三話 キャンドルの灯りの下で
あれは何回目の誕生日だったろうか。記憶は定かでない。ただ、頭に残っているのはフランスレストランでの一コマだ。
「一度は行ってみたいと思ってたのよ、このレストラン。なかなか予約が取れなくて苦労したんだから」夏菜子は声を弾ませていた。
「フランス料理?和食のほうがいいなあ」和真は窓の外を眺めながらそう答えた。
「そんなこと言わないでよ。和真の誕生日だからこそ特別な場所にしたの」
「だったら、なおさら和食がよかったんだけどな」
「誕生日だからこそ、いつもと違う料理を楽しもうってことよ。それに、もう予約しちゃったの。いいでしょ」
「まあ、分かったよ。でも、ほんとに俺の誕生日だからか?」
和真の言葉に、夏菜子は目をそらし、少し照れくさそうに笑った。
夕方6時。予約の時間にぴったり合わせて、和真はゆっくりとレストランの扉を押し開けた。
その瞬間、柔らかな光に包まれた店内の空気が肌に触れ、ほんのりと漂う香ばしいソースの香りが鼻をくすぐる。中に足を踏み入れると、目の前には高い天井と豪奢なシャンデリアが広がっていた。その光は、白いテーブルクロスで整えられたテーブルに柔らかく反射し、空間全体を優雅な雰囲気で満たしている。
思わず目を奪われた和真だったが、どこか居心地の悪さを感じていた。この空間が醸し出す特別な雰囲気は、普段慣れ親しんだ生活からかけ離れすぎていたからだ。自分のシャツの袖口を軽く引っ張る仕草が、その心の中の小さな緊張感を物語っていた。
「秋野夏菜子と和真の二名で予約しています」
夏菜子が受付に向かって声をかける。少し背筋を伸ばしたその姿は、この場にふさわしい自信を持っているようにも見えた。
応対に現れたのは茶髪の若い男性だったが、「いらっしゃいませ」の挨拶もなく、予約表を覗き込むだけだった。
「秋野、秋野……ああ、あった。こんなところに小さく書いてある。誰だよ、こんな小さく書いたの」
彼の独り言に、夏菜子はちらりと和真の顔を見たが、何も言わず微笑むだけだった。男性はそのまま奥へと歩き出し、二人を案内するのかと思いきや、一言もなく背を向けたままだった。
「えっと……ついて行けばいいのかな?」
和真が小声で夏菜子に囁く。二人は困惑しつつも入り口に立ち尽くしていた。
すると、男性が突然振り返り、少し面倒くさそうな顔で言った。
「お客様、食べるんですか?帰るんですか?」
予想外の言葉に息を飲みながら、二人は慌ててその後を追った。後ろで夏菜子が軽く笑いをこぼすのを、和真は聞き逃さなかった。彼女の笑顔に救われるような気持ちになりながらも、和真は少し落ち着かない心を抱えたまま、店内を進んでいった。
案内されたのは、広い8人掛けの大テーブルだった。目の前に置かれた空席と、無造作に広がるナイフ・フォーク・スプーン。そんなカトラリーが、やけに冷たく感じられた。
「ちょっと大きすぎるんじゃないか?」
和真がぽつりと漏らすと、夏菜子は少し困ったような顔をした。
「まあ、いいわ。こんな日は広い席でゆっくりした方がいいかもしれない」席に腰を下ろすと、静かな空気が二人を包み込んだ。
「広いテーブルですね。」
和真が口を開くと、近くにいたウェイターがすぐさま答えた。「はい、相席ですから。後から6名が来ますので。」
「相席ですか?」
夏菜子がたずねると、ウェイターはぶっきらぼうに返事をした。
「そうですけど、何か?」
「今日は主人の誕生日なので、できれば相席ではなく、落ち着ける席をお願いしたいのですが……」
夏菜子が控えめに頼むと、ウェイターの彼は少し考えるそぶりを見せた後、冷たい口調で答えた。
「トイレに行く通路の脇でもいいなら空いてますけど?」
トイレ近くの席を想像し、夏菜子は短くため息をついた。そして、小さく首を振りながら言った。
「いえ、相席で構いません。」
再び席につき、10分が過ぎた。しかし、水もメニューも運ばれてこない。さすがに業を煮やした夏菜子がウェイターに声をかけると、彼は苛立たしげに返事をした。
「揃ってないから無理ですよ。あと6人来るまで待ってください。」
「でも、私たちは……」
夏菜子が食い下がろうとすると、ウェイターの彼は遮るように言葉を重ねた。
「だから、全員揃うまでメニューは出せません。」
