5話 嫌悪してるの
R15?な描写があります。
不快に思われる方もいると思います。お気をつけてお読みください。
どうしても無理という方は、次話へお進みください。
その日の夜。
私は午後から上機嫌だった。
あれ以降、ナナシは笑わない。
食事は不満そうだし、不機嫌そうに眉間の皺を寄せている。笑ったことを後悔しているのかもしれない。
しかし! 今日は絶対に笑ってくれる。
お父様に言われた通り、ちゃんと風呂に入って身を清めた。
侍従から渡された特別な石鹸を使って磨き上げたので、肌からはふわりとした甘い香りがする。ふんふんと鼻歌を口ずさむほどだ。
どんな種を貰えるのだろう?
願わくば、果樹がいい。
花が咲くところを見てみたいし、自分で果物を収穫してみたい。
そして、運命の時がやって来た。
檻の鍵が開く。
久しぶりに、兄が部屋の入り口に現れた。
子どもの頃から怪しかったが、ふくよかな身体は部屋に入るのがやっとだった。具体的に言えば、私の身体の三倍以上に横にも縦にも大きい。
兄はふーふー言いながら部屋に入る。
ナナシがいるだけで部屋が狭く感じたが、兄が入ると更に狭い。兄だけで部屋の半分が埋まったような感覚に陥った。
「久しぶりです、お兄様」
私は淑女らしくドレスの裾を持ち上げ、兄に挨拶をした。
「うむ、元気そうで何よりだ」
兄は、ぐふぐふと喉を鳴らすように返答する。
お父様と同じく、私と兄は似ていない。
私の髪色とは異なる白銀の髪は長く伸ばされ、金の糸が結い込まれていた。
兄の太すぎて短い首には、赤や青といった色とりどりの宝石が嵌めこまれた金の首飾りが光っている。
殴られたら痛そうなほど角ばった宝石が散りばめられた輪をすべての指にはめているが、今日は外しているらしい。
指輪もそうだが、兄の服装は普段と少しばかり違った。
いつもは黄金に輝く衣類とふかふかとした白いズボン、指輪や首飾り以外にも数多の装飾品で身を飾り、真紅のマントを翻しているが、今日は黄色のゆったりとした長着姿だった。
装飾品だって、私の理解の及ばない首飾り以外につけていない。
「今日で15歳。すなわち、お前も成人だ」
兄が口を開いた。ねっとりとした声と共に、足元がふらつきそうな臭いが鼻を刺す。私は思わず、顔を背けたくなったが、このあとのことを考えると、なんとか踏み止まることができた。
「はい。お兄様が種を与えてくれると聞きました」
私の顔は、喜ばしいはずなのに強張っている。無理やり口角を上げてみせると、兄は愉快そうに鼻を鳴らした。
兄の赤い瞳は爛々と輝き、目尻は緩んでいる。
同じ微笑なのに、ナナシとは雲泥の差だ。温かみは一変たりとも感じず、薄ら寒さしかない。
兄は私に近づいてくると、鼻を動かした。
「……匂いは及第点、といったところか」
「匂い……?」
言葉の意味が分からず、私は首を傾げる。
「あの、お兄様。どのような種をくださるのですか?」
気が付けば、私の声が微かに震えているのが分かった。
「それは、1つしかなかろう」
兄の巨躯がますます近づいてくる。
胸を掻きむしりたくなるほどの恐怖を覚え、ナナシの方へ逃げ出したかった。けれど、彼のところへは行けない。兄が退路を塞いでいた。私の視界に彼の姿は見えず、じりじりと後退することしかできなかった。
「まどろっこしいな」
兄が私の身体を押した。
「きゃっ」
倒されてしまった。
私は踏み止まることもできず、ベッドに押し倒されてしまう。すぐに立ち上がろうとしたが、眼前に男の姿がいっぱいに広がっていた。
男が圧し掛かられた体勢で、私は混乱の極みに落とされていた。
兄は種をくれるといった。
だけど、なぜ――私は押し倒されているのだろう?
