四話 命の鼓動
蒸し暑い夏の日、息子が生まれた。湿った風が障子越しに流れ込む中、遠くで蝉の声が響いていた。風鈴がカラン、とひとつだけ鳴ったのを覚えている。その音が、新しい命の訪れを告げる合図のように感じられた。
夏菜子が妊娠したと知ったのは、私が西ドイツに出張している時だった。当時は国際電話なんて簡単にかけられるものではなく、彼女からの手紙が届くまで気づきもしなかった。茶封筒に収まった便箋には、丁寧な文字でこう書かれていた。
「あなたに伝えたいことがあります。私たちの家族が増えることになりました」
目を疑い、何度も読み返した。たどたどしい彼女の表現がどこか可笑しくて、それでいて胸の奥がじんわりと熱くなった。嬉しいはずなのに、不思議と涙があふれた。部屋の窓を開けて外を見ても、どこか現実感が薄く、夢の中にいるようだった。
「私が父親に?」──その言葉が何度も頭の中を巡った。嬉しさとともに、不安も押し寄せる。「自分にそんな責任を果たせるのか」「あの小さな命を守れるのか」。それが、彼女の手紙を再び読んでいるうちに、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
出張先の冷たい部屋で、和真はひとり微笑んだ。「ただいま」と言う日のために、もっと頑張ろう。早く彼女と、その小さな命に会いたかった。
帰国後、大急ぎで彼女のもとに駆けつけた。玄関を開けると、いつもの彼女の笑顔がそこにあったが、どこか柔らかく、輝いて見えた。「おかえりなさい」と言うその一言に、思わず抱きしめたくなる衝動を抑えきれなかった。
その夜、自宅のちゃぶ台に向かい合い、何度も乾杯を繰り返した。グラスに注がれていたのはビールと、彼女のために用意した麦茶だ。小さな灯りに照らされた彼女の顔には、ビールよりも濃い幸せそうな笑顔が浮かんでいた。
「本当にありがとうな。それで、当然タバコはやめたんだよな?」と、何度も口にしてしまう。夏菜子はそのたびに少し照れたように笑いながら、「もちろんよ、辛いけどタバコはやめたわ。妊娠が分かってから一本も吸っていないわ。子どもを授けてくれたのは私たちの運命よ」と、優しい声で答えている。その言葉を聞いた瞬間、和真の胸の奥に熱いものがこみ上げてきた。
二人で語り合うその時間が、この先の長い人生の中で、どれほど大切なものになるのか、彼はまだ知らなかった。
それからの月日、彼女のお腹はみるみるうちに大きくなり、日に日にその存在感を増していった。夏菜子がいつものように家事をこなす姿を見ながら、つい軽口を叩かずにはいられなかった。「どこの相撲部屋の方ですか?」と、冗談めかしてからかうと、彼女はきっとこちらを睨み、「失礼なこと言わないでちょうだい」と、小さな拳を振り上げてみせた。
しかし、そのあとの彼女の表情は一変した。ふっといつもの柔らかな笑顔を浮かべ、お腹をそっと撫でる。その仕草は、新しい命そのものを優しく抱きしめるようだった。和真はその姿に息を呑み、何も言えずに見惚れるしかなかった。
ふざけたつもりの彼の言葉は、彼女にとっては冗談以上の意味を持っているのかもしれない──そんな考えが頭をよぎった。彼女の仕草や表情からは、母親になるという覚悟と、溢れんばかりの愛情が伝わってきた。自分は父親として、果たしてその重さに応えられるだろうかと、少しだけ不安を感じながらも、その時間は心地よい静けさに包まれていた。
夜、縁側に座って涼を取るのが日課になった。虫の声を聞きながら、二人で未来の話をする時間が心地よかった。庭の草木が夜露に濡れる音を聞きながら、和真はぽつりとつぶやいた。
「どんな子になるだろう」
夏菜子は、そっと空を見上げて言った。「きっとあなたに似た真面目で優しい子になるわ」
その言葉に思わず照れくさくなり、「いや、夏菜子に似て元気で快活な子だよ」と返すと、彼女はふふっと笑いながら、「どっちに似ても、きっと素敵な子ね」と言った。その言葉には揺るぎない確信がこもっていて、和真は思わず目の前の彼女に見入ってしまった。
