8話 感動したの!!
窓から入り込む光で目が覚める。
松明や燭台の灯とも違う、肌に馴染む光だ。
おかしいな……なんの光だろう?
寝ぼけ眼をこすりながら起き上がると、空が明るく白み始めていた。
「空……そ、空だっ! っ、っと、っと、とっと!」
私は窓に駆け寄ろうとして、足が敷布に沈み、こてんと引っ繰り返ってしまった。
雑に塗られた青い石の天井ではなく、柔らかな青色の天蓋が見えた。しばし瞬きをして、ああそうかと納得する。
「私、外に出たんだっけ」
でも、夢かもしれない。
私は慎重に柔らかすぎるベッドから降りてみる。ひんやりとした感触が素足に伝わり、これが現実だと訴えていたが、まだ実感がわかない。
私は窓に歩み寄り、窓を押してみると、ゆるやかに窓が開いた。涼しい風がふわりと吹き込み、私の長い髪を膨らませる。
「うわぁ!」
私は目を輝かせた。
一面の草原だった。塔の下には、先日みた星のような明かりが点在していたが、石の壁に覆われた敷地の向こう側は、金が揺れる草原だった。草原の右には鬱蒼とした黒くさわさわした塊の集合体……おそらく、森が広がっている。
金の草が風にそよがれ白銀色の波を打ち、ずっとずっと遠い先の地面は赤く染まっている。紺色の空は地表に近づくほど白く、そして、だんだんと赤みを帯び始めて、眼が潰れるほど赤く大きな灼熱の玉が空を登り始めたのだ。
「あれが太陽ね!」
手で顔を覆いながら、初めて見る景色に興奮した。
太陽の光自身は、私だって知っている。
だけど、それは十人重なったところで届かないほど高く窮屈な窓越しの陽光だった。遮蔽物のない直接の陽光は肌を焼くほど熱く、身体が火照ってくる。
ここで、ようやく実感が沸いた。
「私……外に出たんだ!!」
胸の内側で、萎んだ袋が一気に膨れ上がるのを感じる。
窓の桟に手をかけ、顔を前へ乗り出して見る。日差しの暑さと澄み切った風が、まだ夢見がちの自分を浄化してくれるようだった。
「……失礼します」
とんとんと背後から音がする。
慌てて振り返ると、ちょうど女性が2人並んで入ってくるところだった。
「私たちが聖女様付きの侍女になりました」
「今後はよろしくお願いします」
濃緑色の髪をした女性は、目元に小じわが寄っている。
もう一人の焦げ茶色の髪をした女性は、私より少し年上に見えた。
2人とも顔に表情はなかったが、黒を基調とした衣服に白いエプロンを腰に巻いている。なるほど、確かに本で読んだ侍女スタイルだ。そこに少しばかり芽生えた感動を心に一端仕舞うと、彼女に対して頭を下げようとした。
「おやめください。聖女様が、私のような者に頭を下げる必要はありません」
緑の侍女は、ぴしゃりと言い放った。
一瞬、どこかの侍従が脳裏をよぎったが、たぶん、気のせいだろう。
私が妙な予感を消していると、侍女の後ろから副神官長のブルータスが姿を見せた。
「聖女様、おはようございます。
昨晩は良い夢をみることができましたでしょうか?」
ブルータスは拳を前に掲げると、私の足元に跪いた。
「はい。ベッドが柔らかいって、良いですね。お心遣い、ありがとうございます」
「それは良かった」
ブルータスは口の端を持ち上げる。
「シーザー様は本日、ここには来られません。ですので、私が代わりにお伝えします。
実は、聖女様の身の安全を期すため、しばらく第五神殿から移動しないことに決定したそうです」
「分かりました」
それは別に構わない。
外も見れず、風も感じることができない地下世界に閉じ込められるより、この塔にいる方が百倍マシである。
だから、この状況が現実と分かった今、私が気にすることは1つに絞られていた。
「それで、その、私がいた場所のことですけど……」
「ビッフェル王国ですね。
当然、捜査が入ります。あとのことは、聖女様はお考えにならないでくださいませ。すべて、こちらで整えますので」
「いえ、その王国の……転送陣のある場所の付近に、私を助けてくれた人がいたはずなんです! ナナシさんと……いえ、名無しの人ではなく、私が勝手に呼んでいるだけです。
顔のここに傷が入っている男性です。彼が無事かどうか、お願いします。そこだけは、教えてください」
