【その4】感情とは? ~真実を歪める感情との向き合い方~
前回は真実に近付くための認知術を考えてきた。
今回は真実を歪める感情との向き合い方について考えていく。
感情とはいったい何だろうか?
一ついえることは、感情もまた常に私たちと共にあるということだ。
そして、感情も自分自身でコントロールすることはできない。
自動思考の一部なのか?と考えることもあるが、思考とは違うものだと思う。
その理由は、思考は頭の中だけで完結している感覚があるが、感情は全身で感じるような感覚があるからだ。
ポジティブな感情であれば身体は軽くなるし、ネガティブな感情であれば身体は重くなる。
切なさや苦しさに紐付く感情であれば、心臓の辺りが締め付けられるような感覚もある。
このような感覚はあなたも経験したことがあるのではないだろうか?
感情は、身体全体から湧き上がるような感覚を覚える。
おそらく、単純なものではなく、複雑に身体の各機能に結び付く反応なのだと思う。
身体で感じて、身体で覚えるような人体の反応である。
感情は、身体で覚えた反応であるからこそ、思考への影響も大きい。
苦しくつらい過去の記憶に触れた時に身体が震えるような感覚があり、それに恐怖するのも、情報に結び付いている感情の影響が大きい。
前回の認知の考察の中で、「認知は生きるノウハウの蓄積機能」という側面もあると書いた。
そして、認知により蓄積された情報にはその時の感情が付属情報として付与される。
ここで、一つ疑問が浮かび上がる。
なぜ、認知により得られた情報にその時の感情が紐付くのか?ということだ。
この部分に感情の正体に迫る鍵があるような気がしている。
ここからは、生きるノウハウの蓄積機能としての認知に感情が紐付く理由を考えていこう。
感情は、全身から湧き上がる感覚があり、全身で感じるような感覚があると書いた。
この部分で推測されることは、感情というものが生物の生存の本質に近い機能であるのではないか?ということだ。
思考は、人間という生物の進化過程で、脳が発達したことにより豊かになったものだと考えられる。
だからこそ、思考は脳の中だけで完結しており、冷静という言葉があるように、客観的に捉えることも可能である。
一方で、感情は、身体全体の感覚として実体験があり、自分ではコントロールができないものである。
これまで、不安、思考、認知と考察してきたが、いずれも自分の中での事象にも関わらず、自分ではコントロールできない部分があった。
この自分ではコントロールできないということがどういうことなのか?ということだ。
ここでの「コントロールができない」は、意識・無意識の次元ではなく、もっと生物の根幹に関わる次元であると考えられる。
つまり、感情は生物の生存本能の一部なのでは?ということだ。
おそらく、この感情というものは、私たち人間だけではなく、他の動物達も持っている。
その理由は、他の動物達も脅威となる事象に遭遇しそうになると、咄嗟に回避行動に出るためだ。
これもまた、認知した情報に感情が紐付いているからだと考えられる。
他の動物達の場合には、この感情という機能は特に重要だ。
なぜなら、彼らの場合には、この感情という機能が生死に大きく関わっているからだ。
脅威を瞬時に身体全体で感じ、反射的に回避行動を取らなければ、彼ら自身が命を落とすことになる。
このような、生物の本能的な行動を司るのが感情という機能なのではないのだろうか?
そう考えると、感情により発生する反応が身体全体に作用するのも納得できる。
「感情は、身体機能の一部であり、生物の感覚から得られる感覚情報」ということなのかもしれない。
私もこのお題を考えるまでは、感情は思考領域に属するものだと考えていた。
しかし、考えれば考えるほどに、感情が身体機能側に属するものと考える方が自然な感じがしている。
つまり、認知も感情も思考領域の機能ではなかった。
感情は、認知や思考をきっかけとして生まれるものではある。
逆も然りで、生まれた感情から、更なる思考を生み出す。
そして、認知、感情、思考が連鎖的に無限ループすることで、私たちの内なる思考世界が形成されている。
だからこそ、認知も感情も思考領域に属しているという誤解をし易い。
思考領域に属していると考えてしまうと、それをコントロールできないことにジレンマを覚え、ストレスを抱えてしまう。
事象に出会ってしまえば、感情は生まれる。
この性質を考慮すると、感情に対しては、感情自体ではなく、事象への接し方という行動面でのアプローチが有効だと考えられる。
これは、体調管理とよく似ている。
例えば、風邪を引かないために、マスク着用と手洗いうがいをするようなイメージである。
感情に当てはめるならば、感情を揺らしたくない時は、他人や情報と接することを制限するという行動でコントロールする。
こうすることで、感情の揺らぎをある程度、限定的にすることが可能となる。
逆に、感情自体を楽しみたい時は、その感情を生むであろう事象に接しに行けばよい。
何とも難しい。
感情に苦しむこともあれば、感情に助けられることもある。
そして、時に、感情は生命活動に大きな影響を与える。
私は、正直に言って、感情で苦しむことの方が多い。
頭では事象を理解しているつもりでも、感情が治まることはない。
感情に翻弄され続け、疲れてしまうこともある。
感情がなくなってしまえばいいと思ったこともあった。
ただ、それでも、私は感情を持っている人間でありたいとその都度思い直す。
つらく苦しいことも多いが、感情がなければ、楽しいも幸せも感じられない。
感情があるからこそ、生きていける部分もある。
私たち人間は、種として歩みの中で、脳を進化させ、思考を成熟させてきた。
それと共に、種としての生存圏を確立し、文明も発達させてきた。
そして、人間は感情という機能に生存本能以外の価値を見出した。
人間は感情に翻弄されながらも、時には感情を味わっているのだ。
今回は、感情との向き合い方を考えてきた。
結論としては、「感情は、身体機能の一部であり、生物の感覚から得られる感覚情報」である。
だからこそ、身体への影響が大きく、生命活動に支障が出ることもある。
天邪鬼で繊細な同居人といったところか。
次回は、感情と対照的な存在である「理性」について考えていこうと思う。
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