最終話 水仙 咲き誇る
寿命というものは、あまりにも不思議で、時に残酷に感じる。人間の力ではどうにもできないその定めが、なぜこんな形で訪れるのか。和真の心の中では、答えを求めようとする自分と、それが無意味だと悟る自分が絶えず葛藤していた。
「高齢なんて、まだ自分には関係ないと思っていたけれど……」
和真は思わず苦笑した。それは他の誰でもなく、自分に降りかかっている現実だった。かつて若さを誇っていた自分も、気づけば月日を重ね、いつの間にか年齢というものに束縛されていたのだ。
「理由なんて分かるはずがない」と心の中で理解しながらも、どこかでその答えを探し続けている自分がいた。夏菜子の笑顔を思い浮かべ、訪れた風景の中にその意味を見つけようとするが、何も見つからない。答えを追い求めるその気持ちだけが、胸の中に静かに残る空洞を埋めることはなかった。
夏菜子の病名は膵臓癌だった。診断された時点で、すでにステージIV。医師の冷静な説明が耳に残る。「手の施しようがありません」。その言葉が、和真の心に深く突き刺さり、まるでナイフで切り裂かれるような痛みを伴った。
膵臓癌には特有の初期症状がない。気づいたときには、すでに手遅れ――そんな説明を受けたとき、和真はただただ頭を抱え込んだ。「なぜもっと早く気付いてやれなかったのか」。その後悔が、和真をまるで呪縛のように締めつけていた。
夏菜子が最初に「少しお腹が痛い」と言った日のことを思い出す。あの日の自分は、軽い胃痛か何かだろうと軽く考え、笑って流してしまった。けれど、それが死に直結する病の始まりだったとしたら――。和真はその瞬間の無力さを思い返し、胸が押し潰されるような痛みに苛まれた。
それからというもの、夜が更けるたびに和真は天井を見つめ、眠れぬ日々を過ごした。夏菜子が隣で穏やかな寝息を立てていた頃の記憶が、夜の闇の中で鮮明によみがえってくる。その温もりも、声も、もう二度と戻らない――その事実が、重く暗い闇となって和真の心を包み込んでいった。
医師が告げた余命は「春を迎えられるかどうかわからない」──その瞬間、診察室の空気はまるで凍りついたかのように静まり返った。医師の冷静な声が、和真の耳には遠く響く鐘の音のように感じられた。横に座る夏菜子は、俯き加減でじっと聞き入っていたが、ふと肩が震えるのが見えた。やがて、彼女の頬を伝う一筋の涙が、白い診察台の床に小さな音を立てて落ちた。
その涙の一滴一滴が、和真の心に深い傷を刻むようだった。目をそらすこともできず、彼は拳を握りしめた。胸が押し潰されそうになる痛みを必死に堪え、震える声で問いかけた。
「夏菜子、今……何がしたい?」
言葉を絞り出すと、彼女はゆっくりと顔を上げた。その動きには、どこかためらいと重さが宿っていた。和真は彼女の瞳を捉えようとしたが、夏菜子はすぐに視線を窓の外へと移した。薄曇りの空が広がり、柔らかな光が診察室の中をぼんやりと照らしている。
彼女の目は、具体的な何かを見つめているのではなく、空のどこか一点をただじっと見つめていた。和真には、彼女が心の中で何かを探し続けているように思えた。それは、答えの見つからない問いなのか、それとも、これから訪れる運命にわずかな希望を託しているのかもしれない。
その瞳には、静かな迷いと深い覚悟が同時に宿っていた。空を映すその瞳が微かに揺れるたび、和真は彼女が抱える苦しみと戦いを痛いほど感じ取った。その瞬間、彼は自分がどうしようもなく無力であることを、改めて突きつけられた。
しばらくの沈黙の後、夏菜子が静かに口を開いた。
「元気なときはね……日本中を旅したいって、ずっと思ってたの」
その声は穏やかで、けれどどこか遠く、届かない場所を見つめているような響きがあった。彼女の言葉は、目に見えない壁にぶつかりながら、ぽつりぽつりと落ちてくるようだった。
「あっちこっちの温泉で好きなものを食べて、お酒も飲んで……そんなことが夢だった。でも……今は、もう違うの」
