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独りぼっちの物語

ナナシ視点の話です。



 最初の記憶は、まっかな炎だった。


 ぱきぱきと柱が折れる音。

 その隙間を縫うように響き渡る、耳を貫くような悲鳴。


 そのすべてを炎は轟々と飲み込み、黒塗りの空へと火花を散らしていく。踊る炎は夜空を舞う赤い蝶のようで、怪しく艶やかに散らついている。

 足元には雪が積もり、夜気は寒いはずなのに、薄らと伸びた灰色の煙と蝶の炎舞に眼が惹きつけられる。


(ああ、これで一人だ)


 親兄弟親戚縁者、自分を知る者すべてが燃えていく光景を眺めながら、どこか他人ごとのように思った。




 これが、男のはじまり。



 よくある賊が貧しい寒村を襲った。

 それだけの話だ。

 とある農家の次男坊は、昨夜のうちに家を抜け出し、母親の誕生日祝いの花を取りに行っていたことで九死に一生を得てしまったというわけである。

 

 その後、駆け付けた警邏隊に引き取られ、ありふれた孤児になった。行く先も引き取り手もなく、そのままオキトン公国の諜報・暗殺部隊を育成する組織に入れられた。


 

 そこでは、名前で呼ばれない。

 識別番号で呼ばれ、気が付けば、親から貰った名前は忘却していた。


 

 修業は厳しく、途中で死ぬ者は珍しくなかった。

 昨日まで同じ食卓を囲った隣人がいなくなることも多かった。

 夜中、ふらりと出て行ったまま帰ってこない者もいた。まれに、帰ってくる者もいたが、教官に拘束された状態で、実技演習の標的にされていた。

 そして、教官は短く命令するのだった。


「やれ」


 男は真摯に従い、昨日まで同じ鍋の飯を食べ冗談を言い合った元仲間を倒した。

 どのようなことにも真面目に取り組み、誰よりも感情を排して訓練を重ねた。綿々と続く毎日のなかで繰り返し、繰り返し、叩き込まれ、ある程度の年齢になった時、仕事に出されるようになった。

 

 男は諜報隊のなかでも、荒事を専門に任されることになった。

 斥候はもちろん、闇討ちや暗殺は得手だ。剣や拳の鍛錬も嫌いではなったのも理由のひとつだろう。人に紛れるため服で隠すことができる程度に絞り込んではあるが、しっかりと筋肉がつけていた。


 そんな調子で成人前から幾度かの任務を完遂し、それなりの腕前として仲間内で評価を積み上げてきた頃、1つの任務が下った。



「ビッフェル王国に潜入し、聖女の有無を調べろ」



 聖女。

 その名の通り、聖なる女だ。

 

 聖女は数百年に1度、地上に遣わされ、祝福を広める。 

 「神の代行者」とも謳われ、世界で最も尊ばれ、何者にも縛られない。歴史を紐解けば、王侯貴族と婚姻したり、遊牧の騎士と共に旅に出て祝福を広めたり、神殿で生涯を終えたり……その生き様は多種多様だ。



 その聖女が、約15年前、赤子の姿でレーマス帝国の大神殿の最奥に降臨した。

 赤子は世界中から祝福され、神殿が丁重に育て上げる。近い未来、赤子が成長した暁には、その祝福が世界中に与えられますようにと祈りを込めて――。



 ところが、赤子がすり替えられてしまっていたのだ。



 世界が気付いたのは、その子の祈りがまったく効果を現さないと分かってから……すなわち、4年も経過してからだった。


 世界中、血眼になって探しているが、まだ足取りがつかめていないらしい。


「ビッフェルが不自然に勢いづいておる。

 先日の戦でも、完璧な布陣を敷いたにもかかわらず、圧倒的に敗北した。他にも、あの小国の発展は異様すぎる。

 外交官が探りを入れてみたが

 『聖女? 我が国を侮蔑するつもりか? それ以上、愚弄するつもりなら、法の国に訴えてやる』

 と。

 ……そこで、お前の出番だ。聖女の痕跡を探し出し、あわよくば、連れて帰ってこい」


 男は頷いた。

 

