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七話 静かな幸せ、人生の、今  

 和真は台所で料理をしている夏菜子の後ろ姿を、優しく見守っていた。包丁の音、鍋の中で油がはねる音、そんな音が心地よく響く。ふわっと広がる香りに、その温かさを感じ取る。玉ねぎの甘さ、オリーブオイルの香ばしさ、そしてほんのりガーリックの香りが混じり合って、部屋が温かく包まれていた。


「いい匂いだな。」和真が言うと、夏菜子は軽く振り向きながら笑った。


「まだ仕上がってないよ。」そう言いながら、手元を忙しく動かしている。


「いや、この香りだけで十分幸せな気分だよ。でも、夏菜子、換気扇は回して料理をしてくれるかな?」


「うるさいわね。」夏菜子はそう言いながら、すぐに換気扇を回し始めた。「忘れたって言ってるじゃない。」


 和真は笑って、軽く頭を振った。「換気扇を回してくれないと、空気清浄機のフィルターがすぐに油でべたべたになるから。油汚れの掃除って、結構大変なんだぞ」


「わかってるわよ。」夏菜子は軽く笑いながらそう言い、再び料理の手を動かし始めた。包丁がまな板を叩くリズミカルな音が、静かな部屋に響く。


 和真は、その姿を黙って見つめながら、小さな安らぎを感じていた。湯気が立ち上る鍋、窓の外から差し込む柔らかな夕日、そして台所に立つ夏菜子の後ろ姿――どれも何でもない日常の一部に過ぎないはずなのに、今の彼にはそれが特別なものに思えた。


「こういう時間が一番幸せなんだろうな」と、心の中でそっとつぶやく。


「今日もありがとね。」和真は感謝の気持ちを口にした。


 その静かな時間が、長い夢のようにゆっくりと流れていった。和真の胸の中で、温かな感情が広がり、心の奥で夏菜子への深い愛おしさが静かに育っていった。彼女の笑顔、その存在そのものが、どれほど自分にとって大切なものか、改めて感じていた。


「財布を握っている時が一番ホッとするの。一番幸せよ。」


 和真はその言葉に思わず笑みを浮かべた。夏菜子の何気ない一言が、彼の心に小さな灯をともすように温かく響く。


「財布を握っている時が一番ホッとするなんて、さすが夏菜子らしいよ。」和真が冗談めかして返すと、夏菜子は肩越しに軽く振り向き、彼女らしい柔らかな微笑みを見せた。


「だって現実的でしょ?安心して生きるには、基盤が大事なのよ。」


 その言葉に、和真は心の中でそっと頷いた。夏菜子の現実的な考え方は、彼女の強さそのものだった。そしてそれは、彼が彼女に惹かれた理由のひとつでもある。


 彼女が放つ何気ない言葉の奥に、支え合いながら生きるための信念が感じられる。その度に、和真は自分もまた彼女の「安心」を支える存在でありたいと心に誓うのだ。


「夏菜子がそう言うなら、もっと頑張らないとね。」和真の言葉は軽やかだったが、その裏には決意が込められていた。


「期待してるわよ。」夏菜子は同じく冗談めかして答えたが、その声色にはどこか柔らかな温もりが宿っていた。


 鍋から上がる湯気が二人の間をふんわりと漂い、部屋に満ちる出汁の香りとともに、さりげない会話が二人の絆を静かに深めていく。


 和真は目の前の穏やかな光景を見つめながら、胸の奥でそっと思った。「この笑顔をずっと守りたい」と。


 夏菜子を守るということは、単に身を寄せ合うだけではない。彼女が安心して今日を生き、明日を夢見られる環境を整えること。日々の生活が心の平和を生むのなら、それを支える努力を惜しむ理由などどこにもない。


 彼女が眠るときも、目覚めるときも、変わらぬ微笑みを浮かべられるように。平凡で穏やかな日常を築き上げるその積み重ねが、和真にとっての「守る」という行為の本質なのだと…