夏菜子は窓越しの空に目を細めた。その横顔には、どこか吹っ切れたような安らぎと、深い哀しみが同時に宿っていた。和真はただ、彼女の姿を見つめながら、次に紡がれる言葉を待つしかなかった。
「最近ね、二人で苦労して買ったあの家がね、夢によく出てくるの。不思議だよね。本当は終活をして、もっと自由にいろんな場所へ行きたいって思ってたはずなのに……。でも、どうしてだろう、あの家が恋しくてたまらないの」
夏菜子の言葉は、和真の心に深く染み込んだ。それは時計の針を巻き戻すように、あの家のことを思い出させた。あの家には、二人の記憶がぎっしり詰まっている。初めての家具を選びながら交わした笑顔、励まし合いながら乗り越えた数々の苦労、未来を語り合いながら描いた希望――それらすべてが、あの家の隅々に刻まれている。
彼女の切実な言葉を聞いたとき、和真は静かに心を決めた。もう一度、あの家で、彼女の最後の願いを叶えようと――。
幾度も交渉を重ね、ようやくその家を買い戻すことができた。奇跡的に、手付かずのまま残されていたその家。玄関の扉をゆっくりと開けると、懐かしい木の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。その香りは、記憶の奥深くに眠っていたかつての日々を、目の前に引き寄せるように呼び覚ますかのようだった。
夏菜子の瞳に、ほんのわずかな光が宿る。彼女の顔が一瞬、柔らかな微笑みを浮かべ、胸の奥にしまい込んでいた思い出が一気に鮮やかに甦った。その瞬間、和真の心もまた、あの温かな日々へと引き戻されるのを感じた。
リビングの壁には、二人が共に選んだ絵がそのまま飾られている。その絵は、昔二人で訪れた海辺の町を描いたもので、どれだけ時間が経っても色あせることなく、その美しい景色が二人の思い出を静かに語りかけているようだった。
庭に目を向けると、小さな花壇は雑草に覆われているものの、その形を保ち続けていた。風が吹くたびに木々が揺れ、葉の間をわずかな音とともに風が通り抜ける。その音は、かつてここで過ごした日々の息吹を感じさせ、静かな時間が流れ続けていることを象徴しているようだった。
「帰ってこれてよかった。ありがとう、和真」と夏菜子が囁くように言った。その瞳には涙のような光が宿り、和真の胸の奥深くまでその言葉が沁み渡った。この家で彼女と過ごす時間が限りあるものであることを、彼は改めて強く感じた。
「ここで、よく話したね」と彼女は静かに微笑んだ。「お互い仕事の愚痴を言ったり、旅行の計画を立てたり、夜更かしして映画を見たり…。なんでもない時間だったけど、今思うと一番幸せだったかも。」
彼女の言葉に和真も笑みを浮かべながら頷く。窓からは柔らかな日差しが差し込み、壁のひび割れや、所々剥がれた塗装が、その年月を物語っていた。だがそれは、ただの傷ではなく、二人の記憶の証だった。
夏菜子が静かにベッドに横たわると、彼女の頬に一筋の光が差し込んだ。その微笑みは穏やかで、どこか達観したようでもあった。和真はそっと彼女の手を握りしめた。家全体が、二人を包み込むかのような優しい空気に満ちていた。
麻酔や鎮痛剤で痛みが和らぐと、夏菜子はじっとしていられなくなった。お気に入りのエプロンを身につけ、指先には自ら編んだ赤い毛糸の手袋をはめる。そして、庭に咲く春の花々を思い描きながら、スイセンの球根を一つ一つ丁寧に植えていった。
「和真、一緒にやろうよ。春になったら、きっと庭が明るくなるわ。」
水仙の球根を植える作業は、夏菜子の希望を胸に、和真と二人で進めた。秋の柔らかな陽射しが降り注ぐ中、二人は土の香りを感じながら、庭いっぱいに球根を埋めていった。
「土をかぶせるときは優しくね。小さい球根には6〜7センチ、大きい球根には10センチくらいの土をかけるのがコツよ。」夏菜子は穏やかな声で和真に手順を伝えながら、一つひとつ丁寧に球根を植えていく。
