発情期の、メス
当時、私は犬を飼っていました。
白い雑種犬で、もう大分お爺ちゃんになっていました。
とはいえまだまだ元気いっぱいで、散歩が大好きでした。
目も鼻も耳も悪くなっていますが、リードを持って行くといつも大喜びします。
忘れもしない、あの婦人と出会った日も例外ではなく、私がリードを持ってくるなりワンちゃんは尻尾をふって喜んでいました。
その喜びようと言ったら、まさしく狂喜乱舞です。
リードを取り付けるのに手間取りながらもなんとか成し遂げます。
家を飛び出して楽しい散歩タイムの始まりです。
ワンちゃんはというと、さっきまでの無邪気な喜びようはどこへやら。
うって変わってハンターのような鋭い目で姿勢を低くし、何やらフンフンと匂いを嗅ぎながら進んで行きます。
散歩となるといつもこうです。ワンちゃんは完全に自分の世界に没頭してしまうようで、声を掛けても撫でても完全に無視されます。
散歩中、ワンちゃんは私の飼い犬ではなく、一匹の獣になってしまうのです。
ちょっと寂しくなりながらも、頼もしく思いながらも、いつもの農道を進んで行きます。
そして農道の雑草を眺め歩いたり河川敷に寄り道したりした後、ゆっくりと帰路につきます。
いつもの事ですが、家が近付いて来るとワンちゃんは飼い犬に戻ってきます。
私を可愛らしく見上げて、気遣うようなそぶりすら見せるのです。
「あ、僕の家がある。そっか。僕飼い犬だったな」
そう思いだしているような感じです。
可愛いなあとか思っていると、向かいの道に人影がありました。
上品な雰囲気の美魔女的おばさんが、フワフワの小型犬を連れ歩いています。
すれ違ったのは私の家の門のあたりでした。
危ない、と思いました。
私の犬は結構狂暴で突然人に飛び掛かったりする事もあります。なのでリードを両手でしっかり握ってなるべく距離を取る様にして、おばさんや小型犬に危害が及ばない様に注意していました。
しかし、おばさんは私の犬に全く無警戒な様子でリードもゆったり握っているようです。
小型犬の方も能天気に私の犬に寄ってきます。
「すみません。危ないので気を付けてください」
私が警告しても、おばさんは平然としたままでした。
「大丈夫大丈夫」
いや、大丈夫じゃないんだって。
あんたに私の犬の何が分かるんだよ。
かなり狂暴なんだぞ。
不安に苛まれる私と対照的に、おばさんは柔和な微笑みを浮かべるばかりでした。
「あなたのワンちゃん、男の子でしょう?」
「はあ」
「私のワンちゃん、わかるかしら」
「?」
「発情期の、メス」
エロスティックな響きをねっとりと内包した、何とも艶っぽい声でした。
「……そうなんですか」
私はなんとか声をひり出すのが精いっぱいでした。
どうしていいか分からなくなってしまい、とりあえず自分のワンちゃんの様子を伺ってみました。
白いフワフワのトイプードルに付きまとわれて、怒る訳でも無く借りて来た猫のような困り顔になっています。
私と同じように私のワンちゃんも、この状況にどうしていいか分からなくなっているようでした。
発情期のメスが出すホルモンの効果は間違いなく存在するのだと嫌でも思い知らされて、私は愕然とさせられました。
そうこうしているうちに今度は懸念が湧き上がって来ます。
なにかまずい事態が発生してしまうのではないかという懸念が。
ですが、そこはお爺ちゃんなので大丈夫なようでした。
私のワンちゃんは発情期のメス犬に付きまとわれて、ギャルに絡まれる気弱な男子生徒が如く、首を振り振り困惑してばかりいます。
一応は安心しましたが、それでも張りつめたような緊張感がその場を支配していました。
私には観測しえない発情期のメス犬ホルモンが、確かにこの空間に漂っているのです。
そのまま永遠の様な時が流れに流れて、おばさんは満足したように呟きました。
「では、ごきげんよう」
「……はい」
おばさんは満足したように微笑むと、高そうな黒コートを翻して、団地の出口へとゆっくり歩いていきました。
発情期のメス犬と共に。
私は「あのおばさん、只者じゃないな」とか「なんだったんだ今のは」とか思い巡らせながら、ワンちゃんと共に彼女達の後姿を、ただただ突っ立って見送る事しかできませんでした。