その理不尽な対応に、夏菜子は思わず顔をしかめた。しかし、ここで争うのは無粋だと感じた。何かを口にすれば、すぐに「カスハラ」だの「シニアクレーマー」だのと騒がれるのが目に見えているからだ。
「わかりました。よろしくお願いします。」
その言葉には、夏菜子が気品を保とうとする必死の努力が込められていた。しかし、ウェイターの彼は何事もなかったかのように目を合わせることもなく、無言でその場を去った。
沈黙が再び二人を包む。和真は目の前の空席を見つめながら、小さく息を吐いた。
全員が席に着くと、ウェイターが少し気怠そうな足取りでメニューを持ってきた。夏菜子は、微笑みながら赤ワインのメルローをグラスで二つ注文した。
メルローは、濃い色をした果実や甘いスパイスの香りが特徴で、柔らかなタンニンと包み込むようなまろやかな果実味が楽しめるワインだ。舌触りが滑らかで親しみやすい味わいがあるため、赤ワインを飲み慣れていない和真にもぴったりだと思い、このワインを選んだ。
「これならきっと、和真も美味しいって感じるはず」と、夏菜子は心の中で思いながら、さりげなく彼を見つめた。和真は軽く頷いて微笑んだが、ワインの値段には気づいていないようだった。メルローのグラスワインが一杯4500円――少し高いと感じたが、今日は特別な日だ。夏菜子は、和真の誕生日を祝うためなら惜しくないと、値段のことは気にしていなかった。
どれだけ待っただろうか、運ばれてきた赤ワインを見て、夏菜子の表情が曇った。そのワイングラスは、赤ワイン用ではなく白ワイン用だった。しかも、グラスの口元には目に見える汚れが付着している。
夏菜子はすぐに手を挙げ、ウェイターを呼んだ。「すみません」と柔らかい声で話しかけた。
「どうされましたか?」ウェイターは無表情のまま応じている。
「このグラス、汚れています。それにこのワイングラスは、赤ワイン用のグラスではありませんよね。赤ワインを楽しむには、もう少し大きめのグラスが必要です。香りを引き立てるためにも、赤ワイングラスと交換していただきたいのですが…」
ウェイターは一瞬視線をグラスに落としたものの、すぐに顔を上げて冷淡な口調で答えた。「このレストランでは、このグラスで赤ワインをお出ししております。ご了承ください。」
それだけ言うと、ウェイターはグラスをそのままにして踵を返した。その無表情な態度には、謝罪も配慮も見当たらなかった。
夏菜子は呆然としていた。ワイングラスの汚れや、対応の冷たさが、楽しいはずのひとときを台無しにしたからだ。それを感じ取った和真が静かに彼女の手に触れ、「大丈夫だよ」と囁いた。「そうね、今日は和真の誕生日だもんね」と夏菜子は微笑み、少しだけ気持ちが和らいだ。
「和真、今日は奮発するからね」と夏菜子は無理に笑顔を作りながら言った。「値段は気にしないでいいから。私のへそくりがあるんだから。だから、フルコースを頼んじゃうわね。」
夏菜子の右に座っていたのは、山形庄内から来たご夫妻。正面には仙台から来たご夫妻が座り、和真の左には足立区から来たご夫妻が座っていた。皆、古希を過ぎた温厚なご夫妻ばかりで、静かな笑顔を浮かべながら会話を楽しんでいる様子が見て取れた。
夏菜子も和真もオーダーは決まっていたので、「このフルコースでお願いします」と言った。
ウェイターは目も合わせず、まるで誰かに急かされているかのように、メニューをサッと乱暴に取り上げ、夏菜子の右隣の夫妻に持っていった。その動作は不自然に速く、急いでいるようにも見えた。
夏菜子は、その冷たい態度に心の中で息を呑み、和真もその様子を見てわずかに眉をひそめたが、何も言わなかった。どこか遠くから聞こえるはずの心地よい音楽も、今は耳に入らない。二人の気分は急速に冷めていった。
夏菜子の隣のご夫妻は、何をオーダーすべきか迷っている様子で、メニューをじっと見つめていた。その様子を見ていたウェイターは、表情一つ変えずに「早く、早く」と、どこか外国のアクセントで小声で急かしていた。その声のトーンに、冷徹さを感じていた。
「わかんないわ。すみません、どれがいいんでしょうか?」と困惑した顔でウェイターに尋ねるが、彼は何も答えずに上を見上げ、次に左を見て、いら立った様子を見せている。その沈黙が、周囲の空気を一層重くした。誰もがその空気に気づき、呼吸を止めたかのように静まり返った。
ご夫妻は恥じらいと困惑を隠しきれず、最終的に「じゃあ、みんなと同じものにします」と決め、他のメンバーと同じオーダーを選ぶことにした。