(ふん。どうせ、聖女を連れて帰って来たら、同じように隠して祝福を得るんだろうさ)


 オキトン公国もビッフェル王国も、隣国同士、どちらも似たり寄ったりだ。

 両国とも斜陽国家だったが、ビッフェルが急に輝き出したので、恨めしく感じているのだ。聖女を連れて帰ったら最後、聖女を使って、積年の恨みを晴らすに違いあるまい。


(まあ、どうでもいい)

 

 自分は仕事を果たすだけだ。

 

 そもそも、ビッフェル王国が景気づいたのは、一部の富裕層のみ。

 一般庶民はオキトン同様、重税に苦しみ、日々の食事にこと欠く者の方が多かった。



 そのような私情はきっぱり捨て、男は入国すると手慣れた様子で城に潜入した。


 城の簡易的な図面は頭に叩き込んである。

 もっといえば、過去に暗殺で訪れたことがあった。


 天井裏を這いながら進んでいると、ふと―――おかしな人物を目にした。


(……ん?)


 でっぷりと太った男が、幸せそうな顔で歩いている。

 太った男は珍しくないが、護衛の数が1人しかいない。貴族や重鎮たちは身を護るために護衛を忍ばせているが、それでも、1人しかいないというのは珍しい。男は自身と同じように天井裏から護衛しているのか、とも思ったが、他の気配は感じられなかった。


「リスパダール様、お待ちしておりました」


 城の最奥まで来ると、大仰な扉の前に女が立っていた。

 

「うむ。ここで、いつものであろう?」

「はい。ここから先のことを口外しないと宣誓書にサインを」


 男は目を細めて注視すると、女の身体つきはしなやかだったが、書類を差し出す指にこぶが見て取れた。戦闘訓練を積んだ女の存在に気をつけながら、男は呼吸を抑えてやりとりを見下した。


「うむむ。サインなどしなくとも、口外はせん」

「万が一のことがあってはなりません。さあ、こちらへ」


 太った男はサインをすると、女と一緒に扉の向こうへ進んでいく。

 これまた不思議なことに、護衛は置きっぱなしだ。


(絶対、なにか隠してる)


 遠目からだが、書類には高度な魔術印が記されていた。

 彼らのやり取りから察するに、口外したら死ぬような呪いがかけられている。

 あのような高度な魔術印は厄介だ。高度になればなるほど術者本人以外には解けず、それこそ「聖女」とやらの力を借りる必要がある。

 男の舌にも「敵の手に落ちたら話せなくなる」呪いがかけられていた。

 

(その呪いが発動したら、死を選ぶがな)


 死を選ぶことに、抵抗はなかった。

 もとより、死んだような人生だ。

 名前はなく、友人もいない、使い捨ての道具に過ぎない。



 男は苦笑いをし、先の部屋へ続く道を探った。

 罠がないか、慎重に探りながら進み、ある一点に到達した瞬間、全身に雷を受けたような衝撃が走り、目が覚めた時には、あっけなく敵に捕らえられていた。


 のちに発覚したが、聖女の力を利用した防衛システムに引っかかったらしい。


 男が捕らえられた時点で「呪い」が発動していたが、相手方は気づく様子はなかった。彼らは男を吐かせようと身体を痛めつけた。四肢だけでなく、顔を切り裂き、背中には焼き印を押され、あまりの苦痛に耐えきれず、口を開いたとき、彼らは無駄な行為だと悟った。


「こりゃダメだ! 舌が切れてる。魔術印か!」

「しかたない、あれに頼るか」


 自害をしたくても、両手は枷で塞がれている。

 男は鎖で引きずられながら、奥の部屋へ連れて来られる。



 そこで、幸か不幸か。

 お目当ての聖女と相対することになった。



 絵にかいたような聖女だった。

 夜空のような黒髪を背中に流し、古典的だが清潔で着心地の良さそうな祭祀服を纏っている。青い眼は男の風貌と大量の血で恐怖に染まり、こちらへ駆け寄ってくる足は震えていた。



