【短編版】仕事の出来る悪役令嬢、薄幸王子様を幸せにアップグレードしておきました。
前世大手の会社員だった私は、世話好きだからと上司から新人社員の指導役によく抜擢された。
何故かというと、まっさらな新人に対し仕事を教えてあげられることに喜びを感じていたし、四人兄弟の一番上だったから、何も知らない子に世話を焼くことには抵抗などもなかった。
幼い弟や妹のお守りをして、親や周囲にえらいね出来る姉だねと褒められて嬉しかったあの頃に、私の性格の根本は形成されてしまった。
そんなこんなで忙しくもやりがいのある日々仕事に忙殺され、女性初の役職付きの仕事にも慣れて、気がつけば、長い間彼氏と言える存在もおらず三十路を過ぎておひとりさま。
仕事中は心も充実して居るけれど、恋愛に憧れを持つ独身主義でもない私は、新入社員の頃から住み続けていた可もなく不可も無いワンルームで孤独を感じていた。
そんな折り、新人教育を担当した後輩から勧められた恋愛小説を借りた。はっと気がつけば、二桁の巻数の本編全巻に番外編まで購入して、どっぷりとハマっていた。
『君と見る夕焼け』の概要は、王道の恋愛小説だ。
天真爛漫のヒロインキャンディスと出会う王子様ウィリアムは、幼い頃からの不遇の立場と相次ぐ不幸で、お決まりのコースとも言える人間不信。
完全に心を閉ざしてしまっているウィリアムは、明るく天真爛漫なキャンディスに対し、冷たく当たる。けど、彼女はめげずに何度も何度も体当たりして、ついには彼の心を覆う氷を溶かしてしまうのだ。
その過程にも込められた、女主人公からの男主人公への強い愛。それに、私はひどく心打たれた。
何個もある思い入れのあるシーンを数ページ読めば、それだけで涙してしまうほどにハマってしまった。
そして、私は会社帰り平日の、とあるいつもの日の夜。
『君と見る夕焼け』を読みながら、いつの間にか眠りについた……はずだった。
◇◆◇
とりあえず、落ち着いて自分の現状把握しましょう。
……そうよ。それが今一番に、私がやらなければいけないことだから。
ベッドで横になり温かなお布団に包まれて、大好きな小説の世界にどっぷり入り込んでいたはずの私は、きらびやかなドレスを身に纏い、ハイライトなんて見えない真っ黒な目をした男の子と見つめ合っていた。
彼の歳のころは、十五くらいだろうか。麗しい容姿と王子様然としている服は、良く似合っていて、それは確かに素晴らしい。
だけど、どう考えても櫛を通していない癖のある黒髪は、ところどころ毛玉が出来ているようだった。
誰かに用意されていた服は、どうにかして自分で着られても、髪の毛の毛玉の処理方法まではわからないのかもしれない。
私は視線を落とし何気なく胸元に目をやると、そこには真っ直ぐで艶やかな銀色の髪。彼とは違って、艶があり、美しく手入れされていたものだった。
「おい。なんだよ。いきなり黙って……何か言えよ」
美貌の少年は、まるで毛を逆立てた猫のように、目の前の私を威嚇しているようだった。前脚を突っ張ってシャーって言ってるあの感じ、わかってもらえるかしら。可愛いけどあっちは怒っているな、というあの感じ。
「……ウィリアム様」
ウィリアムの希望に応じて私は彼の名前を呼んだ時に、まるで閃くようにしてこの身体の記憶を思い出し、自分が誰であるかを理解した。
……え。嘘でしょう。よりにもよって、私。今、悪役令嬢なんだわ。
目の前に居るのは『君と見る夕焼け』の男主人公、ウィリアム・ベッドフォード。
そして、私は彼の婚約者の悪役令嬢、モニカ・ラザレス。王位を受け継ぐはずの王太子でありながら、父親である国王に愛されていないという悪条件を持つ、不遇にある彼を虐め抜く張本人だ。