「この場所にたくさん植えよう。一斉に咲いたら、きっときれいだね。」和真がそう言うと、夏菜子はほほえみながら力強く頷いた。二人で植えた球根の数は、いつの間にか庭全体を覆い尽くすほどになっていた。
家というものは不思議だ。物でありながら、物ではない。その中に刻まれた思い出が、そっと心を癒してくれる存在になる。和真は、この家に改めて感謝の念を抱きながら、隣にいる夏菜子の手を静かに握った。
その日が訪れた。夏菜子は和真の手をぎゅっと握りしめ、静かに目を閉じた。穏やかな表情のまま、安心したかのように、和真が見守る中で静かに息を引き取った。和真はその手を離さず、ただ彼女が遠いどこかへ旅立っていくのを見守ることしかできなかった。彼女の手の温もりが少しずつ消え、冷たさが広がるのを感じながら、和真は言葉を失ってその場に立ち尽くした。
夏菜子のいない家は、深い静寂に包まれていた。リビングのソファには、彼女がいつも座っていた場所がぽつりと空いている。ダイニングテーブルには、夏菜子が好んで使っていた食器がそのまま置かれ、触れることさえためらわれるようだった。どこを見ても、何に触れても、夏菜子の気配が確かにそこに残っている。だがその気配は、同時に彼女がもういない現実を突きつけるものでもあった。
家の中は彼女が生きた時間の名残で満たされているようだったが、日々は容赦なく流れ、和真に静かな孤独だけを残していった。
誰かが訪ねてきても、和真はその人をただぼんやりと見つめるだけだった。口を開こうとしても言葉が出てこない。挨拶すらできず、玄関先で無言のまま立ち尽くす日々が続いた。訪ねてきた人々も、和真にどう声をかければよいのかわからず、気まずそうにそっと帰っていく。その背中を見送ることさえ、和真にはままならなかった。
静まり返った家に一人残された和真は、時間が止まってしまったような感覚に囚われていた。時計の針は確かに動いているはずなのに、自分だけがその流れから取り残されているように思えた。心の奥底では、失ったものを取り戻したいという微かな想いが揺れていた。だが、それが何であり、どこにあるのかすらわからない。ただ、喪失感と無力感だけが胸を覆い尽くし、彼の中に重くのしかかっていた。
心配して訪ねてきた息子夫婦にも、和真はただ機械的に「そうか、わざわざすまない」と繰り返すだけだった。息子が手渡してくれた菓子折りを受け取る手には力がなく、その顔を見ても微笑むことさえできなかった。無理に作ろうとした笑顔は、夏菜子が見せてくれた温かな笑顔とはほど遠く、自分の中で違和感となって消えていった。和真の心に浮かぶのは、夏菜子と過ごした日々の記憶だけだった。それが今や現実とは隔てられ、どこか手の届かない場所へと流れ去ってしまったように感じられた。
部屋には夏菜子が好きだった暖かな色のカーテンが、窓辺で静かに風に揺れていた。この部屋はいつも明るく、温もりに満ちていたが、今はその光景がまるで幻のように冷え切っている。
手を伸ばしても届かない夏菜子の温もり。その感覚だけが胸の奥に重くのしかかっていた。空虚な日々。笑顔で人を迎え入れることさえ、今では夢のように感じている。何かが欠けている気がしてならなかったが、その「何か」が何なのか、自分には分からなかった。
風にのって夏菜子の声が聞こえた。「いつかキャンピングカーで、日本中を旅して、二人だけの時間を過ごしましょうね。」その言葉に、和真の心は軽く震える。夏菜子の笑顔、優しく包み込むような声、すべてが目の前に浮かんでくる。
自分に残された時間がわずかだとしても、今を大切にしよう――その言葉は、夏菜子がまだそばにいるかのように、和真の心に響き渡った。それは優しく、そして強く彼の中で再生し、迷いを吹き飛ばしてくれるような力を持っていた。
数か月後、和真はキャンピングカーの世界でよく耳にする「いつかはバスコン」というフレーズを実現した。これは走行性能、乗り心地、居住性、装備、そして価格のすべてにおいて頂点を極めたキャンピングカーを手に入れたことを意味する。彼が選んだバスコンは、一般的なキャンピングカーとは異なり、オーナーの使い方や好みに応じて作られるオーダーメイド品だった。