月明かりに照らされた彼女の横顔はどこか神秘的で、その笑顔は、これから生まれてくる小さな命を、そして二人の未来を、すべて包み込むような温かさを持っていた。
その瞬間、和真は思った。夏菜子と一緒なら、どんなことがあっても乗り越えていける。新しい命とともに歩む日々が、どんなに尊いものかを、改めて実感したのだった。
出産が間近となり、夏菜子は入院の準備を整えた。家を出る直前、彼女は立ち止まり、家の隅々をじっと見渡した。茶の間の古びた座布団、縁側の隅に置かれた小さな鉢植え、柱の一本一本──すべてが彼女の手に触れた思い出を抱えているようだった。その一つひとつに、静かに別れを告げるような眼差しを向けていた。家の中に漂う静けさが、どこか儚げに感じられた。この場所に戻ってくることは、もうないかもしれない──そんな覚悟が、彼女の姿から伝わってきた。
「そろそろ行くよ。タクシーが待っているから」と声をかけると、夏菜子はゆっくりと小さくうなずき、庭に目を向けた。整然とした庭が彼女の好む場所ではなかった。むしろ、雑草が伸び放題になっているその庭の方が、自然なままで心地よかったのだろう。夏菜子の視線は、無造作に生えた雑草の間を静かに移動し、そのひとつひとつに言葉を交わすようにじっと見つめていた。まるでこの庭が、彼女が育んできたすべての記憶を背負っているかのようだった。
「いざとなると、怖いのかな」とつぶやく自分に、夏菜子は目を合わせずに、ただ微笑んだ。その表情には、安堵と決意が入り混じった深いものが感じられた。女性にとって、出産というのは命をかけた行為だ。夏菜子の静かな仕草には、その覚悟が滲んでいた。
彼女は心を落ち着けるように深く息を吸い、何事もなかったように振り返ることなく、玄関を出た。
彼女の後ろ姿は、どこか誇らしげで、でも少し寂しげにも見えた。家を離れるその瞬間、私はただその背中を見守ることしかできなかった。
そして、その日が来た。蝉の声がより一層大きく響き渡り、湿った空気が体にまとわりつくような、蒸し暑い夏の日だった。
夏菜子は病院のベッドの上で、苦しみに耐えながら最後の力を振り絞り、小さな命をこの世に送り出した。その瞬間、彼女は疲れ果てながらもほっとしたように微笑み、涙を一筋流した。その小さな命は、この世に生まれることを待ちわびていたかのように、力強い産声をあげた。
和真は新しい命の存在に心を震わせながら、そっと夏菜子の手を握った。その手は冷たかったが、温かい生命の鼓動が確かに伝わってきた。
その数時間、夏菜子は痛みに耐えながら、不安と期待が交錯する中で一心に祈り続けていた。陣痛の波が押し寄せるたび、身体中の力が奪われるような感覚に襲われたが、その度に心の中で繰り返した。「この子に会える。そのために私がいる」。
隣で励ます和真の声も、助産師の指示も、痛みの渦中では時折遠く感じられるようだった。それでも夏菜子は、赤ん坊の無事を願い、深く息を吸い、ひたすらに集中し続けた。「もう少し、もう少し頑張って」と声がかけられる中、夏菜子はふと自分の母のことを思い出していた。「お母さんもこんな風に私を産んでくれたんだ」。
その思いが胸をよぎると、痛みはすべて新たな命を生み出すための通過点だと感じられた。そして、最後の力を振り絞った瞬間、産声が病室に響き渡った。
その産声を耳にした時、和真は胸の中で何かがほどけ、そして満ちていくのを感じた。助産師がそっと手渡してくれた赤ん坊を腕に抱き、その小さな手のか細さに驚き、温もりに心を揺さぶられた。生まれたばかりの命の重みは、彼に新しい責任と希望を刻み込むようだった。
夏菜子は疲れ果てた顔で、それでも満ち足りた笑みを浮かべ、和真に小さくうなずいた。その姿を見た彼は、胸の中に込み上げる感情が溢れ、言葉にならない感謝が心を満たした。
あの日の蒸し暑い空気と、蝉の声、そして息子の力強い産声──どれも記憶の中で鮮明だ。夏菜子の疲れたけれど幸福そのもののような笑顔も。
その日の輝きは、私の人生において、今も変わることなく宝石のように輝いている。