 夏菜子は、物に囲まれた生活の中で安らぎを感じるタイプだった。精神的な安心を求めつつ、欲しいものが目に入ると、それが本当に必要かどうかを考える前に、手に取ってしまうことが多かった。特に骨董品には目がない。古びた陶器や、時を重ねた家具が並ぶ店に足を踏み入れると、彼女の目は瞬く間に輝きだす。


 その表情は、時間旅行をしているかのようだった。彼女は、手にした骨董品のひび割れや、くすんだ木目に触れるたびに、かつてその物を使っていた人々の息づかいや、そこに刻まれた物語を感じ取っているかのようだった。歴史の重みを心の中で紡ぎながら、彼女は物たちのささやきに耳を傾け、見えない世界を旅していた。


 和真はその様子を見て、いつも不思議な感覚にとらわれた。夏菜子が選ぶ物は、どれも一見すると価値のわからないものばかりだが、彼女の手にかかると、それらはまるで新たな命を吹き込まれたかのように輝きを放つ。それは物への愛情だけではなく、夏菜子自身が持つ感性の豊かさゆえだと和真は思っていた。


 彼女が自分とは異なる価値観を持っていることが、むしろ新鮮で愛おしかった。彼女の趣味や選択に対して、無理に共感するのではなく、ただそばで見守ることができる――そのこと自体が、和真にとってはかけがえのない幸せだった。そして、どんな些細なことでも、彼女が心から喜ぶ瞬間を目にするたびに、和真の胸には静かな温もりが広がった。夏菜子の笑顔は、彼にとってすべてを超える価値があり、その輝きが彼の人生そのものを満たしていた。


「夏菜子、こんなに物に囲まれてさ、もし君が先に逝ったら、これら全部どうするんだ? 残されたものを、誰が処分すると思う? この骨董品だって、私も子供も興味があるわけじゃないし…」


 夏菜子は少し首を傾げ、柔らかい笑みを浮かべながら答えた。「そんなの気にしないわよ。私がいなくなった後、どう処分されようと関係ないもの。大事なのは、今が幸せで充実していること。それだけで十分だわ。」


 和真は一瞬驚いた表情を見せたが、やがて苦笑を漏らした。「へえ、考えが変わったんだな。前は『子供に迷惑をかけたくない』って、元気なうちに終活しようって言ってたのにさ。それでこのアパートに引っ越してきたんじゃなかった?」


 夏菜子は肩をすくめながら、目を細めて窓の外を見た。「人の考えなんて、その時々で変わるものよ。死んだ後のことを考えるのも正しいし、死んだ後なんて考えずに今を楽しむのも正しい。どっちが正解かなんて、結局は本人次第でしょ。要は、今の自分が幸せだって実感できればそれでいいのよ。」


 その言葉は和真の胸に深く響いた。軽やかな語り口の中に、揺るぎない信念のようなものを感じた。確かに、幸せを実感できる瞬間こそが、本当に大切なのかもしれない。


「ふーん、やっぱり夏菜子は深いな。そういう考え、私は好きだよ。なんか、夢が広がる気がする。」和真は微笑みながら、テーブルに置かれた彼女が選んだばかりの古びた花瓶に目をやった。


 彼は心の中でそっと思った。自分の考えや価値観ももちろん大事だけど、夏菜子のように今を大切にする姿勢が、どれだけ豊かなものか。彼女の自然体な生き方が、和真にとっての幸せの道しるべになっている気がした。



 週末になると、和真は必ずと言っていいほど、あの小さなラーメン店に足を運ぶ。目立つ看板もなく、ひっそりとした佇まいだが、不思議とその場所には引き寄せられるような魅力があった。店の外には長い行列こそできないものの、ちらほらと訪れる常連客たちが途切れることなく出入りしている。彼らの顔には、どこか安堵したような表情が浮かんでいるのが印象的だ。


 暖簾をくぐると、そこには喧騒を忘れさせる静かな空間が広がっていた。厨房から立ち上る湯気と熱気に包まれ、醤油と出汁の香りが漂う。それだけで、冷えた体にじんわりと温かさが染み込むようだった。外の冷たい風とは対照的に、店内には心を解きほぐすような穏やかな温もりが満ちている。


