【84話】止まった時間と現実
*
窓の外には桜色の花弁が舞っていた。
触ってみようとして、窓の隙間から手を伸ばそうとするが、身体がうまく動かなかった。
桜の花弁は、病室の床にひらひらと落ちていった。
母「はぁ…。」
すると、廊下から足音。
どんどん近づいてきて、病室のドアを開ける音が聞こえた。
影楼「…母ちゃん。」
翔だった。
母「…久しぶりね、翔。」
影楼「母ちゃんも。」
妹が亡くなってから2年。
あれから母は、すっかり弱ってしまった。
頻繁に入院と退院を繰り返し、状態はどんどん悪くなっていった。
さらには、歩くことも難しくなっていた。
母「……翔、会いたかったわよ。」
影楼「…………。」
母「少し見ないうちに、大きくなったわね。」
母の声は弱々しい声だった。
俺の頭を優しく撫でると、微笑みかけた。
母「…学校、大丈夫なの?」
影楼「………あぁ。」
母「お勉強は困ってない?」
影楼「大丈夫。」
母「そう。さすが、私の子ね。」
母は、ずっとベッドに座ったまま俺のところに手を伸ばしていた。
影楼「…母ちゃん。」
母「なあに。」
影楼「………桜を、見たいな。」
母「桜?」
影楼「あぁ。…あの森の、桜。」
母「…そうね。」
あの森は、妹が亡くなった森。
春になると、桜が満開になる。
影楼「…。」
母「………見に行きましょう。」
影楼「え。」
母「そうね…。来週がいいかしら。その頃には満開のはずよ。お母さん、状態が良くなってきているのよ。だから、きっとすぐに退院出来るわ。…そうだ!お弁当も食べましょうか。お父さんと、私と、翔の3人で…」
影楼「母ちゃん。」
俺には分かっていた。
母「……どうしたの。」
影楼「どうして嘘つくんだよ……。」
母「…嘘?」
影楼「……俺には、全部分かるもん。母ちゃんのこと。」
母は、察したように俺の目を見ていた。
母「……分かっちゃったのね。」
影楼「うん。」
母「…でも、翔の考えていることは、少しハズレよ。」
影楼「?」
母「…でもね、翔。母さんには、もう未来がないの。」
母がもう退院できないこと、長くないこと。
すべては俺の頭の中に最初からインプットされていたかのように分かっていた。
多分、そういう運命だったんだろう。
妹が死んでから、俺はだんだん現実から逃げるようになっていった。
学校にあまり通わず、自分の作った秘密基地で寝泊まりし、家に帰らなかった。
家にはいつも愛しか居なかったから、帰らないところでなにも問題は無かった。
森で生活するようになってから、サバイバルの知識を得るようになった。
秘密基地も、何度か作り直して完璧な小屋を建てることに成功した。
あの日、あの森で愛が亡くなったことを忘れないように地下室を作り、その中に小さな石碑を立てた。
そうすれば、いつでも愛のそばにいられるような感じがしていた。
*
母の病院にお見舞いを行った次の週から、俺は学校へ行った。
森で暮らしていれば、現実の世界に居なくてすむ。ずっと、止まった時間の中で妹と暮らしていける。
だが、俺にはどうしてもやらないといけないことがあった。
始業式を終わると、学校を出て、森へ向かって歩いた。
?「お〜い、カゲヌマ。」
後ろから、俺をからかうように呼ぶ声。
影楼「…またお前かよ。」
金髪に赤目。ヤンキーのような見た目の奴は、近所で有名な問題児だった。
影楼「で、なんだよ。」
ヤンキー「おうおう、一人で帰ってんのか?」
影楼「悪ぃかよ。」
ヤンキー「別にわるかぁねぇよ。」
影楼「じゃあなんだよ。」
ヤンキー「…てめぇ、あそこの学校だよな?」
ヤンキーがすぐ近くにある俺の小学校を指さした。
影楼「そうだが、何か。」
その瞬間、奴の態度が変わった。
ヤンキー「……てめぇと同じ学校にな、オレの友だちをいじめた奴がいるんだよ。」
影楼「…そうなのか。」
ヤンキー「カゲヌマ、てめぇだよ。」
ヤンキーはいきなり俺の胸ぐらを掴んだ。
影楼「あ?」
ヤンキー「てめぇがやったんだよ!!!」
奴の拳が俺のほっぺに当たる。
右に回りながら倒れそうになるが、その反動を使って足を回して奴の首目掛けて蹴りを入れた。
奴は倒れた。
俺は咄嗟に持っていたランドセルを投げ捨て、奴に馬乗りになって体を押さえつけた。
ヤンキー「ぐぅ…カゲヌマ…。」
影楼「…これ以上俺に絡むな。いいか?」
ヤンキー「…くっ。」
奴を解放すると、俺の方を睨んでこう言った。
ヤンキー「俺はトオルだ。カゲヌマ、覚えてろよ。」
奴は走って逃げていった。
影楼「トオル…。」
トオル。そいつが、俺にタイマンを挑んできた最初の奴だった。
学校で、俺は大人しくしていたつもりだった。
しかし、同級生同士の喧嘩を止めたり、いけないことをする奴には注意していた。そのせいで、何度も何度も喧嘩になっていた。
トオルが言ったような、友だちをいじめるということはしていないはずなのに。
どんどん現実から逃れるようになっていた。
*
影沼翔、10歳夏。
影楼「んっ…。」
窓から差し込む朝日が眩しくて、腕で目を隠す。
影楼「……。」
森での生活も慣れてきたとある夏。
俺は今日も散歩をしようと小屋を出た。
見慣れた森の道。上を見て、食べられる木の実がないかと探しながら歩いていた時だった。
影楼「…は?」
森の奥に、白い霧が見えた。
そして、ポツポツと降ってくる雨。
影楼「くそっ…。」
妹とはぐれたあの日と似ていた。
霧はどんどんこっちに近づいてきているようだった。
俺は急いで小屋の方へ戻ろうとした。
しかし、後ろはもう霧で覆われていた。
影楼「なん…だよ!」
気がついた時には辺りが真っ白になっていて、右も左も分からない状態だった。
影楼「…あぁ、ここでまた、“迷子”になるのか。」
悪くない気がした。
このまま、霧に包まれて自分がこの世からいなくなったら。そんな考えが浮かんでいた。
すると、霧の中に大きな影が見えるのが分かった。
影楼「…?」
妹と同じくらいの影。
俺は咄嗟に愛の名前を呼んでいた。
影楼「愛?」
影に向かってゆっくりと歩き出す。
その影は、どんどん濃くなっていった。