動き始める世界
浮上した意識と共に目を開くと、ギルドの天井とは違うあっさりとした装飾のシャンデリアがぼんやりと見えた。体の状態からそれほど長い間気絶していたようには思えない。
あのギルド職員、マジで覚えてろよ、夜道を堂々と歩けないようにしてやる。
胡座をかいてギリギリと憎しみの炎を焚き付けていると、地面にふっと影がさした。さてはさっきのギルド職員かとゆっくりとねめつけるように顔をあげると、そこにいたのは女だった。しかし女は女でも水色のふわふわ髪をした物騒な女の方だった。少し呆れたような表情をして細い腰に手をあて、半目でこちらを見下ろしている。
「初めて見たわ、魔方陣と喧嘩しながら飛んできた人。」
「おや、いつぞやの。」
あの女ギルド職員へのイライラはとりあえず胸の奥におさめて、よっこらしょと立ち上がる。
さて、ギルド職員はさる大物政治家とのたまっていたが、どの程度の大物かなんて微塵も知らないわけである。ここは低く出た方が賢明か。
胸に手を当てて、営業用スマイルを顔にはり付ける。
「初めまして、お嬢さん。こちらにいらっしゃる方が私をお探しだと聞いて参上致しました。」
「貴方を呼んだのは父上よ。全くこんな胡散臭い男、どうして……」
そこそこ整ったきれいな顔をしかめて、苦々しげに吐き捨てるとドアへ体を向ける。そして、ついておいでと言わんばかりに勢いよくドアを開けて出ていってしまった。
やれやれ、もう関わりたくないと思っていたのに、真っ正面から相手がぶち当たってきたら逃げようにも逃げられないな。おまけに飛ばされてきたもんだから、途中退席するのにも案内人が必要だ。認定紙だって貰っているし、ここは大人しくお父上とやらに会った方が良さそうだ。
女と並んでシャンデリアの光が降り注ぐ広い廊下を並んで歩く。豪奢な服を着た小肥りの男からビシッと決めた軍服の男たち、忙しそうに動き回っている何人かのメイド姿の女性たち。時には会釈し、会釈され、敬礼を返しながらただひたすら廊下を行く。滑るような歩調に合わせて踊るふわふわ髪の後ろについて、一体これからどうなるのだろうかと誰にも聞かれないように微かなため息をついた。
「父上、失礼します」
コンコンと軽いノックを二つ。女は部屋主の返事を待たず、ドアを開けて俺を招き入れた。恐る恐る中を覗くと巨大な机の山積み書類に囲まれて座っている小さな男性がふと顔をあげた。黒髪黒目、卵顔、うすっぺらい幸薄そうな表情、どう見ても日本人独特のしょうゆ顔だ。しかもサラリーマン的な哀愁オーラまで持ち合わせている。
やっと日本人に会えた……。運命の出会いと言うべきか、何だか会ったばかりなのに親しみを感じる。その少し肌色の見えている頭頂部もステキだ。
「ああ、やはり私のカンは正しかったようです。どうぞ中へ、お待ちしていました」
「失礼します」
郷愁じみた感情と礼儀はまた別の話だ。体を斜め45°にきっちりと折ってお辞儀し、室内に足を踏み入れた。中は淡い緑色をした絨毯が敷き詰められ、壁は木目のある深い焦げ茶色をした本棚で埋め尽くされている。部屋の奥に光沢のある黒のどっしりとした机。部屋の手前には皮張りのソファが向かい合って鎮座している。応接間件書斎といった所だろうか。
「ギルドで一悶着あったようですね。お疲れでしょう、おかけ下さい。」
「はい。」
男と女が並んでソファに腰をかけたのを確認してから、自分も向かい側に腰を下ろす。 しかし見れば見るほど見事な日本人の顔だ。女はあまり父上に似ていないが、並んで見るとどことなく雰囲気がある。特に目のあたり、アゴのあたり。目の覚めるような美女ではないが、どことなく幼く見えて愛嬌がある。
「さて、先ずは自己紹介といきましょうか。初めまして、タナカアツシと申します。これは娘のクロノアです。」