 和真がこの店を訪れるのは、単にラーメンが好きだからというわけではない。子供の頃、父親と通った町の食堂をどこか思い出させる雰囲気が、彼の心を静かに引き寄せていたのだ。大きな鍋から麺をすくい上げる音や、店主の低くも温かい声が、過去の記憶をそっと呼び覚ます。店内のテーブルに置かれた木製の箸や、擦り切れた調味料入れにさえ、どこか懐かしさを感じる。


 和真はカウンター席に腰を下ろし、湯気の立つラーメンを静かに待った。週末のひととき、この場所で過ごす時間は、彼にとって一種の儀式のようなものだった。


 店主の動きには、どこか神聖さが漂っていた。無駄のない手際で狭い厨房を舞台に熟練の職人技が繰り広げられ、深いしわが刻まれた顔には、長年の経験からくる自信と誇りが滲み、瞳に宿る鋭い輝きが、彼を「高齢の店主」とは一線を画す存在にしていた。


 80歳を超えているとは思えないほど、店主は正確かつ素早く動き続ける。片手で鍋を振りながら、もう一方でスープを注ぐその一連の動作には、客への思いやりと職人としての誇りが込められていた。和真はその姿に見入っていた。


 注文が飛び交う中でも、店主の手際は乱れず、調味料を加える仕草や麺を盛り付ける動きには、長年の経験が凝縮されている。彼の手さばきには、和真の心に静かに響く情熱が感じられた。


 鍋の中で踊る麺を湯切りする手さばきは、滑らかで美しく、和真は一瞬たりとも目を離せなかった。その巧みな手順に深い感動を覚え、この店には単なる料理以上のものがあると感じた。


 立ち上る湯気の向こうで、具材が音を立てて跳ね、香ばしい匂いが店内に広がった。和真は無意識に深呼吸し、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。食欲を引き立てるその香りには、どこか不思議な力があった。


「お待ちどうさん、特製ラーメンだよ。」


 湯気をまとった丼を差し出す店主の表情には、疲れの色はなく、むしろ活力がみなぎっていた。その一杯には、店主の情熱がそのまま込められているようだった。


「体が動く限り、こうして作り続けるよ。お客さんの『美味しかった』って言葉が、明日への力になるんだ。」


 その言葉には、仕事を超えた信念が込められていた。湯気の向こうで輝く店主の瞳が、和真の胸に深く刻まれ、その輝きが彼の人生そのものを物語っているかのようだった。


 その言葉が和真の心に深く響き、彼は静かに思った。「毎日を大切に生きることが、本当の幸せなんだろうな。」その意味を噛みしめながら、和真はラーメンを一口すする。熱いスープが喉を通り、胸の中に温かさが広がった。それは単なる食事ではなく、店主の情熱が込められた一杯であり、和真の心に静かな変化をもたらした。


 人それぞれに幸せの形がある。旅先で新しい風景や文化に触れることで心が満たされる人もいれば、趣味に没頭し、自分だけの時間を楽しむことに喜びを感じる人もいる。また、人生の最後まで働き続けることで、自分の存在意義を見出す人もいる。それぞれの生き方が、一つひとつの「幸せの形」を映し出しているのだろう。


 和真には、対照的な生き方をしている二人の友人がいる。一人は、定年後、田舎で畑を耕し、静かな自然の中で日々を過ごしている。もう一人は、引退後も現役さながらに活動を続け、社会とのつながりを大切にしながら生き生きと働いている。どちらの友人も、その目には満ち足りた輝きが宿っている。それを見て、和真は思う。幸せに正解も不正解もないのだと。


 大切なのは、自分が選んだ道を受け入れ、その中で自分なりの幸せを見つけること。他人の価値観や基準に惑わされることなく、自分だけの「幸せの形」を築いていくこと。それが、豊かな人生を生きるための一歩なのではないだろうか。