FF ヒーター、サイドオーニング、ソーラーパネル、大容量のサブバッテリー、そして家庭用エアコンなど、最高級のオプションが揃えられた。快適性を追求するその仕様は、どんな環境でも和真の生活を支えてくれるものだった。購入費用はかなり高額となったが、それが問題になることはなかった。「夏菜子と一緒にいた時間に戻れるなら、このキャンピングカーは安いものだ」と心の中で呟いた。
旅路を進むキャンピングカーの車内は、夏菜子との思い出を大切にできる空間に仕上げられていた。彼女が好きだった花柄のクッションは、座席にそっと置かれ、彼女の気配を感じられるように工夫されていた。棚には、彼女が生前に愛読していた本が丁寧に並べられている。小さな窓辺には、夏菜子が選んだ写真立てが飾られていた。その写真を見るたびに、和真は彼女の笑顔が今でもそばにいるように感じ、心が温かく満たされるのだった。
車窓からは、色鮮やかな草原や青く広がる空が流れていく。それらの風景と夏菜子との記憶が重なり合い、一瞬一瞬が和真にとって特別なものとなっていく。彼にとって、この空間は単なる移動手段ではなく、夏菜子と共に歩む第二の家のような存在だった。
人生は旅のようだと言うけれど、まさにその言葉を噛みしめるようなドライブ旅行が始まった。東北から北海道へ向かう道のりは長く、その長さが心を解き放つ時間となる。初日の夜、いわきの道の駅に車を停めた。エンジンを切ると、窓越しに涼やかな夜風が舞い込み、星空が静かに見守ってくれているかのようだった。
明け方、空がほのかに明るくなると同時にエンジンをかけ、再び走り出す。これから始まる旅の興奮が胸の奥で小さく弾けるのを感じた。
石巻の海岸線を走ると、朝の光が海面を揺らめかせ、窓を開けるとひんやりとした空気が頬を撫でた。海と空の青が溶け合うような景色は、言葉を失うほど美しかった。ふと目を閉じると、助手席に夏菜子の笑顔が浮かび、「和真、この景色を一緒に見られるなんて幸せだね」と囁くような声が耳に届く気がした。
大船渡の温泉宿では、旅の疲れを癒す湯気と新鮮な海の幸が心を満たしてくれた。食堂で出会った老夫婦と話す中で、和真は「人生の旅も、風景も、ひとりで見るより、誰かと分かち合った方がいいよね」という言葉に胸を打たれた。その夜、温泉の湯気の中で、夏菜子と過ごした日々が鮮やかに蘇る。
翌朝、青空の下でフェリーが大間港を静かに離れる。無限に広がる海がデッキの彼を包み込むようだった。波音に耳を傾けながら函館に到着し、日本海を左手に見ながら車を北へと走らせた。積丹町の神威岬では、切り立つ崖と荒波が織りなす壮大な景色に圧倒された。その場で出会った若いカメラマンは「この瞬間を写真に残すことで、誰かの心にも刻めるんです」と話し、和真の心にも新たな旅の意味が生まれた。
礼文島の透き通るような空気と雄大な自然。花が咲き乱れる岬で、和真は夏菜子と語り合うように空に向かってつぶやいた。「ここに君がいたら、どんなに喜んだだろう」。風に乗った声がどこまでも広がり、夏菜子がすぐそばにいるような感覚に包まれた。
やがて旅は富良野へと続き、紫の絨毯のようなラベンダー畑が広がる。そこで出会った地元の少女が和真にラベンダーの小さな束を差し出し、「これ、幸せを運ぶお守りなんだって」と笑顔を見せた。その純粋な笑顔に、和真の心は一瞬軽くなった。
九州の阿蘇山では、火山の雄大さに圧倒されながらも、自然のエネルギーを感じ取った。遍路道を歩いた四国では、巡礼者たちの静かな祈りとともに、自らの心の中を覗き込む時間を持てた。そして和歌山の熊野古道の杉林の中、和真は立ち止まり目を閉じた。「夏菜子、君がそばにいるって思えるから、私はこうして旅を続けられる。ありがとう」。その瞬間、柔らかな風が吹き抜け、夏菜子がそっと寄り添っているような温もりを感じた。
