エージェント?
「ライ兄〜!」
「…ん?」
俺を呼ぶ声がする。どこかで聞いたことのある声だ。
「あっ…」
顔を上げると、横断歩道の向こう側に1人の女の子がいた。俺を呼んでいたのはあの子か。
「ちょっと、聞いてるー?早く来てよー!」
ああ、聞こえてる。とっても聞こえてる。でも、返事はしない。これは夢だからだ。
「来ないなら私がそっちに行くよー!」
まただ。またこの夢を見ている。何度目だろうか、この子を見るのは。
「私スキップできるようになったんだ!見ててね!」
そうしてぎこちないスキップで横断歩道を渡ってこっちに向かってくる。これもいつもと一緒だ。
そして、俺もいつも通りにちらりと右を見る。
「…来たな」
ダメだな、やっぱり今回も同じ結末になるのか…
そして。
ドカッ…!
「……」
何度目だろうか。この女の子がトラックに轢かれるのを見たのは。
この轢かれた子は俺の妹で、年は俺より3つ下だ。当時の妹は小学校に入学したばかりで、俺とよく公園に遊びに出かけていた。滑り台を一緒に滑ったり、ぶらんこに乗りながら靴を飛ばして距離を競ったり…とにかく充実した毎日を過ごしていた。
そしてこの日だ。忘れもしない6月5日。入学して2ヶ月が経とうとした頃だ。
俺の目の前で妹は死んだ。突然の出来事だった。
その日から俺は時々この夢を見るようになった。今でも当時ほどの頻度ではないが、たまに見る。
ちなみにどうして轢かれると分かっている妹を助けに行かず、俺は眺めているだけなのか。理由は「夢だから助けても意味がない」と一言で片付けることもできるが、そうじゃない。
一応これまで何度か助けようとしたことはある。しかし、ダメだった。俺は何もできない。妹に触れようとしても通り抜けてしまう。俺は夢の世界には干渉することが出来ないんだ。つまり助けない理由は「夢だから助けても意味がない」じゃなく「夢だから助けられない」なんだ。
最初の方は諦めなかった。その夢を見るたびに手を伸ばし、体を張ろうとした。でも無駄だと気づいた時からただ眺めるだけになってしまった。
本当に最低な兄貴だ、俺は。干渉できないからって諦めていいはずがない。妹を守るのは兄の務めだ。万に一つの奇跡を信じてもっと体を張るべきなんだ。
それを分かっていた上で俺は諦めた。所詮俺はこの程度の兄貴なんだ。何度も何度も妹の死を眺めて平然としている根性無しなんだよ。くそっ、こんな俺が憎い。頑張らなきゃって分かっているのに…!どうして…!
俺は…俺はっ…!
「あああああああっ!」
『あ、起きた?おはよー!』
「ああ、あ?アカネ?」
「なにー?寝ぼけてるの?」
んん…これは現実か…?どうもあの夢を見た後は夢か現実かわからなくなるな…しかもやたらと疲れてるし。
「なあ、アカネ。俺をビンタしてくんない?」
『え…ライって変態?』
「違ーう!悪かった、言葉が足りなかった!夢が現実かわかんなかったからビンタして欲しかったんだよ!」
『ああ、なるほど!じゃあ遠慮なく…』
すると、俺の手はすぅーっと勝手に動き出し、視界の右端でぴたっと止まった。
『じゃあ、行くよー』
「え、あちょっと、目が覚めればいいからそんなに振りかぶらなくても…」
『たあああああああっ!』
バチィィィィン!
痛々しい音が部屋中に響き渡る…!
「いぎゃあああああああ!」
その直後に俺の声も部屋中に響き渡る…!
「あぶぅああああああっ!頬が!俺の頬が!」
「うわっ凄い声…!入りますよ!」
「え!?」
うわああああ、と叫んでいたところでナース服を着たお姉さんが部屋に飛び込んできた!
「何があったんですか!?…って、うえぇ!?大丈夫ですか!?」
「うっ…あっ…なっ、何でもないです!」
俺は手を左右にブンブン振って大丈夫だということを必死にアピールする。自分でビンタして叫んだなんて恥ずかしくて言えないっ…!
「頬が真っ赤ですよ!?しかも鼻血まで!」
「何でもないです!」
「まさか、脳に異常が…!?」
「だから何でもないです!」
「せ、先生呼びますから!ええと端末…」
「何でもないですってばぁぁぁぁ!」
頼むから大事にしないでくれぇぇぇ!