手渡されたのは一枚の名刺。明朝体で書かれた日本語に思わず笑みが溢れる。田中篤史さんか、ありふれた立派な日本人の名前だ。
「これはどうもご丁寧に。私はアヤノタツキと申します。今後ともよろしくお願いします。」
「此方こそ。」
名刺など持っているはずもないので、ぺこりと一つ頭を下げる。黒一色のスーツといい、名刺といい、日本の政治家を相手にしているみたいだ。
「まずは礼を。娘を助けて下さってありがとうございました。どうもうちのは少々お転婆でして、あの日も供も連れずに町まで散策に出かけたようです、全く不用心な。」
フゥとため息をつくタナカさん。クロノアが口をへの字に結んで顔をしかめた。反省の色がないようだが、年頃の娘さんが家に籠りっきりと言うのも味気ない話だ。田中さんの心労、クロノアの不機嫌、どちらも一理ある。
「まあ、でも今回はよしとしましょう。アヤノさんに会えたことですし。」
「ギルドから聞いた話では私を探していらっしゃったとか。」
「ええ。アヤノさんはこちらに来てからどれほど経ちましたか?日本とは違う事ばかりで苦労なさっておいででしょう。」
「まだ1日経つか経たないかといったところです。いや、死後の世界とは何とも変わった所ですね。」
「……死後の世界、ですか?」
なんのこっちゃと言わんばかりにタナカさんが目を丸くする。えっ、何その反応。
「田中さんも日本で死んでこっちの世界に来たんですよね?勿論正規ルートで。」
「正規?死んだ?私にはアヤノさんが何を言っているのかさっぱり分からないのですが……。一から説明してもらえますか?」
心底分からないといった風に目を丸くする田中さん。そっちだって分からないだろうけど、こっちだって訳がわからん。三人で首を傾げている光景は、飲み物と茶菓子を持ってきたメイドさんの目にどんな風に映っただろうか。
とりあえずこの世界に来る直前の友人のライヴに誘われて〜から今までを思い返して事細かに説明した。内容はあえて割愛。身振り手振りとほんの少しの脚色を加えて一通り話し終えると、田中さんは腕を組んで眉間に皺を寄せた。
「その状況では仕方ないことですねえ……とりあえず、訂正をしておきましょう。この世界は天国でもなければ地獄でもありません。ここは地球ではない、でも限りなく地球に近い環境を持ったどこか違う惑星です。貴方は生きているのです、間違いなく。」
……俺は、死んだんじゃなかったのか。死んで、輪廻の輪から外れたのだと思っていた。志無く流されるように生きてきた報いだと、そう思っていたのに。
火に包まれたライヴ会場を思い出し、強く強く目を閉じる。あの状況で、俺だけが助かってしまったのか?友人や生きてきた世界すらもみんな捨てて、生きていけと言うのか。
「死んだとばかり思っていましたが……やれやれ、質の悪い神様もいたもんですね」
「そう。神の身勝手で浅はかな考えによって、私達はこの世界にいるのです。平和で停滞したこの世界に新たな波紋を生み出すため、神は私達という異世界の異分子を投じて楽しんでいるのですよ。」
タナカさんの淡々とした言葉には、どこか諦めを含んでいた。神のやることに抗えないのだと。……どうせ俺達は神様の玩具にしかならない非力な存在ですよっと。
「父上、言葉を謹んで下さい。どこで誰が聞いているか分からないのですよ。」
黙って話を聞いていたクロノアが、声を潜めて耳打ちする。政治に派閥ができるのは、どこの世界でも一緒だな。
「クロノア、今更ですよ。……さて、アヤノさん。私が貴方を呼んだのは他でもない、貴方に渡したいものがあります。これは私と同じ世界から来たものにしか使えないのです。『CALL…魔法書』」
田中さんが広げた両手に、一筋の光が降りる。キラキラと光の粒子を纏って、光の中から黒い装丁の辞書のような本が現れた。平然とその光景を眺めているクロノアと田中さんの手前、叫びだしたい衝動をぐっとこらえて両手を強く握り締めた。