 和真はそっと目を閉じ、自分自身の「幸せの形」を考えた。それはまだはっきりとした輪郭が浮かばないが、日々の小さな喜びを積み重ねていることが、自分なりの幸せを少しずつ作り上げている証だと、そんなふうに感じた。



「噂を信じちゃいけないよ」――昭和の時代に大ヒットしたその歌を、今でも思い出すと心が踊る。噂はただの噂、それも根も葉もないものだ。


 偶然のことだった。会社時代の部下だった彼と、道でばったり出会ったのだ。長い年月が流れ、彼は定年退職を迎えた後も、今度は都市銀行で嘱託社員として働いていた。


「嘱託社員」とは、簡単に言えば、企業と有期契約を結んで働く非正規雇用の形態だ。定年後に再雇用されることもあれば、特別な知識や経験を持つ人材が必要な場合に、その専門性を活かして働くことが多い。勤務日数や時間は柔軟に設定でき、ワークライフバランスを保ちながら働くことができる。しかし、もちろん契約内容や待遇は企業によってさまざま。正社員とは違って、フルタイム勤務が必須ではないことも特徴だ。


 彼もそのひとりだった。退職後、好きなことに時間を使いながらも、必要とされる場面ではしっかりと役立ちたいと、嘱託として再び働いている。その姿に、私は少し驚き、少し感心していた。


 彼の言葉を聞いて、私はふと自分のことを考える。働き続けること、必要とされること――それが何よりも誇り高いことだと、彼は自然に語っていた。


「秋野、秋野和真さんではないですか?」


 道端で突然声をかけられた和真は、立ち止まり振り返った。目の前にいる中年の男性には見覚えがなかったが、その声には不思議と懐かしさがあった。


「えっ、どちら様でしょうか?」


「森山です。秋野さんに広島転勤を命じられた森山です。」


 名前を聞いた瞬間、和真の記憶が甦る。結婚したばかりの部下に異動を命じるしかなかった、あの苦い決断の日々が鮮明に浮かび上がった。


「森山くん……懐かしいな。元気だったか?」


「はい、おかげさまで。あの時は正直、秋野さんを恨みましたよ。でも、広島での経験が今の自分を作ってくれました。秋野さんには感謝しています。」


 和真はほっとしたように微笑んだ。森山は続ける。


「でも、秋野さん、突然会社を辞めてレストランを始めた時には驚きましたよ。同僚たちとも話していたんです。出世街道まっしぐらだったのに、どうしてだろうって。」


 和真は苦笑した。 「おかげさまで、人生をもう一度楽しませてもらったよ。もちろん、楽しいことばかりじゃなかったけどね。」


 すると、森山の表情が曇った。 「実は、そのことで気になる噂を耳にしまして……。秋野さんのレストランが倒産し、借金に苦しんで路頭に迷っているという話を聞きました。」


 和真は軽く眉を上げた。 「それは違うよ。70歳を機に引退しただけだ。でも、家を手放したのは事実だけどね。」


 森山はほっとしたように微笑んだ。 「そうだったんですね。安心しました。ところで、秋野さんの足を引っ張っていた同僚たちのことを覚えていますか?」


 和真は一瞬間を置いて答えた。 「ああ、覚えているよ。いろいろあったけど、振り返れば良い経験だったかな。」


「相変わらず秋野さんは前向きですね。その一人は今、車椅子生活で奥さんにも見放され、一人暮らしだとか。もう一人は透析治療を受けながら生きているそうです。」


 森山の言葉に、和真の心が微かにざわついた。他人の苦境を話題にすることが果たして正しいのか。


「秋野さん、今はどちらにお住まいですか? マンションですか、それとも一軒家ですか?」


 その質問を受け、和真は一瞬言葉を失った。「倒産」「家の売却」、そして「アパートから市営住宅へ」―― 耳にした噂が、否応なく頭をよぎる。借金に追われ、生活が一変したという噂。その噂が、現実となって目の前に立ち現れるように感じられた。しかしその一方で、どこかで「見栄」を張ろうとしている自分にも気づく。過去の自分を守りたい、あの華やかな日々を否定したくないという思いが、口に出すべき本当のことを遠ざけている。罪悪感を覚えながらも、その言葉を避けてしまう自分に、和真は複雑な気持ちを抱えていた。


