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二話 記憶の風が吹く道

 時間の経過というものは、時に厳しく、時に優しく、そして時には残酷だ。それも容赦なく、平等にすべての人々に訪れる。この世の中で、これほど平等なものが他にあるだろうか……。


  夏菜子かなこと一緒に旅した国道4号線を、今、和真かずまは一人で走っている。車中泊の窓越しに広がる風景は、変わらぬものと、遠くの記憶を呼び起こすものが交錯していた。車のエンジン音が遠ざかる中、緩やかに流れる川のほとりを過ぎると、両脇に並ぶ桜並木が目に入る。春の陽射しが柔らかく照らし、桜の花びらが風に舞う音が微かに耳に届く。甘い花の香りが窓から流れ込んできて、和真は深く息を吸い込む。その香りに、夏菜子と初めてこの道を通ったときの温かな空気が重なり、胸が少し痛む。


 桜並木の下を進むと、足元で花びらが軽やかに擦れ合う音がして、過去の時間がそのまま目の前に広がっているような気がしている。川の流れる音も、どこか穏やかで、耳を澄ませると水のせせらぎが心地よいリズムを刻んでいる。風が肌を撫でる感覚も懐かしく、あの頃と変わらず、すべてが静かで穏やかに感じている。


 その風景に目を閉じると、あの日、夏菜子と二人で並んで歩いた記憶が、手のひらの中にあるかのように鮮明に蘇る。桜の花が咲き誇る下、温かな空気と花の香りに包まれたあの日の風景が、今でもどこかに残っているような気がして、胸の奥が締め付けられた。


 オートキャンプ場を見つけると、夏菜子は少し驚いたように目を輝かせながら言った。「今日はここで車中泊したい」彼女の声には、旅の疲れを忘れさせるような、どこか安堵感のある響きがあった。周囲には他にも数組の家族やカップルがテントを張り、彼らもまたそれぞれの空間で静かな時間を楽しんでいる。だが、和真と夏菜子には、外の世界がどれほど賑やかでも、この瞬間だけは全てを忘れさせてくれるような穏やかで温かな時間が流れていた。


 遠くで川のせせらぎが聞こえ、木々の間を吹く風の音が心地よく響く中、二人だけの世界が広がっていた。夏菜子がふと、近くの草むらに視線を向け、しばらく黙って座っていると、和真がその顔を見て微笑む。彼女の瞳は星空を映し込むように、どこか儚げで、でも力強さも感じられるものだった。


 夜が訪れると、オートキャンプ場は一層静かな空気に包まれた。木々の間から漏れる月明かりがテントを照らし、ランタンの明かりが少しずつ点り始めた。その温かな光が周囲を包み、二人をさらに静けさの中へと導いていく。


 ガスコンロの前に腰を下ろし、和真と夏菜子は手際よくグリルを使いながら肉や野菜を焼いていった。炭火の赤い光が彼らの顔をほんのり照らし、夏菜子の手が肉をひっくり返すたびに、その仕草の一つ一つが和真の心に染み込んでいく。


 しばらくして、夏菜子が笑いながらホタテを取り出し、軽く塩を振ってグリルに乗せた。煙がふわりと立ち上り、その香ばしい匂いが広がる。

「砂抜きしなかったからジャリジャリと砂が混じって食べにくいね」と、少し困った顔をしながらも、彼女はホタテを口にしてまた顔をしかめた。そんな無邪気な仕草に、和真も自然と笑みをこぼす。

「お前、いつもそうだな」と言うと、夏菜子は「だって、これも楽しみのうちだよ」と、どこか満足そうに答えた。


 その夜、空には無数の星々が煌めき、夜空をキャンバスのように彩っていた。夏菜子が指をさし、「見て、あの星座!」と目を輝かせながら声を上げた。その笑顔は、星の光が彼女の中に溶け込んだかのように見えた。和真は静かに彼女の手を取り、言葉もなく夜空を見上げた。二人の間には、何も語らずとも通じ合う穏やかな時間が流れていた。


「いつか、また一緒に来ようね。」

 夏菜子が目を輝かせながらそう言った。その声は夜風に乗り、和真の心の奥深くにしみ込んでいった。あの瞬間の彼女の笑顔は、今でも鮮やかに和真の記憶に刻まれている。夜空の星々と同じように、変わることなく彼の心を照らし続けているのだ。