誕生日を祝って、種を渡すだけではなかったのか?
兄の顔が拳三つ分ほどの距離にあるのは気色悪く、あまつさえ、腸詰肉のように太い指が首筋から胸元まで滑るように触る感覚は、喉の奥から酸っぱさが込み上げてきた。
そのまま白くて柔らかすぎる手が私の胸に喰い込み始めたところで、はたと我に返り、
「い、いやっ!」
私は男の手を払いのける。
ところが、払いのけられた男は気にした素振りはなく、左手で私の両手首を捕らえた。今度は払いのけたくても枷をつけられたように、びくともしない。
男は私の両手首をつかんだまま、頭の上に移動させる。両手を挙げられたせいで、両脇が無防備に曝け出された。
「ふむ、分かっていないようだな」
男は駄々っ子に言い聞かせるような口調で語り始めた。
「聖女は、いかなる穢れも受け付けることができない。穢れを受けた瞬間、効力を失い、死してしまう。
だが、成人してからは、とある穢れのみが許される。
次なる聖女を産み出す母胎となるために」
男の粘り気のある言葉が、耳元で囁かれる。
この説明で、身体から血の気が完全に失せた。世界から一切の音が消える。
この男は、私の夫になろうとしている。
子どもを産む過程は、私の読んだ本に記載されていない。
結婚したら子どもが生まれるらしいが、兄との婚姻はしたくない……いや、この生理的に悪寒がする男は兄でなくても御免被る。それに、どうやら結婚したら自然と子どもが生まれるわけではなく、男は想像を絶する行為をしようとしている。
圧し掛かるだけではなく、私の胸元をはだけさせ始めたのが、その証拠だ。
このまま流してしまったら、途轍もなく大事なモノを蹂躙されてしまうと、身体中が警報を放っていた。
「やめて、放して!」
じたばたと足を動かしてみたが、男の足腰ががっちりと固められているせいで、まったくもって意味をなさなかった。
「安心しろ。これでも、俺は優しいと評判なのだ。俺が抱いた女は泣き笑いしながら、ひんひん善がる」
男はそう囁きながら、耳の中に生温かいものを捻じ込んできた。
叫びたいほどの虫唾が走り、嫌悪は上限を突破している。ところが、これまでにない言い知れぬ感覚が込み上げ、
「……っふぁ――ッ!」
変な声が漏れてしまう。慌てて言葉を塞ぐべく、唇を噛みしめたが、時すでに遅し。
「……ほう、やはり善がっておるではないか」
男は分厚い唇を舐めると、私の顔に寄せてくる。
なにをされるのか。
経験が白紙でも、先程の行動から予想がつく。
気持ち悪い。
この男に自分の身体が蹂躙されるなんて、絶対に嫌だ。
それと同じくらい、この行為をしているところを、ナナシに見られたくない。
彼からは見えないだろうが、なにをされているかぐらい想像がつくはずだ。壁一枚隔てたみたいに遠くから鎖の音が聞こえてくる。
暗くて狭い檻に一条の光を照らしてくれた、世界の誰よりも大好きな人に、私が醜く穢れていく様を見られたくない。
2つの「嫌」が合わさって、身体の内側に千本の針が流れているような恐怖と痛みが奔る。
だが、逃れることはできない。
両手は封じられ、両足も自由を奪われている。
私はごくりとつばを飲み込むと、身体中の勇気を総動員して叫んだ。
「いや、いやいやいや――ッ! そんなこと、したくない!
私が一生、聖女として仕えるから、それだけはやめて!」
力の限り手足を動かしながら、必死になって抜け出そうとする。
子どもの頃……一生閉じ込められる運命を知り絶望した時以来、ずっと蓋をしていた悲痛が部屋を木霊する。
「嫌がるな、嫌がるな」
男は、私の無意味な抵抗を嘲笑った。
「どうせ、すぐに忘れるさ」
男の口元は、ますます愉快気に歪んだ。
その行為をしたって、減るものではない。
だがしかし、腐臭に鼻を塞ぐ以上の嫌悪感と胸に空くだろう虚脱感は、行為をされるまえから想像できる。実際にされたら、想像以上に感じるのだろう。
「それともそうだな……それ以上、暴れるなら、そこの鼠に見せつけてやろうか?