「じゃあ…失礼しますね」
「はい、お騒がせしてすいません…」
その後、俺の激しい説得に折れたお姉さんは、すぐ側にあった机にガーゼのセットを置いて、部屋から出ていった。
「お前ぇ!ちょっとは加減しろよ!」
『けっこう加減したって!ソフトタッチだったでしょ!』
「あれのどこがソフトタッチだっ!首飛んでいくかと思ったわ!首からゴキッて音がしたし!」
『…って、ライ!鼻血が凄いことになってるよ!?』
「え…うわっ!?」
気づけば服が真っ赤に…!うおお、俺のTシャツがぁぁ!
「こうなったのも全部お前のせいだぞ!」
『今そんなこと話してる場合じゃないでしょ!?早く拭かないと!』
しばらくアカネとギャーギャー揉めた後、状況の確認をする。
「さっき看護師さんが来たってことは…ここは病院か。なあ、何で俺は病院にいるんだっけ?」
俺はガーゼで顔に付いた鼻血を拭き取りながらそう聞く。
『ライが吐いてる間に私がずっと上向いてたから、喉にドロドロが詰まったんだって』
「あー、そういえばそんなことがあった気が…なるほど、つまり俺はお前のせいでここに来たってことだな?」
『…えへへ、ごめんなさい』
「なーにがえへへだこの野郎!」
と、その時。
「やーやー、ご機嫌いかがかな?…って、結構元気そうだな!」
白衣を着た女性がノックもせずに病室にズカズカと入ってきた!
「うわっ、びっくりした!えーと…」
「あたしは木村だ!お前の命の恩人だからな!よろしく!あっはっはっはっ!」
そう言いながら結構な勢いで背中をバンバン叩いてくる。
「んげふっ、そ、そうなんですか。助かりましたっ」
危ね、アレが出るとこだった。修復したての荒木ダムに背中バンバンはよろしくない…!
「ところで俺はここからいつ退院できるんですか?」
「え?もう身体の調子は良くなったのか?元気ならとっとと出てってくれないか?あたしはこれ以上仕事増やされたくないんでね」
「……」
患者に対してめっちゃ本音漏らすじゃん。医師としてどうなんだ、これは。
『早く学校行かないとダメなんじゃない?手続き済ませないと編入できないよ?始業式は明々後日でしょ?』
「ああ、そうだった。急がないとな。じゃあ、俺は退院します。お世話になりました、木村さん」
「おう!もう戻ってくんじゃねぇぞ!」
そう言ってまた背中をバンバン叩いてくる。これ好きなんだなぁ、この人。
病院を出て徒歩5分。目的地の新世界学園に到着した。
「しっかし、大変な目にあったな…」
『ほんとにね〜、初日から大変だね〜』
「誰のせいだと思ってんだよ!」
俺はこの学園の寮で生活することになっている。自分の部屋に行って休みたいけど…学園長に挨拶が先かな。
「えーっと…」
この島では3次元的な生活を目指しているため、ほとんどの建物が高く設計されている。それは学園も例外ではない。なので、ほぼ平面で過ごしてきた俺はというと…
「ここの地図どうやって読むんだ…?」
学園長室はA棟の20階だと?そもそもA棟ってどこだ?しかも20階?
「…ぐふぅ、脳が破裂しそう…」
端末の地図を指でぐるぐると回して何度も確認する。だが、いくら見てもやっぱりわからない。
「…仕方ないからその辺の人に聞いてみるかぁ」
『お、あそこに女の子がいるよ?あの子に聞いてみれば?』
「あ、ほんとだ。そうするか」
そして、俺はたまたま一人でいたこの学園の制服らしきものを着ている女の子に声をかける。
「あの、すみません。学園長室ってどうやって行くか教えてくれませんか?」
と、そう聞いた直後。
「貴様かぁぁぁっ!」
と叫びつつ、どこから取り出したかわからない木刀でいきなり殴りかかってきた!
「うおあああああっ!?」
俺は身体を逸らしてギリギリでかわす!うわぁ、変な姿勢で避けたから背骨がぁぁぁ!
「答えろ!貴様が私の命を狙うエージェントだろう!」
そうしてビシィ、と木刀を俺に突きつけてくる女の子。
「は?エージェント?」
エージェント…?俺が?この子の話に全然ついていけない…!
