1話 ドリアード②
風そよぐ青い草原がどこまでも続く。瑞々しい青草の香りに包まれて一時間ほど歩いただろうか。
視界の端に深い緑色の鬱蒼とした森が姿を現した。シダ植物、広葉樹、針葉樹……etc.etc。この場所の気候は心地よい体感温度であるにも関わらず、森には亜熱帯に生息する植物からツンドラ地帯に生息する植物まで多種多様な種類が軒を連ねている。生態系がどうなっているのかはあまり考えたくないな、生物の生態研究発表はきっと荒唐無稽なレポートが提出されるに違いない。ホッキョクグマとオランウータンがランデブーしている光景が浮かんで、恐怖に体が震えだした。なにそれこわい。
ウェストポーチから本を取り出して適当にページを開く。確か植物系の精霊がいたな。
『CALL……ドリアード』
光と共に風に煽られるようにページが繰られ、お目当てのページでピタリと止まった。淡く白い光をはらんだ魔方陣から、ズルリと糸を引くように腕が伸びた。糸が太くなり木のツルへと変化して、ページから勢いよく溢れだす。その大量の木のツルに絡まるようにして、一人の女性が姿を現した。深緑の長い髪を背中に流し、少し怯えたような若葉色の瞳をそっと伏せる。淡い新緑と深緑の色を重ねた着物とたおやかな仕草は、大和撫子を思わせる素晴らしいものだった。
何が素晴らしいって、不安気に揺れている視線とかね。時折向けられる征服欲をそそられる上目遣いとか、もうね。なんて言うか、生きてて良かった。本当に、本当にありがとうございました。
興奮のあまり溢れ出しそうになった鼻血を右手で押さえて悶えていると、前方から冷たい視線が突き刺さった。例えるなら通りすがりの痛い子を見るような、一般人が受けるべきではない視線だ。
「気持悪い」
『マスター……ちょっとヤバいですよ、そのお姿。』
嫌悪感丸出しで距離を開けようと後退りするクロノアと、いつの間に出たのかドン引きしましたと言わんばかりに眉を潜めているコンテンツ。大和撫子の植物系精霊はコンテンツの後ろで小型犬の如く怯えてぷるぷる震えている。
クッ……ドリアードめ……どこまで俺を萌えさせるつもりだ……。このままでは死んでしまう……社会的に。
「少し、落ち着こう、な?」
「お前がな。」
胸に手を当てて、大きく三回深呼吸。はい、吸ってー吐いてー吸ってー……草の匂いに混じって僅かに甘くフローラルの香りがするのは気のせいだろうか。ああ、なんとかぐわしい。願わくば横にいる色気のない小娘の香りじゃなく、ドリアードの香りでありますように。
『マスター……クールなヘタレだと思っていましたが、実は変態だったのですね』
「変態でもなければヘタレでもない。ただちょっと、美しい大和撫子に出会う機会がなくて飢えているだけだ。気にするな。」
「いきなり何なの? 気が狂ったから行きたくないなんて理由は通用しないわよ。」
イラついたクロノアの声に、悶えていた体をしゃんと伸ばして前を向いた。
「そういえばお前には見えてないんだったな。クロノア、ここに俺が召喚した植物精霊のドリアードがいる。清楚で可憐な少女だ、驚かしたりするなよ。」
『マスター、彼女にも見えるように出来ますけど。』
神妙な顔つきのコンテンツに手を振って否定する。
「ドリアード……彼女はシャイな大和撫子だ。そんな彼女を大衆の目に晒したくない。可憐な花は大事にしないと『ドリアード、大丈夫よね?』」
聞いちゃいられんと言葉を遮ったコンテンツの後ろで、ドリアードがコクリと頷く。ひどい女だな、俺の言い分を無視してコンテンツの意見を取るなんて。
『マリオノールが命ずる。実体となれ、ドリアード。』
コンテンツが厳かに唱えた言葉に反応して、少し透けていたドリアードの体が足先から膨らみを帯びて地面に着陸する。ヒラヒラとしていた着物の裾や、なびいていた髪も重量に従って背中に流れた。
ふむ、お見事。コンテンツにパチパチと拍手を送ると、少し照れたような笑顔が返ってきた。
「なるほどね……確かにエキゾチックでキレイな子だわ。私はクロノアよ、よろしくね。」
『はい、クロノア様……。』
