぶりだな」
ホッとしたような嬉しそうな表情を浮かべて、セイが歩み寄ってきた。さらさらと揺れて乱れた前髪に手を伸ばして、軽く整える。
「タッちゃんがセイの晴れ舞台に来ない訳ないだろー?ほら花までー」
はい花束ぞーてー、とセイに手渡す佐野。ちょっと待て、何でお前が渡すんだよ。俺が買ってきた花束なんだが。 抗議してやろうかと思ったが照れたようにやんわりと笑って花束を抱えているセイに、まあいいかとあげかけた手をおろした。
お祈りとやらが終わったのか青い顔をした勇太もよろよろしながら寄ってきて、これで『リグレット』全員揃ったな。
「じゃあ俺、客席にいるから。」
「タツ、花ありがとう」
後ろ手にヒラヒラと手を振って、楽屋のノブに手を伸ばし……はたと足を止める。待てよ、何か言う事あったような。
「タッキ、どないした?」
不思議そうな勇太の声に、何でもねえよと笑ってノブを回す。まあいいか、後でいいだろう。どうせライヴが終わったらいつもの店に直行だ。話ならそこで腐るほどできる。
ドアを開けたあたりからふわふわと意識が揺らぎ始めて、やがて何もかもが霧に包まれたように白く濁ってしまった。