悪役令嬢であるモニカにも、一応はこのウィリアムを虐める理由は存在する。彼女はウィリアムの腹違いの姉、エレイン姫の取り巻きだったのだ。だから、モニカはウィリアムを虐めることが、エレインの目的だと勘違いしていた。
王には現王妃との間にも、第二王子ジョセフが居るのだけど、このシュレジエン国の継承権は、産まれて来た順番だ。
ウィリアムは身分の低い側妃との間に生まれた……生まれてしまった望まれぬ王太子だったのだ。
実はウィリアムが生まれる少し前に、彼の姉エレイン姫が生まれた。もし、エレイン姫が男の子であったならば、彼の人生はもっと楽なものになったはずだ。
けれど……現実にIFは存在しない。現に、ウィリアムは王太子だ。
側妃だった彼の母は、あまり気の強い方でもなかった。周囲からの重圧に耐えられなくて、早々に亡くなり、ウィリアムはただ一人だ。
幼い頃から、一人で戦っている。広い王宮の中で権力者の父である王と王妃に、邪険にされながらも、ただ孤独に生きて来た。
こんな状況にあれば、どんな人だとしても心を完全に閉ざしてしまっても、仕方のない状況である。
「……なんだ。急に様付けなどと。どうせお前とて、嫌々でここに来ているくせに」
整った顔を歪めて、ウィリアムは言った。
……それもそうだ。モニカは会うたびに使用人にだって「どうせ、即位は出来ない」と、馬鹿にされている彼のことを蔑んだり、人格すら否定するばかり。
なんなら、ヒロインキャンディスが現れても、ウィリアムを庇う彼女をも一緒に虐める。
今の私は彼にこうして嫌われてしまうのも、無理もない話なのだ。
悪役令嬢の……役割にふさわしく、そのために彼を、不幸にして。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい」
私はぽたぽたと、灰色の石床に涙を落として泣いた。
今までの自分が、何の罪もないウィリアムにしてきたとんでもないことが、モニカとしての記憶の中から続々と思い出されたからだ。
……ウィリアムは、ただ早く産まれただけで、彼は何も悪くないのに。
「はっ? 何泣いてるんだ……?」
彼はいつもいつも自分に対し嫌なことを言ってくるモニカのことが、大嫌いだったはずだ。居なくなれば良いと憎んでいるはずだ。
けれど、紳士な彼は眉を寄せながらも、女性が泣いているというのに何もしない訳にはいかないと思ったのか。ポケットにあっただろう、しわしわのハンカチを渡してくれた。アイロンの当ててない。本当に、ここの使用人は何をしているの。
それに、なんて優しいの。ウィリアムったら……自分の方が絶対に、辛いはずなのに。
「ごめんなさいごめんなさい。ごめんなさい……」
ぽろぽろと涙をこぼし、しくしくと泣き続ける私モニカを見て、ウィリアムはどうすれば良いのかと戸惑っていた。
つい先程まで、わかりやすいくらいに憎々しい悪役令嬢だったモニカが、急に乱心したと思っているのかもしれない。
彼のこれからを熱烈な読者として良く知っている私は、誰にも何も期待しない寂しい男性になってしまうウィリアムは、常に愛に飢えていたことを知っている。
「……おい。なんだよ。いきなり……どうかしたのか」
これは何かを企んでいるのではないかと不審そうな視線を向けられても、私はそれはそうよなと、うんうん涙を流しながら頷くばかりである。
だって、モニカはこれまでずっと、ウィリアムを虐めて来た。こうして油断させたところに、妙なことを言われるのではないかと警戒していても仕方はない。
「あの! ウィリアム様、お願いがあるんです!」
私がいきなり放った言葉に、驚きを隠せないウィリアムは眉を寄せ一歩引いた。
「なっ……なんだよ。内容によるっ……」
今までひどいことしてきたいじめっ子の私のお願いを、内容によっては聞いてくれるんだ……え。待って。性格が良い子過ぎない?