ドリアードの喉から、小さな鈴が震える様な細い声が響く。少し困ったように微笑むドリアードに、クロノアがにっこりと人懐こそうな笑顔を浮かべた。
年頃の娘が二人で……いや、コンテンツも入れると三人か。年頃の娘が寄り添い合っているというのは、何とも言えず華やかなものだな。
腕を組んで善きかな善きかなとその麗しい光景を目に焼き付けていると、ドリアードが足を滑らせて近くに寄ってきた。
『あの、ご主人様。えっと、わたし、何の用事で、呼ばれたんですか?』
おっと、本編を忘れる所だった。ウェストポーチから依頼紙を取り出して、ドリアードに説明する。若葉色の瞳が文字列をなぞり、森の奥に一瞬視線を投げかけて、もう大丈夫ですと手を振った。
『承りました。生息場所まで、案内します。ついてきて、下さい。』
背の高いシダ植物や膝丈の雑草をものともせず、その間を滑るように歩き出すドリアード。摺り足動作が完璧すぎてホバリングしているように見えるのは気のせいだろうか。彼女が歩いた後は、歩きやすいように植物が左右に分かれているのは彼女の気遣いなのであって、ホバリングによる風圧で倒れているのではないと思いたい。
四人で連れだって歩くこと20分。遠巻きにうごめいている生き物の気配を警戒しながら歩いていると、微かに水の音が聞こえだした。ドリアードの行く手を遮る巨大な葉が、萎れるように左右に別れた。その先にあったのは、清涼な水を湛えた小さな泉だった。人の手が入っていない自然のままの姿で、森の深部に広がっている。その傍らには見たこともない動物が幾種類も群れをなして生活していて、都会育ちとしてある種の感動すら覚える。この水気を含んだ爽やかな空気が噂のマイナスイオンか、さすが大自然だ。
涼やかな空気を胸一杯に吸い込んでマイナスなイオンを堪能していると、そこらをホバリングでうろちょろしていたドリアードがツンツンと服の裾をつまんだ。
『あの、依頼されていたもの、です。』
はいと差し出されたドリアードの手の平には山と積まれた二種類の草があった。ああ……深呼吸している間に仕事が終わってしまった。横から刺さるクロノアの視線が微妙に痛い。いいじゃないか、都会育ちが森の空気を楽しんで何が悪い。少しくらい楽しませろ、勤労はその後でってつもりだったんだ……と、今更何を言っても遅いが。褒めて下さいと言わんばかりに上目遣いで見上げてくるドリアードの頭を、震える手でそっと撫でる。下心などありません、これはドリアードへの正当な報酬です。だからそんなに危ない人を見るような目で見るな、コンテンツ!
「ありがとう、助かった。」
『いえ……そんな。』
俯いて少し頬を染めるドリアード。彼女の手から受け取った数本の草を傷まないようにウェストポーチに入れる。残りはクロノアが有効活用するとかで、喜んでポシェットに詰め込んでいた。
「それにしても良い所だな。ここで一休みしたいくらいだ……獣の気配が無ければ。」
泉の周りで木々が擦れて音を立てる。ずっとつかず離れずで警戒し続けていた獣達が、猜疑心に満ちた視線をこちらに投げかけている。いや、猜疑心というよりも捕食する欲求をこらえて、かもしれないな。重なりあい近付いてくる音に、全員が戦闘準備に入る。俺は左手に本を身構えて右手でナイフを持ち、コンテンツが体のサイズを手の平サイズまで小さくしてマリオノールの上に浮いた。ドリアードは目を閉じて俺に寄り添い、クロノアが俺と背中合わせになる。新しく精霊を出してもいいが、ドリアード一体でどこまでやれるか試してみたい。
「コンテンツ、ドリアード、やれるか?」
『いつでも』
『大丈夫です』
「来るわよ!」
鋭く叫んだクロノアの合図と共に、雪崩れこんできた黒い獣たちにナイフを向ける。油に濡れて艶々とした毛皮と唸り声が迫りくる中、心に一つ仮面を被る。これから起こる事は全て正当防衛によるもの、殺さなければ殺されるんだ。これは生きていくための犠牲である。襲いかかってきたのはそっちだ、恨むなよ。
マリオノールの精霊達の使い方は全て頭の中に入っている。後はそれを実践するのみ。
気合い一閃。四人と獣達の殺気が涼やかな空気を掻き乱した。