 好きか嫌いかと問われれば、間違いなく嫌いだ。



 国王の言うがまま治療し、聖女らしく(・・・・・)慈悲の言葉を口にする。

 表情と声色から察して、本気で慈悲の言葉を口にしていることが、気持ちを逆なでた。

 だいたい、国王が命じたとはいえ、「名無し(ナナシ)」なんて糞みたいな名前を受け入れる時点でどうかしている。

 聖女は、聖女としての地位や毎日の食事を自然と享受し、王城の深窓で不自由なく過ごす。

 外に出れば、一食だけで終わらせる者が多いとは知らないし、同じ汚れた服を着続ける者がいるなんて、知る由もない。


 幸福で満たされた生活を送り、脳みそが花畑で世間知らずな馬鹿だった。


 とはいえ、この善人面をした女に飼われると思うと、怒りよりも呆れの方が強く、しばらくの間くらいは大人しく少女に付き合ってやることにした。

 拷問はされず、雨風しのぐ場所と食事は魅力的だ。


 頭の軽い聖女を騙し、機を見計らって、脱出することも夢ではない。




 そう、思っていたのだが……。


 途中から、調子が狂った。

 

 きっかけは食事だ。

 

 最初、わざと不味く調理していると思った。

 不味いものを食し、日々のありがたさを知る修業方法がある。それかと思い、噛めば噛むほど硬くなる肉や塩味のみのスープなど喉に押し込んでいたのだが、聖女はおずおずと尋ねてきた。


「その……これ、美味しくない、ですか?」

(当たり前だ! 嫌がらせかよ!)


 抗議するように頷いてやると、聖女は見るからに動揺した。


「そ、そんな……」


 数歩後退し、ベッドに背中から倒れ込みそうになる。

 無論、その一歩手前で止まったが、元から白い陶磁器のような顔は更に白く、桜色の唇はわなわなと震えていた。


「す、すみません。私、人に食べて貰ったのは初めてだったので」


 これが不味いとは知らなかった。

 聖女は困ったように片頬を掻く。


(他の料理を食べたことがないのか?)


 男は考え込んだ。

 聖女ともなれば、数々の美食に舌を唸らせても不思議ではない。少なくとも、これ以下の食事はない。他の食事を口に入れたことがあれば、これがドラゴンも尻尾を向けて逃げ出すほど不味い料理だと気付くはずだ。



 そこに気付くと、他にも不可思議な点が見えてきた。

 

 聖女が出ていくのは、一日に一度だけ。

 時間からして、聖女としての仕事をこなしているだけだ。その後、すぐに戻ってきて、男の傷を癒してからは、ずっと地下に閉じこもっている。


 だいたい、この祝福もおかしい。

 祝福の剣とやらを使わずとも、聖女は「名前」と「願い」があれば、祈りを叶えることができる。男の考察だが、あの剣は聖女の力に反応して光っているに違いない。

 聖女のおしゃべりな口から「人名」がまったく上がってこないことから察するに、国王たちは名前を知られることを危惧しているのだ。


 彼女自身に尋ねることはできないが、最初の挨拶時の反応からして、彼女の名前もないのだろう。

 聖女が誤って、自身の願いを叶えることがないように。

 

「今日は、この本を読みましょう!」


 聖女は楽し気に微笑みながら、適当な本を朗読し始める。

 

 どれもこれも、子ども用の御伽噺だ。

 聖女の知識を与えないように厳選された物語や動植物の図鑑が棚に静置してある。年相応の物語がないのは、余計な知識や新たな思考を植え付けさせず、幼いままに留めておくためだ。


(まるで、愛玩の小鳥だ)


 鳥籠に閉じ込められ、王のために囀り、飛び方さえ知らない――哀れな小鳥。




「―—、ナナシさん? 聞いていますか?」


 男が思考の海に沈んでいると、聖女が覗き込んできた。

 