その決断が、どこか一層彼らの不安を強調しているように感じられ、夏菜子の胸に重苦しい胸騒ぎが広がった。店内の静けさは、もはやただの静寂ではなく、不安を煽るような空気を帯びていた。その不快なひとときが心に深く残り、夏菜子は何かがずれてしまったような気がして、胸の奥底で不安が膨らんでいくのを感じていた。
テーブルに運ばれてきたオードブルは色彩豊かで、鮮やかな緑や赤、黄金色が並べられ、見た目には華やかで目を引くものだった。それは絵画のように美しく、美食の世界に誘われるような気がした。しかし、その美しい盛り付けに目を奪われる一方で、二人の食欲は次第に萎えていった。
料理を運んできたウェイターは、相変わらず目線を合わせることなく、無表情で淡々と皿を並べるだけだった。その姿が、どこか機械的で冷たく感じられ、料理の美しさを引き立てるどころか、その温かさを一瞬で奪ってしまった。
「これ、美味しそうですね」と和真が言っても、ウェイターはチラリとも目を合わせず無言で立ち去り、何の説明もなく皿を置いたまま、使ったスプーンとフォークを交換することなく、その場を去っていった。彼の態度は、自分の仕事が終わったかのような冷徹さを感じさせた。それだけではない。まだ彼らが食べている最中にもかかわらず、次々と新しい料理が急かすように運ばれてきた。
その不自然なペースに、二人はますます落ち着かなくなり、食事が次第に重荷のように感じられるようになった。
夏菜子の右隣に座る、山形庄内から来たご夫妻に対する失礼な対応が目に入った。ウェイターは、スプーンの上に料理を無造作に置き、冷たい態度で立ち去った。その手際の悪さは、料理の美しさとは裏腹に、どこか無機質で機械的な印象を与えた。盛り付けられた料理が美しく見えるにもかかわらず、その手渡し方はまるでただの作業のようだった。
「もう我慢の限界よ」と、夏菜子の顔色が変わった。眉間にしわを寄せ、目元がわずかに震えているのが見て取れた。周りのテーブルでは、食事を楽しむ声が響いているのに、彼女はそれを感じることができなかった。
それはそうである。食べている最中にメイン料理のはじまりの「スープ」を持ってきたり、しかもそのスープを飲んでいる最中なのに、である。そして今度は「ポワソン」を持ってきた。しかもその料理をスプーンの上においていったのである。
料理とは、料理そのものだけでなく、その場の雰囲気を楽しむものだ。赤ワインの深い香りが漂い、オードブルが色鮮やかに並べられているのを見て、食事の始まりを感じるはずだった。だが、それに合わせて流れるべきは、心地よい接客のリズムだったはずだ。優雅な動きで料理が運ばれ、客の表情を見ながらそのタイミングを計ることこそが、良い接客だと感じていた。
しかし、その日、8人全員が味わったのは、どこか乾いた空気と冷たい接客態度だった。テーブルの上には、美しく飾られた料理が並んでいるものの、それらは装飾品のように感じられ、心が温まることはなかった。
夏菜子の中で何かが切れた。これ以上、黙っているわけにはいかない。顔をわずかに歪め、冷ややかな目をした夏菜子は、黒い上下の背広に蝶ネクタイをした、見るからにマネジャーらしい風貌の40歳前後の男性に歩み寄った。その動きは、怒りを押し込めた冷徹さを感じさせた。
「あなたがマネジャーですか?」
男性は一瞬、その冷たい視線を受けて立ち止まった。少し驚いたようだが、すぐに表情を戻し、淡々と答える。
「はい、何かご不満でも?」
夏菜子はその問いに即座に反応した。声には冷ややかさがにじんでいた。
「不満? あなたは、私たちに対応しているあのウェイターの彼がどう振る舞っているのか、見ていなかったのですか?」
男性は少し戸惑った様子で目を逸らし、軽く肩をすくめる。
「はい、気がついていませんでした。どんな対応でしたか?」
夏菜子は無表情のまま、手でテーブルを軽く叩きながら一気に言葉を続けた。
「テーブルに着いてから10分間、最低限の接客であるはずの水もおしぼりもナプキンも持ってこなかったんです。」
その言葉が店内に響き渡るように、他の客たちが一瞬、気まずそうに視線を交わした。しかし、夏菜子は気にすることなく続けた。