俺とお前の記念すべき瞬間を」
「っ!?」
言葉を飲み込んだ。
この男なら実行しかねない。
男に自分を好きにされるのと、その状態をあの人に見られること……どちらが良いかと聞かれたら、圧倒的に前者だった。
体から力が抜けた。
「……それでいい。お前は聖女だ。聖女は黙って、俺たちに従っていれば良いんだよ!」
顔の距離は拳一個分。
荒い息遣いが、自分のように聞こえてくる。はてしないほどの嫌悪感に顔が歪む。
もう無理だ。
足掻いても、この男のものになってしまう。
どうすることもできない。私は堅く瞼を閉じる。
せめてもの抵抗で、顔をいっぱいに背けるが、考えるまでもなく無意味だ。
「……ナナシさん、助けて……」
言葉が口から零れた。
眼前の男に辛うじて聞こえるか聞こえないかくらい、ちっぽけな囁きを。
私は聖女。私への祈りは叶えられない。せめてもの気休めで、精一杯の現実逃避。
実際のナナシは壁に繋がれているので助けられるはずもなく、物語みたいに白馬に載った王子さまが扉を突き破って登場することもない。
閉じられた世界は、閉じられたまま。
聖女として世界に囲われたまま、この男の子を成して死んでいくのだ。
じゃらり。
自分を縛る枷が増える――鎖の音が聞こえた気がした。
「―—ッ」
その刹那、世界が震えた。
地鳴りのような音と共に、激しい風が吹きつける。
その衝撃で、一生閉じていようと思った瞼を上げた。
目前まで迫っていた男が、視界から消えている。
横に視線を流せば、兄が白目を剝いて倒れる瞬間だった。そして、代わりに私の前にいるのは、
「―—、ぅ……」
屈強な男だった。
赤銅色の髪を逆立て、わずかに血濡れた拳を構えている。
獰猛な鋼色の瞳は、出会ったばかりの頃のように憎悪を煮詰めた炎をちらつかせながら、ゆっくりと私に視線を落とした。
「ナナシ……さん?」
すべてを射抜き殺しそうな瞳に、ぞくりと身体が震える。
彼の両腕に依然として鉄枷が付いていたが、鎖は壁から外れ、じゃらりじゃらりと重たく床を鳴らしていた。
彼の立ち姿は、絵物語に登場する奈落の迷宮を支配する怪物だ。
「……」
男は屈んだ。
私の目の高さまで屈むと、まっすぐ見据えてくる。
鋼色の瞳に、狂気の色は欠片もない。
鋼は冷たい色なのに、彼の双眸は陽光のように温かい。彼は硬い指を私の頬に添えると、「無事でよかった」と言いたそうな微笑を浮かべた。
数時間前よりも、コップ一杯分ほど深い笑みと優しく頬に触れる感覚。
私はしばし呆然と見つめ返すことしかできなかった。あまりにも突然の事態が呑み込めない。だが、地に水が沁み通るように、少しずつ事態が飲み込め始めると、綺麗なままの唇を固く引き結んだ。
お礼を言いたいのに、変な声が出そうだった。
彼の優しい笑みを見て、喉元に熱いものが込み上げてくる。
泣いてしまわないように、唇を固く閉ざしたまま、そっと立ち上がり、冷たい石の床に両膝をつく。右拳を心臓あたりを軽く叩き、ゆっくりと床に頭をつけた。
私が知る限り、最も感謝を表す礼だ。
偽物の青い空の下。
今度は肩に暖かさを感じた。
涙が一筋だけ頬を滑り落ち、そっと袖で拭いながら顔を上げる。
精一杯、心からの笑顔で。