ううん。そんな場合でもないわ。
「頭の毛玉、取らせてください!」
……私たちの二人の間にはその時、長い沈黙が流れた。
ウィリアムは私の言った言葉の意味が、まだ理解出来ていないようで、頭の中がショートしてしまっているのかもしれない。
どうしても頷いて欲しい私の方はというと、彼がこれからどんな反応をしてくれるのかという緊張で思わず喉を鳴らしてしまった。
「……はああ?」
大きく息を吐き出すようにして、ウィリアムは妙な声を出した。
自分に対して嫌なことしかしなかったモニカが、そんなことを言い出すなんて、信じられないと思っているのだ。
「お願いします! そんなにも完璧な容姿なのに、頭に毛玉があるなんて信じられません! どうして、鋏で切らないんですか?」
「かっ……完璧? 頭でも打ったのか。今まで散々醜い姿だと罵倒していた癖に。どうしたんだお前……刃物のようなものは、俺の宮には置かれない……それはお前とて、知っているだろう」
……そうだ。ウィリアムは継承権上のとある理由から、王太子として生かされている。
現王とて自分の息子に対し、今の妻の手前酷いことをしている自覚はあるのだろう。こんな状況の中でも、自殺することを出来なくしているのだ。
「あ。その設定……鋏も適応なんですね。不便。わかりました! それでは、私が鋏を持ってきますので、少々お待ちください!」
そして、取り急ぎ鋏を持って戻って来た私は、たっぷりと布のあるドレスに隠し、ツンと澄ましたモニカらしい態度で通り抜ければ、ウィリアムの宮の門番はいつも通り何も言わなかった。
この離宮へ本来なら禁じられている鋏を持ち込むというやましいことをしている自覚はあるので、私はドキドキしていた。
王太子ウィリアムは、彼の宮から出られないように、彼らに見張られている。
そして、使用人はウィリアムの目に触れぬように動き、彼に話しかけられても、決して話すなと厳命されている。
たった一人のつらい孤独の中で、真っ暗な不幸にするために。
何なの……物語の進行上で仕方ないとは言え、あまりにこれは辛すぎない?
私は王太子ウィリアムには、とりあえず婚約者が居なければと、決められた令嬢だから彼の宮に入ることは許されているけど、話すことと言えば彼自身を常に否定し続け罵る言葉しか口から出なかった。
いくらヒロインキャンディスが彼の前に現れれば助けて貰えるとは言っても、これではあんまりだと思う。
「え。お前……本当に戻って来たのか……?」
戻って来た私を見て、大きなソファでくつろいでいた様子のウィリアムは、とても驚いた様子で身を起こした。
私がウィリアムに「毛玉を取らせてください」と言ったことを、白昼夢で見た夢幻でも見たと思っているのかもしれない。
「もうっ……お待ちくださいと、言ったではないですか。ほら、ここに座ってください」
私は後ろの空間のある座面を指差すと、ウィリアムは不思議なくらい素直に指示に従ってくれた。
髪を整えるために切っても散らばらないようにと、私は彼にここに来る前に物色していた適当なテーブルクロスを被せて首のあたりで括った。
私はその姿を見て、ふふっと微笑んだ。ずいぶんと可愛らしい、てるてる坊主の出来上がり。
「……もう良い。よくわからないが、お前の好きにしろ。どうとでもしてくれ」
投げやりに言ったウィリアムに、私は大丈夫と肩をとんと叩いた。
「ちゃんとしますよ。ほら……」
頭の上にあった大きな毛玉を、ザンっと音をさせて鋏で切り取り払うと、綺麗な黒髪がふさっと彼の襟足にかかった。
身繕いする物だけは、王族として最高級のものを使っているのか、石けんの良い匂いがした。
……いいえ。それだって当たり前のことよ。だって、ウィリアムは間違いなく王の血を受け継ぐ王族なのだから。
「軽い」
髪の一本一本は軽いとは言え、あれだけ寄り集まれば重かったのかも知れない。ウィリアムは、自分の頭を触って、呆然として呟いた。
「ええ。そうでしょうね。あんなにも大きな毛玉でしたもの。けど、ウィリアム様の髪は柔らかくて癖があって乾燥しているので、香油を付けないとまた毛玉が出来てしまうと思います。一度、お風呂に入りましょう。私が髪の手入れの基本を、教えてあげますから」
母の死後何年も世話をしてくれる使用人が居ずに、これまで身支度を見よう見まねでするしかなかったウィリアムは、自分の髪の適切な手入れ法を知らないだけなのだ。
私は誰かに何かを教えることには慣れているし、なんなら優秀なウィリアムは誰にも教わることなく本を読んだだけで、すべてを学んだ人だ。きっと、すぐに習得してしまうはずだ。
私が彼の髪の毛を整えつつそう言うと、ウィリアムは驚いた表情で私を見た。