最終地点の馬籠宿。夕焼けが坂道を金色に染め上げ、和真の影を長く引き伸ばしていた。緩やかに続く石畳を一歩一歩踏みしめるたび、どこか懐かしい記憶が胸の奥から立ち上がるようだった。
和真は、ふと足を止め、後ろを振り返った。茜色の空に溶け込む山々が、一日の終わりを静かに告げている。その壮大な景色に心を奪われ、ただ見つめていると、記憶の片隅から夏菜子の笑顔がそっと浮かび上がった。彼女が穏やかに微笑む姿が、目の前に広がる風景と重なり合うように思えた。
「和真、ありがとう。これからも一緒に旅をしようね。」
彼女の柔らかな声が、優しい風に乗って届いた気がした。頬を撫でる風は、春の訪れを予感させる穏やかな温もりを帯びていた。和真はその声に答えるように目を閉じ、静かに空を仰ぐ。
「ありがとう、夏菜子。」
つぶやく声がかすかに震えた。夕焼けに照らされる坂道は、どこまでも続く旅路の象徴のようだった。和真の心には、夏菜子と紡いだ思い出が深く刻まれている。その記憶が、彼のこれからの歩みを支えるのだろう。
和真は目を細めながら空を見上げた。茜色に染まる空と、沈みゆく陽の光が作り出す柔らかなグラデーション。それはまるで、夏菜子との日々そのものを映しているかのようだった。胸の奥から、言葉にならない感謝の念が静かに湧き上がる。
「さあ、行こう。」
和真は自分に語りかけるように言った。その声は静かでありながら力強く、次の一歩を踏み出す決意に満ちていた。坂道を再び歩き始めると、夕焼けの中で光が和真の足元を照らし、どこまでも続く未来への道を導いているようだった。
キャンピングカーに戻り、エンジンをかける。これから先も、夏菜子との旅は続いていく。風に乗って運ばれる香りや、目の前に広がる景色の中に、彼女はいつも寄り添っているから。
夕焼けに包まれた馬籠宿を後にし、和真は新たな一歩を踏み出した。これからも二人の物語は続いていく。そして、その物語は、これまでと同じように、希望と愛に満ちていくだろう。
この旅で紡がれた思い出は、決して色褪せることはない。和真の耳には、大地の息吹が静かに囁き、海風が淡い塩の香りを運んでくる。朝日がもたらす優しい温もり、星空の下で感じた深い静寂。それらは彼の心の奥深くに刻まれ、静かに、しかし確かに響き続けていた。それは、次なる旅へと誘う永遠のメロディーのようだった。
「人生そのものが旅だとしたら、その一歩一歩が輝きに満ちた冒険であってほしい」
和真はそう願いながら、春の香りを運ぶ柔らかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。目をやると、風に揺れる水仙の花々が視界に広がる。その一輪一輪が、どこか彼女の笑顔と重なって見えた。胸の奥が温かくなる感覚に包まれ、和真は手を合わせ、静かに目を閉じた。
思い出は、もう二度と失われることはない。それは和真の心の中で、永遠に生き続けるだろう。どれほど時間が流れようとも、彼女との約束は消えることなく、胸の奥で静かに輝き続け、彼の旅路を照らす道標となる。和真は深呼吸をひとつし、静かに目を開けた。
目の前には、春の光がやわらかく降り注いでいた。その光は彼の頬を優しく撫で、瞳の奥深くまで暖かさを届けていた。和真は穏やかな微笑みを浮かべ、光に包まれるようにして一歩を踏み出した。その足取りには、静かな安らぎとともに、確かな未来への希望が込められていた。
たとえその声が遠くなり、そのぬくもりが指の隙間からこぼれ落ちても、和真の心の奥底に咲いた水仙は決して消えることはなかった。季節が巡り、風が甘さと痛みを交えた記憶をさらってゆくたび、和真はふと立ち止まり、あの日々を思い出す。夏菜子の声が、夏菜子の笑顔が、彼の胸の中に永遠の住人となったからだ。
どれほど時が経とうとも、和真の戻る場所はただひとつ。ふたりが過ごしたあの季節――水仙が咲き誇る、あの時。そこに和真の心に生き続ける「愛」の形があった。
揺れるベルのように、彼の胸の奥でそっと響き続ける、夏菜子への想いとともに。