「実は今、住まいのことは気にせず、旅をしながら人生を楽しんでいるよ。最近はクルーズ船に乗ったり、温泉を巡ったりしているんだ。」


 森山は感心したように頷いた。「素敵ですね。秋野さんらしい生き方だと思います。」


 その言葉を聞きながら、和真の胸には満たされない思いが広がった。旅や経験を語るたび、それが本当に自分の誇りなのか、それとも虚勢なのか、自問する声が静かに響く。


 森山と別れた後、和真は足を止め、沈む夕陽を見上げた。その鮮やかな赤に、自分の過去と向き合う決意が芽生える。


「見栄なんて捨てたはずだったのに……。」


 和真は静かに歩き出した。冷たい風が顔を撫で、秋の匂いが漂う。次に誰かと再会する時、自分は胸を張って「今」を語れるだろうか。そんな問いを胸に抱きながら、彼は帰り道を進んでいった。足元の雑草が踏まれ、乾いた音を立てる。足取りはゆっくりで、どこか重く感じた。


 ふと、夏菜子の言葉が思い出される。あの頃の彼女の声が、今でも和真の心に響いている。


「和真、どうしてお金の話ばかりするの? 昔はそうじゃなかったのに。」


 その時、和真は何も答えられなかった。言葉が喉元で止まったのか、それとも答えたくなかったのか、記憶は曖昧だった。ただ、夏菜子の言葉は、心の奥に小さな刺のように残り続け、今でも和真の中で痛みを伴っている。


 自分で終活だと言って、処分したはずの家や物、そして過去の栄光。老いても過去の地位や名誉を簡単に捨てられない自分が、そこにいた。それに加えて、家を手放し、アパートへ引っ越し、さらに市営住宅へと移ったことで、心の中に残る寂しさは計り知れなかった。かつて自分が見上げていた世界が、突然現実に引き戻されたような感覚。それは、足元が抜け落ちるような、手の届かない場所から引き寄せられるような、奇妙な感覚だった。


 市営住宅には、どこか素朴で温かい空気が漂っていた。階段ですれ違う住人たちは、長い間の友達のように親しげに挨拶を交わし、互いに顔を見合わせては穏やかな笑顔を交わしていた。朝になると、遠くから子どもたちの笑い声が響いてくる。公園で遊ぶ子どもたちの姿、その自然な光景が、和真の心にしみ込むようだった。


 市営住宅には、市営住宅なりの暮らしがあった。無理に背伸びをすることなく、和真もまたその生活に溶け込んでいた。最初は戸惑い、違和感を覚えたものの、次第にその暮らしに馴染み、日常が静かに流れていくのを感じるようになっていた。


 和真が暮らす市営住宅は、5階建てのコンクリート造りで、いくつもの同じ形の建物が並んでいた。外壁は年季が入っており、所々にヒビや塗装の剥がれが見える。住人たちが育てた植木鉢が並び、季節外れのチューリップがまだ咲いている鉢もあれば、すでに枯れたままの鉢もある。その無造作な景色に、和真はなぜか心地よさを感じていた。背伸びすることなく、ただそのままでいることが、ここでは許されているような気がした。


「歳を取ったな……。まだまだだな。捨てたはずなのに、捨てきれない。終活って、一体何なんだろうか」


 その独り言は、静まり返った部屋に吸い込まれ、何も残さず消えていった。小さな窓を開けて、外の空気を吸い込んだ。冷たい風が顔を撫で、胸の中に溜まっていたものを少しだけ流してくれた。少しだけ、心が軽くなったような気がした。


 和真は、ここで過ごす時間が少しずつ自分にとっての「今」になることを、静かに受け入れ始めていた。過去に縛られることなく、新しい自分と向き合いながら、少しずつその歩みを進めていくしかないのだろうと、感じていた。

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