3話 ディーヴァ⑥
宿に戻る頃には辺りはすっかり闇に包まれていた。時間にして7時くらいだろうか、カウンターに座っていたフローの親父さんに簡単に事情を話して後で風呂掃除をしてもらえるよう頼んだ。あっちこっち触らないよう気をつけながら半ば強制的に部屋に連行して、タオルと俺のなけなしの着替えをワンセットにして一緒に風呂場に押し込んだ。湯を張るなりシャワーで済ますなり好きにしやがれ、そこまで面倒見切れん。
暫くたってすすり泣きとシャワーの音がしだしたのを確認。コートをクローゼットにかけて本の入った腰のカバンを頭元に置いて、埃をはらってからベットに腰をかけた。
「ディーヴァ、おいで」
入口のチェーンをかけ終わって所帯無さげに立っているディーヴァを呼ぶ。心配そうなコンテンツを肩にのせたままだ。
「どうした?」
肩のコンテンツを両手で掬い上げて自分の頭の上に乗せる。浮かない顔に無理矢理笑みを浮かべて、ディーヴァがぱたりと扇を広げて口許を隠した。
『その……大した事ではございません。ただちょっと、ザッツ様が羨ましくなりましたの』
地面に這いつくばってピイピイ泣いていた情けないの極みをいく男の何が羨ましいとな。心底理解できませんと首を傾げると、その少し沈んだ色をした黒い瞳を閉じて思考する。歌姫は思案を重ねて言葉を選んでいるようで、暫し部屋の中はザッツの啜り泣きだけになった。頭を上のコンテンツが居心地悪そうに身動ぎをし、それを期にディーヴァがそっと目を開ける。
『周囲を考えず、相手の心も考慮しない、無謀でがむしゃらな恋の仕方を私はした事がありません。きっと本に縛られている精霊ゆえにこれからもそんな風に情熱的な恋はできないだろうと、思いまして』
「迷惑極まりない恋だけどな」
『あら、御主人様。恋とは本来独り善がりで迷惑なものなのですわ。不安と良識に苛まれて苦しい想いをしながら誰かに受け入れられる時を望むのです。彼の場合は少し……自分を優先しすぎただけ。誰かに取られたくない、傍にいてほしいという気持ちは誰しも持つものです。』
押し殺すように紡ぐ言葉が、ほろほろと涙のようにこぼれていく。ディーヴァの言葉は重く湿ったものだった。
しかしそういうモンですと言い切られてもそうですかとしか言い様が無いわけだが。恋など論じた事もないし、その手の本を好んで読んでいるわけでもない。
『ああ、羨ましい。羨ましいですわ。私もそんな体験がしてみたい』
「はあ」
『ちょ、ちょっとマスター。そんだけ聞いといて返事はそれだけなんですか?もっとこう……ほら、ありません?』
そんだけもこんだけもあるかい。こっちだってそんな無茶な恋心など体験した事がないし危なっかしくてやってられん。羨ましいと言われてもさいですかとしか。
「そう言われてもな……とりあえず傷心の金持ち坊っちゃんに声をかけてみたらどうだろうか」
浴室のシャワーの音が止まったから、そろそろ出てくるだろう。着替えのサイズは大丈夫だっただろうかと浴室の方に視線を向けると頭の上で盛大な溜め息が聞こえた。
『ディーヴァ、路線変更した方がよさそうですよ』
『同情じゃダメっぽいですわね、意外と強敵』
は?と二人の方に目をやると、さっきのシリアスな雰囲気はどこへやら、仲良さげに腕を組んで考えこむ二人の姿があった。何だ何だ、切り替え早いなオイ。
『とりあえずお家に戻りますわ。坊っちゃんも私がいると落ち着かないでしょうし』
「ああ、そうか。それもそうだな」
ベットに投げたカバンから本を取り出して適当に広げる。
「お疲れさん、ありがとな『BACK……ディーヴァ』」
実体化が解除され、下半身から霧のように溶けて本に吸収されていくという非現実な光景を目の前にして、流石に慣れたなーなんてぼんやり見つめていると。
『また呼んで下さいましね、今度は夜にでも』
上半身だけになったディーヴァがやんわりと微笑む。微笑みかえした瞬間、透けた腕を俺の顔に添えて、ディーヴァがそっと唇を触れさせた。実体化していないので感触は無いが、チャンスを見逃さないという点ではよろしいのではないでしょうか、はい、ってどんなリアクションをすれば良いのかわからんわけだが。あれよあれよと言う間に消えていった本の魔方陣を眺めていると、コンテンツがディーヴァを追って本の中へ飛び込んでいった。コンテンツよ、その煌めく笑顔と力強く示された右手のグッジョブ!は何を言いたかったのか小一時間ほど問い詰めたい。ディーヴァのフォローはいいから出てきて正座しろ、正座。
本を閉じて膝の上に置くと、浴室の扉が緩やかに空いた。やっとお出ましかと視線を投げかけると、扉の向こうからキラリと光が反射した。
何で光と思う間もなく現れたのは抜き身の剣を構えてこちらを伺う坊っちゃんの姿だった。
一難去ってまた一難、もう勘弁してくれい。