おいおい、意味がわからん。読んだら来る本とか、犬か?犬なのか?よくトップブリーダー推奨の極限まで躾けられた犬か? いや、それ以前にこの光景を受け入れている二人はなんなんだ、この世界じゃこんな状況は日常茶飯事なのか、この現象については考えるなってことなのか。おかしいのは俺一人かよ、ああ嫌だ全部を拒否したい気分だ。ここは異世界だ、なんでもありだと思っていても意味不明なものは意味不明だ、やっぱり不気味だ。思いっきり頭を掻き毟りたくなってきたが、変人扱いは御免こうむる。
タナカさんの手の中にすっぽりと収まった辞書……マリオノールは光がおさまってからも。ほわほわと仄かに白く光を放っていた。
「な、なんですか、それは。」
「まあそう怯えずとも。……簡単に説明すると、これは人工精霊を集めた魔法アイテムです。初めてこの世界に来た地球の人間が、後にこの世界に来る地球に住む人々のためにと作った便利アイテムといったところでしょうか。どうぞ、手にとって見てくださいう。そう怖いものではありませんから。」
にっこりと微笑んで本をテーブルの上に置く。地球人のためのアイテムってなんでそんなに利用対象者がピンポイントなんだよ、胡散くせえ。
テーブルにどっかりと鎮座している本を、恐る恐る人差し指でつついてみる……が、反応ナシ。横でクロノアがニヤニヤしてるのが癪にさわるから、平気なふりをして本をぐっと両手で持った。5センチほどの厚さがあるにもかかわらず、本は驚くほど軽かった。羽のようにとはいかないが、金属の菜箸くらいだろうか。表紙と思われる方の装丁の中央に、ワンポイントで白く小さな桜の花が描かれている。ぱらりと表紙を開くと、そこに描かれていたのは。
「世界地図……?」
「そうです。アヤノさん、日本に触れてくださいな。」
触ればいいのか?
言われるままに、右の人差し指でついと日本をつつく。と、その瞬間。ぶわりと白い光がページから溢れて思わず本をテーブルの上に放り投げた。立ち上がってその場からダッシュするのを、クロノアの細い腕が阻止。やめろ、離せ、付き合ってられん、断固拒否、俺は、帰る、帰らせろ!!
「はーい、それでは引継ぎの儀式を始めまーす!お二方ご用意はよろしいでしょうか?」
うつ伏せになった本の上で、スーツを着てインカムをつけた黒髪ショートの女がくるりと回った。いや、笑った。喜色満面といった様子で、田中さんに話しかけている。顔は決して悪くない、いやむしろ可愛いと思う、だが残念ながら女は普通じゃなかった。本の上に浮いている人間なんてどう考えたって普通じゃない!
「マスター、ついに本を手放す日が来たのですね。マスターがこの本を使わなくなってから幾年月、もうくたばってしまわれたかと心配していましたよ。」
可愛らしい容姿の割に使う言葉はドギツイ。なんのギャップだ、いらないだろうそんなゲームキャラのような萌え的サービスは。
「おいおいそんな言い方はないだろう、コンテンツ」
「マリオノールを代表しての言葉ですからね。で、こちらの方が新しいマスターですね。」
苦笑いで対応する田中さんを横目で一瞥して、くるりと後ろを向いて俺の前に浮いた。近くで見るとますます不思議な感じがする。頭のインカム、服は白シャツに黒のネクタイを締め、黒の上下スーツ。足元は黒い革靴だ。何故ハイヒールじゃないのか、スーツにハイヒールは女の嗜みだろう。
俺のこだわり思考を知ってか知らずか、本の上で浮いている非科学的な女性がにっこりと営業スマイルを浮かべる。
「初めまして。私、マリオノールの案内役兼総務を務めさせていただいています、コンテンツと申します。以後よろしくお願いしますね、新しいマスター。」
ぺこりと頭を下げる姿に、一体なんの悪夢が始まったのかと頭を抱えたくなった。