「えっ……待ってくれ。お前が風呂に一緒に入るのか?」
「あ。そうですね! その方が、わかりやすいかも知れないです。乾燥させないように香油を桶に一滴だけ垂らす方法もあるんです。付けすぎては、逆効果になってしまうかもしれないですけど……」
髪に香油を付けすぎて海藻みたいなベタベタ髪の王子を想像してしまって、私はそれは絶対に嫌だと思ってしまった。
周囲から勝手な期待をされて、美形の王子様も何かと大変である。
「待て待て待て……何を言っている。流石にそれは……嫌だ! というか、無理だ。言葉で聞いても覚えられるから、口で教えてくれ」
何故かウィリアムは涙目になって訴えたので、私は幼い弟のお世話もしなれているし、特に気にしないのにと不思議に思いつつも頷いた。
「そうですか……? そうですね。これから私が言ったことを、毎日してみてください。ろくなお手入れしていなくても、こんなにも綺麗なのです! ちゃんと手入れをすれば、もっともっと艶めいて輝くでしょう……」
ウィリアムは、小説のヒーローに相応しく、美しい容姿を持っている。
お飾りの王太子ウィリアムの抱えている問題は、彼が少々幸せになってもなくならないもの。不遇の中で悲壮な表情だって似合いそうだけど、ヒロインキャンディスと出会う前に少々幸せだったとしても問題ないはずだ。
「ああ……しかし……どういうことなんだ。何がしたいんだ。いきなり、言っていることが真逆になったぞ! 悪魔でも憑いたのか? いや、状況的には天使か? どうか何を思っていきなり親切にしてくれるのか、理由を率直に教えてくれ。正直に言って、俺には何が起こっているのか良くわからない」
短くなった髪を心配そうに触ったウィリアムは、私が急に自分に親身になったことに戸惑いを隠せない。私は掛けていたテーブルクロスを彼から外して、切った髪を纏めると、にっこり笑って言った。
「ええ。お任せください。私が、貴方をきっと幸せにします!!」
「……はぁ? 何を言い出す……なんなんだ? もう、本当に良くわからない」
呆気に取られたウィリアムは、自分がやるべき仕事を見つけいきいきした顔の私を見て顔を顰めた。
◇◆◇
「モニカ。あの子は……今日は、何をしていたの?」
「つつがなく……体調なども良く食事も三食、きちんと食べられております。エレイン様」
「……そう」
取り巻きの一人である私へ耳打ちをした後、感情のない返事をし立ち去る、素っ気ない態度のエレイン様。けど、小説を読んでいる私は知っているのだ。
……今のままでは何も出来ない彼女が、弟のウィリアムを、心から心配しているのを。
私は記憶を取り戻してからというもの、たまにしか居なかったウィリアムの宮へと日参するようになった。
今日も今日とて、彼の元へ向かえば、ウィリアムは私がスカートの裾に隠して持ち込んだ本をソファに腰掛けて読んでいた。
こうして実在の人物として目の当たりにするとわかりやすいけど、彼は本当に頭が良い。私が軽く基本を教えれば、易々と応用を幾通りか思いついてしまう。
流石は、小説の中のヒーローというものである。主人公チートとは、かくあるものかと思ったり。
「お前、姉上には……どう説明するんだよ。大丈夫なのか」
これまでの私が散々「私には、エレイン様が後ろ盾に付いている」と毒づいていたせいか、ウィリアムは私の立場を心配してくれているようだ。
「良いんです。エレイン様は、実はウィリアム様を心配しているので……私がここに来ていたのも、お姉様の意向ですよ。貴方がどうしているのかを知りたかったのです」
これは小説の後半で明かされる事実なのだけど、エレインは腹違いの弟を心配して、それとなく便宜を図っていたのだ。
けれど、悪役令嬢だった私は、彼女の本当の意図を知ることもなかった。エレインは意地悪く短絡的な思考をする弟の婚約者モニカを、信用ならないと疑いそれでも弟のために何が出来るかと考えていたのだ。
ウィリアムが姉の思いを知ったその時には、彼女はもう故人になっているので、ウィリアムは「お礼も言えなかった」と、涙を流すしかなかった。
もちろん。私のここ最近の頑張りから身ぎれいになって、すっかり可愛くなったウィリアムに、そんな重い悲しみを与える訳にはいかないので、それも私が事前に回避しておこうと思っている。
……というか、彼に関する悲劇はすべて。
「はっ……姉上が……? そのようなことがあるはずがない」
エレインもウィリアムに優しくしてあげたかったけど、彼女の状況がそれを許さなかった。