『…どゆこと?』
これにはさすがのアカネもついていけないようだ。
「あ、あのー…」
「……」
す、凄い剣幕っ…余計なこと言ったらぶっ叩かれそうだ!それはもうさっきのセルフビンタみたいに…!
「…とにかくこいつはやばい!逃げるぞ!」
『え?わ、わかった!』
俺は鼻血を出したくない一心で、全速力でその場を離れる!荷物は置きっぱなしだけど、殴られるよりはマシだ!
「逃すかぁぁぁ!」
そんな俺を見て、女の子はおっそろしい叫び声を上げながら追っかけてくる…!
「くそっ、さっきの船酔いの影響が…!」
足が少し重い。若干貧血気味だし…くそっ、思うように体が動かない!
「待てぇぇぇぇ!」
てか凄いなこの子!小柄な体格なのに体調が悪いとはいえ元運動部の俺と互角なんて!しかも眼をあんなにギラギラ輝かせて…怖すぎだろ!
こうなったら仕方ない…気は乗らないけどやるか!
「アカネ!任せていいか?」
『いいの?』
「緊急事態だからな!特別だぞ!」
『やった!本気で行くからね!』
そして、俺の身体は勝手に動き出す…!
「な、なんとか撒いたか…」
あれから10分ほど逃げ続けた結果、俺はなんとかヤツから姿を隠すことに成功した。
「にしても相変わらず凄いな、お前は」
『ふっふっふ、凄いでしょ!』
前にも話した、アカネに身体を乗っ取られる件だが、デメリットしか無いわけではない。アカネは元の世界では体術に関してはかなり優秀な人物だったらしく、身体を貸すことで俺は超人的な身体能力を発揮することができる。しかも貸している間は筋肉のリミッターが解除されるので、常に火事場の馬鹿力を発揮できるのだ。
ただ、その代償として凄まじい疲労が俺を襲う。終わった後はもれなく全身筋肉痛になる。だから、身体を貸すことは滅多に無い。だが、今回は仕方がなかった。そう思うことにしよう。
「しかし、いきなり殴りかかられるとはなぁ…あー、びっくりした」
『どうしよう、このままだと学園長室に行けないよ?』
物陰からあの子の様子を確認する。何やら誰かと連絡を取っているようだ。
「ああ、すまない、逃した。作戦通りプランBに移行する」
作戦?ちょっと待て。つまりこれはエージェントとやらが来ることを予測していたのか?
「…どういうことなんだ?」
考えれば考えるほど分からなくなる…もう考えるのはやめよう。とにかく今は様子見だ。このまま退散してくれればいいんだけどな…
10分後──
「…最悪だ」
ヤツと同じ制服を着た人たちがゾロゾロと集まっていた。それぞれがいろんな武器を携えて俺を探している。
『わー、すごーい、あれってスタンガンだよね?』
…ここって学校だよな?何でそんな物騒なものが…?
「とにかく現在地を…って、あれ?」
『どうしたの?』
「…端末落とした」
『えぇ!?』
どうしよう…このままじゃ永遠に学園長室に辿り着けないぞ!
『あ、私いい案思いついた!』
「ん?なんだ?」
『あいつらの武器を奪って逆に全滅させればいいんだよ!私なら余裕で返り討ちに…』
「バカたれ。だめに決まってるだろ」
アカネなら可能かもしれないけど、おそらく彼らはここの学生だ。転校初日に学生たちををボッコボコにするなんて、許される行為ではない。最悪警察沙汰になる。
…今思ったけど、ここの風紀委員は何をしているんだ?こんな物騒な奴らを看過するなんて...風紀乱れすぎじゃないか?
「はぁ…あのエージェント、なかなかの実力を持っているようだな。だが、絶対に逃さん!この風紀委員長、二ノ宮葉月の名にかけて!」
「…ってお前が風紀委員長かよぉぉ!」
気づいたら俺はヤツから丸見えの位置で盛大にツッコミをかましていた…!
「……あっ」
やっちまった…!意外なこと過ぎて思ったことが口に出てしまった…!てか名乗るタイミング良すぎなんだよ!ツッコむしかなかっただろ、今のは!
奴らの視線が一気に俺に集まる。ど、どうしよう…?
「…てへっ」
とりあえずドジっ子アピールでもしておこうか。
「「「捕えろぉぉぉぉぉ!」」」
『何がてへっ、だよ!気持ち悪い!』
「ほんとにな!何がてへっ、だよ、俺!とにかく逃げろアカネ!」
人ってパニックになると「てへっ」て言うんだな。勉強になった。