 その約束が果たされることはなかった。夏菜子はもういない。和真の心には深い寂しさが広がり、それと同時に懐かしさが波のように押し寄せてくる。車のエンジン音だけが静寂を引き裂く中、和真はあの日の温もりをそっと思い出していた。それは、消えそうで消えない手のひらの中の微かな灯火のようで、彼の心に静かに揺らめいている。


 遠くの風景がぼやけ、涙がふいに目に浮かんだ。それは頬を伝うことなく、ただ静かに和真の胸の中で溶け込んでいく。涙の奥に眠るのは、失ったものへの悲しみだけでなく、その温もりが与えてくれた穏やかな時間だった。


 道の駅の看板が見えてきた。そこはかつて、二人で立ち寄った場所だった。地元のリンゴソフトクリームを買い、一緒に食べた記憶が蘇る。ひんやりとした甘さが舌の上でとろけるたび、夏菜子が嬉しそうに「この味、忘れないでね」と言った。その一言が、和真の胸の中で今も柔らかく響いている。


 車を走らせながら、和真はアクセルを踏む足をそっと緩めた。フロントガラス越しに見える景色は、あの日と何も変わらない。それなのに、心の中では全てが変わってしまったような気がしてならない。夏菜子の笑顔が瞼の裏に浮かび、どこか遠いところから彼を見つめている気がした。


 静かに深呼吸をし、和真は再びアクセルを踏み込んだ。その動きが、彼の心の中に残る重さを少しだけ和らげるかのようだった。


 春には桜の花びらが風に舞い、道端を淡いピンク色の絨毯に変えた。夏には田んぼの稲穂が黄金色に輝き、その間を吹き抜ける風が命の息吹を運んできた。秋には燃えるような紅葉が山々を鮮やかに染め上げ、冬には降り積もる雪が大地を白銀の世界へと変えた。その静寂の中で、全てが一瞬の永遠を纏っているかのようだった。


 和真は、その四季折々の景色を夏菜子と共に見てきた。助手席に座る彼女が微笑みながら、「ここ、綺麗だね」とぽつりと呟いたあの瞬間が、目を閉じればすぐにでも甦る。その声の柔らかさ、その微笑みの温かさ――どれもが、心の奥にしまわれた宝物のように輝いている。


 車のエンジン音だけが静寂を切り裂き、和真の視界に広がる風景は、一見あの頃と変わらないように見える。それでも、空の色がほんの少し異なり、風の匂いもわずかに変わっている。木々の高さや色づき方も、いつの間にか変化していた。しかし、和真の心に刻まれた夏菜子との記憶は、そんな移ろいの中でも決して色褪せることがなかった。


「あの時も、こんな風に笑ってたな……」


 和真の呟きが、車内にそっと響いた。その声はかすかに震えており、寂しさと空虚さがにじみ出ていた。助手席には誰もいない。それでも、和真には夏菜子の気配が感じられる。彼女の笑顔、小さな仕草、何気ない言葉の一つひとつが、まるで昨日のことのように鮮明に心に蘇ってくる。


「あそこ、覚えてる? あの時、和真が木にぶつかりそうになって大慌てしたでしょ!」


 耳元に響いた夏菜子の声。その瞬間、幻だとわかっていながらも、和真はその声にしがみつきたくなる。助手席をふと見るが、そこには空虚な空間が広がるばかりだった。


 道沿いの小川が視界に入る。夏菜子が水面を指差して、「見て! 小魚がたくさん!」とはしゃいでいたあの瞬間を、和真は鮮やかに思い出す。その時の彼女の笑顔は、子どものように無邪気で、眩しいほど輝いていた。胸の奥に押し寄せる懐かしさが和真を締め付ける。それでも彼はアクセルを踏み続けた。過去には戻れないと知りながらも、どこかに夏菜子との記憶の欠片が残されているのではないかと信じるように。


 これからどこへ向かうのか。この道の先に何が待っているのか――それはまだ和真にもわからない。けれど、一つだけ確かなことがある。この道は、夏菜子と共に歩んだ道であり、同時に、自分自身の人生の道でもあるということだ。


 夏菜子と過ごした日々。その一つ一つの記憶が、和真の胸の奥で「残された宝」として輝き続けている。その輝きは、時の流れにかすむどころか、むしろその輝きを増しているように感じられる。それらは、失われたものではなく、和真をこれからも支えてくれる確かな存在として、彼の心の中に生き続けているのだ。