「これはカスタマーハラスメントでもシニアクレーマーでもありません。事実を述べているだけです。でも、これは彼が悪いわけではありません。これはマネジャーであるあなたの教育が行き届いていないからです。すべてあなたの責任です。」
その言葉が終わると、周りの空気がピンと張りつめたように感じられた。マネジャーは、急に目の前の状況に気づいたかのように顔色を変えた。その瞬間から、ウェイターの態度が一変した。
水は空になる前にタイミングよく注がれ、使ったスプーンやナイフ、フォークもその都度交換されていった。さらに、汚れたワイングラスも新しいものに取り替えられ、何とワイングラスも赤ワイングラスに変えてくれた。以前の冷たい、無愛想な対応とは別人のようになった。
その変化に、夏菜子は安心したものの、心の中にはまだ怒りがくすぶっていたが、少しだけではあるが食事に集中できるようになり、呼吸が楽になった。
「夏菜子さん、あなたは私たちのヒーローです。私もこんな扱いをされて頭にきていましたが、田舎者ですのでじっと我慢していたんです。」
男性は目を輝かせ、感謝の気持ちを込めて笑顔を見せた。顔には、これまでの不満が晴れたような、すっきりとした表情が浮かんでいる。
「しかし、さっきとは180度違ったサービスになりましたね。これで食事も楽しいものになりました。夏菜子さんに感謝です。」
もう一人の男性も頷きながら同じように微笑み、グラスを軽く掲げた。彼の目は満足と安堵の気持ちで輝き、心から感謝している様子が伺えた。
「そうですね。じゃあ、ここでこの縁に乾杯しましょう。」
夏菜子はにこやかに頷き、その提案を受け入れ、グラスを軽く持ち上げた。周囲の空気が一瞬和み、静かな安堵の時間が流れた。
波風を立てないのも大切ですが、言うべきことを言わないのもまた問題です。
その場を壊すかもしれませんが、毅然とした態度を取ることも大切なのです。
夏菜子の毅然とした態度が、周りの人々にも勇気を与え、あの緊張した空気を一変させた。言いづらいことを言う勇気、それがどれほど大切で価値のあることなのか。夏菜子は、静かに、そして力強くその一歩を踏み出すことの重要さを教えてくれた。
ウェイターの彼はインドネシアから来た青年だった。来日した当初は、どこか緊張した様子で、慎ましやかな笑顔を浮かべて丁寧にサービスをしていた。しかし、次第にその態度は変わり始めた。日本人特有の、何も言わずに黙って耐えるという文化を見て取ったのだろうか。どんなに不親切な接客をされても、誰も声を上げなかった。どんなに目の前で横柄な態度を取られても、周りの人々はただ黙ってそれを受け入れていた。それをいいことに、次第に無表情が広がり、サービスも雑になっていった。料理を運ぶ足音も重く、まるで義務感から仕事をこなしているかのような空気が漂った。
この出来事が彼にとっての教訓となることは、今はまだ誰も予想していなかった。夏菜子が毅然とした態度で、彼の無礼を正したことで、彼は初めて接客の本当の意味を理解し、その瞬間に何かを悟ったような表情を見せた。この出来事が、彼にとって接客に対する考え方を改めさせるきっかけとなった。
少しの勇気が、彼にとっても良い薬となり、接客の意味を深く考えるきっかけを与えたのである。
今日は彼の誕生日。和真は一人でフランスレストランに足を運び、あの日と同じフルコースを頼んだ。
テーブルに運ばれてきた赤ワインのグラスを見つめていると、心の奥に眠っていた記憶が静かに目を覚ます。夏菜子の前に並べられたグラスの赤ワインが、少しずつ減っていくたびに、彼女の柔らかな声と笑顔が場の雰囲気をさらに温かくしていた。
「これ、美味しいわね」と、少し照れた表情で言った彼女の姿――それが、今も鮮やかに胸に刻まれている。
和真はそっとワインを口に運び、その果実味とほのかなスパイスの香りに、過ぎ去った幸せな時間が蘇るのを感じていた。穏やかな空気、店内に響くクラシック音楽、心地よい照明――それらすべてが、あの日の特別な瞬間を鮮明に呼び戻していた。
ふと、目の前にある空席に目を向ける。そこに座るはずの夏菜子はいない。和真はその空虚さに胸を締め付けられながらも、彼女との日々を慈しむように思い返していた。
「いつか、また一緒に来られるといいな……」
小さく呟いた声が、静かな店内に溶けていく。揺れる赤ワインの液体がグラスの中で光を反射し、その輝きが和真の瞳に映り込んでいた。