ナナシの傷があった場所を自分の顔でなぞりながら説明すると、ブルータスは、ふむっと頷いた。
「分かりました。確認を取りましょう。
それでは、聖女様。ごゆるりとお寛ぎくださいませ」
ブルータスは最後に一度、礼をすると部屋を去って行った。
「さあ、聖女様。お着替えを」
侍女は服を用意してくれた。
あの太り過ぎ国王は、私の周囲を嘘で塗り固めていたらしい。侍女から差し出された服は、筒状の過ごししやすそうな衣装だった。ワンピース、という女性用の服らしい。白であることに変わらないが、新たな変化である。
「朝食をご用意いたしました」
着替えが終わると、小綺麗なテーブルの上に食事が並べられた。
自分で用意しなくて良いというのは、とても新鮮な感じだが、すんすんと部屋に漂う匂いは好奇心を掻き立てる。
ふんわりとした白いパン、元気のよい緑色の野菜をふんだんに使ったサラダ、黄色く湯気の立つスープ。白いパンの隣には、謎の液体が入った瓶が置かれている。
「あの、これって……?」
私が尋ねると、侍女の眉が少しだけ上がった。
「なにって……トゥルナッツの蜜ですよ。パンにかけて食べませんか?」
「パンに……?」
私は瓶の蓋を開けると、匙を突っ込んでみる。
とろみを帯びた琥珀色の液体だった。侍女の言う通り、知識にある「蜜」なのだろう。物語に登場する蜂蜜とは異なれど、蜜であることには変わりない。
これまた、今までにないほど柔らかいパンを千切り、おそるおそる陽光に反射する蜜を垂らしてみる。そして、一口、蜜が零れないように注意しながら、思いっきり噛みしめた。
「はうっ!?」
「せ、聖女様っ!?」
私が奇声を上げたものだから、緑の侍女が慌てふためいた。
ずっとしかめっ面の表情が変わらない女が、ようやく感情をあらわにした瞬間だったのだが、そのようなこと気にならない。
「甘い! 甘すぎませんかっ!?」
果物の甘さとは方向性が違う。
舌や喉が僅かに焼けるような甘さである。この甘さは疾風のように身体中を駆け巡り、背中が震えるほどの衝撃だった。
焦げ茶色の侍女は私の反応を一瞥すると、静々と提案して来た。
「お口にあいませんでしたか? でしたら、もう少し酸味の効いたジャムを取り寄せます」
「ジャムもあるんですか!?」
がたんっと立ち上がる。
「私、ジャムをたっぷりパンに塗って食べることが夢だったんです! あ、いえ。この蜜も最高です! こんなに甘くて衝撃が走る食べ物、初めて!」
「……そうですか。分かりました。では、次はジャムも用意しましょう」
侍女たちが若干、引いている気がした。
その後の食事も、新鮮すぎる驚きで満ち溢れていた。蜜の甘さ、サラダのしゃきしゃき感、スープの温かな甘さと香辛料……脳が震えるほどの衝撃が立て続けに重なり、眼が白黒して気絶しそうだ。
途中からは、味を噛みしめるため、声を出すことなく、真剣に黙々と食べ進めていた。
「それでは、聖女様。
なにかありましたら、こちらのベルを鳴らして下さい」
食事の片付けが済むと、侍女たちは退出する。
私は広すぎる部屋に、一人残された。
「美味しかった……あれが、美味しいんだ」
ぺろりと舌を舐める。
あれを一度食べてしまえば、自分の料理が塵芥以下だと実感せざる得ない。ナナシが不味いと全身全霊で嫌悪を露にするわけだ。
「……ナナシさん」
できることなら、彼と美味しい料理を食べたかった。
もっといえば、彼に美味しい料理を作ってあげたかった。
せっかく昂っていた気持ちが、みるみるまに急降下していく。
「ナナシさんが、どうか無事でありますように。
ナナシさんの命が助かり、外を自由に走ることができるようになりますように」
私は窓の下に跪くと、両指を絡めて祈りを口にする。
昨晩も同じように、言葉を紡いだ。
祝福するのに必要なことが「名前」と「願い」だと分かれば、なにをするべきなのか決まっていた。
「ナナシさんの舌が元通りになりますように」
祈りを呟くほどに、身体から力が抜けていく。
だが、それは、ナナシに祝福が伝わっている証拠だ。
「ナナシさんの……本当の名前、知りたかったな」
名前というのは、一種の拘束力があるらしい。
昨夜、シーザーが祝福の説明の時に教えてくれた。
『名前は最も簡単で、最も強い拘束力があります』