「いいえ。あの方にも……王妃様と弟君ジョセフ様への建前があるのです。ですから、私がここに頻繁に来ていてもエレイン様より何も言われていません……私が好意的に接するようになってから、ウィリアム様の様子を尋ねられることだってあります。どうでも良い弟に、そのようなことをするでしょうか」
「そうか……」
今は考え込んだ様子のウィリアムも憂い顔が減って、拗ねたり笑ったり怒ったりと表情がくるくると変わる。そんな彼を見ていると、私だって嬉しくなる。
不幸になんてならなくて良いなら、ならないで良いと思う。
けど、不幸な王子様ウィリアムを物語開始前に幸せにするという、私の役目は……そろそろ、終わりに近いのかもしれない。
◇◆◇
私が城の廊下を歩いていると、目の前に居た女官が脚立に乗ろうとして、体勢を崩し見事にこけてしまった。
慌てて駆けつけると、ピンク色の髪の可愛らしい女の子は、頬を赤く染めて恥ずかしそうにしていた。
「もっ……! 申し訳ございません。え! ……モニカ・ラザルス様!? すすす、すみません! どうか、ここを辞めさせないでください!」
あら? この子、もしかしてヒロインのキャンディスじゃないかしら? 可愛らしい容姿に、ドジな言動と行動。今は女官として入ったばかりの城で、新人として慣れている途中なのね。
彼女が慣れた頃に、彼の宮へと侵入してウィリアムと出会うはずだから……そっか。もうすぐなのね。
「どうか……落ち着いてください。うっかりして足を踏み外してしまうこと自体は、誰にでも起こりうることです。どうすれば失敗を減らせるかという回避策を、私と一緒に考えてみましょう」
私は失敗して大混乱した新人に良く使っていた言葉を、ついつい口に出してしまっただけど、キャンディスは変な顔をして震えた声で言った。
「あの……ごめんなさい。とても、変なこと聞きますけど。もしかして……山下さんですか?」
キャンディスが恐る恐る口にした名前を聞いて、私はその時息が止まりそうになった。山下さん。前世での私の名前。日本の名前。この異世界では、絶対に聞くことがないと思って居た。
けど、もしかして……キャンディスも転生者で、前世の知り合い?
「え? あの……そうです。確かに山下ですが、貴女は誰なんですか!?」
私は戸惑いながら答えた言葉に、彼女は表情を明るくして微笑んだ。
「嬉しい! 私、竹本です! 山下さん。お久しぶりです!」
竹本さんは私が直接OJTを担当した新人で、この世界の大元となった小説『君と見る夕焼け』を教えてくれた張本人だ。
この子もこの世界に、転生して来ていたなんて!
「まあ! 竹本さん……驚いたわ。貴女も転生していたのね」
「はい! ここに来た時に神様っぽい人に、一人で転生するの嫌だなって言ったんですよ! わー! 山下さんも転生していたんですね! すごく心強いです!」
一人では、嫌だと思っていた……? そういえば、私はあの時には眠っただけで死んだ記憶がない。彼女には、死の記憶があるということ?
「……え? ごめんなさい。失礼だけど、竹本さん……どういう転生の仕方したの?」
「えへへ。私は深夜に酔っ払って歩いていたら、トラックに轢かれました!」
にこにこして明るく答えるような出来事でもない気がするけど、そうなのね……異世界ものによくある展開なのね。なるほど。
異世界転生は少し嗜んでいる私だけど、前世では良くある死因なので、なるほどと頷いた。
ただ、私も異世界に呼ばれた原因が、ここでなんとなくわかった気もするけど、そこを掘り下げても何の良いこともなさそうなので、なかったこととする。
集中すべき点と捨て置く点を明確にすることは、とっても大切なことよ。
「そうなのね。キャンディスが現れたら、もう安心ね。あの子は、ウィリアムは……本当にとっても良い子だから、大事にしてあげてね。髪をといてあげたら喜ぶから……」
ウィリアムの癖毛はなかなか言う事を聞いてくれず、私はいつも梳かしてあげていた。それは、これからはヒロイン役のこの子の役目になる。
「わかりました! 流石です! 山下さん!」
私は翌日から竹本さんこと、今は女官見習いのキャンディスを連れて、ウィリアムの宮にまで行った。
かくかくしかじかで……と、これからは私の代わりにキャンディスがお世話に来ると説明しても、ウィリアムは戸惑った様子だった。
……けれど、仕方ない。だって、彼はキャンディスと結ばれる運命なのだから。
私には他に、することがたくさんあるから。
一方的にキャンディスに任せた私が、ウィリアムに会わなくなってから、一週間後。キャンディスがエレイン様の部屋からまっすぐ自分の邸へと帰ろうとしてた私の元までやって来て、怒った様子で言った。