 男は頷いてみせる。

 ほとんど一方的な読み聞かせなのに、こちらの様子を意外と見ていたらしい。


「その……この話、嫌いですか?」


 ありふれた勇者物語だ。好きでもないが、嫌いではない。

 男は首を横に振る。

 聖女は返答を受けると、心の底から嬉しそうに笑った。


「良かった! 本のなかで、これがナナシさんも好きそうだなって思ったんです」


 曇りのない青い瞳を輝かせ、頬を真っ赤にして、聖女は微笑んでいた。

 知り合って間もない男のために、聖女は笑っている。

 本の件もそうだが、男の些細な行動に喜んだり、悲しんだり、笑ったりと、表情筋が大忙しだ。心の幼さからきているのかと思ったが、侍従に対しては諦めたような顔を向けている。


(……ああ、そうか)


 男は悟った。

 この娘は、孤独だったのだ。


 誘拐されてから、ずっと地下に閉じ込められている。

 侍従は娘に余計な情報を与えぬため、あえて感情を排して接している。国王も娘を便利なモノ扱いし、たった一人で暮らしていた。

 

 当然、寂しくもなり、初めての話し相手を逃すまい。


 つまるところ、彼女は誰でも良かったのだ。

 自身の話を聞いてくれる存在なら、極論、犬や猫でも満足していたはずである。そう考えると、男の胸に大きな穴が空いた。不用意に覗き込んだら、身体の力を全て吸収するような穴の出現に、男は面を喰らった。


(情けない)


 娘が誕生日祝いに興奮する姿を見ながら、初めての感情を笑う。

 彼女の笑う姿が見たい。

 花が綻ぶような笑顔を誰でもない、この自分に向けて欲しい。静かに泣く娘を抱きしめて落ち着かせ、また青空を思わす明るい瞳で見つめて欲しい。


 そう思ってしまうほど、彼女に好感を抱いてしまっているのだと。





 故に、「種を貰う」話には言い様も知れぬ危機感を抱いた。

 あの国王たちが、まっとうなプレゼントを渡すだろうか?



 その予感は、最悪な事態で当たってしまう。


 国王そっくりのバカ息子が、夜着で部屋を訪ねてきたのだ。


(聖女の子にも、聖女の力が宿るってか!? あれは、御伽噺だろ!?)


 男は冷や水をかけられたような気分になった。


 バカ息子のしようとしていることは、迷信以外の何物でもない。

 聖女の力が脈々と受け継がれていくのであれば、新しい聖女を天から寄こす必要がない。聖女は恒常的に世界に祝福をもたらしているはずだ。


 少し考えれば分かることであるが、このバカ息子は実行する気らしい。

 いや、娘を味見したかっただけかもしれない。

 絶世の美少女ではないが、上から五番か六番程度には可愛らしい。

 夜空色の黒髪は艶やかに伸び、整った顔立ちを浮き立たせている。吸い込まれそうな青い瞳は穢れを知らず、色素の薄い肌は大陸の磁器のように艶やかで、この指でそっと触ってみたい気持ちは理解できた。



 だが、これは違う。

 


「やめて、放して!」


 娘の悲痛に満ちた叫びが木霊する。

 バカ息子の背中で顔は見えないが、蒼い瞳一杯に涙を浮かべる姿が瞼の裏に走った。娘が抵抗しようにも、体格が違い過ぎる。まずもって、勝ち目はない。

 その結論に至った瞬間、男の心臓が早鐘を打った。


(あの()が危ない!)


 初めて芽生えた感情に突き動かされた。

 命を救ってくれた恩返しとか、利用するためではなく、もっと初歩的な感情が胸の内で雄たけびを上げる。

 その感情の名を考える暇も惜しい。


「―—ッ!」


 男は自分を縛り付ける枷に抗うように、身体を前へと突き出した。

 先に進みたい。あの娘までは、大股数歩の距離しかないのだ。瞬きよりも早く傍に駆けつけることができる――、はずなのに、夜空に瞬く星のように遠い。


 前に進みたいのに、引き戻される。

 手を伸ばしたいのに、鎖が先へと進ませない。枷は手首に強く食い込み、千切れそうだ。頭が真っ白になる感覚に押し殺されないために、奥歯を食いしばる。


 それでも、前へは進めない。

 鎖の音だけが異様なほど耳障りだった。


「――—――—ッく!!」


 奥歯が軋む。

 前へ、前へと足を蹴る。足は滑るばかりで、その場所から動けない。

 どんなに力を込めても、一歩たりとも進めない。

 胸に沸き上がった感情を全て両足に注ぎこんでも、壁の鎖が嘲笑うように押し戻してくる。その程度に負けて堪るか! と奮起する。背後の鎖にひびが入るような微かな音が聞こえた。反対に、手首が悲鳴を上げている。