シーザーは真剣な瞳で私を見つめてきていた。
『たとえば、さきほどのノーチェの花を思い返してください。
裏庭には、ノーチェの花が五万と植えられております。これも無数のうちの一つにすぎません。ですが、このノーチェの花に名前を付けた瞬間、これは特別な花となり、名前に縛られることになるのです』
『えっと……よく分かりませんが……つまり、名付けることによって、他と区別することができる……ということでしょうか?』
『まあ、だいたいそのような感じです。
聖女様のお力は、名を呼ぶことで対象者を限定して縛り、祈りを言葉に乗せて叶える性質があります。
植物の場合は簡単ですが、我らヒトや動物の場合、その名を受け入れていないと効力を十分に発揮することができません。名という縛りに反抗している状態では、聖女様が上手く指定することができないのでしょう』
『だから、ナナシさんの怪我の治りが遅かったんだ……』
私は口から独り言が零れた。
彼は、その名を受け入れていなかった。
ある意味、当然である。誰が「名無し」なんて名前を受け入れるのだろう?
『聖女様』
シーザーの大きく乾いた手が、私の両手の上に重なった。
ここでようやく、私の身体が小刻みに揺れていたことに気付いた。
『聖女様は、その者に助けを望まれましたか?』
ややあってから、私は頷いた。
思い出したくもない卑しい記憶の最後のページに、小さな小さな祈りの言葉が挟まっている。誰にも届くはずのない、気休めと現実逃避の祈りだった。
だが、今になって……シーザーに尋ねられて、はたと正解に辿り着いた気がした。
『私の祈りは、ナナシさんに届いていたのですね』
『その者の本当の名は分かりません。ですが、聖女様が祈ったその瞬間、彼はナナシの名を受け入れていたのでしょう』
『だとしたら……』
あれは、ナナシさんの本心ではなく、私が無理やり助けさせたということなのか?
『……シーザー様。名前って不思議ですね』
喉の奥から込み上げてくる切なさを押し込めるように、少しズレた話題を口にした。
『私にも名前があれば……私自身の願いを叶えることができるかもしれない、ということでしょうか』
『結論から言えば可能です。
ただ……過去に御光臨あらせられた聖女様のなかには、神より与えられた特別な力を自身のためだけに使用し、私利私欲のままに豪遊した方もおられます』
ただ、あまり好ましいことではないのだろう。
シーザーの口はとても重かった。
『聖女様がどのように自身の力を使うのかは、我々が決めることではありません。ただ、聖女様の特別な力は天の神より遣わされたもの。そのことをわきまえず、自身の力を強欲の赴くがままに使い続けた聖女様は短命のうちにこの世を去られてしまいますね』
『それは嫌です』
私は苦笑いで返した。
『では、名前がない方が聖女としての在り方として正しいと?』
『とんでもございません!』
シーザーは少しばかり笑った。
『先程も申し上げましたが、ノーチェの花に名をつけることで、それが他とは異なる特別な存在へと変化するように、名前とは特別なものなのです。それは、聖女様でも同じく、特別なものなのですよ』
『特別なもの……』
『聖女様が望むのであれば、第一神殿へお戻りになられた後、神官会議にて、御身の名前を決めることもできますぞ』
『それはそれで、堅苦しいですね』
私も口元を綻ばしながら返す。
『では、次のことですが――』
シーザーは他の聖女としての権限について語り始めた。
私は真剣に耳を傾けながら、心の片隅で強欲なことを思った。
「……名前を付けて欲しかったかも」
誰にとは言わない。
言えるわけがない。
私があの人の意思を操作し、無理やり助けさせてしまったのだ。そして、あんなに沢山の騎士に突貫させてしまった。
きっと、無事では済まない。
「……ナナシさん」
この祈りも十全に働かないと分かっている。だが、口に出さずにはいられなかった。
私は、彼に何も返すことができなかった。
鳥籠の鍵を外し、空へと逃がしてくれた。その恩義に、何も報いることができていない。
綿のように白い雲が、青空を滑るように流れていく。
ずっと見たかったはずの光景なのに、寂しさが込み上げてきた。