「山下さん! ウィリアム、私のこと……さっさと出て行けモニカを呼んで来いの一点張りです! これじゃ、私。君と居る夕焼けのヒロインになんて、なれないですぅ!」
「……え? どういうことなの?」
「知りませんよ! どうにかして、説得してください! モニカにしか、髪は触らせないって!」
身体をくねくねさせて駄々をこねるキャンディスを見て、前世の竹本さんも確かこうだった……と、大変だった仕事を思い出した。
彼女の業務の尻拭いで、終電を逃したことも数知れずだったものだ……人って生まれ変わっても変わらないものね。変なところで感心して頷いた私が頷くと、キャンディスは涙目で訴えた。
「もうっ! 山下さん、一緒に来て言ってくださいよう!」
私が彼女に促されてウィリアムの元へ向かえば、彼は腕を組んで本当に不機嫌な様子だった。
「おい。俺の婚約者はお前だろう。なんであの女を、こちらへと寄越すんだ。おかしいだろう」
私はウィリアムに、これをどう説明すれば良いかと考えた。けれど、咄嗟に唇をこぼれ落ちたのは、こんな言葉だった。
「……貴方を幸せにすることが、私の役割だったんです」
そうだった……このまま、不幸の渦に墜ちる人をただ見ているだけなんて、そんなことはとても出来なかったから。
「……だった? 何を言っているんだ! 俺の幸せは、お前が決めることではない。そうではないのか……」
「そうです……そうですが、でも……あっ」
思わず言葉を止めてしまったのは、ウィリアムがぽろぽろと涙を流していたからだった。
どうして……私は孤独だった彼を、幸せに出来たはずで……。
「お前は……本当に酷い。突然こんなに優しくして親身になってくれたというのに、ここで俺を見捨てるのか」
「そうではありません!」
焦った私がウィリアムの元まで慌てて行くと、私の手を掴んで彼は私に言った。
「俺はお前が好きなんだから、ここでお前が居なくなると不幸になるぞ! それはお前のしたかったことなのか?」
……息が止まるかと思った。
ウィリアムのことは、ヒロインのキャンディスに渡さないといけないって思っていたから、お互いに恋愛対象外だとずっと思っていたからだ。
「……ウィリアム様。好きって言って貰えて、嬉しいです……けど」
「けど? 何だ……何か、他に問題があるのか?」
「私……次はエレイン様の命を、救わねばなりません……これから、私にしか出来ないやるべき事が沢山あるのです。物語上次々と人々を襲い来る悲劇フラグを主人公の一人である貴方のために、全て折らなければ。だから、私には恋愛をしている暇はないんです!」
……そうよ。ウィリアムを救って、立ち止まっている場合ではない。私がこれからやらなきゃいけないことは、指折り数えることも難しいくらいに山積みなのだから。
「はぁ? ……良く理解出来ないが、お前がすべきことが全部終わったら、俺のことも……ちゃんと考えるんだな?!」
間近にまで迫ったウィリアムの本気の目に、私は思わずたじろいだ。
嘘を許さぬ目。今更この場しのぎで、嘘をつくつもりなんてないけど。
「そうです……けど……たくさんフラグが有りすぎて、私がそのすべてに対処するまで何年もかかると思います。だから、ウィリアム様は私などより、相手はキャンディスさんの方が……」
仕事が出来ると自負している私は……だとしても、これをやり遂げるには何年も掛かると算段していた。
しかし、仕事を辞めれば、誰かが代わってくれる会社とは違う。
正真正銘、破滅フラグ回避はこの世界で私しか出来ない。
私にとっては、今までで一番やりがいしかない仕事だった。達成した時の喜びが、尋常なものではないと今でも想像出来るくらいに。
だから、ウィリアム様はキャンディスを相手に選べば、すぐに幸せになれるのに……というか、元々キャンディスの方が、彼に選ばれるはずだったのに。
「あー!! ……お前は、本当にわかってない奴だな! わかったよ。それは俺も手伝うよ! まず姉上の命を救うために、何をすれば良いか、さっさと言えよ!!」
やけを起こしてガチギレ気味にそう言ったウィリアムに、小説の中では不信感いっぱいで不幸なはずの彼の片鱗は見えなくて、私は思わず声をあげて笑ってしまった。
私の異世界での初仕事は、どうやら上手くいったみたい。
───死亡フラグが完全に折れたエレイン様に「待ちなさい。貴方たち二人が将来結婚する婚約者同士だということを、どちらも完全に忘れているわよね……?」と冷静にさとされるのは、これから三ヶ月先のこと。
Fin
どうも最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
もし良かったら最後に評価お願い致します。
待鳥