 和真は、ハンドルを握る手に力を込めた。夏菜子の微笑みが、彼の心に再び小さな希望を灯しているように感じながら車を走らせていると、木製の看板が視界に入った。そこには、「Cafe Route66」と書かれている。そこは、夏菜子が一度行きたいと言っていた場所だった。


「あの時は時間がなくて、結局寄れなかったな……」


 和真は車を止め、「Cafe Route66」の駐車場に入った。ドアを開けると、心地よい木の香りと珈琲の匂いが漂ってきた。小さなベルの音が店内に響き、柔らかな音楽が流れていた。店内の静けさに包まれ、和真は一瞬、夏菜子がそこにいるかのような錯覚を覚える。


 店内は小ぢんまりとしていたが、温かみのあるインテリアに彩られていた。木製のテーブルと椅子、壁に飾られた古い写真や絵画。そして、小窓から差し込む陽の光が、ほのかに明るい空間を演出している。和真は目を閉じ、その光を感じながら、かすかな音楽と店内の静けさに身を委ねた。そんな中で、ふと彼は夏菜子と過ごした時間を思い出す。彼女が好きだったこうしたカフェの雰囲気、どこか懐かしさを感じるその温かさが、和真の心にやわらかな波紋を広げた。


 窓際の席に座り、和真はメニューを眺める。どの料理も手作りの温かさが感じられるようだったが、目に留まったのは「季節のデザートセット」という一品だった。


「季節のデザート……夏菜子なら、きっとこれを頼んでいたかな。」


 彼女の笑顔が思い浮かび、その言葉を口にするだけで胸が締めつけられた。そう思いながら、和真はそのセットを注文した。


 しばらくして、ウエイトレスが小さなケーキと珈琲を運んできた。ふわりと香る甘さと、色鮮やかなフルーツが目を引く。ケーキを一口運んだ瞬間、甘さの中に広がるわずかな酸味が、和真の心に遠い記憶を呼び起こした。ほんのりとした酸味が、彼の心を軽く刺激し、夏菜子と過ごした日々の細かな瞬間を鮮明に蘇らせる。


「和真、こういうの、食べるの? 甘いのはダメじゃなかった?」


 夏菜子の声が、すぐ隣から聞こえてくるかのようだった。その声は優しく、笑顔を含んでいた。和真は目を閉じ、彼女と過ごした時間を静かに思い出す。甘い味わいが、その記憶を少しずつ鮮やかにするようだった。今も心の中で、夏菜子の笑顔が生き続けていると感じている。


 口の中に漂う甘さを残したまま、和真は店を後にした。車に戻ると、助手席に置いてあった夏菜子の写真に目をやる。旅の途中、彼女が撮った一枚。小さな野花を手に、笑顔を浮かべている。


「夏菜子……」


 和真はそっと写真を手に取り、もう一度強く心に誓った。この道のりを、一人でも前に進み続けようと。彼女との思い出を胸に抱きながら、残されたこれからの自分の人生を歩んでいこうと。


 再び車を走らせた和真の目には、少しだけ明るい未来が映り始めていた。道路脇の小さな新芽が芽吹く木の枝に目が留まる。その枝先には、まだ若い緑が力強く伸び、風に揺れる新芽の葉が光を浴びて輝いていた。その様子はどこか懐かしく、心を温かく包み込むようだった。長い間暗闇に包まれていた自分の心が、少しずつ光を取り戻していくかのように、ほんの少しだけ前に進む力を感じた。


「こんなに小さな命が、まだ未来に向かって伸びていく…」和真は静かに呟きながら、目の前の緑を見つめた。その瞬間、胸の奥で何かが動いたような気がした。過去に抱えた痛みや迷いが、新芽が地面を突き破っていくように、少しずつ溶けていくような感覚が広がった。


「自分にも、まだこうして進んでいける道があるんだ。」和真は心の中でそう確信した。新芽が力強く伸びるその姿に、自分の未来を重ね合わせていた。小さな一歩から始まる希望、それはすぐにでも手に入るものではないけれど、確かに今、彼の中でも新しい一歩が始まっていると感じていた。


 風が窓を抜け、暖かな日差しが彼の頬を照らしている。助手席の空いたスペースには、誰もいない。それでも和真には、確かに感じられた。夏菜子が、いつも彼の隣にいてくれるということが。そして、これからの人生の中で、彼女の記憶が力となり、再び歩き出す勇気を与えてくれることを感じていた。


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