(どうなってもいい)


 男は拳を固める。

 手首が千切れたら、それは好都合だ。

 枷から解放され、娘を救うことができる。彼女に触れることができないが、身も心も助けることができれば本望だ。腕の一本や二本、惜しくはない。手がなくても、足さえ動けば、前へ進める。あの愚息を蹴り飛ばして、向こう側へ進むことができる。


「―――――――—ッくぁあ!!」


 指先の感覚がない。

 身体が熱せられた鉄のようだ。鍛冶屋に熱せられ、槌で叩かれている一本の剣だ。剣の先端は愚息に狙いを定め、斬り込む瞬間を今か今かと待ちわびている。


「――—」

「……」


 声が遠い。

 空の遥か彼方で話している声のようだったが、あの娘の恐怖に震える息遣いだけが聞こえた。

 

(待ってろ。俺が……俺が、必ず助けるから)


 視界まで赤くなる。

 赤く燃えている。

 世界から音が消え、自分の心音までなくなる。痛みはとうの昔に超越し、足の感覚も薄れ始めていた。


 まだ行ける。

 進みたいのではなく、進まなければならないのだ。

 バカ息子の背中の向こうに、涙を流す娘の姿を幻視する。それを想えば、腕がなくなろうが、心臓が破裂しようが、地面を転がる程度の痛みを感じようが、先に進むことができる。


 せめて―――、

 せめて、あと一押し。

 背中を押す力があれば、この抵抗を突破することができる―――っ!!



 その、刹那だった




『ナナシ……助けて』


 疲れ切った声が、耳の奥で聞こえた。

 その声は男を支配するように身体中へと広がり、新たな炎を灯した。


「――—――—ッぐ、ったああ!!」


 足を踏み込んだ。

 背後から引き戻そうと抗う力は消え、男の身体は風を踏むように先へと発射される。通常より200%を越えた跳躍が終える前に、奇跡的に無事だった右拳で、バカ息子の頭を殴り抜いた。


 バカ息子は豚のような悲鳴を上げ、壁に激突する。

 滑稽なほど白目を剝き、口からはよだれを垂らしていた。


「……、……」


 肩で呼吸を整える。

 邪魔者は消えた。あとは……


「ナナシ……さん?」


 ちっぽけな娘が震えている。

 衣服は乱れ、蒼い瞳は涙で潤んでいた。目元や鼻の辺りが赤く染まり、唇は穢れを知らぬ桃色のままだ。


(……ああ、良かった)


 間一髪だった。

 男は娘の足元に跪き、手を伸ばす。堅い指が白い頬に触れ、柔らかく沈んだ。雪のように冷たかった頬は、次第に赤みを帯び、ほんのりと暖かさが伝わってくる。

 そこで、ようやく、彼女に触れることができたことを実感した。


(絶対に逃がしてみせる)


 

 さきほど、身体に注がれた「祝福」の力が継続しているのかもしれないが、その後押しがなくても、同じ結論に至っていたはずだ。


 外に憧れた小鳥を逃がし、ありのままに羽ばたかせたい。

 太陽を遮るもののない庭を歩き、木々の下で休み、まっとうな食事を口にして、愛する人を見つけ、みなから祝福された結婚をし、幸せのまま子を成して、人生を緩やかに終えていく――。


 自身の全力を以て、独りぼっちの寂しさから脱却させてあげたい。


(たとえ、自分が死んだとしても……この娘だけは)


 

 この世に生を受けて、20年弱。

 名無しの男は、初めて感じる胸を焦がすほどの熱を噛みしめながら、仕事よりも固い決意を固めた。


 




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