3話目 新境地への一歩
高木が掃除している傍らでなめこ川は貧田の席に着かされ、所在無くおろおろしている。
院生の海府は我関せず、漆部屋年代もののぼろソファにのんびり腰掛け、芸術関連雑誌を読みふけっている。
曽根は自分の作業を手際よく終えた。
自慢の金の髪をきゅっと結び上げエプロンを身に着けた。
そしていくつか道具を揃えて隣の塗り部屋へ入りつつ、掃除を続けている高木に声をかける。
「塗り部屋はもっと丁寧に掃除しなさい!あ、あと、中塗り漆を人数分濾しておいてね」
「········(怒)」
「そうよ~塗り部屋は一番仕上げの塗りをする部屋だもの、塵一つ残してはだめよ」
海府もやんわり曽根の味方をした。
海府は曽根にいつも甘い。呼吸するかのように自然に味方するのだ。
「·············わかったよ!」
手を抜いたつもりでなかったのに。
だが、とにかく従わないと後が面倒だ。
この部屋には姑が二人もいてあれこれ注文をつける。
これで更にもう一人この貧田が加わるかと思うと本当に気が重い。
これでは男シンデレラといった·····、いや、気色の悪いことを考えてしまった。
女嫌いの気が最近出つつある高木であった。
高木は曽根を女だと信じていた。
それもそのはず、誰よりも美しい曽根は去年黒島教授に女だと指摘されてからより女装を研鑽してきたのだから。
今年9月から部屋に来た1年生に見破られるわけがない。
掃除を終え、漆を濾す作業の用意を始める。
なめこ川が漆を珍しそうに見ている。クリーム色と褐色が斑になった液状の漆がチューブから出てきて、つんとする臭いがしてきた。
これが漆?
これをどのように使うのかな?
「ふふっ、貧田先輩は知っていらっしゃると思いますが。
これは生漆、木から採ったそのままの樹液です。
下地の作業として粉などを混ぜてパテ状にして木地に塗りますよね。
漆には他にも種類が用途に合わせて呂色漆、朱漆、木地呂漆、素黒目漆など色々ありますよね。ほら」
曽根が冷蔵庫を開けると、飯茶碗にラップされた漆が並んでいる。色の種類もいくつかあるようだ。
「漆って木の樹液なんですよね?」
漆部屋は、なめこ川もとい貧田のあまりの初歩的な質問にしーんとなった。
いくら暫く来てないからとはいえこれではシロウトだ。漆の基本知識が頭から全て溢れ落ちてるなら4年生として完全アウトだ。
「それがこんな風に集められて、塗料として使えるなんてすごいですね~」
「先輩はお久しぶりすぎて、うっかり言い間違えられたのでしょう」
曽根はとっても華麗にスルーした。
余裕すら感じる。
「さて、私は塗り部屋に入るわ、1時間は出てこないと思うから」
········なめこ川は『貧田先輩』とかいう全く知らない人間と間違えられている、この不条理な立場から、いつか誰かが間違いに気づいて自分を開放してくれるはずだと、ぼんやり大人しく待っていた。
それにしても、この部屋での高木はずいぶん普段と印象が違う。
学年の中での高木は一匹狼で、アバンギャルドで、とにかくクールだった。
そんな高木の哀愁に、なめこ川はぞっこんだった。
それがここではこんなに先輩たちの言うがままだなんて、信じられない。
高木はカントリー調のかわいいエプロンを作業着として何食わぬ顔で着ている。
憧れの高木のあられもない姿をなめこ川は複雑な思いで見つめていたのだった。
「貧田先輩、塗りのご指導をいただきたいので、塗り部屋に一緒に入ってもらえますか?」
「「!?」」
高木と海府は信じられない光景を目にしたと思った。
曽根は漆芸に対して生半可な姿勢ではなく、日々の修練の賜物もあって実力は十分に伴っている。
見た目は正直チャラいがその分こだわりが強い性分である。
最後の仕上げに使う塗り部屋には集中を高めるため、他の生徒の同室を許さない。
それが例え先輩とはいっても例外ではない。
ここで彼に指導できる者は漆芸の教官である黒島教授だけなのである。
「あのうう???」
なめこ川は塗り部屋に引っぱり込まれた。
「やっと二人っきりになれたね······」
ドアをしっかり閉めると、ふいに敬語を止め、曽根は柔らかい眼差しをなめこ川に向け、ぐいっと顔を近づけた。
「ね、······私ってどう?」
「あのあの?ど、どうって····どうなんですか·······!?」
なめこ川は自分は貧田ではないことを主張しようとしたが別の話題に押されて言葉にならなかった。
「······ウ〜ン、あはは!やっぱり女装じゃだめかな。残念」
「はいい?」
女装といったってなめこ川にはピンともこない。
「あの〜私、なめこ川っていう者です。織りに戻らないとなので······」
曽根は自らの形の良い唇に人差し指を当てた。
「静かにしてね。君が貧田先輩じゃないのなんて知ってるよ。それ私が言い出したんだよ?
·······このまま貧田先輩のフリを続けてくれたら、高木の秘密を教えてあげる、ワ」
曽根はにっこり笑った。
曽根は高木が生意気なので大嫌いである。
何とかして漆部屋での正しい上下関係の雌雄をつけたいと考えていた。
曽根はなめこ川でワルなことを思いついてしまったのである。
なめこ川はこんなににぶい女の子だ。
もう今更、自分を丑の刻参りの女だと気づくことはなさそうだし、利用してやろうか。
「ふふ、奴はね、実はああ見えてMなのよ······私との関係を見てれば分かるでしょうけど、あれ喜んでやってるのよ。
年上の女性にいじめられてどうしようもな~く、喜んでるの」
なめこ川は漆教室での一連の高木の様子を思い出し、頭が真っ白になった。
そして納得した。
今日の漆部屋でのやり取りは、そうと思えるふしもあった。
今まで外からこの部屋の様子を眺めていたのに全然気づかなかった。やはり見ているだけではその人を理解したことにはならないということだ。
なめこ川は本当の高木先輩を好きになりたいと思った。
········それが新境地へ歩み出すこととなろうとも。